45話 今川氏真
【尾張国/那古野城 織田家】
長福寺会談より一ヶ月後。
「殿、今川家の龍王丸殿が元服し、彦五郎氏真と名乗るそうです」
「そうか。ならば祝いの品を贈らねばな」
家臣からの報告に信長が祝いの品を考えつつ、歴史改変の状況を考える。
《ファラ。龍王丸が元服し氏真となった。会談後という時期を考えると、今川との戦いに氏真が来る可能性が高い。今川、武田、北条も同盟を結んだと聞く。これは……今川との戦いは早まると見て間違いないな》
《そうなりそうですね。それにしても今川氏真さんですか。父親の義元さんと並んで……いや、違って今川を滅ぼした暗愚と伝わり……あっ!? これも本当は違いますかねッ!?》
信長がまた熱弁を奮うかと思ってファラージャは警戒したが、信長は肯定も否定もしなかった。
《家を滅ぼした、と言う観点で見れば愚将と見られるのも仕方ないが、かと言ってその能力まで全否定するのは違うと思うがな》
義元の後世の評価は、捏造に捏造を重ねて最早原型を留めていないかの様な評価であるが、氏真に関しては事実が残酷なまでに伝わっている。
《とは言え、桶狭間に敗れた今川家を、誰が氏真に代わって今川を指揮しても、挽回は難しいであろうな。ワシでも無理じゃ。あの状況ではな。無論、氏真は遊び呆けていた訳ではない。ちゃんとやるべき事はやっていた。それでも詰んでいたのじゃ》
桶狭間に敗れた今川の凋落は、ある意味戦国時代の残酷さを鮮明に表していたと言える。
徳川家康を筆頭に多数の家臣に裏切られ、武田信玄は同盟を反故にし、今川の領地はあっという間に食い荒らされて跡形も無くなった。
そこには情け容赦の無い戦国時代の現実があった。
《少なくともワシが本能寺で死ぬまでに、奴が死んだと報告を聞いた事は無い。ただ生きるのも大変な乱世で生き残っているのは、少なくとも無能では無い証明にはなろう。今回の歴史では何がキッカケで覚醒するかわからぬ。あの今川義元の息子じゃ。化けても不思議では無いわ》
《……化けるのを楽しみにしてます?》
《楽しみにしてる、か。否定はせんが、後世の評価が変わるような化け方をすれば、それはそれでワシの為に繋がるかもと思ってな。ワシらだけが頑張らずとも、色んな所で同時多発的に歴史改変が起これば、より一層、本能寺を突破できる可能性が上がるのではないか? と思ってな》
《なるほど。歴史に無いあの長福寺会談は、その為でもあったのですね》
《本能寺以前に、ワシが討ち取られる可能性も上がったかもしれんがな》
ここまでの話を聞いて、ファラージャは前から尋ねてみたかった事を口にした。
《一つ尋ねたいんですけど、正直なところ、ここまで劇的に歴史を変えるとは思ってませんでした。自分で大幅に変えるべきと進言しておいて何ですけど……。もっと前々世を知るアドバンテージを活かして同じ状況を再現すると思ってました》
《利点については活かしておるつもりじゃがな。伊勢侵攻は最たるものじゃ。だがまぁお主の言わんとしている事もわかる。今川家を油断させっぱなしにしておけば、もっと楽にできたとは思うがな》
《……後世の評価の事ですか?》
ファラージャは、信長がこれから戦う者の名誉も改変しようとしている、と察した。
《それもあるが、今のこの世界はワシと於濃と貴様の我儘でできた世界じゃ。どれほど大義があろうとな。むろん、ワシら以外にその事実を知る者はおらん。語って聞かせたところで信じる者などおるまい。それに前々世と同じでは、これから死ぬ者や落ちぶれる者を知りつつ見逃す事になる。敵方であればやむを得ないが、味方側なら可能な限り新しい世を見せてやりたい。そう思う様になっただけよ》
信長はファラージャにそう語ったのだった。
(そう言えば信長さんの後世の評価は苛烈で、残忍で、革新的で、味方を信頼し、意外と優しく、お茶目……だったわね。今川義元以上に評価だけ聞くと意味が分からないわ。でも生の言葉と考えを聞けば何も矛盾していない。『最大多数の最大幸福』の理論を実践しているのね! 戦国時代より相当後の考え方なのに! ……そう考えると、信長さんと敵対してきた者の特徴も『最大多数の最大幸福』に相いれない者達ばかりだわ!)
【駿河国/駿府城 今川家】
「彦五郎(今川氏真)。これより当家の一翼を担う将として働いてもらう事になるが、最初の任は雪斎と竹千代と共に三河に入り、領内の安定化を図れ。やるべき事は全て雪斎に任せてあるが、何故それが必要なのか二人ともよく考えて行動し学べ」
今川義元が雪斎と、元服し龍王丸から諱を改めた彦五郎氏真、さらに竹千代の3人に三河での任務を告げた。
【三河国/岡崎城 松平家】
三河は、かつては相次ぐ戦いで民も土地も武士までも疲弊し、広い土地がただ荒野となって広がる土地であった。
だが、2年前に結んだ甲相駿三国同盟のおかげで、兵を武田や北条に過剰に備える必要が無くなった為、その殆どを三河に投入し復興に向けて作業を行っていた。
今回は兵以外にも、流民や戦災孤児等に仕事を与える名目で三河に送り、今川の持てる力全てを使って復興を成し遂げる算段であった。
そんな今川家一同が岡崎城に入り、松平広忠と松平家家臣団が三人を迎えた。
「彦五郎様、雪斎殿。此度も三河復興への支援誠に忝く思います。今までも過分なまでの支援痛みいる所に、今回の支援。某は覚悟を決めました」
そう言って広忠は頭を下げた。
「よくぞ決心なされた。心配には及びませぬ。我が殿は岡崎三郎殿(松平広忠)を高く評価しております故に、三河衆を無下に扱う事は絶対になさいますまい」
「……? 和尚様、今の話は一体?」
氏真が疑問を感じ雪斎に尋ねた。
竹千代も口にはしないが同様に疑問に思っていた。
「彦五郎様、いや若殿。これからは若殿と呼ばせて頂く。そういう事です」
「えっ!?」
二人は同時に驚き、広忠は上座から退いた。
「若殿、どうぞあちらへ」
困った氏真が竹千代見やるが、オロオロするばかりであった。
次に雪斎を見るとコクリと頷き、これが決して余興ではなく、本気の政治的判断に基づいた物だと理解した。
「わ、分かった」
そう言って氏真が上座に座ると、広忠以下三河家臣団が頭を一斉に下げた。
「我ら三河衆、今川家に対し改めて忠誠を誓うと共に、若殿の為に身を粉にして働く所存!」
氏真は頭を下げる広忠を見て真意を探る。
今までは松平家は人質を出しての従属であったが、今、完全に臣下の礼を取った。
何らかの打算や下心があるのか探ってみたが、伝わる熱意は誠心誠意そのものであった。
「岡崎三郎殿、一つ聞きたい」
「呼び捨てで結構ですぞ!」
「わ、分かった。お、岡崎三郎よ。お主は今川に従属していたとは言え三河最大の実力者じゃ。別に従属したままでも良かったのでは無いか? ワシよりも実力は遥かに上じゃろう? 何故臣下の道を選ぶ?」
「ハハハ! これはまた答えにくい事をお聞きなさる! ……某では限界を感じたのです。相次ぐ三河での戦乱で、某は居ても居なくてもどちらでも良い国主だったと気づいたのです。荒れた土地で飢えた民や家臣を救ってくれたのは、今川家の力あってこそ。今でも我らと共に道を整備し、田畑を蘇らせてくれるのは積極的な援助があってこそ」
史実では三河衆は食うに困って自ら田畑を耕し、農民と何も変わらぬ生活をしていたが、歴史が変わって今川が街道整備を含め国内の活性化を重視したので、三河衆は苦しい思いはしつつも、共に汗を流して助けてくれる今川に感謝しており、恨み節を抱くものなど皆無であった。
「そうか……お主の忠誠、有難く思う。今回我らが目的も三河の復興支援であるが、ワシも可能な限りお主らと共に汗を流し復興を助けたいと思う。だからこそ竹千代よ。こちらへ参れ」
そう言って氏真が自分の真横を指し示す。
「え!? は……はっ!」
恐る恐る竹千代が上座に近づき、氏真の横に並んだ。
「たった今、松平が臣下の礼を取り身分の差が生まれてしまった。しかし! ワシは竹千代を友と思うておる! 共に学び共に怪我をし共にイタズラをし……。そんな竹千代に恭しく礼を取られるのは耐えられん! 公の場は妥協するが、それ以外は竹千代の身分はワシと同等であると心得……いや、お願いしたい! また三河衆も意見があれば遠慮せずに申してほしい! ワシは若輩じゃ! お主らの助けがなければ、ここまで復興した三河がまた荒れてしまう。どうかよろしく頼む」
そう言って氏真が頭を下げて、竹千代も慌ててそれに倣った。
元服したとは言え少年らしい愚直な訴えであったが、それが権謀術数に生きる雪斎や広忠の心を打った。
二人の若者が共に手を取り合い、今川と松平がより良い関係となる事を願っている。
この場にいる誰もが思う。
拒む理由は無いし、そんな無粋な真似が出来るはずも無かった。
雪斎も広忠も松平家臣もその願いを受け入れて、今川と松平の繁栄と共存を願ったのである。
(大殿、彦五郎様は思わぬ大器を発揮し成長なさいましたぞ。我らが策を巡らせてやっとの思いで松平を臣従させたと思ったら、一番難しいと感じていた松平の心をつかみ取りましたぞ。……殿はこうなる事を読んで竹千代殿を同伴させたのですかな)
松平の臣従は書状でのやり取りで既に確定しており、今回氏真達が向かったのはその最終段階である。
この事実を知らなかったのは氏真と竹千代だけであるが、その様に仕向けたのは義元であった。
雪斎は義元、氏真、竹千代の弟子達の思わぬ成長に、今後の成長を期待せずには居られなかった。
翌日より岡崎城の主となった氏真は竹千代と共に積極的に城下へ繰り出し、色々な事を見て聞いて生の意見を集約し、雪斎と広忠に相談し、問題点の解決に動いていった。
松平が今川に従属する事に難色を示す家臣や民も居るには居たが、懸命に働く氏真と竹千代の二人を見て、次第にその考えは消えて行ってしまった。
今川と松平の次代が動き、老臣が蓄えた知恵で改善する、理想的に歯車が噛み合うシステムで三河は立ち直り始めた。
ほんの僅かな悪意を残して。
ある日、氏真が竹千代と共に鍬を持って水路整備に励んでいた。
当初はそんな真似をさせられないと、松平家臣が慌てて止めに入ったが、二人とも『鍛錬の一環だ』と言って頑として止めようとしなかった。
春の温かい日差しも、水路整備の重労働者にとって真夏の暑さに等しく、氏真も竹千代も汗だくになって鍬を振るっていた。
そんな二人を眺める雪斎と広忠は微笑ましい光景に、心を奪われるが如く魅入っていた。
「雪斎殿、某は今が本当に乱世なのかと疑問に思うほど、平和を感じて止みませぬ」
「そうですな……。拙僧も仏門に居ながら戦場にでて居りましたが、今が一番充実しております」
二人がそう思うのも仕方がない程に、三河は復興しつつあった。
そんな二人が見る光景、すなわち氏真と竹千代の下に農民が3人ほど近づいていく。
見ると、その農民の手には握り飯と竹筒の水筒があり、若い二人に差し入れを持って行こうとしている所であった。
「……ん?」
いつもの見慣れた光景の妙な違和感に広忠が気づく―――
頬被りに、くたびれた麻の衣服で裸足の農民に不釣り合いな―――
瞬間、広忠は駆け出していた―――
「岡崎殿!?」
雪斎が呼び止めるも、広忠は足を止めなかった。
前二人の農民に隠れた形となっている農民が―――腰に帯びた刀を―――抜いた―――
広忠が更に足を速める―――
雪斎も異常に気が付き声を上げる―――
農民がゆっくりと慎重に―――農民二人の間に刀を突き入れようと狙いを定める―――
狙いの先は―――
「彦五郎様!」
広忠は叫びつつ抜刀し、飛び込み様に農民に斬りかかる。
刀を突き入れようとしていた農民は、声に驚き広忠を迎え撃とうとするが、刀が前の農民に引っ掛かり体勢が整わない。
瞬間、広忠の刀が一閃し刀を持った農民の首を斬り飛ばした。
「父上!?」
「岡崎!?」
驚いた二人が、差し入れを持ってきた農民をかき分け広忠に近づく。
「ご無事でしたかッ……クッ!?」
広忠が氏真と竹千代に顔を向けると、二人にかき分けられた農民が脇差を握って振りかぶった――――
「御免っ!」
広忠は氏真と竹千代を突き飛ばし、体を張って脇差の一撃を受け止めた。
農民の斬撃は広忠の左腕と、右の腹に食い込んでいた。
「ごふっ……狼藉者……! この平和を乱……さんとする……ゆ……さん……!」
広忠が力を振り絞って脇差を押さえつけると、刀を持つ農民、いや、暗殺者が血飛沫をあげて倒れた。
突き飛ばされた氏真と竹千代が、刀を振って斬ったのである。
「父上!」
「岡崎!」
「岡崎殿!」
竹千代、氏真、雪斎が広忠に駆け寄るが、広忠は腕も腹も動脈を傷つけたのか、出血が止まらず崩れ落ちた。
「ひ、彦五郎様……申し訳……! 雪斎殿……後を頼み! ……竹千代……つ……強く……生きよ……!」
最後の力を振り絞ったのだろう。
広忠は両手を伸ばし氏真と竹千代を抱き力尽きた。
「父上ぇぇぇぇぇっ!!」
竹千代の悲痛な叫びが春の穏やかな空を引き裂いたのだった。




