160話 若狭湾決戦後始末
【若狭国/小浜拠点 斎藤家】
「皆ご苦労であった。此度の尼子の奇襲に対し迅速な行動で退ける事ができた。被害は決して軽くはなかったが、緊急事態で始まった全てが後手の戦で、敵を一歩たりとも上陸させなかったのは、誇るべき成果である」
斎藤龍興が集まった諸将を労った。
誰がどう考えても絶対に成功する。
それこそ初陣総大将の斎藤龍興が指揮したとしてもだ。
―――そんな、絶対に頓挫しないハズだった朽木攻略が、見事に頓挫してしまった今回の遠征。
信長と龍興が尼子来襲を看破していなければ、朽木攻略中に背後から襲われる可能性もあっただけに、若狭を防衛できたのは、頓挫した朽木攻略を差し引いても余裕で釣りの出る戦果である。
「特に、当初の予定と違うのにも関わらず、果敢に海で戦ってくれた織田家と今川家の皆様には感謝の念に堪えませぬ」
龍興が頭を下げると、斎藤家の家臣一同も一斉に頭を下げた。
「いえ、我等こそ足を引っ張るばかりで申し訳ありませぬ。朽木への行軍中、突出する新九郎殿(龍興)を強引に引き止めていたら、今頃我等は首と胴が離れていたかもしれませぬ」
顔の負傷でやや喋り難そうに帰蝶が反省し、織田、今川の諸将が同意する。
陶、毛利率いる尼子水軍の船数はこちらを優に上回り、南側では精鋭を投入してなお、吉川元春に遮られた。
帰蝶は『首と胴が離れる』と評したが、負傷した顔を思えば、全く冗談では済まない損害が出たかもしれない。
今、この場で座って居られるのは、間違いなく龍興のお陰であると帰蝶ら諸将は思っていた。
「……いえ伯母上、某も意図をちゃんと説明すべきでした。いらぬ混乱を招いた責任は確かにあります。それに若狭を守り抜いたとは言え、水軍の損害は甚大です。むしろ今からの立て直しが若狭防衛の本番とも言えましょう」
龍興は己の失敗を素直に認め、さらに防衛成功に酔いしれる事なく次を見据えていた。
(なんたる謙虚な振舞よ。多少なりとも誇り自賛しても良さそうなのに。油断無くもう既に先も見ておる! 斎藤、織田、今川の3家の関係を思えば、なんと完璧な振舞にして堂々たる姿よ!)
その若武者の清廉な姿と謙虚な振る舞いは、居並ぶ歴戦の武将の心を掴んだ。
多少の不手際は確かにあったが、それは誰でも一度は経験する麻疹の様なもの。
若さ故の、いわゆる通過儀礼だ。
それに今回成し遂げた龍興の戦果は、父の義龍にも、信長の桶狭間にも匹敵する、マイナスを補って余りある特大戦果だ。
信長同様に尼子の来襲を見抜き、いち早く若狭に辿り着き、適切な指揮の元で海戦にて尼子を退けた。
しかも、これが初陣というオマケつきだ。
こんな事を一体誰が成し遂げられると思うだろう。
斎藤家は安泰だ―――
今は織田信長と斎藤義龍、今川義元が各国のトップだが、順当に行けば今川家は今川氏真、斎藤家は斎藤龍興が継ぐ事になるが、次代に控える才能に疑いが無い事が証明された。
この3家の未来は磐石揺ぎ無し―――
朽木攻略はケチが付いたが、そんな些細な事はどうでも良いとさえ思う。
いかなる戦果も領地の拡張も、次期当主の才能が確かな事が証明される以上の朗報は無い。
「よし。織田殿も南近江の防衛は成し遂げたとの事。我らはこの難局を全て凌いで見せた。これ以上の成果はあるまい」
信長が対応していた南近江の戦いは、若狭湾の戦いが始まる前に決着がついていた。
織田が作った四拠点を、六角軍は朽木の独力防衛を諦めてまで全戦力を投入したのに突破できず、戦力を擦り減らし撤退していた。
六角と尼子との連携策に、一時は騒然とした織田、斎藤陣営であったが、終わってみれば文句なしの結果であった。
皆が浮かれ気味なのも仕方ないのであろう。
「申し上げます。伝令です」
「何だ?」
そんな、やや弛緩した空気を引き締める伝令の声が届く。
しかしその伝令の声は弛緩した空気を更に緩めた。
「はッ! 明智様が朽木城を落としたとの報告が入りました!」
「おぉ!!」
もう一つオマケの戦果が追加された。
頓挫しケチが付いた朽木攻略が、奇跡的に成し遂げられたのだ。
元々過剰な戦力で朽木を蹂躙し攻略する手筈が、尼子来襲により計画を狂わされた。
尼子家はこの一手で朽木を守るつもりだが、ただ、斎藤家も朽木攻略を放棄はしなかった。
朽木に大軍は回せぬが、六角軍の大半は南近江の信長と戦っており守る兵が碌に居ない。
若狭を守りつつ、しかし強欲にも朽木を諦めず、光秀率いる高島兵1000で攻略させたが、こちらも上手く進んだ様であった。
「明智様自ら獅子奮迅の活躍で、城兵を翻弄し見事に奪取なされたとの事です」
「十兵衛(光秀)自らとな?」
「はい。『攻める兵が少ないなら少ないで戦い様はある』と仰り、見事成し遂げられました!」
「……そうか。当初の戦略と違い苦労を掛けてしまった。既に援軍を向かわせておるから事後処理には間に合うだろう」
龍興は若狭の問題が片付くと、即座に安藤守就、氏家直元ら海戦に出なかった武将に命じ朽木援護へ向かわせていた。
「もうしばらく警戒をする様に伝えよ。ワシも後から向かう」
「はッ!」
若狭防衛が最優先だったとは言え、さらに光秀が能力を発揮して単独で攻略してしまったとは言え、いずれにしても少ない兵力での攻略で疲弊は著しいだろう。
安藤と氏家の派遣は当然の行動であり、初陣にしてそこまで気が回る龍興の思慮深さには諸将も関心しきりだ。
「若! 若の言う通りでしたな!」
「……言う通り? 何がじゃ?」
家臣の1人が、身の覚えのない良く分からない事を言い出したので龍興は聞き返す。
「朽木など明智殿の高島兵だけで十分だ、との読みでございます!」(156-2話参照)
このオマケの成果も重要だ。
清廉潔白も時として必要な要素ではあるが、それだけでは戦国時代に適応しているとは言い難い。
強欲であるのも必要な要素。
若狭を防衛しつつ、朽木も諦めないこの姿勢。
二兎追うものは一兎をも得ずが教訓として広く伝わる中、まさかの一挙両得、一石二鳥。
龍興は武将に必要な要素をすべて満たしていると諸将は感じ入る。
「……! ……そうだな。これにて全てが終わったのだろう」
龍興が虚空を見上げ目を閉じた。
その振る舞いが、居並ぶ諸将には神秘的に映り、戦勝に浮かれる雰囲気にピシリと緊張が走る。
(新九郎殿は……! ワシより年下でこの雰囲気を纏うのか!? これは織田の殿や濃姫様、親父や雪斎和尚と互角の才の持ち主か!?)
氏真は狼狽した。
虚空を見上げ眼を閉じて、周囲を黙らせるなんて芸当を、元服直後で行える程に空気と間合いを把握しているのは驚愕以外の何物でもない。
自分が同じ事をやれば、『どうした? 突然眼を閉じて首を逸らして? 疲れたか?』と注意されるのが眼に浮かぶ。
帰蝶は歴史変化に驚く。
《私は龍興殿の史実の有様を伝聞でしか知らないけど、随分と違う姿に成長した様ね?》
《そ、そうですね……。こうまで人が変わるとは……》
史実の斎藤龍興は、佞臣を重用し、遊興に耽り、城を家臣に乗っ取られ、信長に負け美濃を追い出された転落人生を歩む。
それを思えば、今の龍興は、同じ名前の別人の様であった。
一応、ファラージャは義龍の死を賭した策まで把握しているので、龍興が頑張るのは理解出来るが、それにしても知識とは違いすぎる姿には驚愕せざるを得ない。
氏真、帰蝶が思った事は、当然諸将も感じ入っていた。
「……」
沈黙が場を支配し、何となく評定が終わりの雰囲気を醸し出す。
その雰囲気を龍興は敏感に察知すると締めの言葉を発した。
「朽木も落ちた事ですし、援軍の皆様より順次帰還して頂きましょう。伯母上も傷が塞がるまではこの地にご逗留を」
「そうね。その間に九鬼殿と今回の反省点を洗い出しておくわ」
帰蝶は縫い合わされた頬と耳を覆う晒を触りつつ答えた。
「これにて朽木城攻略及び若狭防衛を完了とする。皆ご苦労であった!」
龍興の宣言に諸将が頭を下げて応答する。
こうして斎藤龍興のこの歴史におけるデビュー戦は、100点以上の結果を叩き出したのであった。
【播磨国/尼子拠点 尼子家】
尼子と三好の小競り合いが起きている播磨国。
その尼子拠点にて、陶晴賢ら今回の若狭奇襲の責任者が集まっていた。
「若狭奇襲が失敗!? 馬鹿な! 信じられん!」
若狭への奇襲が失敗に終わった報告を受ける尼子晴久は、陶晴賢と、己が付けた軍目付全員が同じ報告をした事に心底驚愕した。
てっきり成功報告があると思っていただけに、その衝撃は計り知れない。
これが晴賢の采配ミス、失策、怠慢が原因なら理解できる。
しかし、軍目付まで同じ報告をしているのだから、虚偽の報告とは考え難い。
晴賢らはやるべき事をやっている。
しかも、読まれた上で挽回しようと、最低限の仕事を果たしている。
策が読まれた上で行った次善の策も、理解できるし失点ではない。
晴久もその武勇を認める、吉川元春が負傷する程の激闘と仕事をやっている。
寧ろ、作戦立案者である晴久の失敗をしっかりフォローしているとも言えた。
失点が有るとすれば、己が立てた策が読まれていた事なので、他の誰に失敗の責任追及をする事もできない。
晴久も責任転嫁がしたかった訳ではないが、どうしても失敗を受け入れ難いのか、強い口調で問い質す。
「織田と斎藤に我が策が読まれていた……! 特に織田は若狭に居なかったのだろう!? 奴は興國院様(尼子経久)に匹敵する智謀を持つとでも言うのか!?」
晴久は狼狽した。
後世に伝わる程に。
それ程までに自信があった策が、見破られ対策を打たれた事に。
陶晴賢は精一杯申し訳なく思い、平身低頭謝罪する―――素振りの、報告をした。
「音に聞く伝説の興國院様を、某は直接は存じませぬが、匹敵はせぬまでも、それに迫る智謀は持つと判断せざるを得ませぬ。何せ奴は近江で六角軍と相対していたはず。事実、若狭湾の総大将は、斎藤義龍の嫡男次期当主である、斎藤龍興なる者との事。将として参戦していた信長の妻が申しておりましたから間違いありますまい」
「それよ! 織田に加えて斎藤の嫡男? 龍興なる無名の者までもが我が策を読み切ったと言うのか……!」
晴久の喉仏が上下した。
晴久の言う通り、信長の読みは異常であった。
六角軍が農繁期の時期に見合わぬ動員で総攻撃を仕掛けたのを足掛かりに、論理の飛躍にも程がある理屈と計算で尼子の奇襲を読んだ。(155話参照)
例えば若狭の隣国から奇襲があると読むのは理解できる。
隣国の情勢なのだから、少しでも警戒していれば思いつく範囲内だ。
それを遠く離れた近江で、しかも六角との繋がりを今回に至るまで毛程も匂わせていなかったのに看破したのは、いかに晴久と言えど俄かには信じ難い。
おまけに、今の今まで名も知らなかった龍興までが見抜いたと言う。
晴久は、急に自分の立てている戦略への自信が揺らいで、猛烈な不安に駆られた。
「信じられん! ワシが同じ立場だったら、そんな読みは思いついたとしても即却下だし恥ずかしくて言えたモノではない! 理路整然と説明もできぬ! 何かの間違いではないのか!?」
何とか『冗談です』との答えを引き出すべく問い質す。
晴久は、弁明する晴賢ではなく同行した目付に視線を向けるが、目付は晴賢の弁が事実であると肯定する視線を返した。
こんな場で冗談が飛び出す期待をする方がどうかしているが、晴久はそれでも期待せずにはいられない。
否定の言葉が欲しい一心で。
「残念ながら……」
しかし、出てきた言葉は無情にも肯定の一言であった。
「……ッ!」
もう晴久は絶句するしかなかった。
一方、晴賢は冷ややかな眼を隠しつつ考える。
(何とみっともない……と言いたい所だが気持ちは分かる。実際に対峙したワシも未だに信じられん。まさかこの策が見破られるとは誰も思うまいよ。だが、尼子にとっては不運な事も陶家にとっては好機とみるべき! その日は予測より近いと見て準備せねばなるまい)
主の狼狽を他所に、晴賢は不穏な事を考えていた。
「百歩譲って実績ある信長が読んだのはまだいい! 確かに奴の実績は目を見張るものがある! だが斎藤嫡男の龍興だと? そんな名も知らぬ奴にまで……!!」
(それも確かにな。ワシも全く名を知らんかった。何なら叔母の斎藤帰蝶の方が名は通っておる。……ソレはソレで妙な話でもあるが)
主の憤慨には晴賢も同意見である。
あの戦を、無名の者が支配していたとは、誰に話しても信じてもらえないのは想像に難くない。
(例え三好を倒したとて、その後も何ら楽観視は出来んと言う事か。独自に探りを入れねばなるまいな)
「何者なのか調べさせよ!」
「はッ!」
「今後の戦略の見直しをせねばなるまい……! 何とか朽木の防衛を継続させる援助を考えねば……!」
この時、まだ尼子家としては朽木の情報は掴んでいない。
まさか若狭奇襲に失敗した挙句、朽木防衛も出来なかった事を把握していない。
晴久は今回、六角への支援の見返りとして、その時が来たなら京の明け渡しを約束させていた。
この作戦を成功させ六角の命脈を繋ぎ、三好の背後を脅かし、本格的に京の奪取へ動くハズが、その大前提が崩れた。
朽木防衛の恩を売ってこその戦略だったのに、売るべき恩が全く売り物になっていなかった事に気が付いていない。
後日、晴久は朽木陥落の一報と、龍興がまだ元服直後の少年武将である事を陣地で聞き衝撃を受ける。
更に密かに動いていた三好の一手が、尼子にとってマズイ状況となった凶報まで飛び込んできた。
晴久は態勢立て直しの為、撤退せざるを得なくなったのだった。
【近江国/岐阜城(史実名:安土城) 織田家】
「そうか。何とかなったか。お濃の傷も大した事はないのだな」
信長は岐阜城にて、帰還してきた武将たちから報告を受けていた。
帰蝶本人は負傷の療養により現地で遠藤直経と共に滞在中であるが、その他の武将は今川家の武将も含め全員引き上げてきた。
「勝つ為に必要な事は全て許可した。だが、それでも厳しい戦だとは思っておったが、よくぞ生き残った!」
信長は帰還した武将達を手放しで褒め称えた。
この中の何人かは欠けていた可能性もあった。
帰蝶を筆頭に何人かは手傷を負いはしたが、全員顔を揃えられたのは僥倖に他ならない。
「九鬼殿の御子息が備えていた事が我らの命を繋ぎ留めました。まさかあんな船を考案しておられたとは」
あんな船とは竹束装甲の竹甲船である。
帰蝶ら決死隊が生き残ったのは竹束の頑強さによる所が大きい。
「今回の為に備えた訳では無いがな。代用品でそれなりに効果があったのは幸いだったわ」
(代用品? アレ以上がまだあるのか!?)
「それよりもだ。幾つか聞き捨てならない言葉が飛び出してきたな。あの陶晴賢に毛利兄弟か……」
信長は全てが上手くいった事に満足するが、尼子の来襲を読み切っても、驚く点が皆無と言う訳ではない。
尼子が相手と読んでも、実際の相手が陶晴賢と毛利一族だったのは本当に驚いた。
しかも、毛利は兄弟勢揃いでの参戦だった。
信長は陶晴賢の名は知っているが、直接関わった事はない。
だが、史実では厳島の戦いで死んでいる武将が生き残り、しかも織田家と相対する歴史変化には驚いた。
歴史改変は同時多発で起こす事を目標に掲げているが、知らない所で変化が起きている事には満足しつつも、かなり危うい所であったのは肝を冷やす。
更には毛利兄弟である。
「毛利が尼子に吸収されておるのは知っておったが、ここで出てきたか」
史実で羽柴秀吉が攻略担当した毛利家。
今の毛利家は尼子に吸収され、史実で織田と争った程の力は有していないが、その代わり今の織田も史実の実力には程遠い。
むしろ、毛利兄弟が全盛期で攻めて来る今の方が危険極まりない。
その中でも極めて危険なのが吉川元春だ。
「まさかあの吉川元春と戦っていたとはな。遠藤と二人掛かりだったとは言え、お濃が戦って生き残ったのは信じられん……」
史実における吉川元春の武勇は熟知している。
元春はその力を存分に発揮し、羽柴秀吉を徹底的に苦しめた。
これがどんな結果に繋がったのか?
論理を飛躍させるなら、元春の武威が、秀吉の信長への援軍要請に繋がり、それが本能寺となってしまった、と邪推も出来てしまう相手だ。
そんな元春が10年以上前倒しで戦う事になったのは悪夢であるのに、帰蝶が直接生き残って生還したと言うのも、喜ばしい事ではあるが、呆れる気持ちも確かにあった。
「織田様が『あの吉川』と言う程の武将だったのですね。あの不届き者は」
「ん? あぁ。いかにも。奴は中国地方でその名を轟かせておる。そんな奴に狙撃を成功させるとは、お濃といい涼春殿といい、ワシはもう何に驚いていいか分からんよ」
同席していた北条涼春が自分の立てた手柄の重さに困惑しつつも、誇らしげであった。
「お濃からも念押しされておる。褒美を弾むようにとな」
「はッ! 有りがたき幸せ! ならば、この後も濃姫様と滞在を共にする事をお許し下さい!」
「なッ!? そ、それはどうかと思うぞ……!?!?」
困惑したのは信長ではなく氏真であった。
氏真の困惑を『織田に迷惑が掛かるから止めろ』ではなく『自分だけズルイ』との思惑だと信長は感じたが、色々もう、その手の事は諦めたので願いを聞き届けた。
「わかった。その程度であれば許可しよう。誰に憚る事も無く、お濃の元へ来る事を許す」
「ッ!!」
その発言には氏真以外の全員も驚いた。
涼春は確かに今川家にいるが、特に関係を結んでいる訳でもない北条家縁者でもある。
戦国時代の婚姻は、スパイ活動も暗黙の了解となっている。
そんな人間に自由通行の許可を与えたに等しいのだ。
だが、織田家は関所を全撤廃した勢力である。
流通の自由化と引き換えに、スパイの類も入り放題だ。
(……まぁ今更か。身元がハッキリしている分、監視も容易いだろう)
勿論信長もスパイの役割に気が付いていないでは無いが、逆に涼春を通じた東国の情勢収集も出来るかの知れないと、損得を天秤にかけた上での判断だ。
「よし。皆ご苦労であった。今川家には改めて礼をさせて頂く。一時はどうなるかと思ったが、結果よければ全て良しとも言う。此度の戦ではこれ以上を望めぬ程の成果であった!」
諸将が退出した広間で、信長は大きく息を吐いた。
《これもある種の執念なのかのう?》
《何がです?》
《義龍じゃ。義龍が倒れ最悪の時期に代替わりが行われる中で、その死と引き換えの策が功を奏し、龍興は周辺諸国に舐められないどころか警戒を抱かせる実績を残した。親が子の為に最後に残す成果としては文句の付け様が無かろう》
《確かに。そうですね。今回の戦が失敗していれば、飛騨、信濃の勢力、それこそ武田が絶好の好機とばかりに攻めてきても何もおかしくは無かったですね》
《正に危機一髪という奴よ……! ハハハ! 今になって震えがきよったわ……!》
信長は身を屈め己の腕で体を包む。
誰も居ないから出来る仕草だが、それ程までの綱渡りだった。
まさかこの後、大どんでん返しが控えているとは、若狭の奇襲を読んだ信長も予測できなかった。
【美濃国/稲葉山城 斎藤家】
朽木の状況を確認して帰還した龍興。
「父上……。……ッ!!」
龍興は己の腹に脇差を突き立てた。




