144話 将軍の治める地、高島
【近江国/朽木城 足利義輝軍】
「高島は!? 高島の状況はどうなっておる!?」
朽木城に飛び込んだ義輝は、身を休める事もせず状況確認を取った。
「はっ! 織田斎藤軍は高島に侵攻し各拠点の攻略に掛かっています! まだ高島全域を制圧するには至っておりませぬが、このまま手を拱いていては時間の問題です!」
義輝は可能な限り準備を整えて到着したが、当然、今から前線の把握をする行動を起こす訳では無い。
延暦寺との和睦を成立させて最初の命令が、危機に陥っている高島の把握である。
高島は最低限の兵しか残って無い。
蠱毒計の趣旨を理解してからは、ある意味安全が確保されたので一層兵を減らして六角対応に割いた。
お陰で無人とは言わないが、とても城や拠点の防衛が出来る兵は残って無いので、織田軍に速攻戦術を許してしまっていた。
「何たる事だ!」
「これは厳しいですな」
細川晴元も口を真一文字に結び唸る。
「それはそうだが、何を他人事の様に言っておるか! 瀬戸際でも正念場でも無い! そんな場面はとうに過ぎておろうが!」
義輝は捲くし立てた。
義輝の言う通り、瀬戸際、正念場のラインはとっくに踏み越えられている。
何とかすれば何とかなる場面では無い。
最大限挽回しても、朽木の領地は大幅に削り取られる。
しかも平地の有用な土地ばかりである。
義輝が焦るのは当然であった。
だが、他人事の態度を改めぬ細川晴元は、義輝の怒りを聞き流した。
「明智軍と京極軍は南、佐久間軍はその後詰で、信長軍は北西に進軍し様と見て取れます。ならば……次の狙いは安曇川砦になりますか」
晴元は予測を立てた。
現在織田軍は、敵の抵抗が極薄なのを良い事に、戦力を分断して拠点を攻略していたが、その戦術と現在の状況から、次は安曇川砦だと断定した。
「あそこを攻略されたら、ここ朽木城に至る道が開けてしまう!」
安曇川砦を抜かれると、朽木城まで進路を遮る拠点は何も無い。
安曇川周辺には挟撃出来る山間部の通路もあるが、ほぼ全軍が京から引き返して来た現在、とても配備する時間は無い。
「そうですな。信長がこの好機を見逃すとは思えません」
「何を分かりきった事を説明しておる! 余を愚弄したいのか!?」
「気が付きませぬか? 瀬戸際も正念場も過ぎ去ったからこそ生まれた、これは正に千載一遇の好機ではありませぬか」
義輝は焦りの余り気が付いて無いが、怒る主君を前に冷静な晴元は好機に気が付いていた。
「織田軍は我等の和睦を知りませぬ。防備がままならぬ高島の状況からも我等が風前の灯であると確信しているでしょう。そんな信長軍に我等が殺到したらどうなりますか?」
「……あっ!?」
斥候の報告時点では信長本陣はどこも攻めてはいなかった。
別に休憩をしている訳では無いが、進軍を停止していたのを斥候は目撃していた。
「先の報告では進軍を停止しているとの事でしたが、今頃はまさに進軍の最中でありましょう」
斥候が目撃して帰還する迄、今も停止中と判断するのは、幾ら何でも楽観的、希望的観測が過ぎる。
今迄、連戦連敗だった将軍陣営とは言え、だからこそ生き残って来た嗅覚は備えている。
仮にも乱世に生きる人間として、この状況で『ふう! 一安心じゃな』はあり得ない。
「我等は尾張であの男をつぶさに見て参りました。あの無駄を嫌う男が、この状況で己は休憩など有り得ますまい。ならば目標は間違いなく安曇川砦となりましょう」
晴元は断言した。
相手はあの信長である。
管領にして右京大夫の己が、うっかり平伏しそうになる程の覇気と野望を秘めた信長である。(73話参照)
尾張で見て来た信長像から逆算すれば、究極効率を目指し親衛隊システムを作った信長が、ここで、この状況で、本陣を働かさ無いなどあり得ない。
「織田軍は分散させて各拠点に対応しております。これこそ我らの存在を知らぬ証拠」
晴元の言う通りで、信長は将軍は京から動け無いと判断している。
和睦など予想もして無い。
将軍が待ち構えていると知っていれば、一丸となって進軍するはずである。
「安曇川砦に来るのは現在交戦して無い信長軍しかありますまい。……ならば今が好機」
そこへ和睦を果たし自由に動ける様になった足利軍が殺到したならば、一発逆転は充分見込める、と言うより、唯一の勝機でもありながら、現状、極めて勝つ可能性が高い突撃戦法が取れる。
「但し、信長を討つには今すぐ出立しなければなりません。後続の六角軍、興福寺と足並みを合わせる事も、彼らを待つ猶予もありません」
「ぬぅ……!」
「更に、あちらはほぼ一直線で安曇川砦を目指せるのに対し、我等は細い山間部で曲がった川沿いを通過せねばなりません。どうしても全軍が間延びして歩む早さにも制限がかかります。従って和睦は果たした物の動かせる兵は互角が良い所でしょう」
「相手の予測を上回る兵を揃えているのに、互角の戦力しか投入出来ぬのか!?」
「出来ませぬ。しかし、存在しないと思われている軍勢が存在しているのです。これ以上の勝機は望めますまい。そこに安曇川砦攻略中の信長軍の横腹を突ければ最高の結果が得られるでしょう」
「……!!」
「ここで信長を討てれば、将軍の地位は磐石となりましょう。少なくとも舐めた扱いは潜めるはず。何せ北畠、今川、朝倉、願証寺、武田と名だたる勢力が討てずに敗れ去り、或いは倒せずに撤退に追い込まれた織田信長を討てるのです。まさに征夷大将軍に相応しき功績」
「あの信長を……」
義輝は尾張で己より輝く、今は憎いのに、それでも惹かれる信長を思い出す。
「今、我等の苦境は名声が皆無な事。むしろ、地位が高い分、惨めさは比類なき有様です。これを一度に挽回出来る絶好の好機。……如何しますか?」
「……」
「一応、六角、興福寺を待つのも手段です。しかし、致命的な遅れになりましょう。堅実を取って現状維持とするか、急襲にて未来に続く勝利を引き寄せるか。……決断を」
何とかすれば何とかなる場面は過ぎ去ったのに、極めて鮮明な何とかなる光景が義輝の脳裏に浮かぶ。
「……そこ迄言われて、足を止める戦略など取れんな」
「では?」
「右京(晴元)の言う事は一々尤も。反論の余地も無い。分かった。今すぐ動ける者で出立する!」
「承知致しました」
晴元は背後に控える部下に指示を出した。
「伝令! 六角軍、興福寺軍に対しては後詰を要請しろ! 今の状況から我等が打って出るしか無い事をしかと伝えよ。功を焦ったと取られて折角の和睦が瓦解しても困る! 信長を討ったならば、残る織田軍など物の数では無い! その時には六角軍と興福寺軍の力を存分に借りると伝えよ!」
偶発的な遭遇戦ではあるが、義輝が信長を討ち、六角、興福寺が織田軍を蹴散らす。
武功的にも偶然バランスが整っていた。
「はッ!」
伝令は足早に駆け出して行った。
その動きを見届ける暇もなく、今度は浅井輝政に指示を出す。
「新九郎! 貴様は我が部隊の一番手! 信長を見事討ち取って見せよ! 織田軍は鉄砲を用意しているだろうが、急な不意打ちに鉄砲を整えさせる時もあるまい。砦の救出も後回しで最優先で奴本人を狙え! それが結局、救出手段となろう!」
「お任せを!」
新九郎と呼ばれた浅井輝政。
史実では浅井長政として信長と共闘し、最後には刃を交えた。
そんな事実など知る由も無い大柄な少年が、威勢の良い返事をした。
苦しい戦いから解放されるとあって闘志も溢れんばかりである。
「弟よ。其方はワシと共にせよ。足利の勝利を世に知らしめるのに、お主と興福寺は絶対に必要だ!」
「はい!」
弟と呼ばれた覚慶こと、史実の足利義昭。
彼は今、足利義輝の動かせる駒の中でも、最重要人物である、と言うよりは、いつの間にか最重要人物となってしまった。
興福寺から派遣された、と言うより自ら志願して兄の下に馳せ参じたが、和睦成立前迄は興福寺と分断されて存在感は示せなかった。
しかし、六角と和睦が成立した今、興福寺勢力をまとめ、その力を動かせるのは覚慶だけである。
ただ、実績が乏し過ぎるが故に単なる神輿として軽んじられている。
ここで覚慶にも実績を挙げさせるのは、絶対に必須である。
15代将軍となる事が確定事項でもあるからして、兄として大御所としても手柄の確保は必須である。
寧ろ、今後の足利家を思えば、六角や覚慶以外の興福寺兵に手柄を攫われるのは非常に都合が悪い。
発言権の無い将軍が如何に惨めかは身をもって知っている。
義輝と共に信長の首級を挙げるのは、今後を思えば必須のミッションである。
己でも今迄の役に立たなさは自覚しているのだろう。
やや気負い過ぎているが、戦意に問題は無い。
「よし! 出陣じゃ!」
「お待ちを!!」
勝機を見出し出陣し様とする義輝の出鼻を晴元が挫く。
「な、何じゃ!? 刻が惜しいのは分かっておろう!?」
「皆の覚悟がそこ迄あるのなら、もう一つ更に策がございます」
「お主、この状況の中でまだ策を出せるのか!?」
義輝としては、先程の策で充分だと感じたが、その先にまだ何かあるなら聞いて損は無い。
「はい。但し失敗したら当然討死。成功しても討死するかも知れません。これから述べる事は多数の段階で運が悪くても討死。しかしその死を潜り抜けた先に光明があるはずです。しかしこれは、どんな戦にも死は付いて回るものですが、少々その可能性が高くなるだけです」
晴元は策の説明を始めた。
「先程の伝令の内容を変更する必要はありません。新九郎が先陣を切るのもそのままで結構。違うのは―――」
晴元は地図を指しながら説明を始めた。
晴元の策は、危険を伴う策であるが、先程よりも確実に信長を討ち取れる可能性を感じる策であった。
「成る程な。確かに少しでも何かが狂えば、それこそ運が悪くても終わりか。だが、信長を討ち取る可能性を上げる為ならば、この程度の危険を潜り抜けられぬで何が将軍か! 義教公と同様、豪腕を持って力も運も奪わねばならぬ! 行くぞ!」
義輝の大号令が朽木城に木霊し、足利軍は安曇川砦に向けて大急ぎで進軍するのであった。
「……さて」
主が退出した広間では、細川晴元が一人残された。
「伝令!」
晴元が伝令を呼ぶ。
「今から我らは織田軍に急襲を掛ける。六角軍と興福寺軍にはその後詰を依頼せよ」
「はっ。……先ほど同じ内容を上様が申し付けたので出立済みですが、念入りに、と言う事ですか?」
「それもあるが、万が一に備える。良いか―――」
晴元は伝令に耳打ちをする。
それは将軍陣営で唯一冷静であったが故の根回しであろうか。
「わ、わかりました……!」
「頼むぞ」
晴元はそう言って伝令の肩を軽く叩いた。
「さて、ではワシもお供するか。上様の行く末を見届けなければなるまい。……それにしても義教公か」
足利義教とは6代将軍で『籤将軍』とも言われる。
その異名は比喩でも何でもなく、本当に籤引きで将軍に選出された経緯による。
義教はその強運を天から認められたとして、当時既に将軍が傀儡になりかけていた地位を挽回し強権を持つに至ったが、その政治は『万人恐怖』と称され最後は暗殺された。
「持ち出す例えとして良いのか悪いのか。足利の祖先の皆様。どうか―――」
義輝は義教を例えに出して己を鼓舞したが、晴元にはそれが適切だったのか判断出来なかった。
軽い黙祷の後、己も義輝の後に続いて安曇川砦に向かうのであった。
【近江国/安曇川砦 織田信長軍】
足利義輝が朽木城から出陣した暫く後である。
小休止とも言える進軍停止から行軍を再開し、安曇川砦に到着した。
山に砦背後を守らせた、典型的な拠点である。
朽木城の玄関の役割も果たす砦でもあり、いざ戦となれば、敵の通過を防ぎ、場合に寄っては敵を安曇川に沈めて殲滅も狙え、背後の山も砦と連携しあらゆる場所から奇襲も狙える優秀な拠点である。
人員が確保されていれば、の話であるが。
残念ながら、今は普通の防備もままならない、折角の機能を生かしきれ無い拠点である。
流石に朽木城に対する玄関の役割から、今まで落とした砦に比べれば兵の数は多そうであるが、それでもたかが知れている戦力である。
従って現在は、兵数の割には戦意が高いが、ただそれだけの拠点となり果てて居た。
「降伏開城を申し付けよ! ……まぁ徒労に終わろうが、戦わ無いで済む可能性を勝手に潰す訳にはいかんからな」
高島に入って幾つかの拠点を落としたが、降伏開城に応じた拠点は一つたりとも無かった。
本当に多少ながらも損害を与える猛者も居たが、全員玉砕したのである。
だから信長は徒労に終わるだろうと確信はしつつも、同時に敵ながら天晴と感じずにはいられなかった。
《前々世、奴の為に死んだ兵がどれだけ居た事か》
《居たのですか?》
不安げにファラージャが訪ねた。
《詳しくは知らん。二条御所に詰めて居た人間が多数討ち取られたとは聞く。但しその中で、不運にもその場に居たから討たれた人数と、忠誠故に討たれた人数はどちらが多いのだろうな?》
史実における、足利義輝襲撃事件の永禄の変。
三好義継、松永久通ら三好の軍勢が二条御所に押し寄せ、将軍側の人間は義輝も含め全滅した。
襲撃側の兵10000に対し、将軍側は1000にも満たぬ数百程度の兵力であった。
当時の義輝は、永禄の変の前に危険を察知し逃げ様としたが、家臣に諌められ居残り、結局その判断が仇となった。
そんな大劣勢の将軍に従う勇気ある兵は忠誠心が高かったのか、或いは逃げ腰の将軍に絶望した兵が多かったのかは分から無い。
《しかし、今の新たな歴史では、優に前々世よりも忠誠故に討ち死にした数は多かろうて。とは言っても二条御所より多いだけで、拠点の防備としては少な過ぎるがな。抵抗してくれたお陰で、将軍や高島の現状を知る事が出来たと思うと、忠誠も良し悪しじゃな》
少ない戦力を露呈させる戦い故に信長が『高島に兵無し』と確信したのも事実であり、その上で、義輝の手腕を改めて評価するに至った。
そんな雑談をして過ごす信長の下に伝令が戻って来た。
「降伏は拒否されました! 返答を伝えます! 『寡兵ではありますが、これも乱世の習い。恩義ある足利将軍家に殉じる』との事です」
この高島攻略戦で何度も聞いて来た返答であった。
「分かった。降伏開城の意思無し。これより安曇川砦の攻略を開始する。掛かれ!」
信長は号令を発し、兵達が一斉に攻略に乗り出した。
そんな安曇川砦の様子を見て、信長は独り言の様に呟いた。
《しかし、この砦も降伏拒否か。そこ迄、忠誠を得る主君として奴は成長したのだな》
この高島攻略戦において、攻略した全ての拠点で兵が全く足りていないのに、徹底抗戦を見せる忠誠の高さには驚くほか無かった。
信長は奴と呼んだ足利義輝の事を思った。
歴史が動いた結果、尾張にふらりと現れた足利義輝。
その後は袂を分かち、ついに今、武力衝突をするに至った。
《あの蠱毒計の中で、これ程の忠誠を集め、手入れの行き届いた領地を運営していたとはな。奴は本当に良い領主だったのだな》
義輝は信長の元で己の鍛錬のみならず、政治も学んだのだろう。
領民に兵役を課していれば田畑は荒れるのが普通である。
何せ管理する男手が減るのだから、どうしても維持は疎かになる。
しかし、今の高島の田畑は多少の荒れはあるが、こんな計略を食らってなお、健全と言って良い手入れ具合であった。
今は戦の最中だから領民は逃げているが、田畑が荒れていないからには、専門兵士が少なからず居るはずである。
《よくもまあ、こんな規模の領地で親衛隊を組織したものよ。随分骨を折ったに違いない》
人柄を測るには成果物を見るに限る。
どんなに清廉潔白な人物に見えたとしても、それが見せかけであるならば仕事や生活に悪影響が出ているハズである。
その上で、領主の能力を測るならば、領地の管理具合が適当であろう。
高島は荒い部分もあるが、信長の目から見ても十分合格点に値する統治具合であった。
兵士の忠誠に至っては満点を与えても良いかも知れない。
《それだけに惜しい。将軍でさえ無ければ最低でも地方の覇者には成り得たであろう》
かつて信長は、義輝に向かって『誰よりも高い地位にいながら、誰よりも不利な立場』と評した。(73話参照)
それが、ここ迄不利を挽回し、六角家と互角に争う迄に成長したのだから、正直な所、賞賛の念を禁じえない。
《そんな義輝さんは殺してしまうのですか?》
《奴は本当に将軍じゃなければと常々思う。しかしその事実を無かった事には出来ぬ。ならば殺すのも手段。ただ、ワシとしては将軍殺しの汚名を被るのも厭わんが、そうすると困った事にもなるからな。本当に悩ましい存在だ》
《はぁ……》
ファラージャは信長が何に悩んでいるのか分からなかったが、それ以上は聞かなかったし、本来なら楽しいと感じる当事者による評価も今はどうでも良かった。
ソレどころでは無かったからだ。
信長と義輝の激突迄、後数刻―――




