147-1話 八つ目の関門 細川晴元の覚悟 遠藤直経の武威
147話は2部構成です。
147-1話からご覧下さい。
【近江国/安曇川砦 織田信長軍】
「今の咆哮が聞こえたな!?」
咆哮とは帰蝶が叫んだ『足利義輝打ち取ったり』の声である。
美女(?)の声を獣の咆哮と表現するのが正しいのか分から無いが、信長も含め織田の兵は誰もその表現を疑問に思わなかった。
失礼極まりないが、普段の帰蝶を思えば然もありなん、な状態だ。
尚、信長も後方からの殺気で、帰蝶が暴れているのは感じてはいる。
だが信長は、帰蝶が常識を粉砕する戦いを繰り広げたのは知ら無い。
やはり、咆哮と表現するのは極めて適当なのだろう。
「押し返すぞ!」
奇襲を受けて一時的に崩れた織田軍。
しかし、信長が前線に出てきて直接指揮を取り出してからは、徐々に持ち直し始め、信長は義輝討死の声を合図に、反撃に出るのであった。
【近江国/安曇川砦 細川晴元軍】
『足利義輝打ち取ったり!……打ち取ったり!……取ったり!……たり!……』
安曇川は両側に山があるので、帰蝶の声が山彦となって響き渡る。
戦場には極めて様々な音が掻き鳴らされる。
それこそ悲鳴や雄たけび、武器の打ち鳴らされる音から馬の嘶きまで本当に多種多様だ。
しかし帰蝶の咆哮は、何故か極めて際立って戦場に響き渡った。
妖怪魔獣の咆哮同然のその声は、義輝の奇襲挟撃だけが唯一の勝機だと思っていた細川軍を動揺させるに十分であった。
無論、細川軍には真偽の確認は出来ないから、偽報の類と判断して叱咤激励すれば良いだけだが、元々少ない兵での奇襲である。
失敗の可能性があるが故に、動揺が隠せなかったし、あの咆哮は妙な説得力があった。
それに、先程から織田軍の統制が行き渡り、持ち直しているのも気にかかる。
そこから導き出される答えは一つしか無い。
「失敗したのか……!? あれだけの難関を突破して尚届かんとは!」
晴元は確信してしまった。
但し、帰蝶の咆哮だけが原因では無い。
勿論、帰蝶の咆哮も要因ではあるが、別の心当たりもあった。
「あの時の伝令が言霊となったか……!」
あの時の伝令とは、朽木城から出陣する直前、晴元が念の為に頼んだ事である。(144話参照)
『万が一に備える。良いか―――』
晴元は万が一に備えてしまった。
それ即ち、万が一を望むと同義である。
だが悔やんでも仕方ない。
晴元としては、万が一も含め最善を尽くしたに過ぎぬのだ。
「こうなっては信長とワシの勝負か。何と……何と絶望的な取り組みか。我ながら随分甘い夢を見ていたのだな……!!」
こうなると兵数が互角な以上、武将の質が勝負の分かれ目である。
細川晴元vs織田信長。
名声だけなら互角の勝負かも知れない。
だが、他に勝っている箇所など皆無である。
「あれは……?」
もう絶体絶命崖っぷち四面楚歌八方ふさがり万事休す―――あらゆる言葉で確信した敗戦の中で、光明が差し込んで来た。
何と晴元の視界に、一瞬ではあるが信長が映り込んだのである。
「前線に出て来たのか! 劣勢を挽回する為に……! ッ!?」
晴元は、何故か涙が溢れて来た。
己の如き凡将を討ち取る為に、全力を尽くす信長の姿に感銘を覚えた。
晴元の策が効いたからこその信長の行動であるが、晴元はそうは思わなかった。
武士たる者斯くあるべし。
あれこそが真なる武士の姿。
晴元が織田家で散々学んだ、真なる武将たる織田信長の姿を最後に拝む事が出来たのだ。
自分を倒す為に態々前線に出て来てくれた。
「身に余る光栄だ……!」
義輝は主君だが、信長は神だ。
最後にその御姿を拝謁出来たなら、もうこの世に未練は無い―――そう思って気が付いた。
「あっ」
晴元は最後の勝機を掴んだ。
「治部殿! あそこに見えるのが織田信長じゃ!」
治部殿と呼ばれたのは武田義統。
斎藤義龍に敗れ若狭国から叩き出された若狭武田の当主である。
蠱毒計に六角の離反と様々に降り掛かる難題に揉まれながらも、健気に義輝に従い、今も晴元と共に徒武者として従って居た。
「真ですか!?」
義統も晴元の言わんとしている事が分かった。
義輝を討ち取られ敗戦確定の中で、信長を討ち取る機会が生まれたのである。
この戦、既に勝つのは不可能だが、その代わり、負けも無くなるかも知れないのである。
いや、義輝は13代将軍を正式に退いた今、14代義冬が味方陣営で15代内定の覚慶(義昭)も居る。
正直、義輝が消えても将軍家としては致命的にはならない。
対して、信長が死んだ後の織田家に先があるとは思えない。
陣営としての将来は織田家の方が絶望的となるだろう。
「そうじゃ! 何たる……本当に何たる僥倖か!」
六つの難関を突破する幸運を見せた足利軍。
運悪く七つ目の関門で跳ね返されたが、八つ目の関門が幸運にも立ち塞がる。
但し、この関門は士気を盛り返した織田軍の兵を、武力に劣る晴元らが突破しなければならない、本当に絶望的な関門でもある。
だが、視界に入る位置に信長が居る。
これを勝機と言わずして何が勝機と言え様か?
「兵を固めて突撃する! ここが細川晴元最後の見せ場よ! いくぞ!」
死兵と化した一団が、信長目掛けて突撃を開始した。
【織田信長本陣 背後】
浅井輝政と足利義輝が沈み、大勢が決しそうになった本陣後方。
「中将様! 新九郎様!!」
現れたのは遠藤直経であった。
浅井家から輝政と共に派遣されていた、現在の将軍家主力の武将である。
輝政が義輝率いる挟撃部隊の先駆けならば、直経は殿であった。
実は信長を討ち取る役目を受けたのは、この直経であった。
武力一辺倒の輝政と義輝に比べ、指揮も大局を見渡す目も備えた武将としての役割を晴元から課されて居た。
直経は混乱する現場の中で、最後方から目標を見付け討ち取る手筈だったが、眼に映る現実の光景は、輝政と義輝が倒れ伏している悪夢の光景だ。
「何たる事だ!」
輝政が失敗したのは仕方ないにしても、義輝までが討たれたのは誤算も誤算であった、と言うより、何で義輝が単騎突撃しているのかも直経にとっては意味不明だ。
義輝が策の失敗から逆上し、己の立場も忘れて挑んだのが原因だが、直経は信長が居ないのを知らないから仕方ない。
いずれにしても、直経は役割を放棄し短慮な行動を取った義輝を心底軽蔑した。
「将軍の器に有らず。こんな奴の為に浅井が奔走しなければならんとはな! 殿も若も現実が見えておらん!」
直経は、直経にそう思わせた原因たる、戦場に不釣合いな女武者を見る。
甲冑も纏わず奇怪な衣服で輝政と義輝を見下ろすその姿は、直経の眼には後光が射している様にも見える異様な姿であった。
だが、この異様な姿の女武者は、常々噂で聞いていた特徴に一致する。
「そこの女武者。斎藤帰蝶殿とお見受けするが如何か?」
「如何にも。斎藤帰蝶です。貴殿は……遠藤直経殿ですね?」
帰蝶は面識がある訳では無いが、史実では信長を苦しめた浅井の猛将として記憶している。
その他にも帰蝶は知らぬ事だが、直経は史実で信長を早くから警戒し、暗殺、闇討ちを計画するなど、浅井の為なら手を汚す事も厭わぬ忠臣でもある。
姉川の戦いでは信長まで後一歩まで迫ったと記される資料もある。
この歴史では、猿夜叉丸奪還の失敗(70話参照)、堤防破壊作戦の成功と捕縛(80話参照)など、織田との因縁は史実と遜色無いかも知れない。
「奇襲も失敗、現場は混乱しているが、挽回するには至らず。この戦、織田の勝ちで終ろう」
「……。そうですね」
これが屋敷の中で行われる会談なら『そんな事ありませんよ』『いやいやご謙遜を』との形式的な会話になるだろうが、帰蝶は自軍の勝ちを認めた。
だが、これは驕るでもなく、形式を無視している訳でもなく、相手の圧力に飲まれ掛けた余裕の無さが原因だ。
先程直経から、帰蝶かどうか確認を取られた時から、嫌な汗が止まらないのだ。
「ご存知かどうか知らぬが、ワシは織田に煮え湯を飲まされ続けておってな?」
直経が膝を曲げる。
戦闘の態勢に入ったのだ。
長巻は当然、薙刀も流星圏も届かぬ間合いである。
直経は流星圏を見た訳では無いが、これ以上の無造作な接近は危険だと感じ取り態勢を整えたのである。
「……ッ!」
一方、帰蝶は飛び退いた。
直経の膝を曲げる行動に、驚いて飛び退いたのである。
帰蝶は直経の実力を見抜いたのである。
足運び、佇まいなど、ほんの少しの所作で直経の強さがビリビリと伝わって来る。
一方、直経も帰蝶の警戒具合には驚いた。
「……本当に強いのだな。だが、肌に纏わり付くこの殺気は紛れも無く本物。若と将軍を倒したのも頷ける話。だが、ワシを先の2人と一緒にして貰っては困るぞ?」
義輝陣営において、武力1位は足利義輝、2位が浅井輝政、3位が細川晴元で、4位に遠藤直経がいるが、当然、こんなのは直経が遠慮した結果である。
直経が本気を出したら、義輝など足下にも及ば無いだろう。
「その様ですね……!」
「ワシも溜飲を下げたいのは山々じゃが、貴殿がどれだけ強くとも、流石に女を痛め付けたい訳では無い。このまま退くなら見逃してやるぞ?」
「本当にその言葉通りなら嬉しいんですけどね……!!」
戦場において相手の言葉など、塵芥同然の価値でしか無い。
背中を見せた瞬間、直経の槍が胸から飛び出すと帰蝶は確信している。
「私は『駄目だ』と感じたら逃げるのも手段と考えていますけど、敵のその言葉を信じる程甘い覚悟で戦場に居る訳ではありません」
「……これは本当に傑物じゃ。女にしておくのが惜しい。これは本心からそう思うぞ?」
そう言いながら、直経は無造作に槍を振る。
流星圏すら届かぬ間合いで槍を振って何をするのか?
帰蝶はゾワゾワと嫌な予感を感じ、横っ飛びに身を躱す。
「……ッ!!」
帰蝶の居た位置に、正確に石の散弾が通過する。
直経が槍の石突きで、地面の石を弾いて飛ばしたのである。
「良くぞ躱した! 卑怯とは言うまいな? 行くぞ!」
喧嘩も立会いも先手必勝。
最初に手を出したら、後は相手が死ぬまで殴るのが争いの鉄則。
帰蝶が躱せなくても、体勢を崩しても次の行動が遅れる。
直経はその最初の一撃を喰らわす為に会話をしつつ、手頃な石がまとまって落ちているポジションを探して居たのである。
「勿論! 私だって文句を言うつもりは無いわ!!」
帰蝶は膝立ちの体勢から全身のバネで流星圏を飛ばす、と同時に地面を転げまわって距離を取る。
直経は投げ付けられた流星圏を、あえて頭を振って兜で弾いた。
体勢が崩れたままの投擲では、スピードなどタカが知れている。
一方、帰蝶の居た場所には、直経の槍が地面に突き刺さっていた。
転がって避けなければ槍は心臓を貫いて居ただろう。
《甲冑が無いのは痛いわね……!》
甲冑を着込んでいない帰蝶は全身弱点同然で、どこを刺されても戦闘不能になってしまう。
《か、甲冑があれば勝てるんですか!?》
ファラージャも、テレパシー越しに感じる殺気に戸惑いが隠せない。
輝政と義輝を無傷で倒したのは実力差故にだが、ファラージャの質問で我に返った帰蝶は、直経相手に無傷で勝つなど虫が良過ぎると思い直す。
《……無理かも》
今更ながら後悔しても後の祭り。
だが、甲冑を着込んでいては、信長への目通りが遅れたかも知れない。
もう、あの趣味の悪い白甲冑は身に着けていない。
それに甲冑が無いお陰で放つ事が出来た上段回し蹴りである。
結局、様々な決断は最良だと思って行動するほか無い。
ただ一応、帰蝶は死ぬ程に痛い思いをすれば、やり直しは可能だ。
《私のTake3を準備しといてくれる?》
《は、はい!》
だが帰蝶はファラージャに、本心からやり直しを頼んだ訳では無かった。
《そこは嘘でも元気付けてよ! でも、簡単に倒されるつもりは……無いッ!》
言霊を信じている訳では無いが、応援は欲しかった帰蝶。
「ハァッ!!」
帰蝶は流星圏を両手に構えて振り回す。
帰蝶の手元でコントロールされ、肘や腕を使って円の直径や軌道を自由自在に動かす。
さながら局地的に発生した乱気流の様である。
この流星圏の範囲内に進入した者は、高速で連続で斬り付けられ肉片と化す―――ハズなのだが、直経が呆れた顔で槍を突き出し、流星圏が2つ宙を舞い、あらぬ方向に飛んで行った。
槍で紐が切られたのである。
「あッ!?」
「さっき投げ付けた奴か。面白い得物を持っておるな? だが、その得物、刃物を持つ相手とは相性が悪過ぎやせんか?」
「クッ!」
慌てて帰蝶は地面に刺していた薙刀を拾う。
流星圏は4つ用意しているが、直経に投げ付けた物と、今紐を斬られた物2つを失い、残り一つ。
義輝から奪った長巻は背負っている。
後は、脇差が一振り。
体術も武器とカウントするなら一人分の手足。
一応、まだ戦える。
戦えるだけで時間の問題ではあるが。
「でも! そう簡単に負ける訳には行かないのよ!」
帰蝶は薙刀で斬り掛かる。
直経は、その猛烈な威力で襲い掛かる薙刀を、己の豪槍で弾き飛ばす。
「女の身で良く戦った。だが仕舞いじゃ!」
更に一撃、頭上から振り下ろされるが、帰蝶は薙刀を捨て、長巻を抜きつつ内側に飛び込んで斬り掛かる。
だが、直経はそれを読んでいたのか、前蹴りで帰蝶の胸部を蹴り突き放す。
突進する勢いと、前蹴りの力を胸部で受け止めるハメになる帰蝶。
いわゆるカウンターの原理である。
胸骨がメキメキと体の中で嫌な音を立てる。
「ガハッ!?」
「その勝負を諦めぬ見事な往生際の悪さ! その胆力! ここで殺す事が本当に残念だ!」
蹴りを受けて膝を突いた帰蝶。
一撃で内臓が痙攣し呼吸困難に陥る。
「その代わり我が武功として語り継いでやろう!」
直経が槍を振り上げ、止めの体勢に入る。
帰蝶が膝を突いた場所は直経の槍の穂先が、一番力を保ったまま振り下ろされる場所であった。
振り下ろされれば、真っ二つなら幸運で、最悪スイカ割の様なグロテスクな現場が現れるであろう。
「カッ……クッ……《駄目かッ……!?》」
だが、槍は振り下ろされなかった。
直経は瞬時に帰蝶の背後に回り、首筋に穂先を当て叫んだ。
「動くな!!」
「チッ! このまま後ろから貫いてやろうと思ったのにのう?」
その残念そうな声の主は塙直政であった。




