外伝45話 木下『vs森可成 藤吉郎争奪戦』寧々
この物語は、信秀の葬儀後(外伝42話)から佐々成政が醜態を晒す前の話(外伝35話)である。
【1557年 尾張国/朝日村】
「あー、済まぬがそこの娘よ」
「はい? ッ!? な、何でございましょうか!?」
武士に呼び止められた娘は、その身形の良さから織田家の上級武将と察知し地面に平伏した。
「おっと、そんな事は気にせんで良い。普段通りで構わぬ。ワシも立ち寄っただけじゃ。木下家はココかね?」
森可成と木下寧々の初邂逅であった。
【尾張国/朝日村 木下家】
織田家の重臣である森可成。
その可成が極めて粗末な家の中で、藁で作った円座(座布団の先祖)に座る。
家の主は可能な限りの礼儀をもって、円座を用意はした。
しかし粗末な家で用意された物では地面と大差無く、とても衛生状態が良いとは言えないが可成は気にせず座った。
一方、家主の木下定利は、面食らう処ではない。
織田家の重鎮である可成自身が木下家への訪問に、挙動不審にも程がある位に慌てふためいた。
当然ながら妻のこひ、息子の家定、娘の寧々は平身低頭して固まっている。
「藤吉郎と木下殿の息女の婚姻についてだが、両親として反対があると聞くが真の話かね?」
可成は木下家の緊張を解そうと、可能な限り柔和に話し始めた。
「……。え?」
森可成程の武将が、貧乏足軽の家に来て何を話すかと思えば、予想外の言葉が飛び出してきた。
「は、反対……反対と言いますか、寧々は前田家の又左衞門様(利家)に嫁ぐ話がありますので、反対も何も、その藤吉郎殿ですか? その者との婚姻自体が無い話なのですが……!?」
定利は言いながら寧々を睨んだ。
「ふむ? 聞いた話と違うな?」
藤吉郎と寧々の婚姻が反対されている事は把握していたが、そこに前田家が絡んでいるのは初耳であった。
「えー、あの、その……ど、どこからその話を……!?」
定利は焦った。
全く身に覚えの無い、という体の『存在しない話』として対処したのに、『存在する話』として聞き返してしまった。
可成はキナ臭いモノを感じつつ経緯を話す。
「藤吉郎は我が軍の所属。願証寺討伐の時の船上であったかな? 偶々通り掛かった所を小耳に挟んでな。勘違いして欲しく無いが別に藤吉郎から頼まれたとかでは無い。ワシもそこまで暇では無い。あくまで近くに寄ったついでだ」
可成は伊勢北部で任務をしている身であるが、今回の信秀葬儀の為に尾張に帰還して居たが、その足で尾張の朝日村にある木下家を訪ねたのである。
だが勿論、目的は藤吉郎の事で『ついで』とは大嘘である。
確かに信秀の葬儀の『ついで』ではあるが、葬儀の次に重大な案件として今この場にいるのは内緒だ。
「だが、杞憂に終わった様じゃ。ワシの勘違いであった様じゃな。……それで良いかな寧々殿?」
「!!」
突如名前を呼ばれた寧々は、体を震わせて反応した。
「も、森様! 何を仰られるのですか!?」
「ん? 藤吉郎が嘘をついているなら罰せねばなるまい? このワシに無駄骨を折らせたのじゃからな? その確認よ」
可成は『小耳に挟んだ』『ついで』と言った口で、理不尽な事を言い出した。
当然、本気では無い。
「のう?」
「は、はい……」
可成は試してみたくなったのだ。
親の決めた婚姻に逆らって、藤吉郎を選ぼうとする寧々の資質を。
「罰云々の前に一つ教えねばなるまい。お主らの言う又左衞門は、篠原家のまつ殿と結ばれるらしいぞ? 寧々殿を側室として送り込むつもりなら良いが、正室として考えておるなら叶わぬ夢じゃ」
木下家の面々にとっては、これは寝耳に水であった。
この時代の婚姻は利害関係が全てである。
恋愛、愛情が入り込む余地があるのは、側室以降の2番目からであろう。
織田信長にしても帰蝶とは政略結婚であり、最愛の人は吉乃であったと言われる。
簡単に人の命が失われる戦国時代。
より強い家と関わりを持ちたいと思うのは当然だろう。
利家は穀潰しの2番目とは言え、親衛隊では頭角を現してきている。
また、2番目だからこそ、木下家程度でも前田家と関わりが持てるハズ、であった。
「ち、父上! それが真なら前田家との話は無かった事に!」
寧々が喜びを抑えられず、定利に訴える。
「……そうじゃな。前田家としては木下家など眼中に無いか。……だからと言って! 藤吉郎と結ばせるなど言語道断だ!」
「そんな!」
(まぁ当然と言えば当然か)
「森様。先程は知らぬフリをしておりましたが、確かに娘は藤吉郎とやらと恋仲。しかし親としてはそれを認める訳には行きませぬ。これは仕方ない話ではありませぬか!」
「家格の話かね?」
「そ、そうです!」
藤吉郎は人の形こそしているが、まさに正真正銘、馬の骨同然の男である。
苗字も姓も諱も無い。
汚泥から湧き出したと言われた方が説得力抜群な、醜悪な小男である。
曲がりなりにも苗字がある木下家と藤吉郎では天地の差がある。
娘の寧々が一体どこに惹かれているのかも全く謎である。
「家格か。確かに無視する訳にはいかぬな。それでは仕方ないのう?」
可成はもう一度寧々を見た。
それで良いか――と目で問う。
「ッ!? ま、待って下さい! 確か藤吉郎殿は北伊勢での遭遇戦で、敵の大将を討ち取ったとか!? それに長島の戦いでも……あ!? それこそ森様の軍での武功第一位であったとか!?」
「その通り。これ程の功績を上げて大した褒美も出しておらん」
褒美を出していないのはあり得ないが、可成はこの場ではそれで通した。
「故にこうしよう。奴は中村郷の出身らしいから、『中村藤吉郎』と名乗り武家として身を起こすのじゃ。ワシが責任をもって取り成そう。何なら我が諱の『成』を与えても良い。これなら家格も釣り合おう」
「そ、それは幾ら何でも……!?」
余りにも後付けが過ぎる行為に、定利は難色を示す。
それは寧々も感じてしまったし、これでは意味が無い。
木下家の知らぬ所で『実はさる武家の家系でした』と言うなら理解出来るが、木下家にバレてしまっていては意味が無い。
しかし可成は意に介しなかった。
「ハハハ。ワシらより遥か上の身分の者も既成事実だらけなのにか?」
遺伝子でのルーツ確認など出来ない戦国時代。
詐称など当たり前である。
もう名乗った者勝ちなのである。
途絶えた名家を名乗る武将も沢山いる。
ならば藤吉郎が『先祖は〇〇で尾張中村に根を張った』とし、中村藤吉郎と名乗っても何も問題は無い。
「殿にしても血筋の変更をするらしい。『源平交代思想』がどうとか仰られていたな」
「げんぺーこーたい?」
「何やら、そんな話があるらしい」
源平交代思想とは読んで字の如くで、最初の武家政権が平氏、次の鎌倉政権が源氏、次が執権北条氏の平氏、次が室町政権の源氏の、易姓革命(ルーツ変更の伴う政権交代)の法則である。
その法則に沿うなら、次の政権は平氏が握る。
史実にて信長は『藤原信長(藤原氏所縁の信長)』を名乗っていたが、いつからか『平信長(平氏所縁の信長)』とルーツを変更して名乗る。
これは信長が源氏の足利室町政権を倒す意味合いで、源平交代思想を利用し変更したと言われる。
宗教が絶対の世界。
ならばジンクスにも強い力が潜むと考えられるだろう。
なお、信長はこの歴史では1561年に『平氏』に変更する。
「ならワシら下々の者が多少弄った所で問題あるまい。一応、森家も清和源氏の源義隆を祖とする一族じゃ。それが本当かワシも知らんが何も問題無い」
「そ、そんなモノなんですか……?」
「そんなモンじゃ。これで藤吉郎は中村藤吉郎となれる。のう?」
「し、しかし……!!」
定利はそれでも難色を示した。
仮に藤吉郎が最初から武家だとしても、娘を嫁に出すのは難色を示しただろう。
(どうしても……! どうしてもあの男は気に入らぬ! 何故藤吉郎なのだ! 他の男なら誰だって良い! 何故だ! 寧々は何故藤吉郎を選んだ!?)
定利にはどうしても理解出来ない。
気に入らないモノは気に入らない。
生理的嫌悪に理由は無い。
史実で、定利の妻である朝日は、藤吉郎が豊臣秀吉となり日本を統一する偉業を成し遂げてなお、寧々との婚姻を生涯認める事は無かったと言う。
親の頭を飛び越えた婚姻に腹を立てたのは理解出来るが、それがそこまで禁忌的行いだったのか、それとも身分や別の要因があるかは分からない。
いずれにしても、人たらしの天才藤吉郎をして、木下夫妻は落とせなかった。
(これは生理的嫌悪感か。馬の合う合わぬは如何ともし難い。ワシも覚えがある感情だ。命じる事も出来るが……)
可成なら、木下家の意向を無視して強権を振るう事も出来る。
(だが、やり過ぎて話が拗れ、藤吉郎や寧々殿から恨まれるのはマズイ。最悪なのは藤吉郎も寧々も失う事。……参ったな。どうするべきか?)
だが、ここで簡単に引き下がる事が出来る案件では無い。
「(ならば……)木下殿。寧々殿をワシの養女にせぬか?」
「え!?」
可成はすかさずプランBに移行する。
これまた、とんでもない提案である。
「木下殿も寧々殿の実父として、森家で遇しようではないか。前田家に取り入るより破格のハズじゃ。その上で、寧々殿はワシの娘として藤吉郎に嫁がせようではないか」
元々前田家に取り入るつもりの婚姻計画ならば、森家関係者となるならば文句無く目的は達するはず。
藤吉郎に対する嫌悪は、破格の条件で相殺とする。
これが可成の出せる限界譲歩であった。
「じゃが、これを断るのであれば仕方ない」
場の雰囲気が突如変わった。
まるで策謀を企てる密室だ。
「ワシも藤吉郎の才を高く買っておってな? 断るのであれば藤吉郎は養子としてワシが貰い受ける。その上で森家の縁者と結ばせて働いてもらう事になろう。中村藤吉郎ではなく、森藤吉郎としてな。そうなれば、それこそ身分差で夫婦となる事は叶うまい。木下家が森家や織田家と関わる機会は二度と無い」
可成は少々の意地悪をした。
下級武士を脅すにしては過ぎた、虐めに近い脅迫である。
可成としても不本意だが、それ程までに藤吉郎を買っている。
だから最悪、藤吉郎だけでも確保する為に動く。
しかし出来れば後一人――
「のう?」
「は、はい。……?」
可成の狙う成果は藤吉郎だけではない。
寧々も可成のターゲットになったのだから。
可成は短いやり取りの端々から、寧々に才を感じ、己のその勘に従って動いた。
「そ、そんな過分な待遇を!? ……い、いや、あの男だけは」
(もう一押しと言った所か。さて……)
「身分を覆したいなら身分を持って内側から食い破り、恥じぬ働きで周囲を黙らせれば良い。そうは思わんか? 寧々殿」
「え……?」
可成は話を寧々に振った。
(さぁ考えよ。答えは一つしか無いぞ。……ッ!?)
可成は寧々を見て驚いた。
一筋の涙を流していたのだ。
寧々は震える声で答えた。
「……森様。父上。私は藤吉郎殿を諦めます……!!」
寧々は力強く言った。
「何だと!?」
「寧々!?」
この発言には定利は当然、可成も予想外過ぎて驚く。
「確かに過分な配慮です。しかしその行い! 他の者に示しが付くとお思いなのですか!? 更に『成』の字を与える!? 必ずや森家の不和も招きましょう!」
寧々は言葉の刃で、この場にいる全員を叩き斬った。
その刃はまだ止まらない――
「しかも我らの様な者が森家に入る!? 森様のご子息や縁者が良い顔をするとは思えませぬ! 然らば、協力が得られぬ藤吉郎殿は孤立し出世は絶たれましょう! 追い風所か逆風も逆風! それが分からぬ森様とは思えませぬ!」
定利は倒れそうになった。
村娘同然の寧々が、織田家重臣に吐いて良い言葉では無い。
斬り捨てられても文句は言えない暴言である。
「過ぎた発言であるのは承知しております! ですが、これ以上はどうか……。どうか、我らに関わるのはお止め下さい!」
寧々は泣きながらそれだけを言い平伏した。
「寧々……。お主そこまであの男の事を?」
「は……い……ッ!!」
滂沱の涙で声にならない。
しかし、この場にいる全員の魂まで潰す、嘆きの声であった。
定利としても、娘のこの言葉の重さは無視出来ない。
そこまでの覚悟を持って藤吉郎と接しているのは知らなかった。
それは可成も同じであった。
「……寧々殿。木下殿。今までの舐めた態度を謝罪する。小賢しい企みで、その心に土足で踏み込んでしまった事、誠に申し訳ない」
可成は深々と頭を下げた。
「森様!?」
木下家一同が絶叫に等しい声を上げた。
「寧々殿、お主のその考えと気配り。本当に女にしておくのが惜しい。今回の件も家中ではワシへの換言を恐れ何も言わん家臣が多い中、見事な指摘である」
可成は寧々の予想を上回る優秀な資質に、本気で対峙するべき相手と認めた。
「家格、身分差。確かに覆し難いモノじゃ。しかし我が殿はそんなモノを屁とも思っておらん。『所詮織田家は守護の家臣の家臣じゃ』と常々申しておる。尾張を制し伊勢の大半を切り取った今でもそう仰られているのだ」
「織田様が!?」
まだまだ信長の考えが下層に行き渡っていないのか、その考えに驚く木下家一同。
「そんなワシは『守護の家臣の家臣の家臣』。しかもじゃ。ワシは美濃より流れて来た余所者じゃ。正確に言うと『守護の家臣の家臣の外様家臣』じゃ」
「えっ!?」
「最初ワシは美濃土岐家に仕えておったが、当時の道三殿のやり方が気に食わず出奔し、先代の織田の殿に助けを求めた」
道三のやり方は悪辣非道で、とても容認出来るモノでは無かった。
「しかし、その後は知っての通り、現当主の殿と濃姫様が婚姻し、土岐家を救う手段は無くなった。その時気が付いたよ。力の無い者は悪であり、事を為したいなら力を付けねばならぬ。その為に手段は選んでおれぬ」
「も、森様は土岐家を再興したいとお考えなのですか?」
寧々が泣き腫らした顔で尋ねた。
可成の話が事実なら、その可能性はある。
「いや、諦めた。今の殿に魅了されてから、そんな些細な事はどうでも良くなった。殿の快進撃を見ていたら、この世を正す為に必要な事を為すのが最善の行動よ」
「最善……。それが今回の話に関わると?」
「そうじゃ。しかし『身分など糞くらえ』とまでは言わぬ。受け継いだ身分故に責任感や実力を発揮する者が居るのも事実」
「そこまでのお考えなのですね。ただ、それでも……」
幾ら守護の家臣の家臣の外様家臣であっても、木下家から見れば森家は天上界の家格である。
「そう。身分が優先される世なのも現実問題としてある。矛盾した話じゃがな。そこには嫉妬や敵対心も存在しよう」
寧々も藤吉郎の出世を阻止したい訳では無いが、大抜擢にも程がある今回の件。
必ず敵が身内から現れてしまい、あっと言う間に身動きが取れなくなるだろう。
好いた男のそんな姿は望まない。
「だが、才ある者は拾い上げて身分に邪魔されぬ身分を与えねばならぬ。今の織田家は人材がまるで足らんのじゃ。実力ある者を我らが発掘し、身分を与え動ける様にしなければならぬ。必要な者を身分の檻に閉じ込めては織田の損失じゃ」
「矛盾を矛盾したまま押し通すのですか!?」
身分が無い者に身分を与え、身分に挑ませる。
身分に縛られぬ様にする為、身分を与える。
寧々の言う通り矛盾した行動である。
「その通り。藤吉郎、あれは化けるぞ? 身分の檻から解き放てばどこまで上り詰めるか分からぬ。お主は藤吉郎を好いておるのだろう? その手助けをしたく無いか?」
「し、したいです……。でも、でも……」
「お主の懸念は承知しておる。何の落ち度も無いのに藤吉郎を愚弄する輩には、我が一族であっても許さぬと誓おう。その為には、先の話通り寧々殿は森家の養女として森寧々となる」
「しかし……」
「分かっとる。ワシがどれだけ配慮しても『森藤吉郎』に対する危険を完全排除するのは難しい。事が起ってからでは遅いのも事実。じゃからこうしよう。木下殿。藤吉郎を木下家に迎えんか? ここで『木下藤吉郎』とする。そこに、寧々殿と縁組させようではないか」
「えっ!?」
「勿論、木下家の家督を譲れと言う訳では無い。そちらの孫兵衛殿(家定)があくまで木下家当主で良い」
定利と寧々の隣には長男家定がいる。
家定は可成の言葉に安堵する。
「これは木下家を救う手段でもある。これも先の話通り、生みの親、育ての親である木下家を放置はせぬ。寧々殿を通じて木下家を援助させよう。孫兵衛殿を出世させたくは無いか?」
「そ、それは確かに……」
子の栄達を望まぬ親は居ないだろう。
しかも今、藤吉郎の大出世を目の当たりにしている。
藤吉郎に出来て、家定に出来ぬ訳が無いと定利は思う。
「それに藤吉郎一人だけ身分が上がっても、郎党が居らぬでは身動き出来ぬ。幸いあ奴は蜂須賀一党と仲が良いが、それとは別に一族郎党が居ないのは辛かろう。孫兵衛殿と藤吉郎で協力し合って森家内で伸し上がれば良い。木下殿が藤吉郎を気に入らぬは重々承知。しかし利用価値は間違いなくある!」
この言葉に木下夫妻は折れた。
木下家として断る理由も無くなった。
娘が涙まで流し、可成に食って掛かった行動には度肝も抜かれたし心打たれた。
「分かりました。藤吉郎殿は木下家で迎えましょう。森様には寧々をよろしくお頼み申し上げます」
「うむ。寧々殿。暫くは森家の娘として教養や作法を学んでもらおう。木下家でも藤吉郎と関係を修復しておくが良い。……寧々殿。この条件で如何か? 是非とも我が娘になって貰いたい」
可成はもう一度頭を下げた。
「わかりました。今日より、森様を父と呼ばせて頂きます」
寧々は涙を拭い承諾した。
こうして木下寧々は森寧々に、藤吉郎は木下藤吉郎となった。
藤吉郎本人の知らない所で。
「い、一体何がどうなっとるんじゃ!?」
藤吉郎は訳が分からず、困惑するしかなかったと、後世の書物に記されている。
【1559年 尾張国/森家屋敷】
時が経ち、森家の屋敷内で豪華な婚姻儀式が行われた。
史実の秀吉は、婚姻が歓迎されず、あばら屋同然の小屋で粗末な式を挙げた。
しかし、この歴史では森家の力によって、木下家の面々も気絶しそうな豪華絢爛な式が挙げられた。
主役の藤吉郎こと木下秀吉は、この式の内容が全て消し飛び、全く覚えていない事が後々発覚する程であった。
唯一、森家で全てを習得した寧々だけが、木下家の血筋でありながら完璧に振舞っていた。
そんな寧々に、可成が言葉を掛けた。
「寧々よ。あの時、ワシはお主を養女にした事、誠に会心の判断だったと思っておる。……今ふとあの時の事を思い出したが、お主は、こうなる様に導いたな?」
「フフフ。父上には隠し通せませんね」
「あの涙は騙された。まんまと掌で踊らされたわ」
「そんなに違和感ありましたか?」
「いや? だが、そうだな……? 強いて言うなら違和感が無いのが違和感か? あんなに完璧な間で完璧に泣いて見せた。これが武芸の勝負なら、いつ撃ち込まれたのか分からぬ一撃だったろうよ」
「これが女の戦いです。女は涙など自由自在に操るモノですよ。父上には何やら試されていた様ですしね」
「お互い様と言う事か。流石だ」
「……無論、言葉は本心でした」
涙は演技でも、感情は本物である。
諫言も本心であるし、あの場で斬られる覚悟も本物である。
騙せぬハズが無い。
「フフフ。そうか。女とは実に恐ろしきモノよ。だが、それでも騙されたのが心地良い。結果として何の文句も無い成果が得られたしのう」
可成と寧々は非常に馬が合った。
養女とは言え、実の親子同然の姿がそこにはあった。
「さて、藤吉郎よ。我が娘の寧々を泣かせたら、それはもう何が起きても不思議では無いと心得よ。良いな?」
「は、はい!? 勿論です!」
秀吉は式の内容は覚えていないが、命の危険だけは記憶の奥底に突き刺さり、女癖の悪さは史実に反して潜めるのであった。
【1561年 近江国/森可成領地】
秀吉は可成の領地移転に伴い、付き従って近江に渡った。
勿論、寧々も一緒である。
そこで秀吉夫妻は大車輪の働きをした。
延暦寺にも京にも近い可成の領地で、農民の信頼を得て、商人を招いては開発に取り組み、森家の領地でも随一の発展を見せていた。
「やはりワシの目に狂いは無かった。武士では到底真似出来ぬ振舞よ。それだけに惜しい。あんな事になるとはな。一寸先は闇とは正にこの事か」
今、織田家はかつてない苦境に陥っている。
今川の侵攻も、武田の侵攻も、足利との戦いも、三好との冷戦も苦しいが、対処可能、或いは対処出来ると信長は思っていたが、今の窮状はある意味当たり前、しかし予想外だったが故である。
領地が広範囲になった分、その影響も大きい。
一体何が起きているのかは17章で判明する事である。
「この苦境、跳ね返せるか否か。正念場よな」
可成は目線を遠くの娘夫妻にに向けた。
寧々が『父上!』と呼び、手をブンブンと降る。
隣で秀吉が狼狽える。
可成はその光景が愛おしかった。
この光景を守る為にも、奮起せねばならぬと可成は誓うのであった。




