外伝48話 斎藤『怨と縁』帰蝶
この物語は、近江侵攻戦で、松永久秀が陣中見舞いに訪れた後の話である。
【1560年 阿波国/芝生城】
近江の大半を攻め取った、織田信長との面会を果たした松永久秀。
主君の思惑通り物事が進む事に強烈な恐怖を感じたが、2つの仕事が終わった事で、四国阿波の三好本拠地に帰還した。
久秀は主君の三好長慶に事の顛末を報告する。
「どうだった?」
「は。殿の予想の範疇に収まりました。将軍陣営は消滅し、六角が生き残り、織田と斎藤が近江を二分する事になりました。なお、13代と細川様は生死不明の行方不明との事です」
「そうか。まぁ数ある予測の内の一つに収まっただけだ。その結果も我らに害する物は無し、か。ならば我らは我らのやるべき事を成し遂げるのみ」
これで久秀の仕事の1つ目の報告は終わった。
次は2つ目の報告である。
「それで弾正。斎藤帰蝶は生き残っておったか?」
さすがに長慶と言えど、一個人の生死を予想する術は無い。
「はっ。戦で負傷した様子でしたが、生き残りました」
「それは上々。ここだけは我らが結果を制御できぬからな。では、しかと伝えたのだな?」
「はっ。もちろんです。ただ、あの場では気が付いていない模様でしたので、殿の意思が伝わったかは確認できませんでした」
「少々カビ臭い概念だからな。軽い遊びよ。だが、いずれは気付くじゃろう」
「某は首が飛ぶかと冷や汗が止まりませんでしたぞ」
久秀は主君の無茶ブリに文句を言う。
「あの信長が、お主をあの場で斬る判断をする事は無いだろう」
「……そうですね」
信長と思考が似通う三好長慶が毛利元就を斬ったので、何ら安全保障は無いと久秀は思ったが、口にはしなかった。
だが、ちょっとした悪戯心は芽生えたので、ある情報を口にした。
「その斎藤帰蝶ですが、負傷したとは言え、あの遠藤直経を倒したそうにございます!」
これは誤報である。
信長が訂正しなかったが故の誤報であるが、久秀にとって真実はどうでも良い。
ただ主の驚く顔を見たかっただけだ。
「なんと!!」
当然、長慶は己の頭をピシャリと叩いて驚いた。
将軍陣営の猛将遠藤直経の名は、劣勢の将軍陣営において武名を轟かせる存在だ。
それを女の帰蝶が倒したのは、信じ難い噂が真実であったに他ならない。
「武田信繁と互角に戦い、遠藤直経に勝つか。そうかー……。これは参ったな。本当に演目を援助せねばなるまい」
松永久秀が帰蝶のファンで『堺では帰蝶を題材とした演目が計画されている』と帰蝶本人に伝えた。(149-3話参照)
それを三好家がバックアップする事も。
それは半ば冗談めいた話のつもりであったが、長慶は本気で演目のスポンサーになる事を決めた。
「そうですね」
主君の驚く顔に満足した久秀は、堺での広報活動に精を出すのであった。
ところで、久秀が信長に伝えた長慶の意思とは何だったのか?
信長はその意思に気が付かなかったのか?
勿論信長は気が付いていた。
松永久秀の態度に頭を痛めたのもあるが、宗教から完全離脱したのだから怒る理由も無かった。
それに松永久秀、そして三好長慶が逆に油断するかもしれないので、特別に反応する事も無かった。
では宗教から脱却したから通用しない意思とは何か?
それが『帰蝶を題材とした能、狂言、浄瑠璃』を三好家が援助する事である。
これは、本来なら侮辱極まりない挑発行為として怒って然るべきなのだが、宗教から脱却した信長には通用しない。
故に何も起こらなかった。
【1561年 近江国/仮設岐阜城(史実:安土城) 織田家】
ドシッ―――
バシッ―――
寒風吹きすさぶ中、仮設岐阜城の建築と周辺整備が進む中、ノコギリや斧等の建築作業とは別種の音が響く。
帰蝶の奏でる音である。
もちろん、奏でると言っても楽器の様な上品な音ではなく、武骨な打撃音である。
しかし、刀剣が出す音にしては鈍く響く音である。
音の正体は、帰蝶が己の手足を、木で作った人間模型に叩きつけた音。
即ち、帰蝶による武芸訓練である。
思ったよりも長引いた胸骨の負傷からの復帰初日。
さっそく帰蝶は動き出した。
「セヤッ!!」
ブランクを物ともしない上段回し蹴りが木人に炸裂する。
脛当てのお陰で全力で蹴っても問題はない。
療養明けでも足利義輝をKO出来る位の威力は出せる。
「よし!」
会心の蹴りを出した所で帰蝶は脛当てを外し、こん棒で己の脛を打ち付ける。
部位鍛錬である。
「い゛ッだッ!!」
日本の刀剣は叩いて鍛える鍛造方法をとっているが、帰蝶は己の手足も叩けば鍛えられるのではないかと養老山で考え、うっかり情報を漏らしたファラージャからの裏付けを経て日課としていた。
初めは一発軽く木を殴っただけで皮膚が裂けた。
軽く脛を打ち付けただけで悶絶した。
人間の手足は柔らかく脆い。
人体で一番小さな骨が細かく集合した部分である。
確かに手足は一番自由に動かせる場所で使用用途も多岐に渡るが、こと、攻撃という面では本当なら不向きな部位。
とはいっても実際には、殴る蹴るなど誰でもできる。
しかし、何の技術も鍛錬も無く、人を殴って手を負傷する、人を蹴って足を挫くなど当たり前の光景である。
怒り心頭なら、ある程度痛みに対するカバーは効くが、怒りが覚めれば痛みは呼び起こされる。
そうなれば次が続かない。
従って、攻撃に不向きな部位を使って、ダメージを与えつつ己は無傷とするには、拷問の様な部位鍛錬、攻撃の仕組みの解析、何事にも動じぬ精神鍛錬が必要な高等技術なのである。
「すっかり鈍っちゃったわね……」
胸骨負傷で寝込んでいる間も部位鍛錬をやろうとはしたが、起き上がる事もできなかった。
仕方なく世話係りに脛を打ちつける様に命じても、当たり前だが誰も本気でやってくれない。
鍛え上げた手足はすっかり元の木阿弥となった。
「また一からやり直しか……。仕方ない」
帰蝶は棍棒を振り上げ、手足に打ち付ける。
青痣で変色させる程に打ち付ける。
骨が折れる程に打つ必要は無いが、痛みを感じない程の威力では意味がない。
こうして徐々に、足を丈夫に頑強に育てるのである。
防具が無くても全力で攻撃できる様に。
緊急事態故に、素手素足で戦う場面があるかもしれない。
何の防具も身に付けられない場面に遭遇するかもしれない。
本能寺の様に―――
「このままじゃ駄目だわ」
帰蝶は悩んだが、それは衰えた手足の他にもあった。
遠藤直経に己の武が全く通用しなかった事だ。
織田家では上から数えた方が早いぐらいには強い帰蝶。
先の近江侵攻戦では存分にその武威を示した。
浅井長政を破ったフェイント、足利義輝を倒した上段回し蹴り、遠藤直経には通用しなかったが、流星圏のコントロールは織田家内で並ぶ者は居ない。
女では通用しない部分を補う為に身に着けた技術であるが、敗れた以上は、見直しが必要だと考えていた。
「セヤァッ!」
部位鍛錬に一区切りつけた帰蝶。
今度は素足で木人を蹴り飛ばす。
「~~~ッ!! 痛ッた!?」
足を抑えながら尻もちを突く帰蝶。
想像内の痛みなら耐えられるが、想像を超えてくると耐えるのは難しい。
「駄目か~」
やはり、負傷での安静に過ごす時間が多すぎた故の衰えだろう。
「足は休憩。今度は手ね」
木人に拳を、手刀を、掌底を打ち付ける帰蝶。
それにしても復帰初日にしては異常に念入りである。
何故か?
それはムカついているからである。
鈍った手足の強度を早く取り戻したいのもあるが、遅まきながら三好長慶のメッセージである、『帰蝶を演目とした題材を三好家が援助』の真意に気が付いたからだ。
こんな説がある――
宗教が絶対の世界で、失脚、追放、憤死など、悲惨な人生を歩んだ人が、何故か称えられるのは、怨霊化を恐れての事である。
例えば―――
歌仙と称えられるには、あまりに凡庸な上、全員が後継者争いに敗れた惟喬親王派だった『六歌仙』。
崇徳天皇、菅原道真、順徳天皇、後鳥羽天皇ら、悲惨な人生だった人の歌が掲載される『百人一首』。
現実世界では失脚した源氏が、物語の中では栄達を極める光源氏が主人公の『源氏物語』。
この様に、疑いの目を向ければキリが無いが、その中でも特に凄まじいのは、日本に現存する最古の和歌集である『万葉集』。
・藤原4兄弟に謀殺され、大怨霊として天然痘で兄弟を呪殺した長屋王や、無実の罪を被せられ処刑、あるいは自害で非業の死を遂げた大津皇子、有間皇子らの和歌が掲載。
・死の穢れを恐れるのに、何故か全体の4割にも達する「死を悲観する」和歌の存在。
・極めつけは、万葉集成立には大罪人の大伴家持が関わり、没後21年を経ての恩赦後、ようやく日の目を見る事ができた。
最早、最古の和歌集ならぬ『最古の呪術書』とも言える。
少々脱線したが、以上を踏まえ―――
三好家が、まだ死んでいない帰蝶を称える行動を取るとは、如何なる意味があるのか?
『安心してね! 死んだ後も、三好家はキッチリと魂を鎮撫しますよー!』
つまり、帰蝶が死ぬ事を前提とした、そして、それに連座した織田家の衰退を暗に言っているのである。
これを死んだ後ならともかく、生きている内に言うのは悪質な挑発に他ならない。
帰蝶も挑発の使い手ではある。(34話参照)
しかしそれは、女の身分を活かした挑発であるのに対し、三好家は歴史と日本人の宗教観を生かしたスケールの違う挑発を行ってきた。
長慶も相手が信長だから言ったのか?
怒らぬギリギリのラインを攻めたのか?
長慶にとっても、この程度の挑発を受け流せぬ織田家では困るが、笑うに笑えぬ冗談同然の危うい内容でもある。
ただ、幸か不幸か、信長は宗教から脱却したので挑発も挑発として成立せず受け流した。
従って、結果的には何事も起こらなかった。
だが、あの場で、あのタイミングで言う長慶の頭の切れ味と精神の危ういバランス。
信長が『やっぱり病気なのか?』と思い至った一つの原因でもあった。
「ヌガ~~ッ!!」
一方、帰蝶もそれは同じなのだが、挑発として受け取らずとも、ダシに使われたのは気に入らないので、病み上がりなのにムキになって鍛えたのである。
そんなムキになった帰蝶を恐れ、周辺の建築担当の黒鍬衆が我関せずと作業する中、向かってくる人影があった。
「療養明けだと言うのに精がでますな、濃姫様」
「喜右衛門殿!」
現れたのは遠藤直経。
本当は帰蝶を倒したのに、倒された事にされた上、演目でも敗者になる事が確実な遠藤直経である。
「訓練の相手、仕りましょうか?」
直経は織田に臣従後、帰蝶の配下として出直す事になった。
浅井長政は柴田勝家に預けられ直経と離れ離れなのは、お互いが連携して謀反を起こす事への警戒もあるが、勝家が長政を望んだのに対し、帰蝶が直経を望んだのも理由であった。
これは帰蝶より実力が上の人間は、殆ど軒並み大名化し近江戦後の役目が手一杯で、お互いの元に赴き対峙する時間が無くなった事への対策である。
遠藤直経の実力は申し分無い上に、織田家内の信用はゼロに等しい為、大した役目もない。
だから帰蝶の訓練相手として抜擢(?)され、他の織田家臣も『どうぞどうぞ! それは本ッ当ーに、誠に良い考え!』として承認した。
もちろん、勝家や可成、信長にしても、帰蝶の相手が大変過ぎる故の押し付けである。
一方、帰蝶にしても、最近は実力上位の者に挑んでも、帰蝶の立場と、勝家らの立場、長年の付き合いによる馴れと情から、本気で打ち合う訓練が出来なくなっていた。
いや、正確に言うなら出来なくは無い。
ただ、それは本当に大怪我や負傷を度外視した、訓練にはなるが、織田家にとってはマイナスな訓練になってしまう。
その点、直経なら問題ない。
最悪、直経が死んでも役目的にそんなに問題無いし、慣れ親しんだ相手でもない。
そして、武力は文句無しに今の織田家でも五指に入る。
新鮮な緊張感ある相手として申し分ない。
「どうですかな? あの時の続きと参りましょうか?」
直経が言った。
あの時の続きとは、勿論近江での一騎討ちの事である。(147-1話参照)
「いえ。あの時は胸を負傷して最早動けませんでした。続きと言っても勝負は決していたも同然。私の負けです」
直経との一騎打ちで、長期間の安静を強いられる程のダメージを負った。
塙直政が居なければ、討ち取られていたのは間違いない。
「しかし、再戦は望むところ! 今一度お相手願います!」
帰蝶は構えた。
ただし、武器は構えていない。
「甲冑は無し、小手、脛当てのみ。あとはその珍妙な着物。腰に流星圏、背には長巻、地面には薙刀。あの時のままですな?」
「もしもこうだったら? 勝ち筋は本当に無かったのか? ……それを! 確認したいと思います!」
そう言って、帰蝶はあの時と同様、肌に纏わり付く殺気を放出する。
「……ッ!! 全く、信じられぬ御人だ……!!」
直経をもってしても、ここまでの殺気を、自由自在に放出するのは不可能だ。
戦場という超極限状態ならば、脳のリミッターも外れて殺気も怪力も出せるが、ここまでの殺気は訓練では本来不可能だ。
だからこそ―――
本来不可能だからこそ、世の理から外れた存在である帰蝶の本気の殺気は、直経のリミッターを容易に外した。
自由自在に戦場レベルの殺気を放出する帰蝶に呼応され、直経の精神も体も戦場モードに切り替わる。
のどかな岐阜城建築現場が、一瞬で戦場に生まれ変わる。
雑兵なら目を合わせただけで気絶しそうな、渦巻く迫力と圧力である。
もちろん黒鍬衆は避難を開始した。
「面白い! 刃引きこそしているが、当たれば最低でも大怪我確実のこの立ち合い! 本当に何故女に生れてしまったのか!? だからこそ何度挑んでも某には敵わぬ事を、その身に刻んで差し上げましょう! あの時の最初は……こうでしたなッ!!」
直経は槍を無造作に回転させ、地面の石を弾き、散弾を飛ばす。
帰蝶もあの時と同様、横っ飛びに躱しつつ流星圏を放り投げた。
「その武器の弱点は教えたはず!」
以前の戦いでは兜で流星圏を弾いた直経であったが、今度は槍で縄を斬り付けた。
流星圏は刃物と相性が悪すぎる武器。
縄を狙われては為す術が無い。
「何ッ!?」
だが、縄は切れなかった。
例え刃引きしてあっても、直経なら切断は容易だったハズだが切れなかった。
理由は2つある。
まず、帰蝶は直経戦の反省から、縄を鎖に変更した。
そしてもう一つ、流星圏を勢いつけて飛ばさずに、緩く放り投げた事が効いていた。
例え鎖であっても猛者なら切断するだろうが、鎖は遠心力でピンと張られた状態ではない。
鎖は槍に絡まり、枷として動きを封じた。
やはり帰蝶は虚を突くのが抜群に上手かった。
ついつい手が出てしまった直経は、隙を晒す事になる。
帰蝶は緩んだ鎖を右手で操り、直経から槍を奪い取ろうと引っ張り、直経もそうはさせじと引っ張る―――と同時に帰蝶は接近する。
急に帰蝶の体重が流星圏から消え失せ、直経は後方によろめき踏鞴を踏む。
帰蝶はその隙を逃さず素早く直経の懐に飛び込むと、左ボディーフックブロー、時代相応で言うなら左鈎突きを放つ。
左足が地面を蹴る―――
右足が地面を掴む―――
腰を回し腕を体と一体化させ―――
直経の引き寄せる力を利用し―――
渾身のパンチを繰り出す―――
女の膂力で放てるハズの無い衝撃が、直経の胴体を貫通する―――
「ヌゥッ!?」
―――が、此処までだった。
「げふぅあがッ!?」
帰蝶は地面に叩きつけられた。
そして、帰蝶の顔の横に、直経の逞しい足が落とされる。
頭を踏みつけられれば、即死は免れない攻撃であっただろう。
地面が抉れていた。
「惜しかったですな。いや、本当に驚きましたぞ? 流星圏の工夫と虚実入り乱れる攻撃。お見事と言わねばなりますまい。ただ、色々判断を誤りましたな?」
判断ミス1。
いくら帰蝶の身体能力が破格でも、そのパンチは、まだ直経の腹筋を貫く威力は無かった事。
ボディへの一撃で昏倒させるのは、相手が猛者であればある程厳しい。
一撃で倒すなら、何か武器を持つべきであった。
判断ミス2。
懐に潜り込む事、それ即ち、体格差から背中や延髄、後頭部がガラ空きになり、その結果直経が鉄槌(握った拳の小指側からの攻撃、いわゆる台パン)を背中に落とした。
背中を晒すのは死に体である。
ボクシングなら、背中や後頭部を殴るのは反則だが、戦国時代にそんな御上品なルールは無い。
判断ミス3。
慣れない鈎突きを放った事。
パンチにおけるストレート、正拳突きも高等技術だが、フック、鈎突きは更に超高等技術である。
正確に威力を伝えるには修練がまだまだ足りない。
「参りまし、た……!? 痛ッたい!?」
鉄槌は直経が落とす場所を、素手でも致命傷になりうる延髄や後頭部を避け、頑丈な背中にしたのでダメージは大した事ないが、腹を殴った左手は強烈な痛みを発した。
《折れてはないですが、捻挫ですねー》
ファラージャが即座に診察した。
ある意味、帰蝶の内部に常駐している様なモノなので。ファラージャに見抜けぬ体調異常は存在しない。
昨年の戦で直経に蹴られた胸骨は、多数の箇所のヒビと骨折をしたが、それもファラージャが内部から診察し、しかし戦国時代では大した治療もできないので、サラシで固めて安静にさせた経緯があった。
《良かった……。あんな寝たきりはもう懲り懲りよ!》
目の負傷は寝込む程では無かったが、胸骨の負傷は動くに動けない。
それが、前世の病気を思い起こさせ、帰蝶のメンタルは乱れた。
しかも三好長慶の挑発のダシにされた怒りもあって、ようやくそのストレスを発散させるべく、こうして訓練を始めたのに、さっそく負傷してしまった。
《それなら大人しくして欲しいモノなんですがねー?》
《嫌よ》
鰾膠も無く拒否する帰蝶。
ようやく元気よく動ける喜びに勝る物は無かった。
「ありがとうございました、喜右衛門殿。これからもよろしくお願いしますね!」
捻った左手首を抑えながら、先程の殺気で視認し辛い貌を晒していた人間と、同一人物とは思えぬ輝く笑顔で礼をする帰蝶。
「(やはり近衛殿下の仰る通り祈祷して貰った方が良いんじゃないか?)某もヒマですからな。お相手は望むところ。いつでも構いませぬぞ」
元々直経に拒否権は無いに等しいが、今、言質を取られた事には気づいていない。
後々、とても後悔するのは別の話である。
そんな2人のやり取りから、稽古の区切りを悟った人間が歩み寄った。
「復帰早々何をやっとるんだ、全く……」
信長が呆れながら声を掛けた。
直経は膝立ちに控える。
直経にとっては気に食わない相手ではあるが、一応、渋々ながら主君となった相手である。
「喜右衛門、見事だ。お濃を殺すのは流石に困るが、これからも頼むぞ」
「は、はぁ……。承知しました」
主君の妻をブチのめしたのに、労われた直経は、どう反応して良いのか困った。
「所で、どうかなさいましたか?」
「うむ。こちらに来て早々であるが、これから一度尾張に戻った後、斎藤家に向かう。喜右衛門は護衛じゃ。共をせい」
「兄上の下にですか?」
「斎藤家、ですか?」
帰蝶にとっては肉親の義龍。
直経にとっては、主君浅井久政の娘である千寿菊(京極マリア)が嫁いだ先。
顔を見せ様子を伺っておくのも悪くない。
「何かあるのですか?」
「斎藤家の朽木攻略に手を貸す。約束だからな」
昨年の朽木攻略は、足利義輝と六角義賢の和睦という不測の事態で中止となった。
そのやり残した朽木を再度攻める為の軍議である。
「恐らく、今年の農繁期には攻めるだろう」
現在、朽木は足利義輝と朽木基綱に代わり、六角家が占領している。
しかし専門兵士の無い六角家は、農繁期にはまともに戦えない。
しかも地盤の近江も失った。
蠱毒の相手は消えたので多少は戦力を揃えるだろうが、もはや押せば倒れるだけの存在だろう。
「我らとしては、此度の援軍は近江で役割が無い者を選抜する。近江の発展を止める訳にはいかぬからな。だから、お濃に織田軍総大将を任せる。それまでに怪我は治しておけよ?」
「は、はい!」
帰蝶は満面の笑みで元気よく返事をした。
信長はそんな帰蝶を見て満足気に頷く。
一方、直経は困惑顔だ。
「……は? え? 濃姫様が織田の総大将?」
サラッと決まった驚愕の人事に直経は驚く。
「あぁ。これが織田家じゃ。因みにこ奴が織田の名代を背負うのはコレが初ではない。天文20年の斎藤家の近江侵攻で織田の援軍を率いていたのは、このお濃よ。お主は敵として戦ったのではないか?」(68話参照)
「……あッ!?」
「思い出しました? 兄は宗滴公と戦っていましたけど、私が率いる部隊と貴殿は戦っていたのですよ」
「あの時の!? あの部隊を指揮していたのは濃姫様!?」
ようやく直経は思い出した。
戦場に鋭く響く女の声が聞こえていた事を。
「ハハハ……。もう笑うしかありませんな。破天荒すぎる。某は織田家と因縁が深いと思っていましたが、あの時の近江、此度の近江、それぞれ濃姫様と戦っていたのですなぁ。なるほど。武芸だけでなく指揮も一線級だったとは! 殿! 次の朽木攻略は某も濃姫様と共に行きますぞ!?」
「無論だ。朽木地方に詳しいお主は必須よ。存分に頼むぞ」
「はッ!」
元々織田と直経の因縁は、前々世も今も因縁だらけだが、更なる思わぬ因縁の発覚に、急に織田家に親しみを感じ始めた。
渋々所属した身であるが、今初めて、不満より興味が勝った。
信長も帰蝶も、直経の雰囲気が変わった事に満足する。
だが―――
この時、信長も帰蝶もあんな事になってしまうなど夢にも思っていない。
この後、織田家はかつてない苦境に陥いる。
今川の侵攻も、武田の侵攻も、足利との戦いも、三好との冷戦も苦しいが、対処可能、あるいは対処できると信長は思っていたが、この後の窮状はある意味当たり前、しかし予想外だったが故である。
領地が広範囲になった分、その影響も大きい。
一体何が起きているのかは17章で判明する事である。
「さて、行くか」
こうして信長一行は、暗雲が垂れ込めているとは夢にも思わぬ濃尾へ向かうのであった。
いつも信長Take3をご贔屓下さりありがとうございます。
この度、ブックマークが2000人を突破いたしました。
ブクマは乱高下が激しいので、確認するタイミングによっては下回っているかもしれませんが、一度でも踏み越えた、と言う事で感謝申し上げます!
これからも信長Take3をよろしくお願いします!




