168-1話 武田再始動 武田信繁
168話は3部構成予定です。
168-1話からご覧下さい。
3部構成予定ですが、今回の投稿は2部分となります。
コロナの後遺症と腰痛で話の完全完成が間に合いませんでした。
まずは完成分を投稿し、残りは今月下旬とさせて下さい。
武田信玄は名君である。
そんな名君信玄が残したと言われる有名な一説がある。
『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』
何よりも人を大切にした武田信玄らしい言葉だ。
人を思うその政治から生み出された信玄堤は、水害を防ぎ生産向上させ甲斐の国を豊かにした。
更には、戦国時代の最終勝者にして、徳川武家政権の始祖たる神君家康を手玉に取る強さも相まって、江戸時代には武田家の戦略や治世、偉業をまとめた『甲陽軍鑑』がベストセラーとなる。
故に信玄は戦国時代屈指の名君なのである―――
【近江国/岐阜城(史実名:安土城) 織田家】
「ではこれにて織田と武田の和睦と相成りました。奇妙丸殿と松姫殿の婚姻をもって遺恨は水に流し、今後は親類縁者として協力しあいましょう」
年明けの新春。
近江岐阜城には織田家、斎藤家、そして武田家の関係者が集まっていた。
昨年決まった織田奇妙丸(5歳)と武田松(1歳)の婚姻同盟。
この件についてである。
5年前の弘治3年(1557年)に行われた飛騨、深志の戦いは、一向一揆勃発や当時の長尾家造反により有耶無耶となり未決着のまま休戦となった。(13章参照)
つまり、まだ勝ち負けも停戦合意もされず、中断しているに過ぎない。
それを正式に終戦とし区切りをつける。
その為の婚姻同盟だ。
その使者として、武田家からは信玄実弟の武田信繁を総責任者に同盟締結訪問団が近江へとやってきた。
それが今、仲介役の帰蝶の言葉をもって正式に締結された。
とは言え、特に新たに条件が増えたり変更したりする事はなかった。
今回は婚約までで、姫が成長し一人前となった時点で輿入とし、それまでは武田家で奇妙丸の妻を預かる、という形になった。
「うむ。誠に目出度い。不幸な行き違いがあったが、こうして言葉を交えれば通じ合えるのだ。無用な血を流さぬ為にもお互いを理解しなければな」
信長が満面の笑みで今回の同盟締結を喜んだ。
「はっ。主の徳栄軒も織田殿との争いに大変心を痛めておられました。今後はお互いが協力して外敵を打ち払いましょう」
武田信繁が当主の名代として返答をする。
《そう言えば、こ奴は本来の歴史では昨年4回目の川中島で戦死しているハズだったな》
《そうなんですか? 武田信繁の名は知っていますが、流石に没年までは把握してません》
《この歴史では川中島の戦いは3回しか起こっていないからですかねー?》(1回目:85話、2回目:97-2話、3回目:124話参照)
「《これも歴史が変わった影響か。それにしても……》徳栄軒……殿か」
笑顔の信長の口元が引き攣る。
相対する武田信繁の迫力もさる事ながら、徳栄軒の衝撃は信繁の迫力を軽く上回る。
徳栄軒とは『徳栄軒信玄』の事。
即ち、武田晴信が出家し武田信玄になった事を意味する。
史実では永禄2年(1559年)に出家したとされるが、この歴史では昨年末に出家した。
史実よりも3年遅い出家が歴史にどう変化を及ぼすのか信長には分からない。
ただ、信長にとって『信玄』はアレルギーどころかトラウマ級の忌まわしい名に違いない。
「徳栄軒殿は信仰心篤いのだな」
前々世ではこんな事を尋ねた事は無い。
ただ、別に信仰心を確認したかった訳でも無い。
何か話題を出さないと、『信玄』の名の重みに黙り込んでしまいそうなので、無理やり捻り出した話題に過ぎない。
「兄はこの乱世に心を痛めております。武家の争い、仏法の争い、武家と仏法の争い。形態は様々なれど、信仰が救済になると判断されたのでしょう」
「そうか。そうだな。民にとっては争いなど百害あって一利無し。徳栄軒殿が仏法をもって救済されるのであれば甲斐の民は安心するだろう」
信長が信繁の言葉に同意するが、もちろん内心では全くそんな事は思っていない。
宗教の限界を知る信長であるが、同時に破壊力も知る信長である。
武田晴信が信玄になる事によって分かっているのは『武田家がより一層強くなる』事に尽きる。
「そうなる事を某も願っております」
信繁が、そんな信長の心情を汲み取ったのか微妙な顔で答える。
(これが信長か。一見ただの優男だが、内に秘めたる覇気は兄に勝るとも劣らぬ傑物よ。あの毒蛇の夫と言うのも納得だ!)
信長が『信玄』の出現に苦慮する様に、信繁は信繁で戸惑っていた。
己と互角に戦った帰蝶の夫。
妻が妻なら夫も夫だと認めざるを得ない覇気。
信繁は帰蝶を見た。
己の眼を潰した相手が眼前にいるのに、ニコニコ笑顔で何の害意も感じさせていない。
(善徳寺でも感じたが、ワシと戦った以降も激戦を潜り抜けたのであろうな)
信繁は無意識に5年前に帰蝶に付けられた肩の傷を触る。
幸い何の後遺症も残っていない。
信繁の武芸は武田最強とは言わないが、上から数えた方が早い実力者である。
そんな己に槍を付けたのが女である事実は武田家でも衝撃が走った程だ。
武田家内で信繁を侮る者など一人もいない。
むしろ信繁こそが油断や驕りから一番縁遠い人間であると誰もが知っている。
そんな信繁を負傷させたのが女なのだから、帰蝶は武田家内で化け物同然に見られている。
そんな信繁以外の近江訪問団は、初めて実物の帰蝶を見る。
見た感じでは普通の佇まいだ。
信繁に潰された右眼は眼帯で覆われ、左頬には刀傷。
女としては致命的に醜女のハズだが、全くそれを感じさせない所か、相応しいとさえ錯覚してしまう佇まい。
(強い! そして美しい!)
これが訪問団の共通認識であった。
(織田に斎藤。強敵だ。片方だけでも厄介なのに、強固に結ばれる所かあろう事か夫婦大名! 付け入る隙が無い!)
織田と斎藤の強さを認める信繁も、武将の質は負けているとは思っていない。
どんなに甘く見積もっても互角か、部分的には勝っているとさえ思う。
他国より貧しい甲斐で、頭脳を駆使して勝ち残ってきたのだ。
弱いハズがない。
(兄上! 本当に攻略する手立てがあるのですか!?)
一方で、負けるとは思わないが、勝てるとも思えない。
何故ならば、人材以外が勝てる気がしない。
それが信繁の正直な感想であった。
信繁ら訪問団は、今が寒気の時期だけに、甲斐から同盟国今川家の駿河に渡り、そこから船で熱田に入り、陸路で近江に入った。
歩み足を進め、景色が変化するたびに驚かざるを得ない光景に出くわす。
人の質は肩を並べられると自負しても、領地の発展具合には明確に差を感じざるを得ない。
(甲斐が貧しいのは理解しておるが、こうして他国を訪れるとその差が嫌になる程如実に感じられるな。道一つとっても、ここまで違うとは!)
織田家の支配する領地は関所が無い。
信長は織田家を継いだ以降、寺社や土地の豪族が設置した私設関所を禁じ、従わなかった関所は徹底的に破壊した。(23話、外伝12話参照)
さらに道路の拡張工事を行った。(92-1話参照)
明智光秀の自信作たる主要街道は、最低でも牛車や馬車が4台横に並べるぐらいに拡張がされ、極め付きには石畳の道まで存在する。
これは信長が前々世で宣教師から聞いた世界の道を、何とか創意工夫を繰り返し形にした。
お陰で物流は活発となり様々な恩恵を織田家に連なる地域は享受していた。
だが、これらの工夫や処置は、本来土地を支配する支配者にとって不都合しかない。
関所の撤廃は収入の途絶を意味するし、不審人物も悠々と侵入できてしまう。
街道の利便性は、いざ戦の折には守備に向かず、敵の進軍スピードにも繋がってしまう。
信長の方策はデメリットしか無いノーガード方策なのだが、実際の織田家は破竹の勢いで成長し、日本でも有数の勢力となっている。
信繁には何もかも間違っている様にしか見えないのに、結果は全くの逆だ。
通過してきた織田領内で感じる、圧倒的な甲斐との格差。
見栄を張る気も起きない程に、どう頑張っても覆せない差を感じざるを得ない。
(兄上。『彼を知り己を知れば百戦殆うからず』とは正にこの事ですな! ……知ってもだいぶ危うい気もしますが)
【昨年末 甲斐国/躑躅ヶ崎館 武田家】
『典厩(信繁)。お主に近江まで行ってもらいたい』
『近江? 織田ですか。ならば使者、と言う事ですな?』
『うむ。婚姻同盟承諾の使者としてな。その際、秋山、高坂、内藤、馬場、飯富、真田、山本を連れていけ』
信玄が挙げた名は、史実における第二期武田四天王の高坂昌信、内藤昌豊、馬場信春、飯富昌景(山県昌景)に、戦略眼に優れる真田幸隆、山本晴幸。
更には戦は当然、交渉事にも優れる秋山信友と、信玄が絶大な信頼を寄せる実弟武田信繁。
準武田オールスターと言っても過言ではない陣容である。
『……。成程。祝いの使者ですからな。こちらも誠意をもってして陣容は豪華にしなければなりませぬな』
『そうだ。本当ならワシが行きたい所ではあるがな』
信玄は本当に残念そうに言った。
『甲斐を空けては万が一に備えられんからな。上杉の馬鹿タレが何をしでかすか分からん。そう言う意味でも織田と正式に婚姻関係を結べるのは有難い。この発案があの斎藤帰蝶である、と言うのは気に食わんが、活かさぬ手はない。それに将来の敵を見ておくのも悪くない』
正直なところ、武田家は手詰まり感が漂い始めていた。
本来の歴史では今川義元が桶狭間に散り、数年後には三国同盟が瓦解し駿河侵攻となる。
だが、今の歴史では東に北条家、南に今川家が頼もしい同盟者として相変わらず君臨し、西の斎藤、織田家は簡単な相手ではないが、幸か不幸か一向一揆にて道を塞がれ直接対決は出来なくなった。
残るは北の上杉家だが、こちらは戦意と殺意マシマシで常に武田を伺っている厄介極まりない勢力だ。
故に、武田家は東西南北どこにも動けなくなっていたのだ。
ならばせめて、敵対勢力は一つに絞りたい。
多方面を同時に相手にするのは愚策なのだが、そこに渡りに船の婚姻同盟提案だ。
ただし、武田としては弱みを見せたくないので、絶対に申し込むことは出来ないが、まさかの斎藤帰蝶が申し込んでくれた。(164-2話参照)
気に食わないのは信玄のプライド問題に過ぎない。
だが棚から牡丹餅のこの好機をプライドで捨てる程に愚かな信玄ではない。
最大限に好機を利用すべく、派遣家臣は厳選した。
『それに、仮に斎藤家と戦う場合、絶対に負けられなくなった。これはかなり厄介だぞ』
『負けられない? それは戦なのですから負けられないのは当然ですが?』
『違う。一時的にも局地的にも負けが許されんのだ。忘れたか? 斎藤家は女大名なのだぞ?』
『……あっ!』
この時代、女の立場は極端に低い。
そんな女に負けたとあれば、ただ負けるよりも致命的だ。
風評被害の嵐が吹き荒れるだろう。
女なのだから負けて当然の斎藤家に対し、男なのだから勝って当然の武田家。
もちろん、帰蝶を一目でも見た事があるなら冗談でもそんな考えは出てこないが世間は違う。
弱い泥船勢力に同乗する人間などいない。
故に一戦の敗北が勢力の死に繋がりかねないと信玄は考えたのだ。
『だからこそだ。彼を知り己を知れば百戦殆うからず、とも言う。敵を知らずしては飛騨と深志の戦いで決着を付けられなかったのも当然よ』
『その為の精鋭ですな』
『誰もがワシの眼となり耳となりうる人材だ。何が我らと違うのか? 何が優れどこに魅力があるのか?そして、将来の戦場を観察してくるのだ』
『はッ!』
『よし。では刑部よ。あとは任せた』
『はッ!』
刑部と呼ばれた武田信廉が返事をした。
『本当にやるのですか……』
『ま、大丈夫じゃろ。今まで失敗した事があるか?』
『無いですが……。お気をつけて』
その最初の失敗が今回になる可能性を捨てきれない以上、信繁の立場としては一応止めるが、止められないのも理解しているので、言うだけに留めるのであった。
【現在 近江国/武田家一行宿舎】
織田家との同盟締結の任を終えた一団は、織田家から用意された宿舎に入る。
甲斐では到底望めぬ豪華な食事が提供され、一行は食事を採りながら話し合った。
「正直に申します」
飯富昌景が口を開いた。
「最初、同盟の話を聞いた時は『何を馬鹿な』と思いました」
「ふむ。今は?」
信繁の問いに昌景が苦虫を噛み潰したかの様な表情で答えた、と言うより、その表情だけで答えを言ったも同然である。
「正解も正解、大正解の判断でありましょう」
8人は同時に頷いた。
「これは勝てませぬ。地力が違いすぎます。将の質が劣るとは思いませぬが、豊かさは雲泥の差。仮に局地的に勝てたとしても、織田は何度でも奪い返しに来るでしょう。一度二度撃退できた所で、奴らは勝つまで押し寄せる戦法がとれます」
武将の質は決して劣らない。
ならば勝負の行方は武将以外で決着する。
そうなると、武将以外の何もかもが織田には届かない武田。
これは対武田に限った話ではないが信長の基本戦略の賜物でもある。
劣る兵数で戦うのは愚の骨頂と信長は考える。
史実の桶狭間での大バクチは懲り懲りである。
だから準備の段階で勝つのが信長流だ。
頭脳を使った戦術を信長も否定はしないが、まずは数である。
故に、領地の発展が信長の中では至上である。
例え局地的に負けても、勝つまで戦えるのが史実の織田家の強さであった。
「そうだな。この食事一つとっても差は歴然。ひょっとしたら我らは織田の農民より貧相な食事をしているかもしれぬからな。ハハハ!」
信繁は冗談を言った。
だが誰も笑わない。
流石に農民より食事が貧相だとは真に受けないが、一瞬でもその可能性を考えてしまったからだ。
「(敵を知るのが無駄とは言わぬが、圧倒的格差は猛毒じゃな)どうした? では、このまま織田家の親戚として共存を図るか?」
「それは……無理でありましょう。御屋形様は『信玄』となられた。あの織田と組むならば、最終的に統治の方向性が食い違うは必定」
「方向性……。対宗教か。長島を滅ぼした織田と、兄上が分かり合うなどありえぬ事よな」
織田も武田も、対宗教には同じ様に苦慮している。
信長は当然ながら、宗教を力とする信玄でさえ宗教問答は禁じ宗教のコントロールを図っている。
だがその方法は全く逆だ。
信長が武力で是正断行しているのに対し、晴信は信玄となり宗教の内側に飛び込んで懐柔を図っている。
ならば、武田と織田がどれだけ仲良くなったとしても、最終的に決別する未来は確定しているのだ。
「ですが、織田の方策がこのまま受け入れられる事などありますまい」
「ほう? その心は?」
「必ずや仏罰が下りましょうぞ」
「確かに。それは間違いない。今は神仏も機を伺っておられるのだろう」
宗教が絶対の世界である。
仏罰は化学反応と同様の実在する現象として認識されているのが常識の時代だ。
ならば信長の破滅は確定事項である。
「問題はそれが何時になるか分からん、と言う事か。神仏も慈悲深いのか気紛れなのか? だがそれを待っては我らの寿命が尽きるのが先かもしれぬ」
仏罰の難点はいつ起きるか分からない事だ。
大抵は大災害や暗殺などが仏罰とされるが、それらを予測コントロールするのは困難である。
「そうですな。相手が滅ぶのを待っては武士の名折れ。少なくとも止めを刺すのが我らでなければ、この美味そうな織田の領地を食いつくす事はできませぬな」
織田の領地は圧倒的だ。
だが圧倒的に美味そうだ。
織田の発展に圧倒されはしても、涎を隠す事は出来ない。
武田の力は飢えと欲望だ。
仏罰を待ってる間、お預け状態になるのに耐えられる訳もない。
思わぬ豪華料理の如き栄えた織田領に面食らってしまったが、時が経てば欲望の鎌首がもたげてくる。
奪ってこその武田家であり戦国時代なのだ。
「頼もしい言葉が聞けて安心だ。流石は武田の武将よな。節操がない事にかけては天下一よ」
「誉め言葉として受け取るのが武田家臣団の矜持でしょうな! ハハハ!」
先程の信繁の冗談にはピクリとも反応しなかった家臣団が、今度は満場一致で笑う。
「よし。後は帰還に備え見える物は全て頭に刻み込み将来に備えるぞ!」
「はッ!」
(後は兄上次第か……)
甲斐は貧しいと身をもって理解している。
他国が富んでいるのも知っている。
だが、ここまで貧富の差が激しいとは思わなかった。
その差を差のまま勢力図を覆すべく、武田信玄は動いていた。




