158-1話 若狭湾決戦 吉川元春
158話は2部構成です。
158-1話からご覧下さい。
【若狭国/若狭湾 斎藤家 若狭九鬼水軍 九鬼浄隆】
若狭九鬼水軍の速度は速かった。
正に波を切るとはこの事を言うのだろう。
別に尼子水軍の船より性能が勝っている訳でも、特殊な潮目を利用した訳でもない。
ただ純粋に気合が勝っていた。
若狭九鬼水軍としては待ちに待った初実戦でありながら、国家の存亡を掛けた戦いである。
一方、尼子水軍は適当に射程を取って痛めつけて撤退するつもりだった。
そして、尼子晴久に使い潰されぬ様に余力を残したい陶、毛利の思惑。
さらに奇襲を読まれた衝撃と、防御を固めるだろうとの予測の外し。
戦意の差は最初から段違いである。
尼子水軍は、完全に機先を制された形になった。
これで、地形、海域、波風、潮目の条件は互角になった。
後は荒くれ者達が、どれだけ暴れられるかに掛かっている。
「後は、如何にして濃姫様の乗る船を敵に近づけるかだが……」
九鬼浄隆の役目は、全体の指揮を執りつつ、なるべく有利な形で帰蝶の乗船する関船を手ごろな敵船に上手く誘導する事だ。
今のところ敵が狙いを察知している様には見えない。
むしろ、打って出てきた事に驚いている様にも感じる。
「濃姫様は最南端の船だが……。よし! 右翼より船を進めよ!」
こうして若狭湾の戦いの火蓋が切って落とされた。
【若狭湾/尼子水軍 陶晴賢】
「正面から……応戦するつもりか……?」
「その様ですな。斎藤義龍は猛将であり、これまれでの経緯から考えても、どれだけ侮ったとて、最低でも真に智謀も兼ね備えた将。こちらも覚悟を決めなければ怪我をするハメになりますぞ」
奇襲を読まれただけでも信じ難いのに、更に信じられない光景を作り出す斎藤水軍に絶句するしかない陶晴賢と、冷静に状況を分析しつつも冷や汗が止まらない小早川隆景。
斎藤家の船団は、数こそ劣るが一糸乱れぬ統率で迅速に陣を完成させた。
「水平に並べた恐らくは雁行陣。しかし横幅はあるが層が薄い。余り効果的とは思えませぬが、相手が相手。何か別の狙いがあると見るべきでしょう」
本来の雁行陣は横幅を取りつつも厚みを持たせてこその陣形である。
しかし九鬼浄隆の採った雁行陣は、横腹を晒している状態である。
ただ、船の舳先は尼子軍に向けている。
だから本来の用途とは違うが、承知の上での陣形と言う事になる。
「確かにな。何が狙いだ……?」
奇襲を看破したのに、隙を晒す陣形で対峙する敵軍。
不気味具合は、とっくに許容をつき抜けている。
「……仮にそのまま敵全船が進軍すれば、北から南まで一気に戦端が開かれますな」
「馬鹿な!? それでは消耗戦ではないか! ……ッ!? ま、まさか消耗戦が狙いなのか!?」
「無い、とは断言できませぬな……。こちらの狙いが『適度に損害を与えた上での撤退』だとは流石に掴んではおらぬでしょう。ならば敵の目線で最悪を想定するなら、若狭への上陸となるでしょうから、当然阻止に動くはず」
「仮に上陸されたとしても、その前に最大限損害を与えるべく捨て身で動く、と言う事か。普通それが分かっていても大多数の凡夫は決心つけられず出し惜しみして、結果、もっと酷い損害を被る物。かつての大内家の様に。さすがは斎藤義龍。戦の道理を心得ておる……!」
斎藤義龍は美濃の稲葉山城で病床にあるが、その評価は鰻登りであった。
「覚悟を決めるしかあるまい。我らとしても戦わずしての撤退は出来ぬ事情がある。それに敵が防御を固めないのであれば『損害を与える』と言う目標の達成は容易だ。……ならば付き合った上で礼を尽くすのが道理よな!」
「……そうですな。(やはりそうなるか。流石は西国無双の侍大将と言うべきか。……良くも悪くも)」
隆景は『陶晴賢なら、その選択をするだろう』と読んでいた。
陶晴賢は『西国無双の侍大将』と称えられ大内家で活躍するも、独善的手腕は反発を生み敵も多かった。
そんな晴賢は、穿った見方をするならば『智勇兼備の侍大将。しかし所詮は侍大将止まり』とも言えた。
ただ、腑抜けてしまった大内義隆の代わりに軍事に没頭するしかなかった事情もある。
そんな諸々の事情合わせてキッチリ応戦するのが、陶晴賢の良い所であり、悪い所でもあった。
(ワシならば敵の進軍に対して徹底的に間を取って戦い、綻びを待つ所だが……)
隆景は迷った。
晴賢が失脚しては毛利家としても困るが、己の判断が正しいとも言えないこの状況。
(いや! 何が正解かは終わってみなければわからん! ワシも現状で満足しては何も成す事は出来ぬ。やるしかあるまい!)
隆景は悩んでいた。
それは、今回の作戦についてでは無く、己の進むべき道である。
毛利三兄弟は政の隆元、武の元春、智の隆景などと称えられたりもしたが、今後、毛利家が尼子家で伸し上がり天下に到達するには、各々が智、武、政の全てを備えなければならない。(137話参照)
勿論、隆景も己の不足している部分は理解している。
毛利兄弟は3人揃ってようやく元就に並ぶ。
何か一つでも元就に匹敵するなら、それはそれで凄い事なのだが、父から天下への道を託されたからには、現状で満足しては何も成せない。
例えどこかに弱点があったとしても、それは平均を軽く上回った上での弱点でなければならない。
(父上が天下を目指すなどと言わねば楽だっただろうに。しかし、こうなってしまってはな……)
それが隆景には悩ましい事なのだが、更に悩ましいのは、現状、毛利元就に最も近いのは4本目の矢である陶晴賢かも知れないと認めてしまっている事だ。
晴賢は武は文句なく水準以上だが、後は政治的判断が備われば化ける逸材であるし、その政治的判断力も元就に導かれた結果、備わりつつある。
(だが、後塵を拝するつもりも無い!)
今は同志とは言え、血の繋がらない他人が偉大な元就に近いと言うのも釈然としない。
隆景は晴賢の採る戦法を尊重しつつ、己もこれを契機に一皮剥ける事を誓うのであった。
「よし。こちらも進むぞ。予定通り治部殿(吉川元春)を中心に魚鱗陣で進む。射程に入り次第、弓鉄砲を射掛けよ。その機の見極めは治部殿と各船頭に任せる。移乗攻撃には数で押しつぶすのだ」
一方、そんな隆景の気持ちなど知らない晴賢は、淡々と応戦を指示する。
「中軸の備中守殿(毛利隆元)に伝令! 当初の予定より損害の大きい戦いになる事が予想、いや確定した! 適切に敵を捌きつつ、救助も同時に行うよう要請するのだ!」
敵の戦法には驚いたが、いつまでも驚く晴賢でも無い。
数の利がある。
天下に名を轟かす野望がある。
元就に後事を託されたプライドがある。
「この大船団に正面から挑む覚悟と意気は買ってやるが、だからと言って負けてやるわけにはいかん。いくぞ!」
【若狭湾/斎藤家 若狭九鬼水軍 九鬼浄隆】
尼子水軍と若狭九鬼水軍は、既にお互いが矢玉を届かせるだけなら届く距離まで接近していた。
ただ、有効射程まではまだ遠い。
お互いが、出来れば殺傷射程まで近づいて強力な一撃、しかも先制攻撃を叩き込みたい。
先に攻撃した方が、騒いだ方が負け、とでも言わんばかりの我慢比べであった。
海は殺意に反して静寂に包まれていた。
聞こえるのは波の音と船が軋む音、のんきな海鳥の鳴き声、魚が跳ねて着水した音、後は指示を出す船頭の声しか聞こえない。
「よし! 左翼櫂漕ぎ2回に対し右翼1回の割合で漕ぐ! 力の具合は5割だ!」
若狭九鬼水軍の北側右翼に配置された船の船頭が指示を飛ばす。
決して荒々しい操船はしない。
非戦闘時、あるいは回り込み、離脱時には漕ぎ手の腕も千切れんばかりに櫂を漕いで速度を出す戦船も、敵との接触時には慎重に操船する。
勿論、戦闘中でも全速力を出す場合もあるが、仮に速度を出していたとしても、正面衝突は避けねばならない。
日本の船は構造上の欠点から、衝突された方は当然、衝突する方も航行不能に陥る致命的な損壊を招く恐れがあるからだ。
日本の船と南蛮の船の差に『竜骨の有無の差』がある。
戦国時代の日本の船は竜骨を用いていない。
竜骨とは船の船首から船底、船尾に掛けて通された、人間で言う所の背骨だが、背骨と違うのは折れたり曲がったりせず、とにかく頑強さが追求される。
この頑強な竜骨が外洋の荒波に耐えられる船となり、戦国時代には遠い外国諸国が日本まで到達する事を可能とした。
この竜骨だが武器にもなり、構造を利用し破城槌と見立て、船首衝角を用いた突撃攻撃が可能になるのだが、一方、日本の船には竜骨が無いので外部からの衝撃にどうしても弱い。
突撃など以ての外であろう。
誤解を恐れずメチャクチャ誇張して例えるなら、日本の船は『豆腐』だ。
そんな豆腐同士の衝突した時の損害は、もはや神のみぞ知る領域だ。
言うまでも無く実際の戦船は豆腐と違い、波風の影響で接触する事もあるし、戦争に使う物なのだから『衝突、即、大破』となる程に脆い訳ではないが、構造の大くは釘やら鎹で、板を繋ぎ合わせただけの船である以上、過信は禁物である。
それも承知で、敢えて突撃敢行を行う場合もあるだろうが、それは本当に最後の手段となるだろう。
陸の乗り物、例えば馬が潰れたとて歩けば済む話だが、海で船が潰れたら泳げば済む話、では済まされない。
海賊衆は荒々しいが、それはあくまで人間が荒々しいのであって、操船まで荒々しいのでは困る。
陸地と違い絶え間なく動く海上を相手にする以上、操船は繊細な匙加減も求められる。
そんな繊細な行動が求められる船で、普段の警備とは違う初の大規模戦闘を行う若狭九鬼水軍。
九鬼浄隆は繊細に全軍のコントロールをしつつ、敵との距離を確認していた。
遠眼鏡は無いので経験だけが頼りだ。
「敵船との距離1町(約110m)だが敵に動きは無し! まだ堪えるか? 何と辛抱強く強欲な事よ!」
敵も一撃必殺を狙っているのだろう。
数に任せた雑な攻撃を選ばず、必殺射程で確実に仕留める敵の戦略に浄隆は安堵した。
「……よし! 先制攻撃を譲ると言うなら貰ってやろう! 右翼、鉄砲隊準備出来ているな!? まずは弓隊構え! 目標前面の敵船頭上!」
浄隆は、まずは鉄砲より射程の劣る弓での攻撃を指示した。
倒せなくても届けば良い。
頭上からの攻撃で気を逸らすのが目的だ。
「放て!」
浄隆の号令が、声を反射する物体が陸に比べ少ないのに海上に轟く。
その瞬間、この戦場は最初から騒然としていたかの様に喧騒が湧き上がった。
そして赤い軌跡が長い滞空を経て敵船に吸い込まれる。
放たれたのは火矢であるが、別に本気で船の炎上を狙った攻撃ではない。
もちろん炎上すれば儲けモノだが、真の狙いは消火に人手を割き、数の不利を縮める為である。
そして敵からの応射も当然の如く放たれるが、兵力に対して放たれた矢は少ない。
消火に人員が割かれたのであろうか、一定の効果はあった様である。
「次! 鉄砲隊! 目標は敵船の木楯!」
今回、斎藤軍は鉄砲500丁用意した。
当初は朽木攻略の為に持ち込んだ鉄砲であるが、今は35隻ある関船に10丁ずつ配置されている。
500丁を固めて配置し破壊力を増加させる事も考えたが、今回は選ばなかった。
元々数で劣るのだから殲滅など不可能。
だから浄隆及び帰蝶は、今回の海戦を敵の殲滅ではなく、陸戦以上に損耗率で考えた。
戦国時代では、戦で1割の損害を出したら撤退の判断をしなければならない時代である。
ならば敵の船、全てを相手にする必要はない。
尼子水軍の安宅船10隻、関船50隻と陣容は絶望的だが、1割で考えるなら安宅船1隻、関船5隻沈めれば敵は撤退するはずだ。
貴重な木材と、育てるには時間がかかる水軍兵を1割失うなど、戦としては壊滅的打撃を受けたに等しい。
その上で、『木楯』を狙うのは理由がある。
船の縁には木楯が並べられ矢玉から身を隠すのに利用されるが、これがあると移乗攻撃の邪魔になるので何らかの方法で排除しなければならない。
引っかけて剥がし落とすか、腕力で叩き潰すか?
遠距離なら鉄砲が一番であろう。
鉄砲の衝撃で遠距離から粉砕できれば良し、出来なくてもダメージを与えて破壊し易くするも良し。
そして、命中精度の悪い鉄砲の弾が逸れて、船体に当たるならば威嚇になるし、兵士に当たるなら儲けものだ。
「敵は勘違いしているようだが、もう既に我らにとって必殺射程だと教えてやろう! 放て!!」
移乗攻撃の為の入り口を作る射撃命令が浄隆の口から全船に伝えられる。
なぜ、敵と違い既に必殺距離なのか?
単純に火薬を増やしたからだ。
勿論、突然思いついて実践する様な危険な事はしていない。
若狭に派遣されて以降、水軍兵法研究の一環として、敵船の楯を鉄砲を使い従来より遠距離で破壊でき、尚且つ、鉄砲も使用不能にならない適切な火薬量を見極めていたのだ。
その結果、遠く見える尼子水軍は先制攻撃を許し、しかも損害を与えられた事に戸惑っている様であった。
「順調に北から戦端が開かれたな。これぞ横雁行蔦絡み陣! これで濃姫様達が移乗攻撃もしやすくなるだろう」
浄隆と帰蝶が選んだ戦法は、北から順に戦い、最後の最後で南の帰蝶が戦いを始める事だ。
最後の最後で蔦の先端が絡みつく様に。
わざわざ弱点の横腹を晒した雁行陣を敷いたのは、北で戦端を開き攻撃を集中させ、南を手薄にし帰蝶に攻撃を及ばせず、なるべく損害無く、移乗攻撃を成功させる為の工夫であった。
「……まぁ、そう大した陣ではないがな。むしろ愚かな部類かもしれぬ。……これが指揮官の重みか」
先の先制攻撃の時とは違う苦痛の表情で自嘲する浄隆。
何故なら、これは自軍の損害が1割超えても退くつもりがない、本来なら避けるべき、大損害と引き換えに敵の退却を狙う捨て身の陣。
時間を掛けては却って損害が増大すると判断し、一気に短時間で目標を達成する為に選んだ戦法だ。
せっかくここまで育て上げた若狭水軍と、見知った顔の部下達を死に追いやる断腸の戦法でもあり、浄隆が自嘲するのも無理はなかった。
「後は、濃姫様達の手で何とか数隻沈めて貰えれば防衛は成る! 時間との勝負と心得よ!」
【若狭湾/尼子水軍 吉川元春】
敵の先制攻撃に泡を食う形となった尼子水軍。
吉川元春の乗る安宅船に流れ弾が何発か当たったが、もちろん、そんな弾で沈む安宅船ではない。
ただ、己の前方を行く関船は楯の一部を失う損害を出した。
「何じゃぁ? 敵の鉄砲はこんな射程で楯を破壊するのか?」
「お、恐らくは火薬の量を増しているんでさぁ! それより治部様! 頭を下げないと流れ弾が当たりやす!」
「このワシが流れ弾で死ぬ訳が無かろう?」
吉川元春は己は不死身だと言わんばかりに豪語する。
確かに弾は届いているが、それは本当に届いただけ。
甲冑を貫ける威力には満たないから当たっても死ぬ可能性は低い。
だからと言って、甲冑の及ばない箇所に当たる可能性もゼロでは無いのに、銃撃の前に無防備で仁王立とは正気の沙汰ではないが、元春はまるで意に介さない。
「それよりも何だこの歪な戦いは? 何かあると言っているも同然では無いか」
敵の北側右翼が、自軍の左翼に攻めたてる。
その結果南側の自軍右翼は、一部が左翼の救援に向かっていた。
「しかも、戦端を開いておきながら北の攻防には何の思惑も感じぬ。いや、思惑が無いのが思惑? 違うな。北はこれで仕事を終えた……? ふーん……?」
敵の南側左翼は、北側の戦闘に対し援護をする等、特に何もアクションを起こしていない。
ただ漫然と櫂を漕いでいる様にも見える。
つまり作戦通りなのだ。
元春には、それが強烈な違和感に感じて仕方ない。
「……狙いは南か?」
元春が元服前11歳頃の話である。
子供の分際で元就の許しも得ず、強引に戦場に飛び出し戦果を挙げ、元就をも呆れさせた剛の者。
しかし、猪武者かと言えば違う。
元就が元春に対し『眼東南を見て、心西北にあり』と称したとされる。
意味としては、『心ここに在らず注意力散漫』―――と言う意味ではなく『全方面に置いて隙が無い』と取るべきであろう。
その元春の直感が『戦闘の始まっている北より、静かな南が危険』と告げていた。
「船頭! 船を南に移動する事は可能か?」
「へぇッ!? 無茶言わんでくだせぇ!? こんな芋を桶で洗うかの様な状況で南下って、お味方の船を沈めながら進むに等しいですぜ!?」
「ま、そりゃそうよな。仕方ない。兄上と尾張守殿(陶晴賢)に伝令だ。ワシは船から移動して南に当たる、とな。以後は兄上の指揮に従え!」
陶晴賢より先陣を任された元春だが、別に任務放棄ではない。
先陣として戦うべき激戦区が別にあると察したならば、そこに行くべきだと判断しただけだ。
「えぇ!? こ、小早用意!」
銃弾にも怯まない元春の性格を短い付き合いながら思い知った船頭は、止めても無駄だと悟り小早を用意させる。
「よし! 北では大した武功は上げられまい。只でさえ不慣れな海戦では武も活かせぬ! 我こそはと思うものは共をせよ!」
元春は配下の豪傑に号令を掛けると小早に乗り込み、激戦区となるであろう南に向かうのであった。




