164-1話 若狭湾決戦後始末の顛末の結果の結末の行方 足元の美濃と尾張
164話は2部構成です。
164-1話からご覧下さい。
【美濃国/稲葉山城 当主私室】
《疲れました!》
《ご立派でしたな。美濃守殿》
帰蝶は部屋に入るなり、足を投げ出して座り込んだ。
一方、信長は丁寧に胡坐で座る。
《……その言葉遣い、テレパシーでもやるんですか?》
《なッ!? ワシだってムズ痒いのを我慢しておるのに、お主がソレを言うか!? 誰の為にこんな苦労をしとると思っとるんじゃ!?》
帰蝶の余りに配慮を欠いた言葉に信長は憤慨するが、すぐに思い直した。
《はぁ……。お主、肝が太いにも程が……いや、変わったと言うべきなのか?》
先の所信表明は信長の目から見ても立派だったと思っている。
今後、事情を知らねば女を理由に侮る者はいても、少なくとも、あの場を見て尚、侮る者がいるとは考えにくいと感じた。
《ある意味大名に相応しい資質なのかもな。……で、言葉遣いだったな。ワシは普段から注意しておかんとボロが出そうな気がしてな。どうしても嫌なら辞めるが?》
《何か完全に離縁した関係に思えて嫌です》
《……。分かった。テレパシーは息抜きと考えて口調は直そう》
信長は己が今後を考え態度を改めているのに、当の帰蝶の切り替えの早さに、逞しいのか、ズボラなのか、それとも男と女の差なのか分からなくなってしまった。
《それでだお濃よ。斎藤家の方針に対して異を唱える事をしないのは先に述べた通り。じゃが、あの場では敢えて言わんかった事がある》
《なんでしょう?》
《異を唱えないとは裏を返せば、お主の暴走失策を予め止める事も出来んのと同義。ワシの配下であったなら尻ぬぐいもしてやれるが、こうなってはワシがどれだけ踏み込めたとしても要望止まりとなる。様々な経験を積んだお主が今更しょうもない政策を行うとは思えんが、あまりに不甲斐なければ、最悪、織田家が敵対する事も視野に入れよ》
日本人は伝統的に契約が下手である。
失敗に対する補償などを明記するのは、失敗を望んでいると同義。
言霊の力が働いてしまうからだ。
従って、本来なら帰蝶の斎藤家当主就任に際し、改めて契約を見直したならば、デメリットまでもキッチリ説明しなければならない。
だが、如何に信長でも出来る説明と出来ない説明がある。
出来る説明は『負担に対する保障』。(163話参照)
出来ない説明は『失敗に対する補償』。
斎藤家は道三、義龍と戦国時代でも稀な現実主義、かつ、信長の方針もよく理解している勢力であるが、それでも宗教が絶対の世界である。
霊的にも常識的にも目出度い席で水を差す様な話は本来不可能だ。
何なら負担に対する完全保証も相当に踏み込んだ内容だ。
だからそれ以上の内容は、公の場で話したり書状に残すのは不可能だ。
しかし、信長と帰蝶だけは宗教から完全離脱した存在だからこそ、人目が無いなら話す事ができる。
《夫婦とは言え、大名同士だから、ですね?》
《そ、そうじゃ》
話す事が出来る間柄とは言え、信長のかなり厳しい言葉に対し、臆する事無く理解を示す帰蝶。
覚悟は固まっているのだろう。
言った信長の方が、帰蝶の覚悟に驚く。
《隣国が組むに値せぬとなれば、切り崩しにかかるのは当然の事。幸いにしてワシは組んだ相手を一方的に切った事は無いが、この先も切らないと約束はせぬ》
選べない訳ではない。
今まで選ばなかっただけである。
《それに、本当に暴走失策かは結果が出てからでないと分からぬ。良かれと思って注意を促した結果、思わぬ結果を摘んでしまう事にもなりかねん。じゃからワシに出来る事と言えば、例えば今回の義龍の病に付随する問題を、独自に先回りして対策を打つ程度だ。だが、そんな芸当を毎回的確に補助できる訳もない》
信長の方針は一貫している。
帰蝶だからどうこうする訳ではない。
義龍の時代でも、方針に異を唱えたりはしていない。
予想される問題に対し手を打つだけで、根本的な対策はしないし出来ない。
《無論、大規模な戦略や政策で先に相談があれば問題点を洗い出す事もできる。じゃが小規模な事で常に先回りする事は出来ん。四六時中共にある仲でも無くなったし物理的に不可能じゃ。そして、完璧な戦略、政策は存在せん。必ず穴はあるし、誰もが納得する事もありえん》
ここまで話して信長は一旦間を置いた。
《それでも、それでも敢えて言うなら、視野を広く持て。自分の中から無理に答えを探そうとするな。自分の持ちえぬ答えは自分の外にある。じゃがこれは、自分の経験を信じるな、と言う事では無い。何一つ疎かにして良い事は無いと言う事じゃ》
《はい!》
《後は……。いや、これは止めておこう》
《そう言えば、稲葉山城登城の時にも何か言い淀んでいましたね? 何です? 気になるじゃないですか》
《本当にどうでも良い事じゃ。気にするな》
信長は帰蝶の緊張と不安を和らげる為に『ダメならTake4に移れば良いだけだ』と言い掛け、しかし思い留まった。
理論上、ダメだったら成功するまでやり直す事ができる信長と帰蝶であるが、そこに頼った瞬間、2度と成功しない気がしたのだ。
Take4に行くにしても、人事を尽くした上の話である。
気軽にホイホイ転生しては、失敗を繰り返すだけな気がする信長であった。(0話、外伝25、26、33、47話参照(?))
それに、安易にこんな言葉を吐いては、不退転の決意を示した帰蝶にも失礼である。
《それよりも、今後の方針を共有しておこう。とは言っても織田家は内政を充実させつつ、裏では六角を監視し諸国の情勢を探る事に時を費やす事になる。今回尼子が接触してきたからな。それに対し三好がどうしているのかもイマイチ判別がつかん》
現在の歴史は、信長の知る歴史から相当に逸脱している。
何せ、陶晴賢が尼子の武将となって、毛利を従え来襲してきたのだ。
誰が生きて死んでいるのか?
どこの勢力が発展し衰退するのか?
それらの情報に全く手つかずでも無いが、今一度の確認は絶対必要であろう。
《斎藤家も基本同じですね。内政は当然ですけど、新たに手に入れた朽木を京方面からの防衛拠点にしつつ、若狭の動揺を抑え……。情勢の見極めは私自身でやろうと思います。遠距離は間者に頼りますが、少なくとも同盟を結んでいる三好、朝倉、浅井、今川には自ら足を運んでおこうかと。他には大名に昇格している織田家臣にも挨拶が必要かと》
《良い悪いは言わぬ。が、間違っているとも思わぬ。お主が必要だと思う事を実行せよ。それと、さっそくだが、一つだけ要請しておこうか。夫婦として、所在地だけは知らせてほしい。もちろんワシも拠点を移動する場合は逐一報告する。今までも連携は大事に扱ってきたが、これからは更に強化したい》
《わかりました。夫婦としても当然ですしね。……お互いの所在を把握する。これは夫婦大名の利点かも知れませんね》
《利点……要請しておいて何だが、隠し事が出来ない尻に敷かれた亭主みたいな気がしてきたな……》
《なるほど! フフフ……! 所で、一つお願いがあります》
帰蝶が邪悪な顔で笑ったが、信長は見ない事にした。
《な、何じゃ?》
《遠藤直経殿を正式に私の家臣として譲ってください》
《良かろう。浅井領と隣接する斎藤家じゃ。使い道もあるだろう》
現在、遠藤直経は織田家内で特に役割を持っていない。
所領も無ければ監督する土地もない。
ただし、全く役割が無い訳でもなく、唯一にして最大の役目は、帰蝶の訓練相手としての超重要任務があるだけだ。
《あと、河尻秀隆殿を斎藤家にも仕える役割にして頂きたいです》
河尻秀隆は、帰蝶の転生初期から付けられる事が多く、桶狭間でも、武田との戦も、近江六角に対する調略でも任を共にした。
帰蝶の親類縁者と信長以外で、一番帰蝶を理解しつつ、ソツなく何でもこなせる燻し銀の人材として極めて有用である。
《河尻か。奴には北伊勢を金森と共同で任していたが、まぁそれも良かろう。奴にはワシから話しておく。他に何かあるか? 無いのであればどこから巡る?》
《それは―――》
【美濃国/斎藤家 千寿菊私室】
「家督継承の場にて挨拶しましたが、改めてよろしくお願いします。義姉上」
「よろしくお願いします。……えっと、これから何と及びするのが適切でしょうか? 帰蝶様、殿……いえ……織田様が仰った様に美濃守様なのでしょうね」
「フフフ。どんな呼称も当分慣れないのでしょうね。前代未聞ですが私にとって貴女は義姉には変わりませんしね。でもまぁ、何でも良いと言っても困るでしょうし決めますか。公の場では『美濃守』、そうでないのなら『帰蝶』としましょう」
帰蝶がまず最初に挨拶に向かっ、斎藤義龍に先立たれ寡婦となった浅井千寿菊(史実名:京極マリア)であった。
千寿菊の立場は極めて微妙である。
義龍と千寿菊の婚姻は、そもそもが帰蝶発案ではあったが、その裏には足利義輝の策謀も蠢いていた。(108-2~3話参照)
全ては義輝が東側の動向を探る為であったが、当の義輝は紆余曲折あって、今は足立藤次郎として信長の配下となっており、千寿菊の役割は自動消滅してしまった。
故に、本当に宙ぶらりんの状態であり、生家に情報を送ってはいるものの、勢力として落ち目の浅井家ではどこにも活路を見いだせない所か、寧ろ斎藤家の人質となっている分、残された浅井には足枷にしかなっていない。
そんな空気と思惑を察してか、千寿菊は話し始めた。
「では、帰蝶様には伝えねばなりませぬ事が一つございます。戦国の世の女の役割として、実家への報告があるのは、美濃守様にとってもご存じのはず」
「そうね。織田殿には言えないけど、私も公然の秘密として情報を流したわ」
帰蝶も斎藤家の姫として役割は果たしていた。
ただ、その役割は、今の人生が人生なだけに半ば信長公認でもあった。
「難しい立場だったのは、同じ女として理解しているつもりです」
世の中には『バレなきゃ犯罪じゃない』と言う名言(?)もあるが、戦国の女はまさにバレない様に情報漏洩をしなければならなかった。
逆に男はそれを知った上で妻の漏洩をコントロールし、嘘の情報をワザと流出させ混乱を促すぐらいは当然する。
男女の関係はあれど、そこは緊張感とは切っても切れぬ間柄となるのが戦国夫婦の普通だ。
その上で千寿菊であるが、足利義輝の策は消滅した為、実家浅井家に情報を送るのが任務となる。
ただ、現状の浅井家は朝倉家の庇護が無ければ立ち行かぬ脆弱な国。
情報を送る事に価値が無い訳では無いが、千寿菊のリスクと釣り合っていない。
千寿菊は義龍の妻だったからこそ斎藤家に居場所があったが、義龍亡き後、今は義龍の娘の母と言う頼りない足場しか存在せず、しかも、同盟中とは言え決して良好な関係とは言えない浅井家の姫である。
義龍が死んだのを契機に闇に葬られても何らおかしくはない。
「でも、それを気に病んでいるのであれば心配は要らないですよ? 亡き兄上からも遺言として、義姉上の面倒を私に託して逝きました。生まれた姫は間違いなく兄上の血筋。その母である義姉上の協力無くして育てる事は叶いませぬ」
「あ、ありがとうございます……」
「とは言え、女盛りの義姉上を、このまま寡婦にしておくのも違うと思います」
この時代、女性の性は、現代に比べかなり奔放であったという。
夫が気に入らなければ勝手に離縁する事も珍しくはない。
勿論、夫のとの仲が睦まじく、夫の死後、尼となって夫を弔う事を選ぶ女性もいるが、一方で、夫が亡くなれば、これ幸いと次の嫁ぎ先を見つけるのも手段の一つだ。
「なので、どこか嫁ぎ先を見つけたいのであれば、その希望は叶えたいと思います。好いた男がいるなら要望は聞きますよ? 私は全ての女の味方でありたいと思っています」
義姉と言いつつ千寿菊は帰蝶より年下の19歳だ。
嫁ぎ先に困る事は無いだろう。
「過分な配慮、ありがとうございます。しかし、私の懸念はソコでは無いのです。実は―――」
「……そうだったの。私はこれから尾張、伊勢、駿河に向かいます。その帰りに改めて稲葉山に寄りますので、それまでに考えを決めておいてください」
【尾張国/人地城(那古野城) 織田信広】
帰蝶は稲葉山城から隣の人地城に入った。
「お久しぶりですな、美濃守様」
「ご無沙汰しております、尾張守殿(織田信広)」
人地城では尾張の管理を任されている織田信広が出迎えた。
そして他にも見覚えのある人間が2人いた。
「それに、伊勢守殿(北畠具教)に、志摩守殿(九鬼定隆)まで。さては織田殿の差し金ですね?」
「ご名答にございます」
九鬼定隆がニヤリと笑って答えた。
「数日前に殿から早馬が届きましてな。取る物も取り敢えず参った次第」
北畠具教が少々疲れた表情で愚痴を零す。
「織田の殿は、こうなる事を見越して読んでいたのですね」
帰蝶は3日の間、常在寺で悩んだ。
普通なら具教、定隆は絶対間に合わないが、そこは信長である。
その帰蝶が寺に入った瞬間、手を回していた。
「まったく、まさかこんな関係になるとは。義妹、義兄の関係だった頃を思えば、流石に想像できませんぞ? 近江の殿からの先触れが無ければ、何の冗談かと思っておる所ですぞ、美濃守様。……うぅむ。慣れない……!」
信広は帰蝶をぎこちなく『様』と呼ぶ。
「尾張守殿。それは私も同じ思いです。3日前にはこんな事になるとは夢にも思っておりませんでした」
帰蝶は信広を申し訳なく『殿』と呼んだ。
「しかし何れにしてもこれは現実。これからは主君の妻、主君の同盟者として、接しさせて頂きますぞ」
「そんな、私如き……と言えない立場になりました。尾張守殿の家臣の皆様もどうか慣れて頂きたく思います。ただ、公的な場はともかく、私的な場では義兄上として頼りにさせて下さいませ」
信広は尾張守とはいえ、独立勢力の大名となった帰蝶とでは立場としての格に差がある。
だが本心は違う。
良き隣人として公の場はともかく、義兄、義妹として頼りになる縁者として、これからも親密でありたいと願っている。
「斎藤家先代、先々代から同様、尾張と美濃を連携させ発展させる方針に変わりはありません。これまで通りよろしくお願いします」
帰蝶も義兄より格上になってしまったとは言え、その立場の違いにチクリと感じるモノはある。
しかし、立場が上の者が下手に遜れば、下の立場の者はもっと対応に困る。
だから心を鬼にして目上としての立場を演じる。
「フフフ。何ともまぁ難しい関係ですな。まぁこんな関係も面白いと思うのも事実。何れにしても、これを機に何か変える事はありますまい。尾張は今まで通り斎藤家と付き合っていきましょう」
「同じく。若狭に渡った流太郎(浄隆)共々九鬼として海での支援は約束しますぞ」
「ご子息の流太郎殿には私も若狭湾の戦いで助けられました。少ない戦力で尼子水軍と互角に戦えたのは、間違いなく流太郎殿の手柄です」
「役に立ったなら幸いです。斎藤家家臣としてコキ使ってやって下され」
息子が活躍したとあって、定隆は極めて機嫌がいい。
一方、機嫌が悪い訳では無いが、因縁あって織田家に従う北畠具教は神妙だ。
「美濃守様の実力は某も骨身に染みてしっておりますからな。敵に回すなど恐ろしくて出来ませぬ」
「骨身……何かやって? ……あっ! 長野城の事ですか!? あ、あれは、仕方なくと言いますか……!?」
長野城で具教と帰蝶は直接対峙した訳ではないが、帰蝶が担当した長野城南部では北畠軍にとって悪夢の戦場であった。(34話参照)
「いやいや、責めている訳ではござらん。アレも含めて美濃守様は恐ろしい。北近江でも単身でソコの遠藤と渡り合ったとか」
具教は、帰蝶の後方で控える遠藤直経に目をやった。
直経は悪びれるでもなく、悠然と構えていた。
どうやら、帰蝶との戦いを誇りに思っている様だ。
「あの時、某が美濃守様を激戦区に送ってしまいましたからな。それが原因で遠藤に討ち取られていた可能性も十分あった。何かが狂っていたらと思うと今でも冷や汗がでますぞ」
第一次朽木合戦とも言える北近江での戦いは、色んな方面でギリギリの戦いであった。(16章参照)
何か一つ歯車が狂っていれば、信長は当然、帰蝶も討ち取られていた可能性が高い。
具教は己の判断を軽率だったと恥じているが、これはとんでもない誤りであり、具教の判断こそが最善だったのは誰もが知るところだ。
「伊勢守殿。あの時の判断は何も間違っていない所か、浮足立っていた南近江軍で唯一地に足を付けた判断だったと私は思います。私はその判断力を手本に斎藤家を導いていきたいと思っております。どうぞこれからも、その的確な判断で斎藤家と接して頂ければと思います」
「そう言って下さるなら心のつっかえが取れると言うもの。無論、今後の関係に影響などありませぬ。必要な事は仰っていただければ対処いたしましょう」
「ありがとうございます」
こうして帰蝶は斎藤家当主として、改めて尾張、伊勢、志摩との連携を再確認した。
美濃も含めたこの4ヶ国は、どこか一つが不調に陥れば共倒れもあり得る協力関係に今はある。
改めて流通や統治に対して確認を行い、更なる発展を数日掛けて話し合うのであった。
「それでは美濃守様、次はどちらへ?」
「今川家に向かおうと思います」
帰蝶は今川家で早速の洗礼を受ける事になる―――




