外伝59話 武田『応対と恥』義信
この話は『外伝59話』の直後の話になります。
この物語は、13章 弘治3年(1557年)、外伝58話直後の出来事である。
【甲斐国/躑躅ヶ崎館 武田家】
躑躅ヶ崎館の広間では会談が行われていた。
(また厄介な爺が来おったか……!!)(119話参照)
晴信の『また厄介な爺』とは、春に甲斐を訪れた北条宗哲(幻庵)に続いての雪斎の訪問故に『また』なのである。
ただの老人なら別に良いが、油断も隙も無い、しかも極めて厄介な老人の二季連続訪問に晴信の警戒感はMAXだ。
ただ雪斎の話は、実に単純で引退後の余生の充実の為の旅だと言う。
甲斐からの富士山を見るとの事で、ついでに、今川義元からの書状と援助物資の目録が渡された。
なお、既に晴信の『怪しさメーター』はMAXを突き抜けている。
だが、問い詰めた所で、太原雪斎が吐く訳が無い。
いや、吐いた言葉が仮にあったとて、その言葉が信頼出来ない。
ならばもう、好きにさせて監視するのが一番だ。
そう考え『雪斎殿が来訪して何もしない訳にはいかぬ』との理由で、要望を聞いてみた。
「そうですなぁ。では富士見物以外に許されるのであれば、主の計らいに応える為に、里嶺様のご様子を伺えられればと思います」
里嶺とは三国同盟の締結時に、今川家から武田義信に嫁いだ姫の事である。(史実名:嶺松院)
「里嶺か……。まぁ良かろう。今川より嫁いで年数も経つ。今川の者と弾む話もあろう(コレが目的か?)」
「心遣いに感謝致します」
「所で、背後のご婦人は?」
晴信は、雪斎の後ろで控える女性について尋ねた。
この場に居るのに相応しい佇まいと気品を感じ、雰囲気も一流だが、何で居るのか分からない謎の女だ。
「こちらは、主の娘の一人、瀬名に御座います。瀬名殿、ご挨拶を」
「はッ! 私は今川治部の娘、瀬名に御座います。近々婚姻を控えており、御姉様に報告しに参りました」
実に淀み無いハッキリした言葉で、武田信玄に対し一歩も引かず堂々と返答した。
瀬名の言葉は、嘘とまでは言わないが、事実では無い部分も含まれているのに、全く嘘を感じさせない言葉だった。
ちなみに嘘とは義元の娘ではなく義娘、御姉様に報告も、里嶺はそもそも三国同盟で8歳で武田に行ったので、その後に縁組した瀬名は会った事も無い義理の姉への報告など、弾む話すらも無い。
それと、甲斐武田を見る事が、最大の任務である事も隠している。
「成程、姉妹であったか。ならば弾む話もあろうな。良かろう。思い出話に花を咲かせるが良い」
晴信の懸念は当然だが、どうせ問い質せ無い。
ならば別の手段を取るまでだ。
雪斎と瀬名が退出すると、晴信は小姓に命じた。
「太郎(義信)を呼べ」
晴信は信頼する次期当主の息子を呼んだ。
勿論、監視の為に。
【武田義信邸/里嶺の私室】
「これは雪斎和尚。久方ぶりですね」
「里嶺様もお変わりな……いや変わりましたな。誠に美しく成長なされました」
雪斎と里嶺は、他愛の無い型通りの挨拶が取り交された。
他に話題と言えば、桶狭間の結果や、氏真の逞しさ(?)等だ。
だが、今回の旅は、ここからが本番であり、失敗は許されない。
「それよりも……。今川家縁の里嶺様にお伝えする事があります」
「……聞きましょう。それはそちらの義妹にも関するのですね?」
既に瀬名の挨拶は終えている。
義元の娘となった事と、晴信には聞かれなかったので本当の事は言っていない事、また、今この場にいるのは社会勉強と、他国の妻になる為の勉強だと伝えた。
「瀬名様は社会勉強です。里嶺様からも何か助言があれば、伝えてやって下され。それで、今回の訪問ですが――」
今川は武田と織田の両者と結んでいる為、武田と織田の争いには介入出来ない事。
結果如何による、今後の身の振り方を決めねばならない可能性がある事。
今川家縁の姫として、より綿密に今川の為に動いて欲しい事。
「里嶺様は難しい立場となりましょう。或いは決断を迫られるかも知れません。……辛ければ断っても構いませぬぞ?」
「……いえ。これも乱世の女の役目なのでしょう。覚悟は決めております」
「……心遣い感謝致します」
ある種の覚悟を決めた里嶺は瀬名に体を向けた。
「瀬名殿。これが他国に嫁いだ者の宿命です。暮らしに困る事はそうそうありませんが、自らその暮らし所か命さえ捨てざるを得ない場合もある。それが女の宿命です。貴女の場合は私と違って人質的役割は少ないですが、だからこそ、松平殿を上手く奮い立たせ今川の為に誘導させねばなりません。夫を立て、支え、時には自ら先頭に立つ。女と武を磨きなさい。さすれば、自然と上手く行きましょう」
『時には自ら先頭に立つ』
こんな教えは、帰蝶が暴れだす前には無かった常識だが、今は違う。
女であっても、いや、女だからこその場合もあるのだ。
「はい! その教え、心に刻みます!」
里嶺は武田義信の正室にして、今川家より派遣された人質でもある。
何かあれば命は無い。
残酷な使命に対し里嶺は凛として応え、瀬名にも助言したのであった。
そんな里嶺が突如、話を切り替えた。
「所で和尚、私と立ち会って貰えませんか?」
「はい。……は?」
急な話の切り替わりに、雪斎は『立会い』の意味を理解するのに時間が掛かった。
「実は武芸の稽古をしているんですが、今川の太原雪斎にどこまで通じるか試したいのです」
「……え? 立会い!? いや、里嶺様の言う通り、武芸を嗜むのは武家の妻の役目として理解出来ますが、拙僧と立ち会うと言うのは……」
「噂に聞く織田の姫鬼神は、女だてらに戦場で暴れているとの事。私も負けてはいられませんわ! 和尚はその実力を良く知っているのでしょう?」
(何と言う事だ……!!)
雪斎は何か得体の知れない、麻疹の様な病が広がっている錯覚に陥るのであった。
「待って下さい! 僭越ながら、先に私がお相手させて頂きます!」
「えっ? そう貴女も私と同……」
「なぁッ!?」
里嶺の『私と同じなのね。嬉しいわ!』との言葉を遮って、雪斎は大声で叫んでしまった。
(色々マズいのでは無いか? ワシなら加減は出来るが、瀬名殿は本気で当たろうとしている! 里嶺様の腕が分からないのに立ち会わせて良いのだろうか?)
瀬名は今回の旅で、何人も斬り捨てた。
流石は政治の悪化で治安の悪い甲斐である。
襲撃者には事欠かない。
武道では『人を殺して一人前』などとも言われるが、そう言う意味では、瀬名はもう達人級の殺人を乗り越えた。
一方里嶺は、仮に武田の猛者武将との訓練をしていたとしても、殺人の経験までは無いだろうが、申し出るからには腕に自信ありなのだろう。
「うっ……ク……これは流石に拙僧の一存では……」
雪斎が苦悶の表情で声を絞り出す。
この可否判断は、武田家外の者である雪斎の一存の領域を、遥かに超えてしまっているのだ。
怪我をさせるのも、怪我を負うのも当然、独断で戦わせる事自体国家間問題だ。
「構いませぬぞ?」
そう言って現れたのは里嶺の夫、武田義信であった。
晴信に呼び出され、探りを入れる様に命じられ、今ここに参上したのであった。
「妻は流石今川の血を引きし者。某でさえ立ち会って危ない場面が幾度もあり申した。そうそう不覚は取りますまい」
「こ、これは太郎様……!」
雪斎が慌てて平伏すると、瀬名もそれに倣った。
「面をお上げ下さい。雪斎殿に平伏される程に某は地位も功績もありませぬ。それで、瀬名殿でしたな? 妻と立ち合いたいなら存分に為さるが良かろう。ワシも妻以外で女の使い手を知らなくてな? 精々が噂に上がる織田の姫鬼神程度じゃが、妻以外の実戦女子を知らぬ。だから世の女子とは如何程のモノなのか知りたいと思っております」
義信は義信で、妻の武芸に困惑している様であった。
これが女性の常識なのか?
戦場に出ないだけで、出れば、それなりに戦えるのか?
女性の戦闘力の平均はどの程度なのか?
噂の帰蝶だけが例外なのか?
困惑と共に興味が尽きない様であった。
「そ、そうですか……では両者共ご準備をなさいませ」
「はい」
「承知しました」
里嶺も瀬名も今は姫装束なので、これでは全力は出せない。
無論、服装など気にしている場合ではない時もあるが、訓練ならば必要な着替えだ。
その着替えを待つ間、雪斎と義信は他愛も無い話に興じた。
もっと厳しい質問や、答えに詰まる質問が来ると思っていた雪斎は、余りに他愛が無さ過ぎて拍子抜けしてしまう。
義信は何一つ、鋭い切り込みを感じさせる質問をしなかった。
最早これは『あえて無難な質問に抑えている』とさえ感じる。
ただそれでも、雪斎の目に見えるのは、聡明な義信の姿。
佇まいだけで才気をヒシヒシと感じる。
それなのに、口から出る言葉は極めて無難。
もうそれだけで、意図があるのは明白だ。
(この好機に、拙僧から何の情報も引き出さない? そんな盆暗には見えぬが……? 何かあるのだな?)
(雪斎……。この男は信用に足るか見極めが難しい。……いや信用は出来るのだ。『ソレ』が今川第一に繋がるならば……。どうする!?)
雪斎、義信共に、他愛の無い事を話しながら腹を探っていた。
特に義信は、この時既に、将来の謀反に悩んでいた。
先程、父晴信に様子を探る様に命じられたが、もう義信の心中では、その命令を守るつもりは無い。
何が起きても、掴んでも『単なる今川家の思い出話でした』と言うつもりでいる。
武田義信、この時19歳。
5年後には謀反を決行し武田家家督を奪い取るが、この時は、散々悩み逡巡していた。(179話参照)
悩みつつもも、実はこの時既に、謀反に向けての裏工作はかなり進んでいた。
故に『いざ謀反』となった時、今川家には後ろ盾になって欲しいのが本音だ。
しかも、その後ろ盾が得られる公算はかなり高いのだ。
現在の『甲相駿三国同盟』は『人質と婚姻』がワンセットの三竦み同盟で、簡単に裏切る事が出来ない。
それでも強行して裏切れば、娘は無事では済まない。
しかし、この同盟には実は穴がある。
これは武田晴信、北条氏康、今川義元を縛る同盟であって、その息子と娘は出汁に使われたに過ぎない。
出汁たる子が、三国同盟国に侵略するのは論外だが、一方で下剋上を起こしても、同盟に何ら支障は無いのだ。
子が親に謀反を成功させたとて、同盟は少々揺らぐ位で、むしろ親より優秀との証明がより強固な同盟として再確認出来る。
今回で言えば、義信が謀反を成功させれば、人質の今川里嶺は無事所か、今川家も義信陣営に迎えられる。
同時に、今川家に北条涼春を出している北条家も、今川に追従せざるを得ない。
また北条家に嫁いだ武田文梅は、実家はともかく、どんな場合においても処刑の心配は無い一番安全な立場。
兄の謀反が成功しても、父が防衛に成功しても唯一無関係の立場だ。
この三国同盟は、当主を狙う次世代の者にとって、何の足枷にもなっていない実に有利な同盟なのだ。
仮に義信が失敗した場合、失われるのは義信の命一つで済む。
里嶺は、無関係と言い張れば、晴信と言えど、簡単に処刑出来ない大事な人質。
博打にしては、かなりの好条件。
唯一の懸念は、雪斎が見抜いて晴信に告げ口や忠告をしたらお終いだ。
慎重にならざるを得ない。
実行するかどうかの最終判断が、5年後になるのは知る由も無いが、ただこの時、心は謀反にかなり傾いていた。
「……一つお尋ねしたい」
「何でしょう?」
義信が意を決して雪斎に尋ねた。
「駿河からの道中、安全でしたか?」
「ッ!!」
雪斎は即座に答えられなかったが、その顔は雄弁に物語っていた。
「フフフ。そうでありましたか。賊に襲われたのですな?」
「隠しても仕方ありませぬな。仰る通りに御座います。何故そう思ったのですか?」
「雪斎殿の着物の裾、血痕が落ち切らなかった様ですな。それに……」
そこまで義信が喋った所で、里嶺と瀬名が、甲冑を身に着け戻って来た。
甲冑の隙間から見える瀬名の旅装束は、所々血痕で汚れていた。
「道中、雪斎殿達が村を襲うハズも無し。ならば賊の襲撃を受けたのでしょう。治安が至らず恥ずかしい限りです」
「いえ、戦国の世ですからな。賊はどうしても湧いて来てしまいます」
雪斎は精一杯の配慮ある言葉で、武田との関係が拗れない言葉を選んだ。
時代が悪い。
決して間違ってはいない。
但し、間違いをいつまでも容認していてもいけない。
「フフフ。お戯れを。今川領内なら野宿でも心配無いでしょう。危険なのは精々野生動物程度。しかし甲斐は野生動物と変わらぬ輩が跋扈する始末。本当にお恥ずかしい限り」
義信は軽く頭を下げるが、恥ずかしさは本物の様で、握る拳に力が籠る。
その姿にある種の決意を感じた雪斎は、咳ばらいをしてから話し始めた。
「……拙僧があれこれ申しては内政干渉と取られ兼ねますので。……これは独り言です。『何かを感じて期待するのが民』『何かを感じて実行するのが支配者』です」
雪斎は決して『何かをしろ』と義信に命じていない。
義信には『お前は誰だ?』そう問うたのだ。
支配する側か、期待する側か?
人の上に立つ者か、人の下で頭を下げる者か?
持つ者か、持たざる者か?
別に謀反の勧めでは無い。
力を持つ者には責任が伴う。
力を持つ者にしか出来ない事がある。
その力をどう使うか?
その覚悟を問うたのだ。
「ッ!! 良い言葉ですな。肝に銘じ……おっと盗み聞きに感想を言うのもではありませぬな。……さて妻達の用意も整った所で見届けましょうか。雪斎殿には判定をお願いしたい」
義信の謀反は5年後に成功する。
その第一歩たる裏工作はもう大分進んでいるが、今、雪斎に背中を押されたと義信は解釈したのだった。
「分かりました。では里嶺様、瀬名様、甲冑の場所は平服と見なし、当たれば一本とします。また――」
こうして始まった里嶺vs瀬名の戦いは、中々に見応えある戦いだった。
女同士だから同レベルで白熱しているのでは無い。
その辺の木っ端武者など相手にならない、まさしく武力を有した迫力ある戦いを繰り広げた。
武田の猛者相手に訓練に訓練を重ねた里嶺と、この旅で殺人を重ねた瀬名は実力伯仲であった。
この戦いは武術対暴力。
勿論、里嶺が武術で、瀬名が暴力側だ。
瀬名も雪斎から武術の教えを受けているが、この旅での殺人経験から血が滾るのか、教えを忘れ暴れている。
体中に無駄な力が入り、いつもの動きでは無い。
手足がバラバラに動いていると言っても過言では無い。
だが、その暴れ方が尋常では無い。
一撃一撃が、防御してなお、体を揺さぶられる一撃なのだ。
今は、雪斎の教えが頭から飛んで冷静さを失ってしまっているので仕方ないが、この暴力が雪斎の教えと融合した時、瀬名は今より洗練されて強くなるだろう。
(強い! でも冷静とは言えない! ならば!)
里嶺はそう判断すると、瀬名の大上段からの攻撃を脳天を守るべく屈んで木刀を両手で突き出しながら防御し、同時に瀬名の後ろ足に足払いを仕掛け転倒させると、胴に木刀を突き刺した。
瀬名の腹部から鮮血が溢れた様に見えたのは、気のせいでは無いだろう。
それ程までに迫真の戦いだったのだ。
「一本! それまで!」
「ま、参りました……!」
「ハァッ……ハアッ……危ない所でした。頼もしい義妹で私も安心です……!」
「うむ。2人とも見事だ。これは男も舐めていると寝首を掻かれ兼ねんわ。雪斎殿もそう思われぬか?」
「ハハハ……そうですな。何もかも移り変わりの早い時代だとは思っておりましたが、拙僧の常識が通用する時代はもう終わりそうですな。ハハハ……」
雪斎は、女達を頼もしいと感じたのか、自分の時代が終わりに向かっているのを寂しいと感じているのか、帰蝶程では無いにせよ、信じられない光景を見たせいか、或いはその全てなのか、乾いた笑いしか出なかった。
確かに雪斎は、今川家引退試合で帰蝶と立ち合い敗北した。(100-5話参照)
試合とは言え悔いの無い戦いだった。
あの試合は雪斎の長い人生の中でも、恐らくは寿命間際であろうあのタイミングで、人生観を大いに狂わす一戦だったが、それは間違いなかったのを、今目の前で里嶺と瀬名が見せてくれた。
「瀬名様。少々、興奮の余り、拙僧の教えを忘れましたな? 戦場では平常心を失った者から死んでいきます。血の高揚、恨み、危機、絶好の好機。それらが生み出す常とは違う体から湧き出る力。それは戦う原動力になるには違いないですが、平常心に勝る事は無いのと教えたハズですな? 今の戦い、腕力頼みの戦いだったと御自覚なさっていますかな? 湧き出る力を制御していないから手足の連動がバラバラでした。それを制御してこそ一人前ですぞ?」
「うっ……はい……」
「宜しい。賊はそれで倒せても、平常心でいる者を倒すのは難しい。だが無感情で戦うのも難しく相反するもの。故に闘気、覇気、殺気等の感情に変換して戦うのです。一方里嶺様は良く冷静でいられましたな?」
「危ない所でした。もう少しで勢いに飲まれて負けたかも知れません」
「そうです。瀬名様とは逆を言いますが、火事場の馬鹿力との言葉もあります。戦いとはどんなに未熟者であっても命がけ。その命がけの暴力が訓練を粉砕し、冷静な動きを封じ予測を上回るのです」
「肝に銘じます」
技術と暴力は似て非なる物。
自分と敵がどちら主軸にして戦うにしても、必ず技術が暴力を上回る保証は無いし、その逆も然りである。
「さて……では、約束通り、里嶺様、お相手致しますか」
「はい!」
当然ながら、里嶺は倒された。
善戦したが、雪斎相手に隙を見せないなど不可能。
その不可能を何とかしてこその武術であるが、里嶺は、まだそこまで及んでいなかった。
逆を言えば、雪斎相手に善戦した実力と、後は武術の理を突き詰めていけば、武田家でも屈指の武将となるだろう。
そんなアドバイスを雪斎は送った。
「我が妻ながらまだ才能を秘めておるのか……!」
雪斎の言葉に、義信は妻が誇らしく、頼もしく、かつ、恐ろしく感じ、自分も覚悟を決める時が来たと感じ取った。
(今川は頼りになる。それだけは間違いない! 後は……)
「雪斎殿、一息入れた後、某とも立ち会って頂けぬか?」
「良いでしょう。里嶺様の実力を見るに、武田の方々は相当に武芸に長けているご様子。拙僧も全力で動けるのは後僅かにございましょう。この世の思い出に強者との立ち合いは望む所です。因みに太郎様は武田家内で誰に鍛えられ、或いは一本取っているのです?」
「誰と限定した師はおりませぬ。その時々で手の空いている者を捕まえては訓練に勤しんでおります。つい最近では、やっと左馬助の叔父上(武田信繁)から一本取れました」
「何と!」
武田信繁が織田家10指に入る帰蝶と互角と判明するのはもう少し後の話だが、信繁はこの後、飛騨・深志の戦いで帰蝶と激突し、帰蝶の右目を奪う事になる。(122-2話参照)
そんな武田晴信の右腕たる信繁と互角に戦えるなら、間違いなく非凡な才を持っている。
しかも若い。
これからどこまで伸びるか未知数だ。
そんな雪斎と義信の立ち合いは、雪斎の辛勝で終わった。
力ではもう勝負にもならないが、戦場の呼吸と、経験と知識と技で義信を圧倒した。
ただ、勝った雪斎が肩で息をし、負けた義信は、一礼して『参りました』と告げたが、息はまるで乱れていない。
実力を出す前に負けたのか、体力に余裕があるのかと言われれば後者だろう。
時間を掛けなかった雪斎の作戦勝ちであり、それしか勝機が無かったとも言えた。
こうして雪斎一行は目的を果たし、駿河に帰還するのであった。
途中途中で賊を倒しながら――
【武田義信邸/義信の私室】
「里嶺。頼みがあるのだが」
「はい、何でございましょう?」
義信は迷いながらも、邪気の無い里嶺の返事に覚悟を決めた。
ギリギリまで迷っての決断が下されたのだ。
「この時代、政略結婚の表向きは利害関係に過ぎぬが、裏向きの仕事として、嫁ぎ先の内情を実家に報告する役目も公然の秘密として知っておるつもりだ」
「は、はい……」
里嶺もすっとぼける訳にも行かず、自白の返事をするしかなかった。
だが、ここで『いいえ』と答える他家の妻は、実家が滅んでいる場合を除いて、存在しないだろう。
「それを咎める積りは無い。むしろ許す。積極的に我が義父たる今川治部殿にお伝えせよ。何ならワシが手に入れた情報も流す」
「えっ……!? それは一体!?」
里嶺は今、夫から公認スパイを任じられたのだ。
混乱するのも無理はない話だ。
「何、そう困惑する程の事でもない。今川家は頼りになる。今日それを確信した。それだけじゃ。政略結婚で結ばれた同盟だが、今後はより親密に行きたいと思っておる。いずれワシが武田を継いだ時、改めて関係を構築していては遅いからな」
「わ、分かりました……!」
ただの親密関係の向上が狙いではない。
義信の濁したようで覚悟溢れる言葉に、里嶺も何かを察し覚悟を決め、独自に探りつつ夫からも支援を受け、今川家に情報を流し続けた。
武田と上杉の同盟(125話)など、武田に対するピンポイント情報を流し続け、義信によるクーデターの際にも一役買ったのは、里嶺の暗躍があったのは誰にも知られなかった。
お陰で後の謀反にて、後ろ盾も必要無い程の、鮮やかな下剋上が完成したのは未来の話である。
その行動の裏には雪斎の教えと、義信に対する里嶺の、歴史の表には絶対現れない究極の内助の功がここにはあった――
次回は4/30に本編186話を投稿します。




