188-4話 悪意満載 地獄の分別
188話は4部構成です。
188-1話からご覧ください。
この様に匂いは生物の生殖に大きく影響するのだが、仕切られた場所に女が100人居れば、その影響は強烈だ。
戦国時代、大名クラスの人間ならともかく、北陸と東海地方の血が混じる事など稀も稀。
つまり、ここには誰もが遺伝子的に遠い、良い匂いと感じる女の匂いが漂っているのだ。
勿論、逆も然りで、女性にとって良い匂いと感じる匂いが漂う。
だが、戦う自由と衣食住に出世の門戸が開かれた新鋭隊員が、一揆軍に靡くはずも無い。
風向きも相まって、匂っても微か過ぎず、ただ単に『何か良い匂いがするなぁ』程度の反応だ。
なお当たり前だが、信長はこの匂いによる遺伝子効果は、全く知らない偶然の効果だ。
信長の目的は、あくまで『長島の再現』たる『隣の芝は青い』作戦である。
これだけ女を、しかも護衛の精鋭として揃えられる発展と、猛烈に『性欲』を刺激する匂い。
一揆衆にも家族持ちも居たり、新婚、或いは結婚が決まっている者も居るだろう。
弱った母や、娘、或いは姉妹が居る男も居るだろうし、近隣住民に顔見知りの女も居るだろう。
女を知る者は当然、知らぬ者も本能が刺激される。
或いは望郷の念。
家族、故郷を想像させる女の存在。
長い一揆活動の中で、不幸な目にあった夫婦や兄妹、娘を持つ者も居るだろう。
それを思い起こさせる。
これで結束の崩壊を狙うのだ。
一揆側の護衛100人は最精鋭で揃えたはず。
舐められたら終わりなのだから、厳選した100人なのだが、それが仇となった。
実はその最精鋭の護衛は、基本的に主張の大きい、一揆でも実績がある者ばかりで、彼らが守る治安がこれからどうなるかは想像に難く無い。
そんな最精鋭を揃えた護衛の本能が徹底的に狂わされた。
教義と性欲、望郷が天秤に掛けられ、どちらに傾くかは不明だが、80年も教義に縛られ続けて来た地域だ。
天秤が性欲、望郷に傾く可能性は限り無く高いだろう。
その為に、女性親衛隊をかき集め、かつ、信長の側室も全員参加だったのだ。
更に、もっと下品な効果を狙ってもいる。
信仰で無理に忘れている性欲を思い起こさせ、思考を捻じ曲げる。
欲望は生きる力なのだ。
『進者往生極楽 退者無間地獄』
性欲と衆合地獄は、この一向宗の無間地獄スローガンより軽い位置にある。
性欲は子孫を残す、種族や生命の使命でもある。
それが地獄に繋がる訳では無いが、少しでも油断したり間違えたら地獄行きの危険な行為。
この会談が終わった後、一揆側で何が起きるかは明白だ。
何せ、既に事前の信長の要請と頼廉の命令で、女子供は全員吉崎御坊に匿った後だ。
ここにいる彼らが発散するには、聖地吉崎に乗り込む、無間地獄即確定の究極の無礼を働かなければならない。
しかし、性欲は生きる力でもあるのに、スローガンは退いたら無間地獄なのだから、必ず迷いを生む。
迷いが生じれば、力の方向性が乱れる。
乱れた軍程、容易い相手は居ない。
一揆からの離脱を考える者も居るだろう。
或いは一揆内一揆が起きるかも知れない、と言うより、『長島の再現』を狙う信長なのだから、当然そうなる事を期待している。
その上で、女を欲望の第一候補にした、一揆内に存在する『造悪無礙』を信条とする者の炙り出しを狙う。
信長は思っていた。
下間頼廉然り、加賀、越中の七里頼周然り、確かな信念と正義を感じるのだ。
だが、北陸は荒れている。
中々安定しない地域だ。
複数の七里頼周が懸命に立て直しているのだろうが、それでも間に合わない。
ならば、これはどちらかと言うと、『造悪無礙』に近い信条の者がいると信長は判断した。
北陸は七里頼周が懸命に維持に努めているが、一方で頼周の評価とは相容れない噂も良く聞かれる。
その噂の出所は、この精鋭護衛の乱暴狼藉であり、長き戦乱の果てに、武士から解放された一揆内に身分の壁が出来てしまっている証拠である。
しかも単なる身分の差では無く、強者と弱者の身分差だ。
やはり七里頼周1人で全てをカバーは出来ないのだ。
歎異抄が漏れているかも知れないし、どこからか真実を知ったかも知れない。
或いは早く極楽に行きたいが為に突き進むだけかも知れない。
より良い地域や治安維持を行う真面目な者はともかく、法の守護者が恐らく七里頼周しか居ない地域では『強き者が正義』と言う、単純で甘美な強者に都合が良い法がまかり通っている。
正に『鬼の居ぬ間に洗濯』状態だ。
これが、七里頼周の評判に対して、矛盾した報告が聞かれる最大の理由だ。
信長の敵はそう言った者であって、頼廉や頼周を敵とは思っていない。
そこで、集まった人間の結束意識を断ち切り、不穏分子を大量に作り出す。
それを狙った策であり、今回の会談の意義であり、最終的に吉崎御坊に籠る頼廉や頼周他、女子供を守る為に戦う。
頼周や頼廉は、血を流さずに済む方法を探っている。
だが、信長は無理だと悟っているが、当然、無闇矢鱈に流しても意味は無い。
血を流すべき人間にはキッチリ流してもらう。
それは、この会談の後で、ハッキリと分別されるだろう。
この様に、会談を始める前から勝負を決めに行く。
戦を準備段階で決めに行く、信長の常套手段の変化球バージョンとでも言うべきか。
会談前哨戦は信長の圧勝に終わった。
「ごほん。アーアー。ようこそ堀江館へ。こうして無手で顔を合わせる事が出来た事に感謝致しますぞ。七里殿」
朝倉延景の挨拶により、会談の本番が始まった。
延景にとってもこの匂いは刺激が強いが、有利側に立つ以上、言葉にも優雅な響きが混じる。
要するに良い声なのだ。
男とは悲しい生き物だ。
女の前では、格好良く見られたいのだ。
身分も、知り合いかどうかも関係無い。
若干、淫靡策が朝倉陣営側にも影響を及ぼしていたが、やはり風上側、有利側、仕掛側である以上、格好付ける以上の醜態は晒さない。
「此方の下間様から色々な事を聞き、総合的に判断したまでです」
一方、返事をする七里頼周は指先の痛みが勝って、唯一、この状況に対抗出来ていた。
「1万石もの兵糧も頂いた。ここで何の誠意も見せぬは、浄土真宗の恥。ですが、この場に座ったからとて、全てが解決するとは思わないで欲しい。我らの誇りと信念を認めて下さるなら話は別ですが」
七里頼周は断固として言った。
晒が血で滲む。
この会談の先制攻撃を許してしまったのだから、これ位の言葉は叩き付けねば、背後の護衛が欲望に負け兼ねない。
護衛の顔を見る事は出来ないが、あれだけの覚悟を見せてなお、鼻の下を伸ばした護衛も間違い無く居る気配を感じる。
(こんな揺さぶりを掛けられるとは! 長島も散々に格差を見せ付けられたらしいが、これは最悪だ!)
「さて、此度の会談の要点はこうだ。我が朝倉家は浄土真宗を認める準備が出来ている」
「ッ! それは総赦免(完全無罪)と言う事ですかな?」
「そうだ。今後朝倉家は全ての宗派を守り支援する。そこに贔屓も何も無い。平等に扱い、宗派間の争いが起きぬ様、徹底的に動く。僧達には修行に専念出来る環境を用意し、仏法に殉じる事を許す。一方で許さぬのは神仏の命令で民を戦地に送る事、金銭を受け取る事、年貢を取る事等、利益の追求を禁ずる。その代わり、衣食住から建物の修繕、儀式に掛かる費用は全て朝倉家で持つ。詳しくはこの書状に記載されている通りだ」
延景が、天下布武法度の宗教部分を抜き出した部分の書状を渡した。
「北陸の騒乱を収めるには、もうこれしか無い。真面目な僧には修行に集中してもらう。争いは我ら武士が担当する。お主らは真宗高田派とも相容れぬな? 当然、高田派にもこの法度を飲ませる。これ即ち、飲めぬ寺社の存在を断固認めぬ法だ。北陸は血を流し過ぎた。今までは我らも理解が及ばぬ不気味な集団だったが、今なら七里殿の気持ちも理解出来る。だから全てを許した上で、和解としたい。その上で、七里殿には朝倉家での身分も与え、北陸の民の為に働いて貰いたい」
今までの事は総赦免で、七里頼周には北陸の安寧の為、朝倉家で働いてもらう。
これは逆を言えば、この条件を蹴るのであれば、もう信仰に脳を焼かれて善悪の判断が付かぬ者と見なす。
いずれにしても最後通告である。
「……。織田殿、斎藤殿、今川殿、浅井殿は同じ法度を試行して、何か問題は無いのですか?」
内容が内容だけに頼周は確認をとる。
朝倉家の最後通告を支援する各家の状況を。
「織田は試行して長いが、領内で問題が起きた事は無いな」
「斎藤家も同じくです」
この2家は、問題が起きる前に、むしろ問題を起こしに行った側。
問答無用で寺社の関所を破壊したのが最初だ。
だが、住民の支持が圧倒的で問題は起きていない。
「今川家も問題無く。むしろ住み分けが出来て快適になった位じゃ」
「浅井は朝倉殿の庇護を受け、万全に保っております」
考案者の信長は当然、それに続く斎藤、今川、浅井も全く問題無く運用出来ている。
やはり、尾張、美濃、伊勢、志摩で実績がある分、他の地域でも問題は起きていない。
「……そうですか。確かにこの条文、良く出来ていると思います。しかし疑問も残ります。神仏の命令によって戦地に行かなくなっても、我らの民が武士達の命令で戦ったのが最初の切っ掛けなのはご存じのハズ」
富樫氏に援軍を要請され協力したが、その結束力を恐れ弾圧し始めたのが北陸騒乱の第一歩目だ。
「そうよな。神仏の命令が朝倉家の命令に置き換わっただけでは意味が無い。だから、朝倉家では民の徴兵権を放棄する。兵士は皆、志願制とし、褒賞で働く場を与える」
この答えは延景も想定している。
専門兵士だけは朝倉宗滴の時代より始まり、今では全兵士が専門兵士だ。
「中には、農閑期の出稼ぎとして一時的に入隊する者もおる。仕事は戦だけでは無い。普請など仕事は山程あるからな。勿論、兵として働き出世した者もおる。朝倉家は英林孝景公の遺訓を守り、適材適所政策を進める。僧には修業の場を、農民には生産の場を、技術者には制作の場を、専門兵士には命を懸ける場をな」
「……成程」
朝倉家の越前は、この時代トップクラスの繁栄を誇っている。
京から逃げて来た公家や僧は当然、流民も数多い。
だが、それらを抱えて活用出来る勢力基盤が朝倉にはある。
越前のたった一国の規模で、これを成し遂げているのだ。
先の条件に、朝倉が無理する部分など無いのだ。
「古来、本当は役割分担がちゃんと出来ておったのだろう。それが、境界が曖昧になり、強者の傲慢が只の信者を戦力として当てにしてしまった。これこそ富樫氏の失策。この失敗に学び、今一度、自分の住む世界はどこなのか再認識してもらう」
「……ッ」
「今すぐ返事をしろとは言わぬ。持ち帰って良く相談するが良い。疑問点があるなら遠慮無く申せ。その都度、疑問に答えるし、見通しの甘かった部分に付いては再考する」
「……断った場合は?」
「出来れば言わせないで欲しいのう」
延景は横に座る面々を見ながら言った。
去年は、朝倉斎藤浅井連合軍が相手だった。
今年は、そこに兵を増やした斎藤と、追加で織田と今川がいる。
どうなるかは火を見るより明らかだ、と言うより、そうなった場合の策が既に炸裂している。
性欲云々はともかくとして、朝倉側は、戦を既に想定して準備しているのだ。
その準備を無駄に終わらせて欲しいのが、延景の正直な思いだ。
『殺すしか無い』
信長だったらこう言っただろう。
だが、延景は言わない。
言霊となるのを恐れるからだ。
言霊となった場合、これ即ち、この会談の失敗を意味する。
「分かりました。返事には2か月貰いたい。それで宜しいか?」
「よかろう。だが、早い分には何も問題無い故、いつでも使者を寄越すが良い」
後は、個別の細々とした質問や要望を聞き、或いは提案し、会談は終わりとなった。
館を退出した一同が最初に感じたのは、味の無い新鮮な空気の味だった――




