170-1話 シン・浄土真宗 沢彦宗恩
170話は5~6部構成予定です。
170-1話からご覧下さい。
【美濃国北端、飛騨国南端/宿儺村 斎藤軍】
暦上では春の奥美濃地方。
まだまだ一部では雪深いが、それでも暖かくなったと感じられる気候となった中、何とか通れる場所を選び、宿儺村に現れる一団があった。
「もし。お尋ねします。この村の村長は何処に居られるか?」
「……え? あ? ど、どちら様で?」
編み笠に藁蓑、腰蓑に藁靴かんじきの防寒具フル装備で現れた一団の、着膨れはしても一番線の細い、しかも女の声に農民の青年は驚いた。
「隣国美濃の斎藤……待って!」
美濃斎藤家―――
その言葉を聞いた途端に農民は、手にした農具を身構え警戒する。
当然であろう。
自分達の信仰する浄土真宗の系列寺である願証寺を滅ぼした、悪鬼織田家と夫婦関係にある斎藤家の訪問なのだ。
警戒しない方がどうかしている。
ただ、大声を挙げて村人を集めなかったのは、女の声に殺意は当然、危害を加える気配が見事に無かったからだ。
また他にも理由があった。
女は当然、随伴する一団も機先を制するが如く、編み笠、藁蓑、腰蓑も素早く外していた。
武器を持っていない事をアピールする為である。
そこに現れたのは眼帯に、頬傷に謎の衣服の女。
斎藤帰蝶であった。
こんな特徴に該当する斎藤家の関係者は一人しか思いつかないが、一つだけ農民の認識と決定的に齟齬がある部分があった。
(美濃の独眼姫! ……なのか? 妖怪変化だと聞いていたけどこれは……!?)
迫力ある歴戦の証は裏を返せば醜女の証、と取りたい所だが、全くそうは感じさせない佇まいと輝く美貌。
何より、聞き及ぶ武威を全く感じさせない無害な小鳥の如くな気配。
視覚から得られる情報と、気配から感じられる情報の強烈な矛盾。
そのチグハグな情報に農民は一瞬混乱し、大声を出すタイミングを逃したのだった。
(上手く出来たわ吉乃ちゃん! 貴女ほどの達人には及ばないけど、ここまでは到達できたわ!)
吉乃は隠形術の達人だ。
しかも修行して身に着けたのではなく完全な天然モノ。
酷い時には視界に収まっているのに見失う天性の隠密。(外伝11話参照)
吉乃がその技術を活かして成果を挙げる事は少ないが、吉乃を知る者は、何とかその極意を習得しようと修行に励んで親衛隊の技術向上に貢献し、織田家に所属していた時の帰蝶も四苦八苦しながら修行した。
威圧する方は抜群に得意だが、逆方向はどうにも苦手な帰蝶が悪戦苦闘するのは別の話である。
「逃げずにいてくれてありがとう。もう察しているようだけど、私は斎藤家当主の斎藤帰蝶です」
その礼を尽くす姿には農民も随伴する家臣も驚くが、この姿勢も功を奏しているのだろう。
「村長の家に案内してくれませんか? 話し合いに参りました」
農民の青年は悩んだ。
斎藤家が来た理由など農民であっても十分に察する事ができる。
一向一揆について以外に考えられない。
「……こっちです」
逡巡の後、青年は帰蝶ら一団は村長の家へ案内された。
【宿儺村 村長宅】
「初めまして。美濃国斎藤家当主斎藤帰蝶です」
「え、あっ!? 宿儺村長の良蔵にございます……!!」
帰蝶の態度に驚き、村長の良蔵は慌てて平伏した。
「あ……その、斎藤様のご意思に反して加担しましたるは……!」
額をこすり付け謝罪する良蔵。
宿儺村は飛騨国内ではあるが、美濃国との隣接地域でもあり縁は浅くない。
だが飛騨の一向一揆の余波が押し寄せ、流れに逆らえず加担してしまっていた。
「良いのです。身を守る為には仕方なかった事。一切罪には問いません。無罪放免です。面を上げて下さい。これでは話し合いもままなりません」
「そ、そうですか……!」
帰蝶の優しい言葉に良蔵はおっかなびっくり面をあげるが、面を上げれば迫力ある帰蝶の顔と相対せざるをえず、やっぱり平伏させて欲しいと思ったのは内緒の話だ。
だが『話し合い』との言葉には一安心だ。
問答無用で殺される心配は無さそうである。
春先とは言えまだ雪が残る季節なのに、流れ落ちる汗が止まらぬ良蔵は、ひとまずの安心を得た。
「しかし、この先をどうするかです。現時点までは無罪放免ですが、この先も無罪放免になるかは保証しません」
「!!」
良蔵の思惑などお見通しと言わんばかりの、帰蝶の鋭い言葉に体が反応する。
同伴している武将が、思わず同情しそうになる程に。
「斎藤家は一揆解体に動きます。その過程において抵抗する者は全て排除し飛騨を平定します」
「そ、そうですか……!」
果たして良蔵は、自分の口を手で押さえているのに自覚があるのだろうか?
その前は左手で右肩を触っていたのを覚えているだろうか?
それ程までにソワソワと落ち着きがなかった。
「先ほど保障しないと言いましたが、もちろんそれは一揆に加担した場合。武器を置くなら手厚い保証を約束しますが、それよりもまずは、貴方達の正直な思いを私は聞きたい。餌に釣られて寝返るなら、そんなに悩んでいないのでしょう? その焦りは、少なくとも命を惜しんではいるハズです。何とか生き延びる道を模索しているのでしょう?」
「うっ……」
正解であった。
色んな柵で現在の状況になっているが、この時代の農民は虐げられるだけの存在ではない。
追い詰められれば牙を剥くし、落ち武者狩りなどは嬉々として参加し襲いかかる。
だが、今は何もかもが不本意でもあり、しかし、仏に対する畏怖から従わざるを得ない状況でもあり、自らの意思ではどうにもならない現状に苦悩していた。
「答えによって何かを咎めたりはしませんので正直に答えてください。一揆に与するは、信仰心なのか圧政に耐えかねてなのか? どちらか一方って事は無いでしょうけど、どちらかと言えばどうかしら?」
「……」
良蔵は悩む。
最初の切っ掛けは確かに三木の圧政だ。
米の生産や城の普請と休む間もなく無償で働かされた。
そこに浄土真宗系の寺から激が飛ばされ一揆に参加した。
苦しい現実が終わる事を信じて。
だが、飛騨の領主を倒しても何も変わっていない。
今は飛騨どころか隣国の身内争いに駆り出される始末。
むしろ越中での争いこそが飛騨一揆の目的だった様にも感じられる。
最早、一体何の為に戦わされているのか良蔵ら村民も良くわからない。
問われても決める事のできない問であった。
「質問を変えましょう。真に自分たちの為に戦っている?」
「……ッ!?」
良蔵は驚くが、質問に驚いたのではなく、断言できない自分に驚いていた。
「聞き方を変えましょう。戦って何を得られた? 心の平穏? 日々の食い扶持? 信仰心を満たす何か?」
「……」
心は乱れている。
日々の食い扶持は減りこそすれ決して増えてはいない。
全部軍備として納めているからだ。
信仰心は満たそうと思い込むが、欠けた茶碗から水が漏れ落ちるが如く信仰心は注いでも注いでも失うばかり。
「どうかしら?」
一個しかない帰蝶の瞳に吸い込まれそうな感覚に、良蔵は抗えず素直に、しかし絞り出す様に話す。
「ワシらは……教えに従った……。それなのに何もかも満たされない……。食べ物も平穏も……村人すら減るばかり……信仰心はわかりませぬ……。三木の殿様には何と申し開きをするべきなのか……!」
三木家を思う辺り、圧政であっても前の方がマシだったと良蔵は感じているのだろう。
たが、信仰と三木家を天秤に掛けられては、圧政の当時に三木家に天秤が傾く事は無かった。
「なるほどね。これはやはり現世と仏法を分けて説くべきなのでしょうね。沢彦殿」
「はい」
呼ばれたのは沢彦宗恩。
信長の教育係にして師でもある。
ちなみに歴史が変わった今でも、岐阜を提案したのは沢彦である。
歴史が変わればひょっとしたら提案される名称も変化するかどうか信長が疑問に思った末の確認の為に。
この歴史では方針により前々世以上に政治に関わらせる事は無いが、対宗教では信長が信頼を寄せる第一人者だ。
その沢彦がやはり『岐阜』を提案したのに驚いたのは別の話であるが、今回の斎藤家の一揆対策に織田家から借り受けた人材の一人である。
「拙僧は沢彦宗恩。臨済宗の僧ではありますが、国難の今、役割を果たそうと思います」
「り、臨済宗……あの……」
良蔵は一向一揆に加担する以上、浄土真宗の徒である。
ピンチだから宗旨替えする、と言うのも気が引けるし、関わっている所を見られるのも体裁が悪い。
「御安心なさい。別に臨済宗に宗旨替えせよとは申しませぬ。ただ偶々通りかかって斎藤軍と鉢合わせた僧です。縁あって斎藤様に同行させてもらっているだけです」
「そ、そうですか……」
良蔵も本気で沢彦が偶然居合わせたと信じるほど間抜けではない。
ただ、こちらの罪悪感を幾らかでも軽減させようとしてくれる気遣いだけは伝わった。
「粗方の事情は察しているつもりです。其方らが何に苦しんでいるかも。その苦しみをの根本は矛盾。これは断言しましょう」
「矛盾……」
「その矛盾について説明する前に、其方らは浄土教をご存じですかな?」
「浄土教? 浄土宗や浄土真宗ではなく?」
「はい。『宗』でも『真宗』でもなく『教』です。其方らが信仰する浄土真宗は、浄土宗からの派生、浄土宗は浄土教からの派生。つまり浄土教が浄土系列の始祖なのです」
「は、はぁ……」
《へぇー……》
《何じゃ、知らんかったのか?》
信長だ。
実は斎藤家の家臣団に同行していた。
援軍責任者として、宗教を制御する責任を負う者として、対宗教では可能な限り直接関わると決めており、今回、斎藤家の作戦に同行している。
《基本、寝込んでましたからね。頑張って学ぶ気力もありませんし、そもそも斎藤家は日蓮宗でしたし……》
《あぁ……それは仕方ないな》
信長達の密談を他所に沢彦は話を続ける。
「拙僧は臨済宗の僧でありますが、知識を深める為に、一度浄土宗の僧から浄土宗の説法を聞いた事があります。常々疑問に思っていました。一向一揆とは何なのかと」
「……え? 浄土宗を? 一向一揆は浄土真宗なのに?」
良蔵が疑問を口にする。
浄土真宗を知りたいのに浄土宗に聞いても意味が感じられない。
「それには理由があります。問題を探るのに、現時点だけ見ていても解決はしないですからね。過去を踏まえた現在が必ず有るはずです。今の世も戦国と言われていますが、その原因を探るのに戦国の今だけを探しても答えなどありません。何故なら、突然戦国になった訳では無いのです。少し前には応仁の乱がありその末の戦国の世なのですが、応仁の乱もいきなり乱になった訳ではありません。原因があります。この様に、歴史はブツ切りではなく一本の糸なのです」
「さ、流石は沢彦殿ですね。木を見て森を見ず、って奴ですね!」
「う、うむ……! 今の乱れた世の原因究明を、歴史を無視して答えが見つかるハズも無しよな!」
超科学力によって一本の糸から分かたれた歴史にいる信長や帰蝶には、どう反応して良いのか困ったが、確かに分かたれた歴史とはいえ、分かたれる前からの歴史の先にいるのは間違いない。
沢彦の言っている事は真理であった。
「……? 続けましょう。浄土真宗を知るには、まず派生元の浄土宗を知らねばなりません。ですが、浄土宗を説明するにも更に前段階があります。それこそが浄土教。少々長いですがお付き合いください」
沢彦は合掌して一礼した。
良蔵や、良蔵の家に集まっている村民、帰蝶達以外にも、5次元やその他にも了承を願う一礼であった。
「浄土系列の教えの最初は、およそ1000年前に日ノ本に伝わります。それを浄土教といいます。面白いのは浄土教とは独自の宗派と言うよりは『思想』と言う事です」
「宗派では無い? 浄土教の経典で仏の教えを説くのではないですか?」
帰蝶が聞いた。
農民に聞かせる話だが、興味を持ったらしく自身もちゃんと聞く体勢に入っていた。
「斎藤様、その通りです。宗派と言うより思想と表現するのが適切だと拙僧も思いました。何故ならその思想とは『天台宗、真言宗など宗派を否定せず、極楽に行く方法をキチンと学んで成仏しましょう』と言う事です。浄土教独自の教えは無いのです」
「な、何かワシらの知っている浄土へ行く方法とは随分違うのですね……」
浄土真宗の信徒である良蔵は、己の知る浄土に至る方法の違いに驚きを隠せない。
「しかも天台宗、真言宗を学べと言われてもワシらには到底無理なんじゃ……?」
良蔵には、そんな事は絶対に無理だと即座に悟った。
「そう。無理なのです。当時この教えと言いますか思想は貴族階級には流行したようです。それは当然でしょう。正しく学べと言われても、そんな事は余力のある貴族にしか関わる事はできません。日々を生きるのに精一杯の民には学ぶ余力など無いのです」
浄土教が伝わった約100年後には、悪名高い『墾田永年私財法』が成立する。
貴族にはさぞかし余力があっただろう。
「そして時が流れ現れたのが、浄土宗を開いた法然です。今より約400年前の僧侶ですね」
「ホーネン……」
知らぬ名なのだろう。
良蔵も帰蝶も間抜け面でその名を口にした。
「ちょうど彼の時代は『末法思想』も蔓延っていました。末法とは釈迦が入滅して2000年後と言われています。末法に至ると仏陀の教えが行き届かなくなり、悟りも何も得られず極楽へ行く手段が失われてしまうのです。それが法然の時代であり、末法を回避し極楽へ行く為、正しく学ぼうと浄土教は流行したのです」
「はぁ……」
その割には法然の時代から400年経過しても世は続いている。
明日死んでも何ら不思議ではない戦国時代の今の世も、十分末法なんじゃ無いかと良蔵は思ったが口には出さなかった。
「ただ、この浄土教に法然は欠点があると考えていたようです。彼は民衆の事を考えていたのでしょう。『これでは大多数の民を救う手段が無い』と。先も言った通り余力ある貴族しか天台宗、真言宗は学べませんからね。戒律を守る余裕があり、布施をする財力は貴族にしか無いのですから。まさに其方が無理だと言った通りなのです」
良蔵も帰蝶も周りを見渡した。
この貧相な家にしか住めない食うにも困る民が、戒律を守ったり布施をする余力など無いのは一目瞭然だった。
「そして彼は悩んだ末に開眼します。『阿弥陀如来の力は人如きで推し量れるものではない。救済は平等であるはずだ』と。話が遡りますが、法然よりも前の時代、延暦寺に所属する天台宗の源信と言う僧が浄土教も信仰していましたが『浄土に行くには日ごろから善行を積むのが大事だ』と仰ったそうです」
「善行ですか……。理屈はわかります」
悪い人間は天国に行けない。
そんなのは古今東西の常識である。
「その源信の言葉に法然は疑問を抱きます。『阿弥陀如来は念仏を行えば浄土に往生させる』と本願にて誓っているのですが、別に『善行を積め』とは一言も言っていないのです」
「はっ!?」
「そうなんですか!?」
《えぇぇッ!?》
良蔵も帰蝶もファラージャも驚いて声を上げる。
そんな言葉を宗教の化身たる阿弥陀如来が言ったとなると、話が変わってきてしまう。
天国に行くのに『善行が不要』など、宗教が絶対の世界でなくとも、色々根本から覆す問題発言であろう。
「そもそも善行は何を持って善行なのか定義が難しい。有難迷惑の可能性もあるのです。これは解りますね?」
「あっ……まぁ確かに……」
《耳の痛い話じゃのう》
思い当たる節があったのだろう。
良蔵も帰蝶もファラージャも、信長さえも即座に納得してしまった。




