202-2話 興福寺の天秤 破壊 or 殉教
202話は3部構成です。
202-1話からご覧ください。
【大和国/興福寺 門前 三好軍本陣】
「豊前守殿(三好実休)。良ければ某から提案をしても宜しいですかな?」
埒が明かない交渉に、信長が立った。
「……良いでしょう」
流石の実休も疲れたのが正直な感想。
尋円の驚異的な粘りに、正直感心してしまったのも事実。
(やはり、交渉事では兄上には及ばぬな。ならば兄上と互角のこの男なら……)
信長の投入は長慶投入と同様の劇薬も同然だ。
長慶同様の効果的な結論を導き出すかもしれない。
「尋円殿。まず大前提として、命か建物か、それとも教義か? とにかく何かを諦めてもらわねばならぬ。これは理解していような? その方らは負けたのだ。もちろん、ここから逆転するつもりなら、全ての提案を蹴っても構わぬぞ?」
「い、いえ、逆転なぞ滅相もない。とても敵いませぬ!」
「そうか? ワシならどうとでも逆転してみせるがな?」
「ッ!?」
「お、織田殿!?」
「冗談ですよ」
まったく冗談に聞こえず、実休も尋円も焦る。
ちょっとした休憩のつもりが、雲行きが怪しくなる。
信長から滲み出る殺気が、冗談を冗談に聞こえさせない。
「尋円殿。それに豊前守殿。興福寺には2回の罪に対する裁きをしなければなりませぬな?」
「に、2回!?」
尋円が素っ頓狂な裏返った声で驚く。
「最初に三好殿が使者に言いましたぞ? 『10日与える。尋円殿と良く相談せよ』これは畠山高政についての事です」( 199-2話参照)
「そ、それに対しては、兵糧や金銭の提供にて誠意を示しました!」
尋円は必死だ。
高政については何の情報も提供できなかったが、その代わりが金銭兵糧なのだ。
「違いますな。誠意とは要求に対する何らかの回答や手掛かりだ。関係無い物を渡されても、それは『賄賂』と言うのだ。結局、畠山高政の所在に対し何の手がかりも示せなかった。ここを間違えてはりませんぞ?」
「……!」
尋円には屁理屈にしか聞こえないが、確かにその通りでもあった。
信長の言う事がイチイチ正しいのも腹立たしいが、もう、どうにもならない。
次の予測がついたからだ。
「そこで、今度は某から再度10日の猶予を与えたのです。改めて探し、存在の有無、生死の判別、逃亡先。あるいは分からない。どんな些細な情報でも良かった。待った結果は酷いモノでしたがな」
まさかまさかの興福寺による総攻撃。(201-2話参照)
追加猶予を与えた慈悲に対する答えとしては、最低最悪の部類であろう。
「グッ!」
「その結果が、今回の戦であり。最初の要求に対する答えを持ってくる所かまさか! 攻め寄せてくる答えがあるとは! この織田弾正、世の中の新しい常識を知った衝撃です!」
信長が大げさに両手を広げ、胸に手を当てる。
余りにも大げさで下手糞な芝居だが、下手だからこそ意味がある芝居だ。
「成程。2回とはそういう意味ですか。フフフ。確かにな」
実休が信長の言いたい事を察して笑った。
尋円も気が付いているかは分からないが、信長が介入したお陰で、罰が2回に増えている。
最初実休は全ての不手際を1回の罰にして終わりにするつもりであった。
だが、信長が介入したお陰で2回の罪を償う羽目に、話がすり替わっていた。
「こうなった以上、尋円殿。命、建物、教義。何か2つは諦めねばなりませんぞ。いや、教義は別の寺院でも引き継げるから、命と建物。この両方を貰ってようやく罪に対する釣り合いが取れるのです。この理屈は分かりますな?」
「……!!」
尋円は『ハイ』とは言えなかった。
言ったが最後、ここまで粘った意味がなくなる。
粘ったからこその『今』でもあるのだが。
信長はその心の動揺と動きを完璧に見切り、慈悲を見せた。
「しかし、尋円殿には命の提出は受け入れがたいのでしょう? ですから別案を提案しましょう。尋円殿らここにいる高僧全員の身柄はここで拘束します。その見返りに5日間の更なる猶予を与えましょう。その5日間で興福寺の経典を持ち出し避難されよ。ただし、宝物や銭と兵糧は全部提出してもらいます」
(経典を持ち出して避難? 避難って何の為に? ……どこへ!?)
尋円には訳が分からなかった。
いつの間にか2回に増えた罰も含め訳が分からず混乱する。
「ッ!? そ、それはどういう意味で……?」
「ですから5日の内に興福寺から持ち出せる物は、仏像だろうが鐘だろうが持ち出して退去しろ、と言っているのですよ。理由は興福寺の破壊。これは免れぬし譲れぬ。興福寺は負けたのだ。それを万民に見せしめにせねば意味がありませぬからな。これが1つ目の罪に対する罰」
これは形を変えた略奪だ。
ただの略奪と違うのは、普通の略奪が、無実の民を襲うのに対し、今回は罪ある僧から恐喝する点である。
嫌らしい事この上ないが、罰としては至って普通だ。
建物の破壊も、城の破壊と思えば当然の行為。
ただ『城』ではなく『寺』だから抵抗感や忌避感が発生するのであって、行動自体は至って普通の事なのだ。
「グッ……!!」
尋円は、その案を受け入れるしかなかった。
何も反論、弁解する余地もない。
今生きている事で奇跡なのに、それ以上を望んで怒りにでも触れたら意味がない。
「そうすれば、尋円殿らの命は奪わぬ。無論、反抗的態度を見せたら、一蓮托生で死んで貰いますがな。頑張ってキビキビと昼夜関わらず動かれよ。ハッハッハ!」
こんな陽気で冷気を感じる笑い声があるのだろうか?
信長の醸し出す殺気が、そう感じさせる矛盾だった。
「それが済み次第、2つ目の罰として一つ仕事をやってもらう。それで許しとしましょう」
「し、仕事? いったい何を?」
尋円には、その仕事がもう絶対に嫌な予感しかしないし、碌な仕事では無いだろうと、絶対当たる自信がある。
絶対に想像の遥か上を行く、鬼の要求だと混乱した頭で看破していた。
「それは5日後にやってもらいますが、まずは三好殿に許可を求めなければなりませぬ。三好殿。お耳を拝借いたします」
信長が実休に耳打ちする。
実休の顔が驚愕に歪む。
実休の考えている罰よりも、かなり厳し目の内容だと察せられる。
「……! そ、それは!?」
実休も尋円の肩を持つ理由など無いが、幾ら何でも『それはムリ』と判断せざるを得ない。
そんな事例を聞いた事が無い。
あるかも知れないが、少なくとも自分は知らない。
日本の副王のNo.2の自分でさえ、その前例を知らない。
ならば無い。
そう断言せざるを得ない。
故に信長は、前例を作ろうとしているのだ。
悪質すぎる前例を。
「それを実行するとは思えぬが!?」
「それなら、残念ですが死んでもらうだけです」
信長が『殺す』と断言した。
「……?」
その言葉が聞こえないのは、尋円にとっては運がよかったのだろうか?
尋円には聞こえないが、少なくとも実休が尋円ら興福寺関係者には無理だと判断している。
顔つきから察するならば『幾ら何でも可哀想』とでも言いたげだ。
「まぁ、この策は、やるだけやって結果が伴わなければ、最後の最後で沙汰が変わるだけ、先ずは退去命令と猶予を与えましょう。京に追放するは何も困りますまい?」
「……そうだな。決断は5日後でも構わないのだったな。我らが決断する事では無いのが、また厳しいというのが凄まじいが……。良かろう。ワシの名において許可しよう」
実休もついに承認した。
折れた、と言った方が正しいのか、どう盤面が動くのかが楽しみなのかは、表情からは分からない。
「承知しました。ではそこの後ろの僧よ」
信長は、尋円とともにやってきて、最後尾で様子を見守る僧を呼んだ
「へ? は、はい!」
突如、信長に指さされた僧は、眉間を撃ち抜かれたかの様に立ち上がった。
「今から三好、織田、そして尋円殿共同での書状を作る。貴殿だけ解放するから、その書状を持って興福寺に戻り、大至急荷造りして退去する準備をせよ。退去先は京かお隣の東大寺。京に行くなら法相宗系列寺院にでも行くがいい。今が昼か。5日後の昼以降、寺内に居る人間は全員殺すからそのつもりでな」
この提案が譲歩案として、絶対に譲れぬ言霊の魔力を込めて宣言した。
京に追放するのは蠱毒計の充実なのだ。
要求を要約すると以下になる。
命は助ける。
興福寺は破却する。
逃げ先は京か東大寺。
その中に潜ませた真の目的が3つ。
東大寺に逃がし、畠山高政の捜索と、避難してきた興福寺と東大寺の衝突を狙う。
そのついでに東大寺も燃やし京に避難させ蠱毒計に加える。
もう1つが、実休に耳打ちした信長の策で、尋円の進退に関わる事になる。
「き、京に行くとなると清水寺でしょうか? 受け入れ規模としても適当かと存じますが」
「清水寺か。あそこは法相宗と真言宗を兼宗しているのだったな? 応仁の乱で焼失して久しい。共に再建するのもいいだろう」
兼宗とは、違う宗派をも取り扱っている状態を言う。
最初から最後まで『○○寺は○○宗』と言うのは少ない。
特に中央では、寺の規模によって、取り込まれたり離脱したりと、宗派が変わる事が多い。
現代の清水寺は、北法相宗を名乗り、法相宗から独立している。
また清水寺は、修学旅行のコースでもお馴染みで『清水の舞台から飛び降りるつもりで』の諺でもお馴染みだ。
なお、現在は『思い切った決断』の諺となっているが、真の意味は『願掛け』だ。
飛び降りて、願いを叶えてもらうのだ。
「清水寺を再建して飛び落ちて、法相宗の繁栄を願うがいい。貴殿らの信仰心が本物なら、その願いは聞き届けられるであろうよ」
信長は『無駄死にだ』と言わんばかりの声で言った。
ブラックジョークにも程があるが、宗教が絶対の世界なので、決してジョークではない。
事実、そうするのも有りだと思う僧もいた。
「さぁ。書状も出来上がった。5日後の今の時点で、境内に人は居ないとみなして行動する。良いな? では行け!」
「はい!」
書状を持たされた僧は、大慌てで興福寺に向かうのであった。
清水寺の飛び降り願掛けについて。
1694年から1864年の170年間で、235人飛び34人死亡と言う記録があるそうです。
死んで無いだけで、生きているだけの状態な重症者もきっと多いと推察します。
それ以外の期間の記録は分からず、ひょっとしたら、清水の舞台下は怨霊の聖地かもしれないですね?




