46話 暗殺の代償
【三河国/岡崎城 今川家】
松平広忠が暗殺されて次の日。
今川義元が全ての政務を中断し、夜通し馬を駆り岡崎城に入った。
国を揺るがす凶事ゆえに、馬をも乗り潰す強行軍であった。
出迎えた家臣の挨拶を言う暇さえ与えずに義元が口を開く。
「状況を報告せよ!」
「は、はっ! 彦五郎様(今川氏真)と竹千代様(徳川家康)に近づく農民に化けた賊を、松平殿が見破り、身を挺して庇い……亡くなりました!」
「岡崎三郎(松平広忠)が庇った!?」
義元は最初、松平広忠が暗殺されたと聞いていたので、氏真と竹千代が狙われたとの事実は初耳であり、現場が混乱の極みに達していると感じた義元は主だった者の召集をかけた。
「彦五郎と竹千代、雪斎と松平家臣を集めよ! 大至急だ!」
暫くして義元に呼ばれた全員が岡崎城の広間に集まった。
松平の家臣は皆目が赤い。
足取りが重い者、皮膚が裂けるのではないかと思うほど拳を固く握る者、歯が砕けそうなほど食い縛る者―――
松平家臣の悲しみと怒りが渦巻いている様であった。
一方、氏真も雪斎も意気消沈し、眼前で父に死なれた竹千代に至っては、茫然自失となり幽鬼さながらである。
義元は、自分の兄弟が怪死しても、今川家中の悲しみは大した事が無かった事を思い出し、松平の結束が改めて強いと感じた。
「広忠公の家臣達よ! 此度の無法は今川家として到底見過ごす事は出来ぬ! 三河が産んだ傑物、広忠公の仇を取らねばならぬ! 下手人に何か心当たりは無いか!? 確実な報復こそが広忠公への手向けとなる!」
すると、松平家の内藤正成が重い口を開く。
その目は怒りで血走っていた。
「殿……。彦五郎様が討ち取った下手人が絶命する直前に、呻く声を聞きました。聞き間違いでなければ『ヤスミツ様』と……」
「なんだと!!」
雪斎と義元は、聞き覚えのあるその名前に衝撃を受ける。
「『ヤスミツ様』とは戸田康光では? ……戸田は織田と通じておりましたな。此度の暗殺劇は……織田の策略では……!?」
広忠の家臣の一人がそう呟くと、場が一斉にざわめきだした。
騒いでいるのは主に信長を知らない家臣達で、逆に信長を知る者達は信じられない思いでいた。
あの明朗快活な男がその様な手段を―――と思いかけて気が付いた。
無条件に、敵である信長を信じてしまっている自分の迂闊さに。
何でも有りの乱世では、暗殺される方が悪いのだ。
「静まれ皆の者! 此度の暗殺の首謀者である戸田一族は、草の根分けてでも根絶やしにする。当然、背後に居ると思われる織田には、遠くない将来に必ず攻め込む。松平の者はその時まで力を蓄えて待て! 気持ちは分かるが暴走は許さん! まずは戸田一族を見つける事を最優先とせよ!」
義元の宣言を持って、三河衆は当面の怒りの矛先を戸田に向けて三河各地に散り、広間には義元、雪斎、氏真、竹千代が残った。
「竹千代よ。幼いお主にコレを言うのは、厳しい事を重々承知で言うが、乱世において油断した者が悪なのじゃ。その意味では今回の事件で一番悪いのは、この可能性を考慮しなかったワシである。無論、今川家は無法者の存在を許さない為に天下を目指すのであるが、幼いお主には理解しろと言うのも酷な話ではある。本当に申し訳ない」
そう言って義元は竹千代に頭を下げた。
主君が家臣に、幼児にする謝罪ではない程、真剣な謝罪であった。
「はい! お気遣い感謝します! しかし大丈夫です! 分かっております!」
竹千代は一際大きな声で義元に礼を述べた。
見ていて痛々しさを感じる元気な声である。
「竹千代……」
もちろん虚勢の上での空元気であるが、幼い竹千代が見せる砕けぬ心に三人は心打たれた。
「そうか……。今は家臣達の戸田誅殺の報を待つとしよう。その間我等は我等にしか出来ぬ事をする」
義元は竹千代の心意気を充分に買っている。
だが、今は悲しみよりも怒りが強い故の虚勢であると見抜いていたので、悲しみで心が曇ってしまう前に、聞かせる必要がある事を話し始めた。
「今回の広忠公暗殺は結果的にそうなっただけで、本来の目的とは違うと思う。では目的とは何か? それは彦五郎と恐らく竹千代、お主ら二人の暗殺が本来の目的であったはずじゃ。聞いた限りの状況から考えるとな。どうじゃ和尚? 相違ないのではないか?」
そう話を向けられた雪斎は、瞑想して昨日の状況を思い浮かべる。
「……確かに。最初から最後まで、狙われたのは広忠公ではなくお二人でした。広忠公が庇って阻止したので思い違いをしていましたが、殿の推測で間違いありますまい」
「まさかッ!?」
大人2人の推測に、子供の2人は信じられないと言った表情で驚く。
「では整理しよう。和尚、改めて状況を聞かせてくれ」
義元は、現場全体を見渡せる位置にいた雪斎に、説明を求めた。
「は、はい。まず拙僧と広忠公は、彦五郎様と竹千代殿を遠巻きに見ながら談笑しておりました。すると、農民3人が2人に近づきました。手には握り飯と竹筒が見えましたが、広忠公が何かに気づき飛び出しました。今思い返せば、広忠公の位置からは僅かに刀が見えたのでしょう。次に飛び出した広忠公が一人を討ち取り、彦五郎様達を突き飛ばし残り二人の狼藉者からその身を挺して二人を救いました」
「やはりな。最初からお主らが目的じゃったようじゃ」
「そうですな……。広忠公が討ち取った最初の一人目のその刃は……彦五郎様に向けられておりました」
「そんなッ!? 拙者が狙われていたのですかッ!? 何故……!?」
氏真が暗く淀んだ顔を少しあげ反応する。
三人の狼藉者の内、前二人が死角を作り氏真を討ち取ろうとしていたのであったが、それに気付いた広忠が、暗殺を阻止し代わりに討ち取られた形となったのが真実。
つまり、最初から氏真と竹千代を狙った犯行で、今川家に恨みを抱いている、と言う事になる。
暗殺者が最後に呻いた『ヤスミツ様』である戸田康光。
今川に人質として送られる竹千代を強奪し、尾張に送った男、戸田康光。
織田に竹千代を送った後は今川家に滅ぼされており(13話参照)、今川に恨みを抱いてもおかしくはないが、元はと言えば、戸田が松平と今川を裏切っているので逆恨みに等しい。
ともかく康光本人は既に討ち死にしているので、今回の犯行は戸田の残党と言う事になる。
それまでの理屈は氏真にも竹千代にも理解できたが、それでも分からない事がある。
「父上。拙者や竹千代が狙われていたとします。しかし我等はまだ軍を率いたり政治に深く関与したりする身ではありませぬ。私達を討ち取って敵に何の益がありましょうや!?」
そこは義元も雪斎も判断が付かぬところであった。
結果的に広忠が討ち取られ、三河衆を指揮する将が減った事は戦力的にも痛手であるが、暗殺者が目的を完遂し氏真や竹千代が討たれた場合、将来的にはともかく現時点では何の痛手も無い。
何しろ氏真は元服したて、竹千代に至ってはまだ幼名の身である。
重大な任務は当然、些細な仕事すら担当していない。
強いて言うなら、今回初めて任務を授かった程度だ。
感情と今までの苦労や経費を無視するなら、氏真の代わりは弟がいるし、兄弟の居ない竹千代が居なくなれば松平家は断絶され、むしろ今川単独支配の道が開けるぐらいである。
「織田が何を思って……いや先程は織田と決め付けたが、これは本当に信長の意志なのか? 武田、北条が同盟の破棄を狙っての可能性は無いか?」
「無いとは言い切れませぬが、利点と欠点の釣り合いがまるで取れておりませぬ」
苦労して同盟を取り付けた当事者である雪斎が、可能性は低いと考えた。
「そうよな。しかし織田が犯人だった場合、ワシらを怒らせるだけで利点が無に等しい。誰だ? この騒動で一番利益を得る者は誰じゃ!?」
義元が苛立たしげに膝を叩く。
すると、今まで黙っていた竹千代が口を開く。
「敵を無条件に信じるのは……愚かであると学びました。……しかしそれでも此度の騒動に織田の……三郎殿の意志をまるで感じられませぬ。……織田と今川の共倒れ、または今川を怒らせ織田を確実に滅ぼしたい何者かの仕業……その可能性はありませぬか?」
「ッ!? な、なる程? お主はこの中で一番織田に近い場所にいたな。しかも三郎殿とは濃密な時間を過ごした。一理ある……いや今迄で一番納得できる理屈と考えじゃ。どう思う?」
「拙者は竹千代を信じたいと思います!」
「拙僧も同じく」
竹千代は己の純粋な心と信長と過ごした時間が、どうしても信長犯人説を納得できず、別視点からの考えを導き出した。
他の三人も竹千代ほどでは無いにしても信長と関わった身として、竹千代の考えが的を射ていると感じた。
「よし。我等だけは竹千代の考えを元に動く。織田とはいずれ戦うとはいえ、得体の知れぬ者の思惑で動く訳にはいかぬ。織田に注意を払うのは当然であるが、他にも挑発等があるやも知れぬ。当分ワシも三河に留まる故に各自気を抜くな。ただし、不要な警戒は今川と松平を裂いてしまう。警戒はするが、可能な限り今までと同じ様に振舞え。民を警戒させるな。良いな?」
「はっ!」
三人は同意し頭を下げた。
「さて。広忠公の葬儀をしなければな。竹千代よ。済まぬがお主は松平の跡取りじゃ。もう少し頑張れるか?」
「はい……うぅ……あぁぁ……」
その時、竹千代の双眸から涙が溢れた。
緊張と使命から今迄我慢していた心の蓋が、一旦の区切りがついた事で安心した事が原因で、今まで無理やり閉じていた心の蓋が開いたのであった。
だれも竹千代を責めず、急かす事もしなかった。
幼い身で良くぞここまで耐えたと言える。
三人は竹千代の気の済むまで泣かせてやる事にして、待つ事にしたのであった。
【尾張国/那古野城 織田家】
一方、尾張にも広忠暗殺の報が飛び込んできた。
三河に忍ばせている間者からの報告である。
《そう言えば家康の父は暗殺されたと聞いた事があるな。これは歴史通りか》
《へー? 暗殺なんですか?》
《『なんですか?』とは何じゃ?》
《広忠さんについては、資料には暗殺説もありますけど、病死、討死とハッキリしません》
などと信長とファラージャが呑気な話をしていると、暗殺に関する第2報が飛び込んできた。
「申し上げます! 首謀者が判明しました! 戸田の残党であるとの事です!」
「トダの残党? とだ?……戸田……ッ! まさか戸田康光か!?」
この報告には信長も驚いた。
戸田残党の凶行だとすると、一番疑われるのは間違いなく織田である。
「親衛隊伝令!」
信長は大声で伝令を呼びつけ指示を出す。
「今川に面する全ての城に警戒態勢……」
「殿?」
警戒態勢を取る様に命令しようとして思い止まった。
今警戒態勢を取れば『松平広忠を暗殺したのは織田です』と喧伝する様なものである。
とは言え、無警戒にする訳にもいかない。
迷った挙句に信長は指示を変更した。
「これより指示があるまでの間、親衛隊訓練は特に野盗狩りを重点的に行い、治安維持に努めるよう伝えろ!」
幾ら今川が怒り心頭とは言え、農繁期に入る今から織田に攻め入るとは考えにくいので、無用な警戒態勢よりは、混乱に乗じて信長の意志に反する行動を取る者に、隙を与えない事が一番だと考えを改めた。
「クソッ! 何者か知らぬがやってくれる!」
そこへ同じく報告を受けた信秀と帰蝶が信長の元へやってきた。
「聞いたか三郎!?」
部屋に飛び込み様に信秀が信長に聞いた。
「はい。今各所に指示を出しました」
「……殿、失礼を承知で聞きますが、殿の手の者の暗殺では無いのですね?」
帰蝶が恐る恐る信長の顔色を伺いながら詰問する。
その顔には『違ってくれ』と願うのがしっかりと出ていた。
「無論だ。仮に暗殺するにしてもだ。戸田の名を出すなど露骨過ぎて策の臭いしかせぬわ」
帰蝶の詰問に信長は冷静に答える。
一方帰蝶は、暗殺を完全否定しない信長に少々驚いた。
「……? どうした?」
「と、殿は……いえ、これが乱世なのですね……」
帰蝶の言葉に、信長は何に疑問を感じているのか分からなかったが、信秀は察する事が出来た。
「濃姫殿。以前、戦場に出る覚悟を問うた時を覚えておるか? 『戦場は甘くない。綺麗事は無い。あるのは殺意と欲望だけ』とワシは言った。正々堂々を自分で謳うのは構わぬが、相手にそれを強いる事は出来ぬ。今回の件に三郎は関与しておらぬが、かと言って将来、濃姫殿が卑劣と感じる手段をとらないとも限らんのじゃ」
「……」
信秀が優しく諭し、信長は無言で頷いた。
「於濃よ。お主が衝撃を受けるのは仕方ない。天下万民に嫌われてしまっては元も子もない故に、好んでそう言った手段を取るつもりは無い。だが、親父殿の言う通り、絶対にその様な手段を取らない、とも言わん。必要だと感じたら躊躇い無く使う。お主はそれでもワシに付いてくるか?」
「いきます! 泥を被る時は二人一緒です!」
帰蝶は自分の覚悟の足らなさを恥じたが、直ぐに考えを改めて『これが乱世』と受け入れるのであった。
それが世界を捻じ曲げて生きる帰蝶の覚悟でもあった。
「それで、今回の件は違うとしても、今川からの疑いは晴れますまい。それにしても何故、松平広忠殿なのでしょう?」
帰蝶が率直な疑問を投げかけた。
「《広忠は前々世でも暗殺されておる。今回の理由とは違うのであろうが、歴史の修正力だろうな》……わからぬ。確かに将来的に敵として相対する者が減ったのは織田にとって利点じゃ。しかしワシはそんな指示を出して居らぬ以上、親衛隊の暴走は考えられん」
信長はテレパシーで一つの答えを出しつつ、この世界ならではの理由が掴みきれなかった。
そんな信長を見た信秀が申し訳無さそうに口を開いた。
「あー……。一応は弁明するが、竹千代強奪の為にかつて戸田をワシは利用した。しかしそれっきりじゃ。ワシも指示はだしとらん。考えられるとすれば、戸田は今川に滅ぼされたし、恨みによる戸田残党の暴走ではないのか?」
信秀の考えに信長は可能性を感じたが、しかし理屈に合わない事があり首を捻る。
「なる程。しかし、それならば義元や氏真、あるいは雪斎を狙うのが道理ではないですか?」
「それもそうじゃな……」
本当のターゲットが、氏真と竹千代である事を知らぬ織田陣営には、絶対にたどり着けない真実であった。
「これ以上は、たいした推測も出来ぬ。とりあえず続報を待つ事にしよう。それとワシに近い者程、報復暗殺の危機がある。当分一人で出歩く事が無い様に、最低でも顔見知りの親衛隊と共に居る様に」
信長はその様な指示を出しつつ考える。
(誰かがワシを後押ししようと画策しておるのか? それとも今川を煽り、漁夫の利を得ようとするものが居るのか? この今川との争いは単純な力比べだけでは済みそうに無い。誰か知らぬが余計なマネをしよって!!)
信長は顔の見えぬ何者かに怒りを向けるのであった。
【???】
「失敗したか……。しかし、もうこれしか無いのじゃ……」
そう呟いた男は那古野を後にして自分の居場所に戻っていった。




