162-2話 若狭湾決戦後始末の顛末の結果 苦渋の選択
162話は2部構成です。
162-1話からご覧下さい。
【美濃国/常在寺 現時刻―――】
「こんな事になって、叔父上達には申し訳ありませぬが、どうか願いを聞き入れて頂きたい……。ワシは叔母上を次期当主に指名したいのです」
「……え? えっ!?」
家臣達は、一斉に『叔母上』に顔を向けた。
「えっ? ……な、何?」
一方、その叔母上たる帰蝶は、信長とのテレパシーで龍興が誰を指名したのか全く聞いていなかったので、全員の視線を急に浴びて困惑している。
《それはな―――お主を斎藤家の当主に据えたいとの事じゃ》
「《えぇッ!?》えぇッ!?」
帰蝶は驚いて立ち上がる。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待って!? 何で私なのッ!?」
「知れた事です。斎藤家の縁者で、叔母上程に武勇、智謀、政治力、名声、人望を兼ね備えた人は居りませぬ」
豪傑相手にも一歩も引かない武勇。
やや思慮に欠ける所もあるが、数々の作戦に従事し、正確に策を実行でき、時には立案もできる智謀。
尾張、伊勢、志摩の三か国の発展を統括してきた政治力。
遠く京や、堺、中国地方にまで噂が広まった妖怪女の名声。
それらは帰蝶に絶大な人望を集めている。
何なら帰蝶は今、日本で一番有名な人物である可能性すらある。
強かで優秀で毒も有する斎藤家を纏める人間として、帰蝶程の適任者はいない。
龍興は本気でそう思っている。
「反対意見はあるか? あるなら、叔母上より相応しい人物をワシに教えてくれ。かつて10歳の身で斎藤家の全員を論破し、稲葉に肉薄する武芸を示した斎藤家伝説の叔母上以上の人材を」(外伝3話参照)
「……ッ!!」
帰蝶も含め、家臣は全員が絶句してしまった。
武勇、智謀、政治力に関しては、美濃三人衆や明智光秀が抜きんでて優秀だが、これは斎藤家の後継者問題である。
下剋上をするなら兎も角『自分こそ相応しい』と言う立場にはない。
その上で、斎藤家の縁者で帰蝶以外に全てを兼ね備えた人間は、本当に居ないのだ。
「わ、私は女よ!? 何を言い出すの!?」
難点は女であると言う点であろうか。
ただし、女子が家を継いだ例も超レアケースながら存在する。
女地頭と言われた井伊直虎は男性説がほぼ確定したらしいが、立花道雪の娘である立花誾千代は、正真正銘、女の身で武家を継いだ。
ただ、その他にもある数少ない何れの例も、継ぐべき男子が居なかった都合がある。
今回の帰蝶の様に、継ぐのに何の支障も無い健康な男子が居るのに後継者となるのは、歴史上初かもしれない。
「存じております。女の身であるのは重々承知。しかし、女の身でありながら最前線で戦い抜いて居るのも承知しております。ならば、性別が理由で後継者に選んではいけないとの理由はありますまい。法度もそんな記載はありませぬ」
龍興は屁理屈をこねる。
しかし屁理屈であっても、事実として女の身でありながら、男の領分たる闘争に完璧に対応する帰蝶である。
ならば性別は理由にならない。
「は、法度には書いて無いかもしれないけど、良い、とも書いてないでしょう!?」
帰蝶も至極まともな理屈で応戦する。
「では、現時点では斎藤家の当主である某が制定します。斎藤家の後継者は縁者であれば老若男女他、あらゆる条件を問わぬ、と」
「ッ!?」
龍興の態度は『馬耳東風』とでも言うべきか。
全ての反論も龍興には想定済で、的確に帰蝶の意見を封じていく。
帰蝶は堪らず兄に助けを求めた。
「あ、兄上達は良いのですか!? 妹に従いたいのですか!?」
龍興が当主を辞するなら、本来の最有力候補である斎藤龍重と斎藤龍定であるが、ここまで何の異論も発していない。
帰蝶に名指しされて、ようやく口を開いたが、その言葉は帰蝶の期待した言葉ではなかった。
「……ワシもお主の気持ちは理解出来る。だが、確かに新九郎殿に反論できる材料が本当に無いのだ。困った事にな」
「何故かな? 一瞬でも、お主が相応しいかも知れぬと思ってしまった瞬間、その考えは覆せなくなってしまった」
「そんな!?」
帰蝶は顔の傷を押さえ蹌踉めくが、傷が原因ではないのは明白だった。
帰蝶は最後の砦たる、夫の信長に訴える。
「と、殿!? そもそも私は織田家に嫁いでいる身ですよ!? それなのに反対しないのは、離縁して戻れ、と言う事ですか!?」
嫁いだ身から実家の大名になるなど、男なら養子に出されたが出戻りといった場合もあるが、女では前代未聞だろう。
そもそもの大前提として、帰蝶は信長を好いている。
いかなる理由であっても『実家に戻れ』とは絶対に受け入れられない。
「叔母上。離縁は必要ありませぬ」
「えっ?」
意外な事に、信長ではなく龍興が離縁を否定した。
「そうですな、織田殿?」
「……。斎藤家の後継者についてワシは口出しできる立場に無いが……。しかし、新九郎殿の言う通り、確かに離縁しなければならぬ法も無い……。別にそのままの立場で斎藤家を継ぐのに法的な支障は無いのだ……!」
信長も苦しそうに龍興の意見を認めた。
帰蝶の思う反論など、つい先刻に龍興と信長の間で終わっている。
信長も龍興に詰められたが、まるで反論できなかったのだ。
確かに天下布武法度にそんな事は記されていない。(58話参照)
『【家督、婚姻】【●第2条 家督、婚姻】家督の相続については規則を定めない。適性を見極めて男女別無く相続させよ』
あるのはこの一文だけである。
何なら『女も相続可能』と明記してある。
他にもこんな条文がある。
『【政治】【●第2条 身分】有能な者に男女や出自や身分は問わない。実力が全てである』
こちらも『女』である事を理由に門戸を閉ざしてはいない。
従って拡大解釈するまでも無く、帰蝶の斎藤家相続は何の問題も無い。
これを盾に迫られては、信長と言えど言葉に窮するしかなかった。
「……ッ!!!!」
帰蝶は一度も見せた事の無い顔で狼狽する。
今この場で、一番堂々としているのは、己を非才と認め当主失格と断じた斎藤龍興だけであった。
誰も気が付いていないが、今、この瞬間だけなら、龍興の智謀の冴えは信長すら凌駕している。
「一応……理由を作れぬ事も無い。織田家の奥向きの仕事がある……と本来なら言えたのだが、お主は最前線に常に出ておるから、今更それを理由に断るのは苦しいし、それを言ったらもう二度と前線には出られぬ。それでも良いか?」
武家の妻は、家内の統制を担ったり、経理や折衝、家臣の家族との付き合い等も重要な仕事である。
帰蝶もそれに全く手を付けていないでは無いが、前線に出る事を生き甲斐にしているのに、それは受け入れ難い。
ある意味、帰蝶の自業自得である。
「もう一つ、敢えて断る理由を捻り出すならば『常識的にありえん』とでも言えば済む話か。逆を言えば、常識でしかお主の斎藤家当主就任を止められんのだが、常識が理由ならワシが阻む訳にもいかん……!」
むしろ信長は、率先して常識を破壊する側の人間である。
3回目の人生となった信長にとって、常識など何の障害にもならない―――と思っていた。
それなのに、まさか、こんな所で常識に悩まされるとは、そして、常識を破壊したのが信長でも帰蝶でもない第三者だったのは流石の信長も予想は出来なかった。
「で、でも法度は……法度は……!」
「わかっておる。法で禁じておらぬから何をしても良い、とは言わぬ。だが、今回の件では法の不備を理由に止める妥当性も無い……!」
そんな事は無い。
妥当性はある。
無い訳が無い。
例えば信長が『織田家として困る』と言ってしまえば、この話は簡単に流してしまえる。
理由の有無など関係ない。
問答無用で蹴る事が可能だ。
だが、信長も龍興のこの案に狼狽はしつつも、どうしても魅力的に見えてしまう。
口には出さないが、確かに斎藤家縁者で最も知勇兼備なのは帰蝶なのだ。
義龍が早死にしたのは誤算だが、それに代わる帰蝶の斎藤家当主就任は、次善の処置として他にこれ以上の妙案も思いつかない。
「だから、受諾か否かは、お主次第という事じゃ。仮に無理にお主を当主に据えたとて、出奔でもされたら最悪じゃから、お主が『やりたくない』と言えばこの話は終わる。もう一度言うが、本当にお主次第なのじゃ」
何ならこの案が己ではなく、龍興が提案した事に嫉妬すら覚える程だ。
それ程までに、信長には抗えない案だった。
「ッ!! な、ならば! 仮に当主についたとして、私が殿との子を授かれば、その子が次の斎藤家を継ぐかも知れませぬ! 見方を変えれば、斎藤家が織田に乗っ取られる事に成りかねませんよ!?」
これは信長が一つ目の道として龍興に示した裏の思惑だ。
千寿菊姫と信長の子を結ばせて斎藤家を乗っ取る。
形は違うが、信長と帰蝶の子供であれば、一つ目の道の手段よりも確実だ。
「全く問題になりませぬ」
だが、龍興はあっさり容認した。
「では裏を返しましょう。織田殿と叔母上の子が織田家を継いだ場合、織田は斎藤が乗っ取りを掛けると警戒するのですか?」
「そ、それは……!」
警戒がゼロでは無いだろう。
だが、それはどんな家であっても常について回るリスクだ。
それをイチイチ必要以上に警戒しては家が途絶えるだけだ。
ならば警戒するだけ無駄ともいえる。
「それに斎藤道三の娘にして、父上の妹なれば、寧ろ織田殿の血筋と交われば斎藤家として盤石となりましょう。歓迎こそすれ拒む理由になりませぬ」
龍興は全く引かなかった。
龍興は、信長の提示した全ての案の複合型を選んだ。
慰霊に家督移譲に、現実の受け入れを。
だが、一つ目の道である乗っ取りも理解して選んでいたのだ。
故に、こんな反論などお見通しとばかりに、織田の血の流入を肯定した。
確かに、信長と帰蝶以外の子が斎藤家に入り込むのは抵抗感がある家臣もいるが、信長と帰蝶の子であれば、半分は間違いなく斎藤家の血筋だ。
子供は結局、誰かの血が必ず半分は入るのだから、織田と斎藤の同盟関係や、血筋に期待する能力を考えれば、寧ろ歓迎すべき事かもしれない。
「まだ何か懸念がありますか?」
「そっ……それなら、私が継いだとして、新九郎殿は何をするのですか!? まさか完全隠居などと言いませんよね!?」
最後の抵抗はこの点である。
楽な道に逃げたいだけならば、絶対に逃がす訳にはいかない。
せめて斎藤家の政務に携わるなら、将来の復帰を促す事もできる。
だが、これも空振りであった。
「某は明へ渡ろうと思います。この世の清濁を全て経験し、いずれ斎藤家に還元できればと思っております」
現状、これ以上に辛く、しかし利益に繋がる役目はそうそう無いだろう。
「ッ!? と、殿!?」
たまらず帰蝶は信長を見る。
信長は本当に苦しそうに、しかし期待を含んだ言葉を吐き出した。
「勘十郎に付いて世の仕組みを学ぶそうだ。当然、死ぬ可能性も念入りに説明した。だが新九郎殿は受け入れた。ここまでの覚悟を見せられては、ワシが拒む事は出来ぬ。ただし、それには斎藤家の新当主と家臣の承認が無ければ無理だとも伝えてある。何度も言うが、こればかりは織田家のワシがどうこう言える問題ではないのだ」
信長は立ち上がる。
「後は、お濃……いや、斎藤帰蝶殿と新九郎殿、それに家臣の選択次第だ」
信長はそう言って本堂から退出した。
「……!!」
帰蝶は全ての逃げ道を封じられ、まさか兄の死からこんな事になってしまった現実に動揺が隠せない。
龍興は当然の如く(?)威風堂々としている。
家臣達は困惑が隠せぬも、斎藤帰蝶の帰還と当主就任という前代未聞の出来事が起こす未来に期待を抱かずには居られず、しかし僅かに不安が入り混じる表情で帰蝶に視線を向ける。
「し、新九郎殿、そこまで言うなら一応確認させて下さい!」
「何でしょう?」
「私も斎藤家に属する者として、どうしても確認しなければならない事が、しかも凄く失礼な事を承知で聞かねばなりません。新九郎殿。決して織田の殿に言わされている訳じゃないのね?」
信長は『口出しする立場に無い』と言ったが、それこそ信長の話術であれば、龍興など簡単に言い包めてしまえると帰蝶は思う―――のだが、この堂々とした龍興を見れば、その考えは揺らぎに揺らぐ。
その揺らぎを肯定するかの様に、龍興は帰蝶の懸念を否定した。
「まさか。織田殿からは色々助言を頂きましたが、選んだのは間違いなく某です。もっと言うなら、織田殿の助言を某は選んでおりません。独自の道を選んだつもりですが、もし、こうなる事さえ織田殿が読んで導いたならば、それこそ斎藤家としては仕方ない結末かもしれませぬな」
信長ならやりかねないと帰蝶は思うが、さっきまで狼狽を隠しもしていなかった信長が、実は全てコントロールしていたならば、もう役者が違いすぎる。
ならば龍興の言う通り、斎藤家として帰蝶の家督相続しか手が無いのだろう。
「か、家臣の皆様に聞きます! こんな事を簡単に決められ無いのは承知しておりますが、一点だけ確認させてください! 絶対に、どうしても私の家督相続が反対だという人は……ッ!? い、居ないのね……!」
顔を見れば一目瞭然だった。
不安が無い訳では無いが、それを上回る期待も全員の顔から見て取れた。
1人でも反対があれば、それを切欠に固辞しようと思ったが、無駄な足掻きであった。
斯くして、帰蝶の斎藤家就任を阻む要素は、本人の心以外に阻む物は無くなってしまった。
帰蝶は進退窮まった。
殺気が渦巻き命を賭す戦場よりも、今この場の圧力は帰蝶の身体にプレッシャーを掛けていた。
「刻を……暫く刻を下さい。3日以内には意思を示します……!!」
帰蝶はこのまま常在寺に泊まり込んだ。
父と兄の位牌の前で考える、との事で。
だがもちろん、位牌にではなく、もっと確実な方法で魂に問いかけた。
《父上! 兄上!》
《わかっとる。来る頃だと思っておったわ》
《ワシが病を隠したばかりに、良かれと思っての策だったのだが苦労をかけるな。……いや、まさかこんな事になるとは流石に予想できんよ》
帰蝶達は散々議論を繰り返し、ようやく決めるのであった。




