170-4話 シン・浄土真宗 斎藤帰蝶
170話は5~6部構成予定です。
170-1話からご覧下さい。
一方、先に村長の家を出ていた信長と沢彦は小声で話し込んでいた。
(ふぅ~~!)
疲れたのか大きく息を吐いた沢彦。
まだ気温は相当低いのに懐紙を取り出して汗をぬぐった。
あれ程の熱が入った説法ではやむを得ないのだろう。
(フフフ。師も歳よな。疲れたか?)
沢彦は御年46歳。
人間50年の時代では、まさに棺桶に片足を突っ込んだ老人だ。
(正直疲れました。ですが若、これで良かったのですな?)
(若はよせ、と言いたいが、師の説法が余りに見事すぎて苦言しにくいわ! ハッハッハ!)
信長は信仰心を完全に失っている。
ある意味時宗の理想の姿だが、信長は時宗の更に上を行く、浄土の存在すら否定した信長教の信者。
だがそんな信長でさえ、沢彦の説法は凄すぎて感心を通り越して師の偉大さを再確認した。
(見事とは恐縮ですが、拙僧は失敗に終わる公算も高いと踏んでおりましたぞ?)
(失敗? あれほど見事な説法なのにか?)
浄土教からの歴史を踏まえた浄土真宗の変質と現在の一向一揆。
これ以上分かりやすく解説し離脱を促すのは信長と言えど無理だ。
(左様に。何せ拙僧は今の浄土真宗の僧なりに直接聞いた事は何一つありませぬ)
(な、何じゃと!?)
(織田領内では浄土真宗の僧は借りた猫の如く大人しい。長島での若の怒りと覚悟に触れ、殆どの僧は逃げてしまい、残ってはいても当たり障りの無い事を言ってくれるだけでも有難い存在。殆どは会ってもくれませなんだ)
(むぅ……!)
信長の伊勢長島一向一揆は前々世と比べれば、両陣営ともに被害は軽減されている。
織田軍の負傷者は僅かだし、史実で討死した武将は全員生き残った。
一揆勢にしても史実で5万にも上ろうかという戦死者は、5分の1にまで減らした。
歴史を知るアドバンテージを活かした見事な戦略ではあるのだが、この歴史しか知らない人には関係ない。
事実はただ一つ。
長島は餓鬼道が現れ、阿鼻叫喚の地獄と化した事だけだ。(104話参照)
(……そんな弊害があったとは知らなんだ)
地獄が現れはしたが、領民の暮らしは間違いなく向上している。
最初は信長の所業を恐れる領民も多かったが、実際の暮らしが改善されるにつれ惨劇は忘れ去られた。
浄土真宗の僧を除いては。
(それで、浄土真宗の僧から聞いた事は無いのだったな? ではあの話は何だったのじゃ?)
(先の話は全て浄土宗や時宗の僧から聞いた話と、そこから推測される想像の話に過ぎませぬ)
(成程な……。浄土真宗だけ明らかに異質。ならば親たる浄土宗、兄弟たる時宗に答えがあると睨んだ訳か)
見て来た様に話す沢彦と、余りにも正しいとしか思えない説得力ある言葉に、信長含め全員が騙されていた。
ただ、沢彦も別に騙したつもりはない。
自分が聞いて感じた事を伝えたに過ぎないのだ。
これが真実に違いないと言う確信が説得力を生んだに過ぎない。
(例えば新浄土真宗やら縁力本願、統制に脅迫など全くの予想です。そんな言葉など存在しないでしょう。『信じられない』『証拠は?』と言われれば拙僧には何も示す事はできませぬ。故にその点を突かれないかヒヤヒヤしておりましたぞ)
(で、では、それこそ嘘も方便だったのか?)
(まぁ……そうなってしまいますな。ただ、拙僧も真実だと確信はしておりますが、何ら断言はできません。説得が成功したのは、結局、現状への不満が大きいから信じて貰えただけです)
(何と……!)
沢彦の見事な説法はフィクションであった。
嘘も方便で浄土真宗を新浄土真宗に作り替えた―――かもしれない蓮如。
沢彦の説法も、ある意味良かれと思っての方便であった。
信長も、実は綱渡りだったと気が付き、今更ながら肝を冷やすのであった。
そんな極めて内密な話をしていると、帰蝶と良蔵も家を出てきた。
両者とも顔は晴れやかだ。
(成程。これが『知らぬが仏』と言う奴だな……)
(確かに。フフフ。若も上手い事を言いなさる)
(うるさい!)
綱渡りから解放された沢彦の口は非常に軽かった。
信長との信頼関係が伺える。
信長のツッコミには当たり前だが気が付かない帰蝶は、良蔵に尋ねていた。
「では後続軍に武装の解体と復興をさせるとして……村長、この辺りの寺社の所在を教えてください」
「少し北に行くと曹洞宗の寺がありましたが……その……一揆に巻き込まれ廃墟と化してしまいました」
良蔵の顔は苦渋に満ちている。
一揆に巻き込まれたのは事実だろうが、その直接の手勢には良蔵らこの村の人間は大きく関わっていたのだろう。
「まぁ良いでしょう。他には?」
「東の山を越えた先には臨済宗の寺も多いですが、この村が直接関わる事は無かったです」
「下呂の温泉寺などですな。あちらの方は臨済宗系が多いと聞きます」
沢彦が反応する。
臨済宗の僧侶なのだから当然だろう。
「浄土真宗系は?」
「曹洞宗の寺があった更に北に幾つかありますが……やはり戦うのですか?」
良蔵らはこの浄土真宗系の寺の指揮で戦ってきた。
離脱を決意した今でも、かつての仲間が死ぬのは忍びない。
「説得に応じてくれるなら話が早いのだけど、僧侶同席だと難しいかもしれないですね。戦いを否定はしません」
一向一揆も厄介だが、この時代の寺は最低でも砦と同じだ。
さらには山岳地方の寺なのだから天然要塞で守られている勢力と何ら変わりはない。
説得に応じてくれるなら助かる話だが、おそらく流血は避けられないと帰蝶は予想した。
隠しても仕方のない話なので、起きうる結果は濁さず伝えつつ、一つ付け加えた。
「もし、逃げてきた民がいたら受け入れてあげて。我らは可能な限り離脱を促し弱体化を狙います」
「は、はい! それは勿論! あ。東と言えば噂はご存じですか?」
「噂?」
「はい、伝聞ではございますが、武田家が飛騨に来ると聞いています」
《ッ!?》
その言葉に反応したのはやはり信長であった。
だが、反応はするが、それは誰にも悟られない微細な、信長の精神力で辛うじて封じ込めた反応であった。
《……ッ!!》
信長は、武田は本願寺の援助を受けて上杉家と戦うと勘違いしていた。
帰蝶は、信長が当然飛騨に侵攻すると予測していると思い斎藤家の方針を伝えていなかった。
《どうしました?》
《何でもない……!(ワシは何故、武田と上杉の川中島の戦いと決めつけてしまったのか!? たわけにも程がある! マズイ!)》
「そう。予測通りね」
(予測通り!?)
信長が猛烈に焦る一方、準備万端の帰蝶は冷静だ。
だが今更信長も『武田に対する心構えが出来ていない』とは口が裂けても言えない。
「左京(武田信虎)。準備は良いわね?」
「はッ! お任せを! では行って参ります!」
斎藤家の家臣として同行している武田信虎が駆け足で離脱した。
武田対策を一手に引き受けている様で、この事態を想定していたに相応しい迅速な動きであった。
「ほう? 斎藤殿、何やら策があるのですな?」
意識を総動員して口調をコントロールしないと声色が震えてしまいそうになる信長は、動揺を隠すべく夫婦ではなく、同盟者の立場として尋ねた。
「斎藤は織田殿と武田殿の仲を取り持ちましたので、直接の妨害はできません。だからこその左京です」
「ふむ。左京に従う手勢は僅か。戦うには無理がある以上、策を携えての行動ですな。お手並み拝見致しましょう……!!」
帰蝶は信長ほど武田信玄を恐れていない。
だが信長にはそれが過信なのか自信なのか判別できない。
信長は側近に耳打ちして万が一の時の為の手配をする。
(この失態は絶対に挽回せねばならぬ! この信長が無策で呑気に従軍など何たる不覚!)
信長は激烈に自戒するが、別に言うほど呑気な従軍はしていない。
再度戦う事になる武田同様に恐ろしい一向一揆に対する覚悟は済んでいる。
今回初めて本格的な一向一揆と対決する帰蝶を出来る限りサポートする準備はしてきた。
武田に驚きはしたが、その思慮と苦悩が頭から完全に抜け落ちた事も無い。
(……あっ!?)
だからこそ気が付いた。
今思えば強烈な違和感だった。
信長の頭脳がフル回転し、村民に鋭い視線を向ける。
「居ない!!」
「ど、どうしました? 居ない? 誰がです?」
帰蝶が驚いて信長に尋ねる。
一体誰が居なくて驚いているのか分からない。
「何たる不覚! 村長! 我らはここに案内される時に村の若者に案内された! あ奴は誰だ!?」
「あ奴……? あっ!? も、申し訳ございませぬ!!」
良蔵が慌てて平伏し謝罪する。
「ど、どういう事です!?」
「村長の態度が妙だと思ったのだ! 最初は我らが乗り込んできた事に対する緊張かと思っておったが、一向一揆の手の者が入り込んでいたのだ!! 監視としてな!! 正に師が言った脅迫よな!!」
「えっ!?」
村長は帰蝶と相対した時、自分の口を手で押さえ肩を触り、異常にソワソワと落ち着きがなかった。
帰蝶達の来訪も原因の一つであろうが、村内に監視がおり、その目を恐れていたのであった。
その監視の目こそ今は居ない、最初に出会った若者であった。
「あれは各村に派遣されている者にございます! 名目上は北陸よりの意思疎通が目的でしたが、今思えば確かに監視であり脅迫でもあったのでしょう……!! ま、誠に申し訳ありませぬ!」
良蔵は沢彦の話に呑まれ監視の目を途中から忘れてしまっていた。
もはや一揆に従うつもりは無いので正直に話す良蔵であるが、この申告忘れは致命的になり得る。
「成程ね。面を上げなさい。別に咎めたりはしません。信頼されない内から監視が居ると申告する訳もないですからね。むしろ今こうして正直に申告してくれた村長らは信頼に足ると判断します。これは油断して出し抜かれた我らが悪いのです」
「あ、ありがとうございます!」
とりあえずの村の危機は去ったが、同時に村の裏切りも外部に漏れた。
「どう致すか? これでこれから向かう先々で警戒され、あるいは武装して待ち構えている可能性が高くまりましょう。武田が飛騨に向かっておりますが、時との勝負でもあるのでしょう? 本願寺の援助を得た武田には一揆の説得など容易かろうと存じますぞ」
武田の存在を知った信長は即座に現状の危機を正確に把握した。
武田に対する本願寺の援助は、斎藤家と同じく一揆の鎮静化だと信長は見抜いた。
だが、お互いが協定を結んだばかりの家同士なので、武力で追い払う事も出来ない。
ならば、これからの飛騨は、武田と斎藤の説得勝負となる。
その結果、先に進路を潰された方が負けとなる。
「決して現状が良いとは申しませぬが、手は打ちました。これで互角の勝負となる……と良いのですがね」
「手を打った? ……さっきの左京の事ですかな?」
「そうです」
信虎は先に出て行った。
これが帰蝶が仕掛けた謀略の一手。
「左京が上手く事を運べるかは未知数ですが、我らの進軍が滞るのは想定済み。しかし、武田もこの一手でそう簡単には進めなくなると思います」
「いったいどんな策を授けたので?」
「武田が動くと予想してから、ずっと協議してきました。―――これで足は止められるかと」(169-2話参照)
「……成程。良い策だと思いますぞ。織田軍として出来る事はありますかな?」
「申し出は有難いですが、これは私の初陣でもあります。援軍を頂いているだけで既に策は発動しています」
別にこれは『引っ込んでいろ』と言っているのではない。
せっかく大名として独り立ちしたのに、結局織田におんぶにだっこでは周辺勢力に舐められるだけである。
その覚悟を帰蝶は信長に対し伝えたのだ。
「成程。初陣……初陣か。確かに。だがあの野盗討伐など比較にならん初陣よな」
信長は口調を夫婦のそれに戻した。
「フフフ。あの時は喜び勇んで現実を知りました。懐かしいですね。あれから16年にもなりますか? 本当に懐かしい」
たかが野盗、されど野盗。
訓練とは違う、どんなに相手の練度が低かろうとも正真正銘の本番だった野盗討伐。(12話参照)
あの時、帰蝶は初めて人の命を奪った。
悪党相手でさえ、しかも弓で遠距離から狙撃したのに、確かに感じる悍ましい手応えに震えた。
あれから十数年。
もう殺した人間の数は両手両足の指では足りない。
殺人に慣れはしたが、信長に言われた通り慣れる自分に驚きもした。
そんな成長を踏まえた2度目の初陣。
帰蝶は改めて覚悟を決め、信長もその覚悟を受け取った。
「覚悟は受け取ろう。じゃが、負けては意味がないのも理解はしておるな?」
「はい!」
「うむ。ならば、やり遂げて見せよ。実は先ほど、追加の援軍を呼んだのだが、それは村の防備に充てるとする。避難民も受け入れる事になるしな。これはワシの独断でありお主の腕を疑っての事ではない。少々こちらの都合故だ。気を悪くするなよ?」
武田の存在を失念して慌てて耳打ちしたが、帰蝶は全てが織り込み済みと考えているなら信長の勇み足で済む。
「もちろんです。勝たねば意味が無い以上、援軍を利用する事まで躊躇はしません《そうですね? 宗滴殿》」
《フッ。その通りよ。一人で成し遂げる気概を買わないではないが、まずは勝たねば何の価値も無くぷらいども育たぬわ》
「はい!」
宗滴の檄に帰蝶は奮い立つ。
昨年斎藤家を継いで政治は行ってきたが、斎藤家当主としての戦は初陣だ。
その最初の相手が、最悪な状態の一向一揆であるのは運が悪いが、泣き言など許されないのが本来一発勝負の人生だ。
それなのに2回目という絶大なアドバンテージで挑む以上、何が何でも勝つ気でいる。
「この初陣、成功したら褒美を下さいね!」
「うん? まぁ良かろう。褒美でやる気が出るなら安いものよ」
「はい!」
帰蝶は返事と共に次の村へ歩んでいった。
そんな帰蝶の背を信長は見つめた。
《……。あ奴、あの頃から良くも悪くも変わらんのう》
野盗討伐戦から16年の現在27歳の帰蝶。
人生経験は48+5+17年目の現在。
経験を積んだその風貌は十分に覇気を含んでいる。
しかも戦を経験した証が刻まれた迫力ある風貌なのに、信長の眼にはあの時の少女がそのままの姿でそこに居る様に見える。
《11歳の頃から成長はしましたよー? ちゃんと健康に成長期を終えました。こちらでモニターしてますから間違いありません》
ファラージャも別に帰蝶の体調管理をしている訳ではないが、こうして5次元から帰蝶の肉体を介して接続している以上、情報として取得できてしまっているだけだ。
ただ、信長の言いたいのはそういう事ではない。
「《そう言う事ではなく……まぁ良い。頼もしいのだから何の不都合もない》さぁ! この村には避難民が押し寄せる! あるいは一揆衆の報復もあるかもしれん! 守り通せるだけの態勢を整えるぞ!」
信長は指示を飛ばしつつ、帰蝶が向かった次の村の更に先にある北陸を思い描くのであった。
今回はここまでとなります。
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