169-3話 雪解け前の軍議 龍虎の企み
169話は3部構成です。
169-1話からご覧下さい。
遅れていた3部目を投稿いたします。
【越後国/春日山城 上杉家】
上杉家家臣の集まる広間。
今年計画されている北陸、飛騨に跨る一向一揆について評定が行われていた。
この一向一揆に対しては、斎藤、朝倉と連携して当たる事が事前に決められている。
故にこの評定は上杉家の都合だけで動く事は出来ない。
「この好機を利用しない手はありますまい!」
「越中は当然、能登、加賀、飛騨にも影響力を残すべく動くのが上策でしょう!」
「左様! 特に越中と能登の畠山は内乱と一向一揆で衰退著しい! 力の無い大名に存在価値なし!」
上杉家として一向一揆を殲滅するのに異論は無し。
宗教勢力を撃滅するのに戸惑い無し。
上杉家として見据えるのはその先なのだ。
(だいぶ改善された節も見えるが、それでも相変わらずこのザマか。こ奴等は『協力』と言う言葉を知らぬのか? 何の為の共同作戦だと思っておるのか? 我等の都合で動けぬと言ったであろうが!!)
政虎は呆れて物も言えなかった。
ただし、確かに以前よりは改善されてはいる。(97-1話参照)
一致団結して一向一揆に目線が向いているのだから。
真の目線は一揆を解体した後の土地なのだが。
(畠山にはとてもこの醜態は見せられんな……)
支配者不在の加賀と飛騨はともかく、越中と能登には畠山家という名門が勢力を張っており、史実のこの時期の畠山氏は、比較的安定して家臣を統率できていた。
しかし、この歴史では内乱も激化し、一向一揆も荒れ狂い、当代の畠山義綱とその父の畠山義続は上杉家に亡命した。
本来の歴史では近江六角家に1566年に亡命しているが、この歴史では六角は生かされているだけの存在なのは周知の事実なので、隣国の上杉を頼ったのだった。
関東管領上杉家を継いだ政虎の強さと義理堅さも周知の事実だ。
そこで上杉の力を借り、能登と越中での復権を企んだ。
『どうか……ッ!! どうか上杉殿のお力にて北陸に静謐をッ!』
畠山親子は床板に頭を叩きつけ懇願した。
表情は見えぬが、その声は涙に震えていた。
『……承ろう。一揆には我も思う所がある。畠山殿には今の現状は災難ではあったが、盤面はそれほど悪くない』
『えっ……? あの汚濁を極めた状況が悪くない!?』
領地から亡命した畠山親子では戦況を冷静に確認する余裕もなく、当然ながら勝機など見いだせないが、政虎は特に困った様子もなかった。
『外側から見れば悪くない。全くの偶然の産物ではあるが、実に好都合な事に絶好の布陣を敷けるやも知れぬ。今すぐ攻め込むは能わぬし、まずは交渉が必要となるが、まぁ十中八九上手く行くであろう。任されよ』
この後、政虎は越前を訪問し朝倉延景と会談を行い、共同での一揆対応の約束を取り付ける事になる。
そこに偶然、朝倉と共に協力を頼もうと思っていた美濃斎藤家の新当主帰蝶が越前を訪れており、より強固に一揆に対応するべく斎藤家も交えた一揆解体同盟が成立する事になる。(165-2話参照)
この様に、今回の3国による一向一揆殲滅を立案したのは上杉家であり、切欠が畠山家であった。
今はその具体的対応の為に家臣を集め評定―――の様なナニかの場で意見(?)が飛び交っている。
「グズグズしていては斎藤朝倉に我らの取り分を奪われますぞ!」
(……はぁ。今夜も深酒になりそうだ)
己の家臣に対し心底うんざりしている政虎は、一揆対応と同時に家臣教育も兼ての出陣計画であったが、聞こえてくる言葉は畠山の意向を無視し、領地の拡大と、斎藤、朝倉を出し抜く私欲に塗れた意見ばかりで、内心頭を抱えた。
(信長がどんな覚悟で一向一揆と戦い長島を滅したのか……。やはり我も覚悟を決めねばなるまいな)
「あー……。殿? お悩み中の所に申し訳ありませぬ」
数少ない政虎の苦悩の理解者である直江景綱が声を掛けた。
「何か?」
「美濃の斎藤殿より知らせが参りました」
「ほう! あの女傑殿からか! 酒の誘いであれば嬉しいがのう!」
政虎の渋面に曇った顔が一瞬にして輝き綻んだ。
「さ、酒の誘い……? そんな訳が無いでしょう。何を仰られているのですか全く……」
家臣の教育に悩む政虎であるが、家臣も家臣で主の性格に悩んでいるのは、政虎をして知る由は無かった。
「我もあ奴ならば不犯の禁を破るのも吝かではないぞ? 伊勢以来だ。あんな感情を持ったのは。……ふむ? 案外、勝負を申し出れば乗って来るやもしれぬな?」
上杉謙信は生涯女性と関係を持たなかったと伝わる。
だから子は全員養子であり、謙信直系の血筋は途絶えている。
その理由も信心深いのか、性的不能者なのか、あるいは女だからなのかは不明だ。
ただ、伝説として伊勢姫なる女性を愛したとも伝わり謙信の男女関係の一端が伺える。
「殿が子を作る事には全く異論はありませぬが、斎藤帰蝶だけは止めておきなされ。夜伽で寝首を掻かれるのがオチですぞ」
帰蝶は今現在において知名度は抜群だ。
女だてらに男と真っ向勝負ができる武名はカルト的人気を博している。
戦場を知らない人にとって帰蝶は単なるアイドル的存在だが、一度でも戦場を知ったならば、その異常性は妖怪じゃないと説明がつかないと心底思っている。
今は宗教が絶対の世界である。
妖怪怪異と戦う伝承は数多く残るので、戦闘行為を仕事とする武士にとって妖怪退治は望むところだ。
事実、日本には古来より妖怪退治を成し遂げた豪傑が何人か存在する。
酒呑童子や土蜘蛛を討伐した源頼光。
鵺を討伐した源頼政。
大百足を討伐した藤原秀郷。
中でも大蛇や妖魔朦雲を討伐した源為朝は、数人掛かりでなければ引く事も叶わぬ弓矢を扱い、その一撃で軍船を沈め、伊豆大島から鎌倉まで約50㎞もの超長距離射撃を行ったりと、その武勇は日本どころか世界最強の逸話を持つ。
少々話が逸れてしまったが、宗教が絶対の世界なのだから、腕に自信のある豪傑は名を挙げる手段として妖怪退治の機会を待ち望んですらいる。
当の上杉家家臣の小島弥太郎貞興も狂猿や凶犬を倒した伝説が残る。
また、妖怪は倒す以外にも、雪女など人間以外と結ばれる『異類婚姻譚』なる伝承も良く聞かれる話ではある。
この様に宗教が絶対の世界では妖怪は身近な存在なのである。
だが、養老山の大妖怪たる戦闘狂の帰蝶と戦うのはともかく、夜を共にするなど自殺と同じだ。
「分かっておる冗談よ」
(絶対に冗談じゃ無い……!)
まったく冗談に感じさせない表情で政虎がいうので、景綱ら家臣一同も不安は隠せない。
「それで書状よな? 見せよ」
「あ、はっ。こちらにございます」
景綱から書状を手渡された政虎は内容を一瞥する。
「ほう? ……はぁ……」
政虎は文を読み進める毎に眉間に皺を寄せ、落胆した表情になる。
「何と書かれていたので? 一向一揆の情勢でありますか?」
「いや、武田に本願寺から支援物資が運ばれたらしい」
「何ですとッ!?」
その言葉を聞いた家臣たちは一斉に驚きの声を上げた。
勿論、武田の動きに驚いたからだが、政虎だけは違った。
「残念ながら酒の誘いではなかったか……」
「それは一大事にございますぞ!?」
政虎は酒の誘いでなかった事を本気で残念がるが、家臣達にとってはそれ所ではない。
ボケたのか本気なのか分からない政虎の言を無視し、一大事だと騒ぎ立てた。
「あれだけ我らにやられて、まだ北信濃を諦めておらんとは!」
信長と帰蝶が勘違いし、しかし信虎ら斎藤家家臣が見破った飛騨侵攻を、上杉家家臣達は信長達同様に見誤った。
この歴史の川中島の戦いは、現在3回行われている。
決着こそ付かなかったが武田家は手酷い打撃を受けた。
信玄に至っては、3回とも政虎の本陣突撃を許してしまう上に、討たれるギリギリまで追い込まれていた。
従って上杉家の中では強さの格付けが済んでしまっている。
『武田家など恐るるに足らず!』
『奴らなど我らの気紛れで生かされているだけに過ぎぬ!』
『本願寺の力を得た程度で我等を倒そうなど笑止千万!』
そんな侮蔑的感情が、この歴史における武田家に対する上杉家の評価であった。
一大事には違いない。
予想外ではあった。
だがそれでも、もはやライバルにはなり得ない。
武田に対する姿勢は精々『雑魚にしては頑張ってるが所詮は雑魚。他国を侵略する前に自国を何とかしろ!』程度の認識だ。
「……」
政虎はそんな武田に対する油断と驕り、侮蔑と嘲笑の空気を敏感に察知した。
(こ奴ら、武田の強さをまるで理解しておらんな。なんと浅はかな奴らよ。あの貧相な甲斐を地盤にしてこの強さが如何に驚愕すべき事かまるで理解しておらん)
政虎だけは正確に武田の強さを把握していた。
現新潟県の越後は、中部地方なのか、北陸地方なのか東北地方なのか論争があるが、戦国時代の越後はこの3つの地方全体でも尾張に迫る経済を誇る肥沃な地である。
米の生産、貿易による収入など、京より東側の太平洋側が尾張ならば、日本海側の越後と並び称されてもおかしくない。
史実の上杉謙信は、その潤沢な経済力を背景に常勝軍団を作り上げた。
やはり金は力なのである。
織田信長、後継者の豊臣秀吉が強いのは金儲けが抜群に上手かったのも大きな要因である。
越後が尾張に比べて劣る点は豪雪地域である一点のみである。
そんな越後上杉家に、甲斐国の貧相で最悪な経済地域の分際で、互角に戦える武田家は異常な強さなのだ。
奪わねば干からびる武田家の事情を活かした強さとはいえ、常勝上杉家に対抗出来ていた武田家の強さは尋常ではない。
「ま、待たれよ! 北信濃と決めつけて良いのか?」
「左様! 別の標的があるやも知れぬのでは?」
「あるいは我等の一揆対応を嗅ぎ付け乱入する気ではないかね?」
声を上げたのは、柿崎景家、斎藤朝信、宇佐美定満であった。
(ほう?)
武田を馬鹿にする家臣が大勢を占める中、冷静沈着な者も少なからずいた。
「殿はどうお考えで? と言うより、書状には他にも書かれているのではないですか?」
直江景綱が訪ねた。
武田が本願寺の援助を受けているのは脅威に違いない。
それを受けて、斎藤家としての考えや懸念が何も書かれていないとは思えないし、書かれていないのであれば同盟者として頼りない。
「大和守(景綱)、よく気が付いたな。その通りだ。どうやら斎藤家には前武田当主が身を寄せているらしい。その前当主信虎は武田は飛騨を狙うと推測し、斎藤家もそれを前提として動くらしい。斎藤家は織田と武田の縁を仲介した立場なので、武田を直接妨害したり襲う事は能わぬ。朝倉家は地理的にも関われぬ。我等だけが武田を阻む事ができる存在となろう」
「なっ!? 斎藤は我等に武田を押し付ける腹積もりか!?」
「我らが苦労して抑え、成果だけ横取る気か!?」
帰蝶の情報から、厄介事を回されたと感じた家臣達は憤慨する。
(馬鹿かこ奴等は。その代わり斎藤と朝倉が一向一揆対処の負担が増すとは考えられぬのか?)
「いや、武田と斎藤は結ばれているのなら、それこそ斎藤による武田の援護なのでは!?」
「左様! 北信濃を手薄にさせる算段やもしれぬ!」
家臣の中には更に状況を深読みし、捻くれた結論を出す者の現れる始末だ。
だが、捻くれたなりに筋は通っていた。
(ほう? 多少は頭が回りよる。他人を疑う事に掛けてはこ奴らは随一よなぁ。まぁ一理ぐらいは有りそうか? あの女傑殿がそんな猪口才な手を打つとは思えぬが)
政虎としては実際に対面した帰蝶の印象から、そんな無粋な策をする人間には見えないが、確かに警戒しない理由にはならない。
ならないが、それでも政虎は断言した。
「その線は無いな。斎藤は我等の味方に変わりないし、武田は飛騨に来るつもりで我は動く」
「と、殿! お考え直しを!」
「(面倒くさい奴等よな)わかっておる。信濃守(村上義清)」
「はッ!」
呼ばれた義清は何かを察したのか神妙だ。
義清は過去武田家の侵略に信濃から叩き出され上杉に身を寄せていた。
「この書状が斎藤家による謀略とは考えにくいが、確かに北信濃に対して隙を晒してよい理由にはならぬ。汝は信濃衆を率いて武田に対応せよ。基本的には専守防衛で仕掛ける必要はない」
「はッ! お任せを!」
義清にとって信濃旧領奪還は悲願であるが、上杉に身を寄せるにまで落ちぶれたとて、かつては武田相手に互角に、あるいは勝利を掴んだ事もある名将だ。
今は時期ではないと己も判断した。
「と、殿! 今一度お考え直しを!」
だが、信濃が危険と判断する一部の家臣が食い下がる。
「直さぬ。我は一向一揆対応に動く。武田晴信、いや今は信玄か。奴の名声は地に落ちているのに、我らに挑む余裕などない」
「しかし!」
「それに、これは我が直々に要請し取り付けた約束なのだから反故には出来ぬ」
「あっ……!?」
今更ながら気が付いた家臣もいたが、仮にどれだけ武田が北信濃に行く可能性が高かろうと、一揆解体提案者の政虎が一揆を放置する選択肢は取れない。
己の都合で強弁していた家臣も、最初から選ぶ道などなかったと気が付いた。
「信濃全域奪還は一揆対応が終わった後だ。まだ何か存念があるか?」
家臣達も、帰蝶の書状からの疑念と、武田の愚かさは悩み所だが、一揆対応にて新たな領土獲得を目指し、南信濃への警戒も怠らない方針には異論も挟めない。
打てる手は打つのだから上杉政虎の戦略眼には不安はない。
家臣達は納得し、ようやく目標が定まった。
「無いならば準備せよ。雪解けが勝負所だ。遅れた将は居場所が無いと思え」
「はっ!」
「よし。では我はさっそく動く。弥太郎(小島貞興)は護衛として供をせい。下野守(斎藤朝信)は交渉の見極めを任せる故同じく付いて参れ」
「えっ!? は、ハッ!」
「し、承知しました!」
突如呼ばれた小島貞興、斎藤朝信は驚きつつも了承した。
「ど、どちらへ!?」
一方、景綱が驚いて声を出す。
「前線へ行く。昨年、越後越前を見て回って、やはり一揆中心地から外れている地域は一揆に対する不満も大きい。前線故に疲れ果てているといっても過言ではない。武田に先んずる為にもそこを突く。大和守に後は任せた。時期になったら軍を率いて我の元へ参れ!」
家出すら散歩気分で敢行する、戦国時代随一フットワークの軽い政虎。
さっさと立ち上がると広間を後にした。
貞興、朝信も慌てて付き従う。
「殿ー……! はぁ……」
景綱も一応制止するが、聞いて止まる主では無いのも理解しているので、迫真な声とは裏腹に膝も腰も浮かず胡坐は崩さなかった。
「……あー。皆の者、聞いての通りだ。各々領地へ帰り準備せよ。速度が肝要と心得て触れを待て。此度の評定はこれにて終いとする」
景綱の諦めた声が広間に広がった。
形はどうあれ、戦になれば一致団結するのが上杉家の強み。
景綱は痛む腰を叩くと、気合を入れなおし準備に取り掛かるのであった。
【甲斐国/躑躅ヶ崎館 武田家】
躑躅ヶ崎館の信玄私室にて、主の信玄、弟の信繁と信廉、嫡男の義信が密議を行っていた。
「刑部(武田信廉)、太郎(武田義信)に任を与える。軍の大半を率いて南信濃で布陣せよ。刑部はワシの影として振る舞え。太郎を付けるのはワシと嫡男の出陣にて武田家として北信濃侵攻の一大作戦である事を周囲に印象付ける為だ」
「欺く……。しかし誰から欺くので? いえ、具問でしたな。斎藤、上杉、朝倉の一向一揆対策の対策ですな」
「我らが飛騨を目指す事を悟られぬ様にですな」
太郎こと義信と、刑部こと信廉は信玄の言いたい事を即座に察した。
流石は信玄の後継者と影武者である。
信玄の思惑など同じレベルで察する事ができる。
確かに何の煙幕も無しに飛騨に呑気に向かっては、斎藤、朝倉、上杉の躍進を許してしまう。
武田はあくまで三国の一揆対策に割り込む不確定要素だ。
「うむ。飛騨に行く我らの行動を隠す。知り難きこと陰の如しである。だが……ワシの予測としては、既にその三国には我等の飛騨侵攻が漏れておると見ておる」
「何と!」
「理由を伺っても?」
「確たる理由も証拠も無い。だが何事も最悪を想定し、漏れている想定で動くべきであろう」
信玄をして断定はできない。
だが、武田当主として長年活動をしてきたが、どうにも不信感が拭えず、特に織田や斎藤の躍進に不自然なモノを感じていた。
『織田と斎藤はあり得ない速度で成長している。絶対に普通ではない』
信玄は証拠がなくとも、そう思う様になっていた。
これは武将にとって重要な要素だ。
強い武将は、直観や怪しい物に対する嗅覚を決して軽視しない。
宗教が絶対の世界だから勘であっても妄信してしまう―――と言う事ではなく、証拠は無くとも警戒するのが、いつの時代でも生き残る為のコツなのだ。
『武将の能力だけでは説明できない何かがある』
大正解であった。
宗教が絶対の世界なので、もし『実は人生やり直し中』とでも言われたら信じてしまうかもしれない程の異常性を、信玄は感じ取っていた。
「他にも理由はあるが……まぁそれは今はいい。だが、一揆に向かう三国が武田に対して対策していればワシは断定するじゃろうな」
他にも重要な懸念があったが、それはこの場では伏せた。
要らぬ混乱を招いては、飛騨に食い込む所の話ではなくなってしまうからだ。
「飛騨にはワシと典厩、他に秋山信友、馬場信春、飯富昌景(山県昌景)、山本晴幸を連れていく。後は本願寺から派遣された坊官衆だ。戦をしに行く訳では無いし、北信濃に対する圧力も必要じゃから、戦力は我ら直属の馬廻衆と、真田幸隆の南信濃兵の2000だけとする。追加兵が必要ならば吸収した一揆勢を使えば良いしな」
「北信濃の兵が仕掛けてきた場合は如何致しましょう?」
「上杉の動向次第じゃが、集結した南信濃兵に釣られた場合は、動かざること山の如し。防衛に徹せよ。……まず無いとは思うがな」
上杉が一揆に対処しながら武田を相手する可能性は低い。
信玄も理解している。
上杉が二面作戦をしないのは、万全を期しているのではなく、何時でも倒せる、と思っているからだと。
もう武田の活路は飛騨から北陸しかないのに、武田としても上杉相手に戦ができる体力もない。
口にするのは口惜しいから言わないが、信玄も現状を正確に理解していた。
次は勝てない、と。
「……はッ」
義信はその苦悩の思惑を理解したのか、間を開けて返事をした。
「よい機会じゃ。恐らく家臣共は出陣したついでの成果として北信濃侵略を提言するかもしれぬ。それらを捌いて不動を貫いて見せよ。お主が次代を継ぐ為の試練と心得よ」
「次代……! 必ずや役目を果たしまじょうぞ!」
義信は次期当主の当確と受け取った。
次男の竜宝(武田信親)は失明の後に出家、三男の信之は11歳で病死、四男の勝頼は諏訪家を継ぐ身分。
だから自動的に己が継ぐ立場、だとは義信も思っていない。
元々独立気質の高い武田家臣団である。
信虎が力で従え、信玄が実力で黙らせているだけで、無能とバレれば誰かを擁立するのが武田家臣団。
お気楽に継いだ瞬間、家臣たちは容易に牙を剥く。
生半可な覚悟では務まらないのが武田家当主の座なのだ。
「よし。出陣は雪解けを目安とするが、我らは雪解けを待たず動く。少しでも早く動かねば飛騨は取れぬからな。刑部はここ躑躅ヶ崎館でワシとして振る舞い、信玄が動いていないと見せかけよ!」
「はっ。お任せを」
「此度の作戦は農繁期であろうと動く。男手が領内から居なくなるが、その分、本願寺からの援助を活用し損失を補填する。だが、領内の米の生産を止めて良い理由にはならぬ。手分けして米の生育をさせよ。その為に太郎には後で秘術を授ける故にここに残れ」
「ひ、秘術……? わ、分かりました」
義信も噂に聞く信玄と信繁の秘術。
噂の中には、信玄と信繁が―――との悍ましいモノもあり、義信は硬直した。(119話参照)
「? そう構えずとも良い。別に難儀な事でもないが、これも武田継承の一部と思うが良い」
信玄が義信に授ける秘術とは、織田から流出した種籾の水選別。(117話参照)
信玄は義信を暫定とは言え後継者と認めているが故の秘術の継承である。
今までは信玄と信繁の2人だけで行ってきたが、今回、雪解けを待たず動く以上、誰かに秘術を継承させなければ、貧相な種籾を使った稲作を行わざるを得なくなる。
武田家としてそれは困る。
ならば良い機会なので、義信に秘術を継承してもらい継続しての生産増大をさせるのだ。
一方、義信は謎の秘術と、後継者との言葉から伸し掛かる重圧を感じ身震いした。
「はッ!」
緊張故に声が震えている義信。
信玄はその姿を頼もしく感じていた。
(太郎も知らぬ間に随分成長したものよ。後は経験さえ伴えば他国と十分渡り合えようて)
史実では謀反を企てた罪で処刑された嫡男義信。
歴史が変化した現在、武田は苦しい状態が続いているが、その代わりに義信は後継者として着実に育っている。
信玄がその変化を知る由も無いが、今回の成果が武田を復活させると信じて疑わない。
(飛騨を抜け越中を取る。上手く行けば能登や加賀にも手が届くだろう。他の勢力は説得や戦で一揆を解体せねばならぬが、我らには本願寺の後押しもある分、他よりも有利。疾きこと風の如く。他がもたついている最大の隙をつけば大逆転も可能じゃろう)
他の勢力が雪解けを待たず動こうとするならば、信玄も決して負けてはいない。
本来は雪解けを待って動くつもりであったが、最悪を想定している今、即座に動く事が肝要だと理解している。
そして、その速度に関しては本願寺を抱き込んでいる武田が絶対的に有利なのも間違いない。
その結果、飛騨を超えた先の、勢力として逆転できる要素である日本海側の土地が手に入るはずである。
(海にさえ繋がれば……!! 甲斐を健全な国に生まれ変わらせるには、これが最後の機会やも知れぬ!)
信玄は武田の暴政を理解していた。
自分でも酷いと思っているこんな暴政が通っているのは、領民にしてもそれしか甲斐が生き残る道は無いと知っているからだ。
だが、領民の好意にいつまでも甘えていては支配者失格だ。
信玄はこれが最後の機会だと覚悟を固める。
「よし。では各自準備を始めよ。ワシと典厩は今すぐにでる!」
信玄はか細い糸を手繰り寄せるが如くのこの状況を打開すべく、動き始めるのであった。




