174-1話 虎穴に入らずんば虎子を得ず やり難い戦い
174話は6部構成です。
174-1話からご覧下さい。
【飛騨国北東部/風玉村への道中 真田軍】
「遅い。いくら何でも説得に刻が掛かりすぎておる」
武田信玄が床几に座り唸る。
信玄が待っているのは本願寺従者の蜂屋貞次。
その蜂屋が説得行為終了後に成否の報告に来る手筈になっている。
本多正信が下間頼廉と共に斎藤家妨害に動き、渡辺守綱は本願寺本家への伝令に動いた今、残る従者は蜂屋貞次だけ。
その蜂屋が待てど暮らせど戻ってこない。
成否どちらにせよ、報告が無ければ信玄としても動くに動けない。
「蜂屋某でしたか。確かに遅すぎますな。物見を派遣しますか?」
武田信繁も同じ事を思っていたのだろう。
様子を探る事を提案した。
「本願寺の意向に逆らう事になりますが……」
だが、懸念も伝えた。
「ぬぅ……」
武田家の説得作戦は本願寺側の意向もあり、あまり領民を刺激しない様に軍は後方に留め置かれている。
だが、ここで言う『刺激』とは『軍の威圧感』ではなく『武田家の存在』だ。
近隣に轟く暴政武田家の存在はバレる訳にはいかない。
説得をする本願寺の、失礼なれど至極当然の配慮だ。(170-5話参照)
「難しい判断になるな」
信玄は政治的立場を考え苦い顔をする。
今回のこの遠征、スポンサーは本願寺だ。
武田単独では立ち行かぬ経済事情から、義兄弟の縁と本願寺にとっても頭痛の種たる一向一揆対応への悩みを突いて資金と物資を引き出した。
戦になった場合の実行役は武田だが、やはりスポンサーの意向は無視できない。
資金や物資が引き上げられたら武田は死ぬ。
だから説得の成否に関わらず、待たざるを得ない。
「仕方ない。明らかに異常事態だ。何人かで様子を探らせよ」
ただ、それでもこれは我慢の限界。
意向を無視せざるを得ない異常事態と判断し物見を放った。
こうして待つこと数刻。
信玄の元には次々と凶報が飛び込んできた。
最初は山道への妨害工作報告だった。
風玉村への道中には数々の罠が仕掛けられ、あるいは道は塞がれ、個人ならともかく、とても軍が通行できる状態ではない事。
「今は戦国ですからな。村同士の抗争でさえ妨害工作はあるのですから、当然と言えば当然ですが……」
「まぁ……そうだな」
武士が領地を巡って戦う戦国時代。
僧侶が信仰を巡って戦う戦国時代。
世が混乱し、調停者が役に立たないのが戦国時代。
ならば農民も生活を巡って自力解決の手段として戦うのが戦国時代。
ならば山道の罠も、村の自衛手段としては十分あり得える話。
飛騨は領主不在の国なのだから、何が備わっていても不思議ではない。
「異論は無い。……今が非常事態で無ければな」
だが信玄は『良くある事』と流さなかった。
「全くもってその通りですな」
信繁も当然の心構えとして警戒感を薄めない。
この警戒は半分正解だ。
村自営の罠もあるにはあるが、半分以上は信虎の計略の名残だ。
水で道を悪路に変え、落とし穴を掘り、木を切り倒し通路を堰き止め、固まってしまった軍を一網打尽にする為の罠。
不発に終わった罠だが、足止めとして十分機能していた。
「次の報告だ。それで次の行動が確定する。それを待つ」
その次の報告が真の凶報だった。
物見が罠を抜けて風玉村にたどり着くも、村の人間は愚か、寺の人間まで消えた事。
民家も寺も焼け落ち、使えそうな物資もほとんど無い。
挙句の果てには本願寺の人間すら消えた。
「動くぞッ!! 弾正!(真田幸隆) 大至急、村に至る道を確保させよ! 今一度山にも兵を入れて罠の解除と安全確保だ!」
「はッ! 左衛門(真田信綱)に兵部(真田昌輝)はそれぞれ100率いて罠周辺の両脇の森に入り安全を確保せよ! 喜兵衛(武藤昌幸(真田昌幸))はワシと共に山道を制し村までの道を確保する!」
信玄の命令により、真田一族が方々に散った。
「兄上、どうやら嫌な予感とか曖昧な状態はとっくに過ておりましょう」
真田一族の動きを見ながら信繁は難しい顔をする。
「うむ。これは戦の、しかも激戦最中同然の異常事態だ……!」
「ワシらがここで雁首揃えた所で打開は不可能。なれば某は馬回りを率いて村を探って参ります。罠を避ければ少数でも突破は可能なはず」
「お主の眼で確認する意義は大きい。だが……。いや、物見は無事全員戻ったのならば、伏兵の可能性は低いか? 物見を見逃した上で誘い込む可能性もあるが……」
信玄は思案する。
だが、その頭の中の思案占拠率は、決断の難しさよりも、もう顔も忘れかけた武田信虎の存在だった。
一度は考え過ぎと信虎の存在を除外したのに、除外した先から信虎の存在は増すばかり。
「結局『虎穴に入らずんば虎子を得ず』か。よし。行け!」
「はッ! 馬回衆出るぞ!」
真田一族が安全確保に、実弟信繁が村の確認に動く中、信玄は全ての可能性を考えつつ待った。
信虎が居た場合、村の民の奇襲がある場合、本願寺の者が処刑されていた場合、信繁が討ち取られた場合―――。
言霊の観点からすれば、考えるのも危険な悍ましい脅威とそれに対処する方策を考える信玄。
結局、その思案は無駄に終わった。
信虎も住民も居ないし、流血の痕跡も見られない。
信繁も無事に戻ってきた。
だが、その信繁の持ってきた手土産には困惑させられた。
「兄上、馬場虎貞なる将をご存じですか?」
「馬場虎貞? 確か親父に処刑された者だな。ワシが同族の美濃守(馬場信春)に継がせた家系の者だ。……それが何だ? ッ!? 生きていたのか!?」
「い、いえ、そうではありません。処刑はワシらが子供の頃の話ですからな。この書状の記載で久方ぶりに思い出した名です。焼け落ちていた寺の門前に書状が残されておりました」
信繁は書状を信玄に渡す。
『主 馬場虎貞の仇を討つ 笹久根貞直』
「……笹久根? 誰だ?」
馬場虎貞が生きていた可能性は否定されたが、突如謎の人物が浮かび上がる。
「聞いた事もありません。文面から察するに虎貞配下の者なのでしょうが……」
「武田に恨みを持つ者の妨害か。参ったな」
信玄は大きく息を吐いた。
「クソ親父の負の遺産ではないかッ!! どこまで子の足を引っ張れば気が済むのかッ!!」
信玄は肺の空気を絞り出し、激高し立ち上がった勢いで床几を後方に飛ばした。
今の武田の苦境は信虎のからの引継ぎだ。
酷過ぎた治世のツケを払わされてはたまらない。
「道が開けたら全軍で村を掃討する! 信濃からの援軍到着前に、その笹久根なる者を討つぞ!」
「お、お待ちを!?」
信玄の激高に驚くも、信繁は右腕の役目を果たすべく諫める。
「本願寺の者が人質に取られた可能性が高いのです! 迂闊に動けません!」
「ぬッグググ!!」
「まずは情報の整理です! 馬場を継いだ美濃守ならば笹久根を知っている可能性も! 古い話ですが確認してからでも遅くはありますまい!」
「ッ!! ……お主の言う通りだ……ッ!!」
歯が噛み砕けそうな程に食いしばりながら、信玄は信繁の理を認めた。
「素性を確かめない訳には行くまい……! 美濃守を呼べ! いや随伴する諸将全員だ!」
最悪の可能性が杞憂に終わったのは喜ばしいが、依然として非常事態には違いない。
少しでもその盤面を把握し有利に動くべく、信玄は同行する諸将を全員呼び寄せた。
謎の武士が民を扇動しているのだけは確定している以上、時間ロスは承知の上で情報収集として確認しない訳には行かない。
信玄の命令により、秋山信友、飯富昌景(山県昌景)、山本晴幸、そして馬場信春が本陣に到着し、信玄は事情を説明した。
説得が不首尾に終わり、村は無人の上、本願寺の人間も消えた。
その上、信虎時代の家臣が反乱を指揮している。
これでもかと問題が積み重なる惨状に、集められた諸将は絶句する。
特に馬場信春の驚愕具合は後世に残る程に悲惨で、信玄も思わず『人はこうも顔色が変わるのか』と怒りを忘れる位だったと伝わる。
お陰で信玄は幾分か冷静になった。
「落ち着け美濃守。お主が馬場を継ぐ前の話に責任など求めはせんよ。だが聞かねばならん。馬場虎貞家臣に笹久根なる者は居たか? 縁者は居るのか? 馬場家を再興する時、虎貞家臣の去就はどうなっておった?」
「と、虎貞公の家臣の笹久根なる者、申し訳ありませぬが分かりません。少なくとも追放され帰参した中に笹久根某は居りませぬ。ただ甲斐には笹久根村がありますので、居たならば甲斐土着の武士であろうかと思います」
「土着の武士か……」
地域の名を冠する武士。
武士の大多数がこのパターンに当てはまる由来だ。
例えば武田信玄の晴信時代の正式な名乗りは『源朝臣武田飛騨守太郎晴信』である。
この名を分解すると以下になる。
源→氏
朝臣→姓
武田→苗字
飛騨守→官職
太郎→通称、仮名
晴信→諱
氏はルーツであり、源平藤橘、あるいは豊臣(羽柴氏)、多々良(大内氏)など祖先がどこの血筋かを示す。
信長はこのルーツを、史実でもこの小説内でも藤原から平へと変更した。(外伝45話、151話参照)
姓は『八色の姓』とも言われ、階級でもあり、『朝臣』は皇族しか名乗れぬ『真人』の次に高い地位である。
問題は苗字だ。
武田氏が何故武田なのか?
それは始祖源義光が常陸国那珂郡武田郷に本拠を構え苗字としたのが始まりと言われる。
他にも、越前国織田荘出身だから織田氏。
中村朝宗が伊達郡の土地を与えられたから伊達氏。
全部が全部とは言わないが、大抵は土地由来である。
つまり笹久根地域出身の笹久根某が居ても何ら不思議ではない。
「某が馬場を継いだ時、その虎貞公時代の家臣の殆どは代替わりしており、しかも処刑から約30年、当時の虎貞公家臣団の全容を知る者が居るかどうか……」
平均寿命の短い時代である。
虎貞処刑が1529年。
今は1562年。
処刑追放から30年も経過すれば、顔触れが変わるだけで済めば運が良い方で、断絶も珍しくない。
さらに現馬場家の運営に虎貞系の家臣は殆ど関わっていない。
しかも、この真田軍に馬場領から来た兵は信春直臣の馬回りのみで当時を知る者もいない。
「い、今すぐ甲斐の領地で確認する様に指示します!」
「良い。正体が判明した所で何の問題解決にもならぬし、あるいは断定しない方が良いかも知れぬ」
今から遠く本国甲斐に確認の伝令を送った所で、正体が判明するかは極めて怪しい。
それに懸念もあった。
「断定……しない方が良い?」
「いや、こちらの話だ。気にするな」
信玄が懸念するのは笹久根某の正体が『信虎だ』と断定できてしまう場合だ。
馬場信春を呼びつけてまで笹久根某の正体を探ろうとした信玄であったが、冷静になった今、むしろ正体を暴かない方が有利ではないかと思い始めていた。
そもそも信虎だろうが笹久根某だろうが、その行動原理は恨みだ。
だが、もし笹久根の正体が信虎と知れ渡った場合、家臣の動揺は計り知れなくなる。
交渉が不首尾に終わった事はもう隠せないが、それが信虎の暗躍の結果だと知れ渡ればかなりマズイ事態になる。
「最早これは親父の不手際の呪いだ」
この秘密は信玄、信繁、幸隆だけに収めておかねばならないと判断した。
「笹久根某の恨みは激烈だ。万全を期さねばならぬが今は丁度良い。無人となった風玉村を今後の拠点に遠慮なく使わせてもらう。そこで後続軍を待ちつつ様子を探る。疾きこと風の如、侵掠すること火の如く、動くこと雷霆の如し、とは言うが流石にこれは迂闊に動けぬ。ならば動かざること山の如しである!」
こうして信玄は、武田信虎統治の負の遺産たる、馬場虎貞配下の笹久根貞直の反乱―――と思わせる武田信虎と竹中重治の策にはまってしまった。
すべては貴重な刻を稼ぎ、武田の進軍スピードを落とす為。
信玄は、今後無警戒に進軍出来なくなる。
信虎も認める通り、信玄は優秀なのだから迂闊な行動は必ず慎むし、暴走しかけても優秀な信繁が必ず諫言する。
その結果、後続軍の合流を待ち、風玉村に拠点を築く選択までした。
刻を稼ぎたい信虎としては大歓迎だ。
【撤退中の風玉村光念寺一揆軍】
「さ、笹久根殿! 村の方から火の手が!」
「ぬう! あの火の規模は寺が焼き討ちされたな……! 信仰の拠点を潰すとは何と非道な!」
笹久根貞直こと武田信虎は苦痛に顔を歪める。
顔中の筋肉を限界まで総動員して。
たった今発覚した火災は、真田の物見や武田信繁が風玉村を偵察する前の話である。
つまり、この火災は信虎の自作自演だ。
臨済宗の信虎としては浄土真宗の寺院が燃えた所で痛くも痒くも無いのは当然、その行為で一揆軍の闘志を燃やし、信玄に拠点を再利用させない為のまさに一石二鳥の悪質な策。
これから遠く北陸まで逃げる為には、敵軍の疲弊を蓄積させるに限る。
まだこの時は信玄の選択は不明だが、この撤退戦の初っ端を制した事は大きい。
苦痛に歪んだ顔を維持しないと、笑顔になりかねない信虎は、歯を食いしばって指示を出す。
「できる限り山道を破壊し敵の足を止める! 木を切り倒せ! 岩を落とせ! 罠を作れ! あるいは偽装をするのだ!」
こうして武田信玄の説得行軍は暗礁に乗り上げるのであった。
だが、一方で斎藤軍も暗礁に乗り上げてしまっていた―――
【飛騨国北西部/覚玃村 斎藤軍本陣】
「これは弾正忠様(織田信長)。お待ちしておりました」
斎藤軍の本陣で総大将を務める稲葉良通が、礼儀正しく信長を迎えた。
斎藤軍本陣に遅ればせながら到着した信長。
斎藤軍が解放した村々の復旧と武装解除を担当し、ある程度道筋をつけた信長は織田軍を率いてきた。
「遅くなった。とりあえず、今まで解放した村は問題無いじゃろうが、この村は中々苦戦しておる様だ」
「面目ございませぬ」
今は攻城戦の真っ最中。
沢彦の説得も不発どころか、聞く耳もたない常麟寺一揆軍との戦になってしまっていた。
「いや、気に病む必要は無いだろう。北に行けば行く程どうにもならないであろうよ。この状況は必然だ」
宗教の性質を熟知している信長は、良通の謝罪を気にも留めなかった。
「ところで美濃守殿(斎藤帰蝶)は? ……まさか前線か?」
本陣にいるのは稲葉良通と竹中重治だけで、肝心の帰蝶が居ない。
信長は帰蝶の性格から、前線に飛び出したのかと誤解した。
「だ、弾正忠様、違います。前線には飛び出してはいませぬが、越前には飛び出したと言うか……。とりあえず経緯を説明いたします」
竹中重治が、これまでの経緯を伝えた。
下間頼廉なる本願寺の坊官が暗躍している事、一揆軍の総大将が七里頼周なる無名だが油断ならぬ武将で北陸で猛威を振るっている事。
本願寺としてもこの状況は不本意で、下間頼廉が七里頼周を止めに向かった事。
その向かい先は吉崎御坊か尾山御坊(金沢御坊)である可能性が高い事。
帰蝶は頼廉が吉崎に向かったと判断し、少数で朝倉軍に合流すべく軍を分けた事。
そして、信長がこの後、稲葉良通率いる斎藤軍に合流するか、帰蝶を追い吉崎に向かうかは信長の判断
これらの事を伝えた。
「成程、これは難しいな。しばし考える。《中々の状態よな?》」
《はい。それでも帰蝶さんは最善の手段を取っていると思いますよ》
《そうか。それにしても下間頼廉か。思わぬ大物じゃな。それに七里頼周か。前々世で聞いた名じゃが評判は悪かったな。まぁ、当時はそのお陰で一揆に付け入る隙ができた。織田としては助かったと言えば助かったのじゃがな。どうも今の歴史では違う様じゃ》
史実の七里頼周、さらに下間頼照は一揆の統率に失敗し、一揆の主体である農民に恨まれていた。
その恨み具合は、本願寺本家や下間頼廉に対し弾劾状が届く有様。
つまり、本願寺本家も坊官の制御が効かず、その坊官も民の制御が効かずの混沌の北陸。
一致団結していたら信長の歴史は変わっていた可能性は高く、信長の豪運と徳なのか、本願寺側の自業自得なのかは意見が割れるだろうが、いずれにしても織田の利となる崩壊具合であった。
しかし今の歴史は、本願寺の坊官に対する制御が効いていないのは史実通りだが、どうも七里頼周による民の制御は上手く運んでいる模様。
信長が難しく感じるのも仕方ない話だ。
《私も無名の人物が名を馳せる改変はあると思ってましたが、ここで来ましたね》
《改変は歓迎すべき事だが、都合の良い改変ばかりとはいかぬと散々思い知らされてなお、強い衝撃を感じるな》
信長は苦い顔をする。
本願寺と10年も争った記憶を持つ以上、そして下間頼廉には散々手こずった上に、七里なる者の覚醒オマケ付きなれば当然の顔だ。
「現在、稲葉殿が斎藤軍の総大将なのじゃな?」
「はッ! 僭越ながら指揮を執らせて頂いております」
「うむ。稲葉殿なれば問題ないだろう」
「あ、ありがたきお言葉に……!?」
信長は稲葉良通の実績を前々世で把握している。
軍を指揮する能力になんら不安に思ってはいないが、良通は良通でその信頼を嬉しく思うも、そこまで信頼される理由も当然分からなかったが、信長が難しい顔をしていたので理由は聞かないでおいた。
「それよりもだ。美濃守殿は下間頼廉の名を聞いて何か反応していたか?」
「そう言えば驚愕の表情をしていました。下間の名が重いのは某も知っておりますが無名の頼廉にあそこまで反応するとは思いませなんだ」
「反応したか。反応した上でどちらでも良いと来たか」
「殿も最大限警戒しておりましたが、弾正忠様までその警戒。その下間頼廉なる者は、そこまで危険でありますか?」
もし良通も転生していたならば愚問だったと恥じる程に、下間頼廉は危険人物だ。
信長も、ついつい良通を前々世の評価で考えてしまった事に気が付き、良通の疑問に答える。
「あぁ……そうじゃな。ワシが京や堺に赴いた折、何度も聞いた名でな。今は若い分未熟かもしれぬが、決して油断して良い相手では無いな」
前々世の経験で知ってるとは言えないので、信長はそれっぽい言葉で濁した。
「成程、そこまでですか」
「それよりもだ。美濃守殿の言葉はともかく、内心でワシに来てほしい素振りはしていないか?」
信長は強引に話を切り替えると共に、一番気になる事を尋ねた。
帰蝶のその言葉は強がったのか、それとも自信があるのか、言葉だけでは判別できない。
「うぅむ。殿のそのお心を評するのは難しいですが、少なくとも本当にどちらでも良い、と思っている感じではありました。半兵衛はどう見た?」
「はッ。某もそう感じました。弾正忠様を頼らずともやり遂げる意気込みは感じました」
「そうか。よし。ならばその意思を尊重しよう」
史実と違う人生とは言え、稲葉良通に竹中重治の判断だ。
信長はその判断を信じた。
「ワシはこのまま稲葉殿に合力する。それに越前は朝倉が担当なのに斎藤に加え織田も押しかけては越前殿もやり難かろう」
船頭多くして船山に登る、との言葉もある。
信長は帰蝶の意思を尊重すると同時に、帰蝶が失念した政治的判断としてこの場に留まる事を決めた。
それに、口にはしなかった懸念もあった。
稲葉良通の指揮は信頼するも、いざ交渉となった時に大名級の対宗教的思考を今の稲葉良通が出来るかは未知数だ。
対宗教は、誤れば禍根を残す。
散々前々世で見て学んだ事だ。
それに北陸の鎮静化は斎藤、朝倉、上杉が望んでいるとはいえ、それら三家を上回って激烈に鎮静化を望むのは前々世をも経験した信長に他ならない。
「では稲葉殿に指揮は任せよう。織田軍に動いて欲しい時には遠慮なく言って欲しい」
「えっ? は、ハッ! ありがたく」
稲葉良通は一瞬困った顔をしたが、すぐに切り替え常麟寺を睨んだ。
織田家も斎藤家も指揮官の命令は最大級の序列を持つ。
身分の上下を覆す程の権限だ。
かつて北伊勢四十八家攻略で信長は、柴田勝家や森可也の配下として命令通りに戦った。(27話参照)
(斎藤と織田の垣根を越えるのか!? た、他家の大名にワシが指図するのか!?)
信長がこの場に残る以上、てっきり信長が指揮を引き継ぐかと油断していた所にブチかまされた衝撃だ。
(た、確かにこれは斎藤の戦いだから指揮権は斎藤にあるかも知れんが!?)
これは信長も少々迂闊であった。
前々世の記憶から、稲葉良通を信頼する家臣として無意識に扱ってしまった。
その記憶のまま、良通の指揮に従うお墨付きを与えてしまった。
(や、やり難い!)
稲葉良通は、武田信玄とは別種の難題を抱えながら指揮を執る事になった。
(だが、これは好機よな! 織田殿の扱いはともかく、斎藤家の名代として名を馳せる! 三人衆筆頭の座! 天下に示してくれよう!)
こうして、武田、斎藤ともに流血を伴う戦に突入した。
あとはどちらが先に飛騨を抜けて北陸に到着するかの勝負である。




