156-1話 斎藤龍興 焦燥
156話は2部構成です。
156-1話からご覧下さい。
【美濃国/大垣城への道中 斎藤龍興軍】
「わ、若! お待ちくだされ!」
仙石久盛が『若』と呼ぶ男を必死に制止する。
若と呼ばれた男―――斎藤龍興は、軍の先頭を馬で駆けていた。
「戯け! 大垣では伯母上(帰蝶)ら援軍諸将がお待ちなのだ! 斎藤軍総大将たるワシが、礼を尽くさぬでどうする!?」
何せ斎藤龍興は初陣総大将なのだ。
どんなに頑張ったって役には立たない。
それに秘めたる決意もある。
ならばせめて、礼節だけでも家の代表としてキッチリ筋を通すのが、己の出来る唯一できる役目であると考えていた。
「クッ! 仕方ない! 半兵衛(竹中重治)! ワシは軍勢を率いて後から参るから、馬回りを率いて若と共をせよ! 何か決め事があれば後で知らせよ!」
「は、はい!」
久盛はやむなくそう指示すると、己は軍勢の責任者として龍興の後を行く事にした。
龍興の考えも理解は出来るが、引率する責任者が現場に居ないのも問題だ。
その点、副将の久盛は実質的な総大将なのだから、それ程の問題は無いが、久盛は一抹の不安を覚えた。
「兵を駆けさせよと仰るか……。若の気持ちは分かるが、参ったな……」
騎馬の龍興と、その他大勢の足軽歩兵ではスピードが違いすぎる。
原付バイクのスピードが出せる馬と、武具甲冑を装備する人では最初から勝負にならない。
この辺りは騎馬隊運用にも通じるが、完全騎馬隊でない限り、馬に乗っても出せるスピードは人と変わらない。
付き従う足軽から雑兵に至るまで徒歩なのに、騎馬武者の己だけが馬の利点を発揮してしまえば、それは突出であり自殺と同じである。
戦の最中の緊急事態でなら兵の尻を蹴飛ばしてでも走らせるかもしれないが、今は遠く朽木に至る道程であり、この先には山や川が多数待ち構えているのに、こんな所でスタミナを消費させる訳にはいかない。
「い、如何されますか?」
久盛の側近が、本当にその命令を実行するのか尋ねる。
「まさか! 伊吹山を通過する前に麓で夜を明かす計画なのだ。体力の配分を誤って無駄に消耗しては山越に支障をきたす所か戦場にたどり着く前に瓦解してしまうわ! ……とは言え、丸っきり無視する訳にもいかぬ。間延びしてしまうが、気持ち行軍を早めさせる。斎藤領内だから隊列の乱れを突かれる心配もあるまい」
「そ、そうですね……」
北近江を斎藤家が支配して以降、美濃から近江へ向かう途中の伊吹山も行軍できる程度には道が整えられている。
ただし、現代の舗装と履物とは訳が違う。
土の道に草鞋、又は足半である。
足半とは、足のサイズに対し、つま先から半分程度までしかない草鞋である。
ルイス・フロイスは『日本人は爪先で歩く』と記している。
当時は裸足で作業したり出歩いたりするのは日常光景であり、戦場で裸足の雑兵も珍しくない。
足半は、どちらかと言うと、裸足で作業する人のスパイク的役割だったのかもしれない。
死ぬ程足裏や脹脛が鍛えられそうだが、現代でも瞬発力を求められるスポーツは基本は爪先で動くし、とっさの対処に備える場合も踵は浮かせて構える。
足半は慣れれば俊敏性にも優れ、戦場でも兵士のお供として活躍したのだろう。
そんな足半は、信長が褒美として与えたとされる物が現存している。
ただし、優れた足半と当時の歩行法であっても、現代の道路や靴程の性能は望めない。
数十㎏にも及ぶ武装と荷物を運ぶ疲労とスピードも考慮しなければ、いざと言う時に動けないでは困る。
(大殿の期待に応えようとする若の気持ちも分かるとは言え……困った事よ)
誤解を恐れず言うなら、騎馬とは身分と武勇に優れた者が、疲労せずに移動する手段である。
緊急時以外に馬の能力を発揮させるのは規律ある行軍の妨げにもなり、良い事など何もない。
神速を旨とする織田軍も、その軍法に強い影響を受けている斎藤軍もその辺のメリハリは決まっている。
要するに時と場合である。
しかし龍興は逸る心からか、その事を失念してしまっていた。
斎藤軍全体でも必勝を願うのは共通だが、死に行く父に良い報告が出来る様にと逸る龍興と、どう考えても楽勝の朽木六角攻略と考えている兵士達では、熱意と気合の差が歴然故のすれ違いであろうか。
(きっと平手殿も同じ気持ちだったのだろうな……)
久盛は龍興の守役でもあった。
平手政秀は一時期斎藤家にも仕えていた為、信長の破天荒を極めたうつけ振りを、今なら出来る笑い話として話していたが、それを思い出した久盛の不安は大きくなるばかりであった。
【美濃国西/大垣城 広間】
「援軍として合力して下さる織田、今川軍の諸将の皆様、お待たせいたしました! 斎藤新九郎龍興にござる!」
「え? 新九郎殿!? 予定より随分早い到着ですね?」
帰蝶は予定よりも2時間は早い龍興の到着に驚く。
ついさっき出陣式が終って龍興の到着を待つ間、今川援軍との連携の詳細を決めている最中であった。
その広間に、斎藤龍興、竹中重治らが飛び込む様に入室してきたのだ。
「はい! 朽木などさっさと攻略して父上に戦果を報告しなければなりませぬ! さぁ! 出発致しましょう!」
「ちょ、ちょっと待って!? ……! いえ、お待ちを! その前に、仙石殿は?」
帰蝶は龍興の逸る行動を宥めつつ尋ねる。
帰蝶の視線は竹中重治に向いていた。
今必要なのは初陣の龍興より、実質大将の仙石久盛である。
「仙石殿は後続軍を率いております。申し訳ありませぬが今暫くお待ち頂けます様、お願い申し上げます、と言伝を預かっております」
「そ、そう……よね」
「なんだと!?」
帰蝶が安堵する一方、龍興は己の命令が実行されていない事に驚く。
「か、徒歩兵と馬では勝負になりませぬ故に、仙石殿が最大限徒歩兵に出来る速さで率いて参ります! その間、軍議にて詳細を詰めて欲しいとの事!」
龍興の怒りを察した重治が叫ぶ様に理由を言った。
さらに僅かに『軍議にて』との言葉を強調して。
「ぬぅ……!」
龍興は極めて不満顔であるが、諸将は全てを察した。
「まぁまぁ。斎藤様の熱意に下の兵が付いていくのは至難の業でありましょう。仕方ありますまい」
若手武将にありがちな暴走を察した岡部元信が、最大限配慮した言葉で場を嗜めた。
歴戦の武将達は、己の初陣を思い出し笑顔で同意する。
「某も若いころは逸る心を抑えられず、親父殿に良く叱られましたわ。ハハハ!」
元信が自分の失敗を笑い話として場の笑いを誘う。
歴戦の勇士たる元信の失敗談は場を和ますのに十分であった。
「そ、そうですか? そう言う事であれば……」
そんな配慮に気が付かぬ龍興は、『父』と言う言葉に若干反応しつつ、とりあえず怒りを収めた。
《初陣だから血気盛んなのね》
《そうですねー……》
もちろん理由はソレだけでは無い。
初陣で血気に逸るから暴走する程に龍興は愚かではない。
ただただ、父の寿命が故にである。
従って、義龍の病状を知らぬ帰蝶に、その想いは見抜けなかった。
《気持ちは分かるけどね》
かつて己も強引に野盗討伐に参加した。
念願だった自由に動ける体を手に入れ、歴史を変える本格的な一歩を踏み出すべく、信長と信秀を説得して初陣を飾った。
結構無茶な囮作戦も自ら実行した。(11、12話参照)
ただし、大筋に逆らう様な暴走はしていない。
全て信長、信秀の指揮の範囲内での行動だ。
しかし今の龍興は、後続軍を置き去りにする危険な事を犯している。
勿論、斎藤家の領内なので致命的な事にはならないだろうが、新兵の龍興よりも百戦錬磨の足軽の目には、不安を感じる光景だったかもしれない。
それが楔となり瓦解に繋がらないとは言い切れない。
誤解の無い様に記すが『大将の突出は絶対悪』と言う話ではない。
この行為は信長も度々行っている。
史実の桶狭間に始まり、本圀寺の変、一乗谷城の戦いなどで自ら先陣となって動いている。
ならば龍興がダメで、信長が良い理由は何なのかと言えば『本当に必要か否か』に尽きる。
桶狭間では大将だからと後方で踏ん反り返っていては、今川義元に勝てるハズも無かった。
本圀寺の変は、己が御輿と担ぐ足利義昭の危機であり、何を置いても真っ先に駆けつけなければならなかった。
一乗谷城の戦いでは神懸り的な読みと、天候に恵まれた千載一遇の好機を活かすには己が出るしかなかった。
全て、必要だから突出したのであって、今現在の龍興に突出する必要性は、個人的事情以外に皆無であった。
「……」
「……」
笑いが途切れ、何となく気まずい雰囲気が漂う広間に、その雰囲気を一掃する声が響いた。
「さて、では内蔵助殿(佐々成政)、今回の我等が役割を斎藤殿に説明して頂けますかな?」
元信の強調を察した今川氏真が、言いながら成政に目配せをする。
もちろん『時間を稼げ』との意味合いである。
「はい。では、我等援軍勢の役目を―――」
佐々成政もその思惑をしっかり感じ取り、代表して決まった援軍の役目を念入りに、時にはワザと間違えて訂正をもらいつつ、じっくりと説明し始めた。
猪突猛進が信条の成政も、このマズイ雰囲気は察している。
仙石率いる本体が到着するまで時間を稼ぐべく、表向きは初陣の龍興に丁寧に説明するが如く話し始めるのであった。
「―――と言うわけで、仙石殿が到着次第、軍議の内容をお伝えし認識の共有を図りましょう。その間、兵には休息してもらい、その後、伊吹山麓まで行軍し、次の日の山越えに備えましょう」
少し、ほんの少し、成政は『次の日』と強調した。
このままでは、龍興が山越えまで一気に済まそうとする、あるいは提案しかねないので、軽めに釘を刺した。
龍興のプライドを傷つけぬ様に細心の注意を払いながら。
「異議無し」
諸将の声が上がる。
龍興の横槍を許さぬ為に。
とはいえ、これは元々最初から義龍と久盛が無理なく進軍できる様に計画、発案した行軍日程である。
異議も何も、計画変更する理由も皆無である。
「如何ですか? 新九郎殿」
帰蝶が鋭い目つきで龍興に承認を求める。
「……。良いでしょう。何も不都合はありませぬ」
もし―――
義龍の病状という特大の懸念が、全軍の共通認識だったらこんな空気にはならなかっただろう。
あるいは全軍一丸となって、朽木まで強行軍と言うのも可能だったかもしれない。
仙石久盛と竹中重治ら真実を知る斎藤軍の一部の武将は、義龍の寿命に対し、健在と振舞うべく通常通り冷徹に事を運んだ。
それが主の望みだと理解しているからだ。
そもそも、義龍の秘密を選んだのは、他ならぬ義龍と信長であり、その命令を守る龍興に責任は無い。
それが義龍の望みだと理解しているからだ。
そして、帰蝶らその他武将は、初陣総大将に隠された真実を知らぬが故に、何の焦りも無く悠然と構えてしまう。
この前代未聞の初陣総大将を成功させるのが、義龍の望みだと理解しているからだ。
だが一方で、龍興は知らぬ振りを強いられ、初陣と父の寿命からの焦りが付きまとう。
義龍の望みを理解しつつも、心がそれを許さない。
誰もが良かれと思って行動している。
だが認識の統一が図られていない。
本来全軍一丸となるべきなのに、完全にすれ違ってしまっていた。
以後―――
伊吹山を抜けて今龍城―――
今龍城から琵琶湖北岸に至るまで―――
トラブル続きとなる―――
【美濃国/伊吹山 山麓 織田軍、今川軍】
「クソ! 何たる事だ!!」
「……気が重いですね」
何故か一歩でも先を行こうとする龍興に振り回される斎藤軍と、援軍諸将との仲裁や調停に、平地より悪路な山間部を奔走する仙石久盛と竹中重治。
暴走する龍興の尻拭いに走る2人には同情しつつも、家を代表する援軍としては苦情を入れない訳にもいかない帰蝶と氏真。
どうしても龍興のペースに引っ張られ、予定より若干行軍スピードが速まる斎藤軍。
大量離脱、と言う程では無いが、脱落する足軽もチラホラ出始めていた。
「……仙石殿、竹中殿。何か問題でも起きてるのですか?」
「そうですな。ここまで急ぎたがるからには何か情報を掴んでいるのですか?」
この頃には流石に異変を察知した帰蝶と氏真。
帰蝶と氏真が成るべく穏やかに質問をする。
龍興の暴走が、2人の責任だけとは思えなかったからだ。
「例えば六角の怪しい動きとか。だから急ぐ必要があると」
「しかし、確たる情報じゃないから混乱させぬ様に私達には知らせずにおこう、と言う配慮ですか?」
何度諫めても態度を改めぬ龍興に苛立つと共に、ここまで頑ななのは何か理由があるのではと、どうしても勘ぐってしまう。
「い、いえ、そう言う訳では無いのですが、偉大な円覚院様(道三)に連なる大殿の子として気負いがあるのは確かでございましょう。どうか大目に見て頂けないでしょうか?」
久盛としては、もう、この板挟みから解放されたいが為に、義龍の病状を漏らしてしまいたかった。
だが言えなかった。
(帰蝶様に兄の寿命を知らせる? そんな事が出来ようハズも無い! 帰蝶様に知られるのを何よりも拒んだ殿のお気持ちを無視する事は出来ぬ!)
ここで、あるいは秘中の秘として伝える手段もあっただろう。
あるいは信長だったらば言うだろう、と言うより実際に言った。(151話参照)
必要だから漏らした。
だが、宗教が絶対の世界である。
死に逝く者の願いを足蹴にして怨霊化させる訳にはいかない。
それが敬愛する主君であるならば猶更だ。
久盛にはその手段は取れなかった。
「まぁ……良くは無いが良いでしょう。急げと言うなら出来る範囲で急ぎましょう。こうなっては何か有るかも知れぬと警戒して動くしかありますまい」
「そうね……。今はその言えぬ何かを問うて軍が瓦解しては本末転倒ですしね」
これは本来ならあり得ない、滅茶苦茶な譲歩であった。
警戒情報ならば全軍共通とすべき所を、それを知らされずとも『従ってやる』と言ったのだから。
理由は幾つかある。
朽木に到着するまで周囲に危険な勢力は存在しない事が一つ。
斎藤家は独立した勢力の強い他家であり、関係が壊れる様な強気の外交が出来ない事が一つ。
そして、信長にも多少の原因があった。
信長は天下を治める意思を示しているが、その肝心要の手段を家臣は当然、帰蝶やファラージャにさえ示していない。(83話参照)
多少なりとも話せない秘密があって、それを伏せたまま従わせるのは、どの時代の国家でも付き物であろう。
それを思えば主君の寿命の隠蔽など、現代でも事例のある極めて普通の事だ。
ただ、織田家は、誰一人として共有していない戦略目標に従う、良し悪しの判断に困る前例と土壌を作ってしまっていた事が一つ、いや0.5ぐらいだろうか?
ともかく、帰蝶と氏真はこれ以上の追及は止める事を選んだ。
視線の先に、どうしても気になる事があったからだ。
「時期が来たら、必ずや説明いたします!!」
その久盛の言い分は、内容こそ言わないが『やはり本来言うべき何かがある』と言ったも同然であった。
(……やはり本来説明しなければ成らぬ事態が動いている、と言う事か)
(……一体何なのかしら。でもこれ以上は聞けないわね)
「ち、治兵衛様!? そ、その言は余りにも……」
「半兵衛ッ!!」
だが、久盛の目は真剣そのものだ。
「ッ!?」
重治は驚いた。
久盛と対面していた帰蝶と氏真は気付いていたが、久盛の手には脇差が握られていた。
無意識であった。
だが覚悟の表れでもあった。
もちろん、聞き入れられなければ帰蝶、氏真と刺し違える、と言う訳ではない。
言えぬ事情がある―――
しかし同盟国への誠意として、限界まで濁して匂わせるしか手段が無い―――
納得して頂けないのであれば腹を切って詫びる―――
それ程の覚悟ある言葉だったからこそ、帰蝶も氏真もそれ以上は追及しなかったのだ。
久盛の決死の謝罪には、言えぬ事情と、警戒すべき何かが起きているのを感じるのに充分であった。
《……ファラちゃん何か知ってる? 殿の方で何か掴んでるの? 裏切りとか何か?》
帰蝶は、信長と帰蝶だけに許された、もう一つの情報手段を探った。
《……。一応、遠距離での情報共有は禁止しているので……》
まだこの頃は、近江織田軍と六角の戦が起きる前である。
信長も義龍の寿命以外の問題は把握していない。
それ以前に、ファラージャを介した情報共有は、神懸かり的な能力として信長教に繋がる恐れがある事から(うっかり共有したこともあるが)禁止している。
ファラージャが言える事は何も無かった。
《冗談よ。(やっぱり何かあるのね)》
ただ、ファラージャとしても万能では無いので、会話の節々から滲み出て掴める情報はあった。
こうして織田、今川軍は、得体の知れない状況に陥りながらも足を速めて進軍する事になった。




