161-2話 若狭湾決戦後始末の顛末 斎藤龍興の選択
161話は2部構成です。
161-1話からご覧下さい。
「某は父に胸を張って報告したかったッ! 成功も失敗も死に行く父には土産話として聞かせたかったッ!」
龍興の告白は、呪詛の如き圧力で、とても少年の出せる感情とは思えなかった。
ここから先は、やる事成す事、全て手柄となった。
生きて再会は叶わないと悟った若狭湾の戦いは、その諦めの境地が武将の資質として評価された。(157-2話参照)
何なら、もっと酷い目に合うべき失態を犯しているのに崇められている。
普通の武将なら、これ幸いと手柄を横取りするのが戦国時代だが、龍興は清廉過ぎた。
何事も、ある一定の閾値を上回る、または下回ると、何もかもが過剰に良い様に、或いは悪い様に捉えられる事が往々にしてある。
とくに悪い方向は顕著だろう。
ありとあらゆる粗探しにまで発展してしまう事は、ニュースやSNS等で日常茶飯事に見かける光景だ。
龍興の場合はコレとは全く逆の『粗探し』ならぬ『手柄探し』現象が起きてしまっていた。
神格化と言っても差し支えないだろう。
噂が噂を呼ぶ様に、ありとあらゆる望まぬ手柄が勝手に蓄積されていった。
死にゆく父の期待に応える為の報告で、嘘など付きたくない少年龍興には耐え難い拷問であった。
ただそれでも、総大将としての役目は放棄しなかった。
若狭湾の戦いが終わった後も、朽木に援軍を派遣し隙を見せなかった。
ついでに、己も朽木に向かう事で、針の筵の評定から脱出を計るが、逃げた先に安息があるとは限らない。
ここでも龍興の心を打ち砕く事件があった。
明智光秀が当初と違う軍容なのに、僅か1000人で城を落としてしまっていた。
龍興が朽木で見た光景は、己が望んで止まない光景であった。
激闘だったのだろう。
将兵共にボロボロだったが、激闘を制した興奮と誇りと高揚から活気に満ち溢れていた。
『こ、これは若自ら足をお運び頂けるとは!』
現れたのは光秀だった。
家臣に肩を支えられながらも懸命に歩み寄り膝を突く光秀。
『無様な姿で申し訳ありませぬ。しかし、若の若狭湾での奮闘を無駄にせずに済みました……!』
『……何が無様なものか』
『えっ?』
『その姿こそ真の武士よ……』
『ありがたきお言葉!』
その姿こそ真の武士よ―――
本当はこう言いたかった。
その姿こそ己がなりたかった理想の真の武士よ―――
無理やり突出してでも朽木で戦いたかったのは、大軍でなくとも城を落とす、義龍のシナリオには無い手柄。
義龍のシナリオに上乗せする事で、予想を上回る事で、初めて喜んで貰えると思っていた。
全ては最後の親孝行の為。
こうする事で後継者として、同盟を結ぶ織田と並び立つ存在になれると思っていた。
しかし、実際の光秀の姿を見れば、随分浅はかで稚拙な考えだったと、急速に冷めて恥を感じる龍興。
狙った演出で激闘を演じるのと、本当に激闘を演じるでは価値の差が激し過ぎる。
己の考えは所詮、養殖、演技、偽物に過ぎない。
若狭湾で南側の戦場を戦い抜いた武将も、みな輝いていた。
真の修羅場を潜り抜けてきた、真の武士だった。
女の帰蝶など、負傷しつつも敵の豪傑と互角に渡り合った。
あれこそ正真正銘、混じり気皆無の本物。
それに比べたら、自分の事しか考えていない小細工塗れの己は、本物には遠く及ばない。
龍興は己が如何に矮小な存在か思い知ってしまった。
そこから先、どうやって帰還したか覚えていない。
途中の今龍城では、何か歓待を受けたが、酒も相まって覚えていない。
ただし、この時は葛藤は有れど、現実を受け入れようと頑張ってもいた。
しかし、その葛藤と戦う心が、重大な事を失念させていた。
朽木に出発する時の迅速さがあれば―――
いや、普通に帰還していれば普通に間に合ったのに―――
致命的に帰還に日数を掛け過ぎた―――
『申し上げます!! 大殿が……! 何とか若が帰還するまではと譫言の様に呟いていましたが、ついに力尽き……ッ!!』
途中の道中で、義龍の死の知らせを聞き、落雷に打たれたかの様な衝撃を受ける。
朽木城から今の今まで、義龍の事を完全に忘れていた事に。
これが、龍興の精神にとって致命傷となった―――
そこから、家の主として葬儀を差配した―――様な気がするが、殆ど記憶に残っていない。
気が付いたら切腹していた気さえするのだ。
「―――某は、死病に侵されながらも某や斎藤家を思って策を立てた父上を、あろう事か忘れてしまいました……!!」
「……。そうだったのか」
「あの世にいる父上に顔向けできませぬ……!」
宗教が絶対の世界である。
どんなに良い結果であろうとも、霊魂に嘘偽りなど通用しない。
生きて直接の報告はできないが、その代わり、言葉よりも雄弁かつ確実な方法で、醜態の報告が済んでしまっている。
若狭湾の奇襲を読み、不慣れな海戦は口出ししない謙虚な姿勢に、朽木も諦めなかった時代に相応しい理想の後継者―――の皮を被った、真実は功に逸り、独断専行し、結局何もできなかった超幸運なだけの愚者だった―――と。
そうなれば、行き着く先は自害しかない。
「理由は良く分かった。ワシも考えよう。暫し待て」
信長は瞑想した。
《聞いていたな?》
《はい……。あんなに立派に役目を果たした裏で、こんな事になっていたなんて……。要約するなら『褒め殺された』と言う訳ですね……》
信長の問いかけに帰蝶は衝撃を受けつつ答えた。
元服したとは言え、龍興は13歳の少年だ。
酸いも甘いも知り尽くした人間と言う訳ではない。
その精神は非常に脆かった。
義龍の死を偽装した上での、後継者としての役割を、信長も含め周囲が背負わせ過ぎてしまった。
《褒め殺しか。確かにその通りだ。これは厄介だぞ……》
褒め殺しは数ある侮辱方法の中でも、ユーモアに富んで、かつ、極めて屈辱的で魂を抉る侮辱である。
直接的に侮辱してくれた方が何倍もマシかもしれない。
しかも今回、性質が悪いのは、誰も侮辱の意図を持っておらず、正真正銘、心底褒めているのが極めて悪質だ。
《だが、一つ納得した事もある。龍興は純粋すぎる。それは今も前の歴史もな。今の歴史は関りが強いから理解できたが、前の歴史もそうだったと考えれば色々納得できてしまう。奴が佞臣を重用したのも、酒色に溺れたのも、受け入れ難い挫折があっての上だったのかも知れぬ》
《な、なるほど……。前の歴史も若くして父を失い、懸命に努力するも、斎藤家は徐々に瓦解していった。信長さんもその原因に一役買っていますしね》
ファラージャだ。
信長を非難したい訳ではないが、事実としてはそうなる。
ただし、前の歴史に関しては敵対する斎藤家に対しての行動なので、何ら非難される筋合いは無い。
むしろ、これが正しい戦国武将の有り方だ。
《純粋なのは美徳じゃが、それでは乱世を生きては行けん。偶然手に入れた手柄だろうと当然の様に誇る太々しさもある意味必要じゃ。遅かれ早かれ、運命は一緒だったかも知れぬな》
《そんな……》
《奴は生まれる時代を間違えた。平穏な時代なら、嘸かし立派な君主となれただろう。しかし、今は戦国の世。理想と現実の乖離が激しすぎる時代。美徳が通用しなければ、絶望し腐敗するしかない。自害を選んだのは、ある意味美徳の成せる業よ》
《義龍兄さんの病気は歴史の必然でしたが、龍興さんの絶望も歴史の必然だったのですね……》
義龍の病気に関しては、発症する歴史に飛んできたので避けられなかった。
一方、その歴史では既に龍興も誕生済みであった。
《龍興に関しては、周囲が全てを理解した上で補佐していれば、また違った結果もあったかも知れぬが、何れにしろ手遅れじゃ》
人格の形成には周囲の影響も大きいだろうが、やはり持って生まれた物が皆無と言う訳でも無いのだろう。
《ワシも、お濃も、義龍も、近くで寄り添っていた様で、その実、遠く離れておった様じゃ。ワシはそう思うが、お主はどう思う? ……義龍よ。居るのだろう?》
《……。気安く声を掛けるな、と言いたい気持ちと、貴様に感謝する気持ち、そして、子の悩みに気が付けなかった後悔で何とも表現できぬ》
義龍が応答した。
5次元空間と現世では時間の流れは概念からして全く違う。
義龍が死んだ瞬間、ファラージャが未来で復活させ、全ての事情を説明して、記憶の混濁が落ち着くまで十分な時間を与えていた。
その上で、信長は当然居るだろうと踏んで呼びかけ、見守っていた義龍が渋々応答した。
《悔しいが貴様の言う通りよ。だが、この成果に対しワシは何も言うつもりは無い。結果が全てであり、その果てに、死んだとしても文句は言わぬ。死者が現世の者をこんとろうるするのはファラージャ、いや胡蝶の方針にも背くのだろう?》
《え、えぇ……。まぁ……。未来知識で無ければある程度容認もしてますけど……》
既に、信秀、道三、宗滴、雪斎がやらかしてしまった重大事例もある。(外伝42~43話参照)
推奨はしないが、良い方向に行く可能性も捨てきれないので、厳しく制限してもいない。
《そうか。ならば貴様がこうして手を尽くしている事には礼を言おう。だがそれ以上は求めぬ。だから貴様が思う様にせよ。その結果斎藤家が滅んでも文句は言わぬ。最良と思って動いた結果なのだ。何が起こっても仕方あるまい》
義龍は達観しているのか突き放した―――かの様に見えて、悲痛なまでの苦しみが溢れていた。
《……分かった。その想いは汲もう》
信長は目を開いた。
「新九郎殿。全てを理解した上でワシの考えを言おう。確かに新九郎殿にマズイ点があったのも否めない」
叱責とも違う信長の言葉は、龍興の体を大きく揺らした。
他人に改めて指摘されるのは、褒め殺されるよりはマシとは言え、衝撃が無い訳では無い。
「ただし、ワシから言わせれば、結果は伴わなかったとしても、言われた事を只やるよりは断然好ましいと思う。これはお主に自害させない為に、取り繕っての言葉ではない。まず、ここを間違えて理解するな」
信長も別に、言われた事を忠実に行う事が悪いとは言わない。
しかし、結果の上積みを求め貪欲に行動する事も悪ではない。
その結果、失敗すれば罰や叱責は当然あるが、それを乗り越え挽回に挑む精神を信長は高く評価する。
今回の義龍の策は、初陣総大将でありつつも、大軍で万全の態勢で朽木を攻略する事にある。
これでも十分な戦果だ。
その上で、龍興は結果の上乗せをしようとした。
大軍ではなく、少数での戦果でより一層の成果の上乗せを行おうとした。
当然、大軍で押しつぶすよりも、少数で鮮やかに勝った方が龍興の名声に繋がり、その結果は盤石な体制に繋がるだろう。
100点より上を目指そうとした心意気は、手段に難があったとは言え買ってやらねばならない。
兎にも角にも不幸だったのは、尼子軍来襲と言う予想外の要素により、ややこしい事になってしまった事だ。
「お主は若い。若さゆえに理想も高い。それが悪いとは言わぬ。じゃが、仮にこのまま斎藤家を導いていけば、更なる理想との隔たりに必ず直面するだろう。今は若いから自害を選んだが、歳を重ね汚い現実を多数経験すれば、お主の精神は壊れ、その先にあるのは耳障りの良い言葉だけを聞き、酒に溺れ、果ては堕落してしまうかも知れぬ」
妙に具体性があり、容易に想像出来てしまう言葉に龍興は呼吸も忘れて聞き入る。
「その上で、言っておかねばならぬ事がある。どんなに辛くとも失態での自害はダメだ。斎藤家の法度でも禁じておるが、その真の理由はな、どんな失敗も生きていれば挽回は可能。その失敗は大きな財産なのに、活かす機会を自ら潰す事こそが重罪ぞ」
「し、しかし、某では……」
「分かっておる。お主の不幸は義兄上が早くに亡くなり、家督相続まで指導してやれなかった事だ。ここが最大の問題だが、病ばかりは誰の責任とも言えぬ」
父が早死にし、破滅に傾く家など戦国時代には山ほどあるだろう。
史実の斎藤家然り、宇喜多家然り、豊臣家然り。
無論、全てがそうだとは言わないが、共通するのは、本来しなくても良い苦労を背負う羽目になった事だ。
「じゃから義兄上が出来なかった事をワシが引き継ごう」
「ひ、引き継ぐ……?」
「ワシはお主に4つの道を用意してやれる。その選んだ道に対し織田家として援護しよう。これが亡き義兄上に対する、ワシなりの礼でもある」
信長は居住まいを正した。
「一つ。現状維持じゃ。用意した道と言う割りに何の中身も無いが、このまま頑張るなら影ながら斎藤家を支えよう。あらゆる手段でな」
信長は『あらゆる手段』を含みを持たせていった。
信長は、龍興がコレを選んだ場合、援護も容赦はしないつもりである。
龍興の美徳は買うが、現状では戦国大名失格であり、少なくとも教育が足りていない。
自害未遂までした当主を家臣が支えてくれるかも未知数だ。
こんな不安定な主君と同盟を結び続けるのは、織田家としても危険である。
だから、斎藤家を乗っ取る。
義龍のもう1人の子供、即ち千寿菊姫(京極マリア)の娘と信長の子供を結ばせ、龍興の養子として斎藤家に送り込むつもりである。
「あ、あらゆる手段、ですか……!?」
「そうじゃ。あらゆる手段じゃ」
龍興も、信長の本気を感じ取ったのか神妙だ。
具体性は解らぬでも、痛みを伴う手段もあると感じ取った。
史実でも北畠家、神戸家を乗っ取った信長である。
やろうと思えば取れる手段だ。
含みを持たせて警告したのも、義龍の血筋を残すのが信長なりの配慮であろう。
「二つ。仏門に入り、義兄上の魂を弔い続ける事だ。厳しい修行で精神も鍛えられよう。仏門に入りつつ家の差配をする大名も居るから不可能ではない。今のお主には自分を罰し、律する環境に身を置いた方が、今後の成長には良いのかも知れぬ。その高潔な精神を活かす為にもな。案外名僧になれるかも知れん。また、機を見て還俗するのも良かろう。ただし、仏門にのめり込み過ぎた場合、織田家が敵対する事は念頭に置いてもらう」
織田家の僧侶の政治介入を禁じた天下布武法度を斎藤家も流用しているが、龍興率いる斎藤家が法度を改変しても信長に止める権利は無い。
また、別に信長は一部の僧侶を嫌いはすれど、宗教を否定している訳ではないので、容認は出来なくも無い。
なので、信長が思う理想の僧侶を、精錬高潔な龍興が体現してくれるなら、多少の対宗教の方針修正を入れても良いと思わないでもない。
しかし、この世の現実に苦痛を感じる龍興の精神では、必要以上に宗教にのめり込む可能性は高い。
その結果、両家が決定的に方針を違える未来が無いとは言えない。
「三つ。お主に子は居ないから、家督を叔父の誰かに譲ってしまう事だ。己に能力無しと判断し身を引くなら、それはそれで尊重しよう。その場合、一介の家臣として政治の補佐をするのも良かろう。案外これが合っているかも知れぬ。これなら義兄上の血筋を残す事も可能だし、数世代後には本家を継ぐ事も可能かもしれぬ。ただし、世間からの誹謗は免れぬだろう。臆病者としてな。じゃが、手柄を捏造しないお主の美徳からすれば、誹謗中傷に晒された方が精神的には良いのかもしれぬ」
宗教の修行の中には、自ら体を痛めつけ苦痛に身を捧げる事もある。
それが龍興の精神の安定には、一役買う可能性もある。
負担が軽減したならば、龍興に出来る範囲で仕事ができるだろう。
家督の放棄に斎藤家は揺れる、或いは割れる可能性もあるが、そこは織田家が根回しに手を貸す事で沈静化を計る。
織田家としても斎藤家は重要なパートナーなのだから、助力は惜しまない。
「四つ。汚濁を受け入れ太々しく生きる事だ。ワシも、円覚院殿(道三)も、義兄上も、清濁飲み込んでの大名だ。これは現状維持の様だが全く違う。お主には精神を入れ替えてもらう。受け入れ難い汚い事も承認してもらう。その場合、ワシは必ず最後までお主の味方で居よう。共に手を汚し悪名を被ろう。これが一番混乱が起きず、お主にとっては厳しい道かも知れぬが現実を受け入れるなら可能だ」
死を選ぶ程に悩み、死にきれなかったなら生まれ変わる事も可能かもしれない。
この場合、龍興は人としての成長は計り知れない。
大悪党斎藤道三の系譜が受け継がれるのだから、織田家としても頼もしい事この上ない。
実は信長もこうなる事を望んでいる。
隣国に頼もしいライバルが存在してこその信長だ。
ただ、これが選べるなら、最初からこんな騒動は起こしていないだろう。
「……ッ!」
どの案も今の龍興には魅力に映るし、猛毒にも映る。
簡単に決めきれぬ事に龍興は戸惑う。
「どうする? 後は完全隠居という手もある。これが一番幸せかも知れぬ。全ての柵から解放されるからな。勿論、ワシの思いつかぬ五つ目の方針があるなら聞こう。そうではなく、どうしても自害したいなら最早止めぬ。出奔するというならこのまま見逃そう。ワシは飽くまで織田家の主であって斎藤家の主ではない。強制は出来ぬからな」
「そ、某は―――」
龍興は信長も驚く事を言い出した。




