外伝39話 北条『進化と歪み』氏政
北条氏康が綱成らを堺に派遣する前の話である。
世の情勢が大きく変わり、三好派閥として織田と和解した今川家では大きな動きがあった。
今川が織田の援軍として出陣する機会が生まれたのである。
まずは今川氏真の織田家援軍である。
相手は伊勢長島の願証寺。
目的は2つ。
1つ目は、織田と今川の同盟が形だけではない事を示す為。
2つ目は、今川の宗教対策を内外に示し、宗教一揆は許さぬ姿勢を示す為。
さらに内緒で、氏真がこの軍事行動中に帰蝶に稽古を付けて貰う為である。
あくまで主戦力は織田家であるが、今川氏真の役目は信長に付き織田の方針を学ぶ為でもある。
【1554年 三河国/岡崎城 今川家】
岡崎城では今川氏真が出陣の準備をしていた。
目的地は伊勢長島。
相手は本願寺系列願証寺。
氏真は織田家の援軍として出陣する。
「涼春よ。ワシは織田の援軍として尾張に向かう事になった」
「左様で御座いますか。かつての敵と轡を並べるとは戦国の世とは節操が無い……いえ、言い過ぎました。ご武運を」
「……いや、お主の言う通り節操の無い事じゃ。しかしそれ程の信頼を置いてくれる織田殿を裏切る訳にはいかん。例え織田殿の供回りだとしてもな」
氏真は時代故の運命のイタズラを嘆く―――事はなく、何故か嬉しそうであった。
涼春も不審な態度の氏真には思う所があったが、それ以上に気になる事があり聞いてみた。
「供回り? 前線には出ないので?」
「詳細は把握しておらぬが、今回今川勢は基本的には戦わぬらしい。相手が願証寺だから気を使ってくれたのかもしれぬな」
「……少しでも兵力の差を見せつける為の出陣と言う事でしょうか?」
「恐らくな」
「だからそんなに嬉しそうなのですね?」
「嬉しそう!?」
涼春の思わぬ攻撃的感想に氏真は驚く。
「桶狭間に行く時は悲壮感漂ってましたけど、今はどちらかと言うと楽しみで仕方がない御様子ですもの」
「ッ!?」
涼春は正解には至らずとも氏真の心情を的確に捉えた。
それはそうであろう。
前は帰蝶に偽装して来てもらっていたが、今回は何の偽装もせず、誰に咎められる事もなく正々堂々尾張に行く事ができる。
信長の戦を学ぶ向上心と、帰蝶の訓練を受ける心を焦がす傾慕の心。
それらがまるで隠せておらず、仮にも戦なのに、死地に向かう筈なのに、その手の心配が一切ない態度は涼春で無くとも見抜けるだろう。
まだまだ未熟な氏真であった。
その願証寺殲滅戦で、氏真は明智光秀と共に炊き出しを行うだけであったが、その炊き出しが抜群の効果を生み出す様を見て、何も刃を交えるだけが戦では無い事を学んだ。
長年の包囲と盆踊りで挑発し、自滅疲弊させ、食欲を刺激させ内部崩壊を促すやり方と、その結果がもたらす餓鬼地獄の大惨事に政治の力を思い知ったのである。
その後、氏真は佐々成政、前田利家らと共に、周辺地域の寺社への威力制圧作戦に従事した。(外伝23、24話参照)
今川領での寺社対策を学び、織田と今川の関係をアピールし、子育てで悪戦苦闘する帰蝶のストレス発散に嬉々として付き従った氏真は、一旦岡崎に帰還すると一回りも二回りも成長していた。
楽しい事も多かったが、それを消し飛ばす程の願証寺の惨状が、氏真を武将として成長させていた。
その氏真は再度、尾張へ派遣される事になる。
【1555年 三河国/岡崎城 今川家】
「涼春よ。ワシは織田の援軍として、また尾張に向かう事になった」
「またで御座いますか。かつての敵と何度も轡を並べるとは戦国の世とは節操が無い……いえ、言いすぎました。ご武運を」
「……いや、お主の言う通り節操の無い事じゃ。しかしそれ程の信頼を置いてくれる織田殿を裏切るわけにはいかん。例え留守居だとしてもな」
「……」
昨年同様、氏真は緩みそうな顔を懸命に抑えている様にも見える。
しかし、昨年にはない毅然とした態度も感じられる。
涼春は疑いの気持ちが晴れないが、しかし、それ以上に聞き捨てならない言葉に引っかかり、言葉を返した。
「えっ? 留守居? 留守居と言いましたか? 轡を並べて尾張か近江で戦うのではないのですか?」
「いや違う。織田家はほぼ全軍で飛騨へ向かう。ワシはその間、北畠殿と共に尾張の治安維持を任される事になるだろう」
「え!? 他家の人間に留守を任せるのですか? そ、そんな事ありえるのですか!?」
氏真の出陣を聞いた涼春は、信じ難い内容に仰天するしかなかった。
(北畠は織田に敗れ臣従すれど、留守を預けるには危険過ぎる相手ではないの!? 北畠にとって好機到来との警戒は無いの!? 今川は引き分けて今は同じ三好陣営だけど、留守を預ける程に信頼しているの!?)
涼春は、小田原城の留守を武田晴信や今川義元に頼む父を想像してみたが、荒唐無稽すぎて欠片も現実感が無かった。
現代の信頼ある警備会社なら理解できるが、今は戦国時代、しかも両家が激突し争った間柄である。
こんな事があり得るのだろうか?
答えはあり得るのである。
もちろん、そんな事例が多発する訳ではないが、他ならぬ信長がその事例の一つを作っている。
史実で信長は斎藤道三に留守を頼んで(実際に派遣されたのは安藤守就)、自身は戦いに向かった戦がある。
それを『村木砦の戦い』といい、婚姻同盟しているとはいえ、他国の武将に城の留守居を任せている。
裏切られれば、城は奪われ信長は帰還場所を失うが、そうでなくても城内部からの機密防衛情報は全て目視確認させられ、後々の脅威になる可能性もあるのに、信長は悪逆非道を極めた斎藤道三を信頼し任せた。
もちろん何でもかんでも、誰にでも託せる留守居の役目ではない。
最低限、約束を守る信頼性と、実力を備えていなければ留守は守れない。
その点、道三と美濃三人衆の安藤守就の実力は申し分ない。
しかし、信頼性は戦国時代でも最低ランクであろう斎藤道三。
信長とは娘の夫の関係であるが、当然そんな情を気に掛ける道三ではない。
必要なら実行するだけである。
しかし信長は、よりにもよって斎藤道三を信じる行動をしたお陰で、存分に戦う事が出来た。
当時の尾張は信長もうつけと侮られ、家臣の統率も儘ならず、実弟信行、柴田勝家らが隙を伺っている時期である。
それでも信長は、最善を選んで成し遂げたのである。
だが、それは別次元の歴史の話で、今の歴史では、その役目を恨み深いであろう北畠具教と今川義元にやらせる胆力は常軌を逸している。
涼春は『尾張のうつけは狂っている』としか思えなかった。
「確かに前例など聞いた事がない。しかし前例とは、いつもこうした場面で誰かが決断し作られていくのだろう」
確かに前例が作られない世の中であれば、人間はサルから進化していないだろう。
前例を作ってこそ人間は進化する。
ただ、それにしたって北畠と今川に留守を任せる選択肢など、涼春の常識では存在しない。
仮に百歩譲って他勢力に任せるとしても、最低限それなりに信頼を得た相手でなければならないし、内部事情と現在の問題を天秤に掛けた場合のリスクを考えなければならない。
(北畠具教、それに今川の大殿は、信長にとってそんなに信頼できる相手なの? ……何故?)
桶狭間の真実を知る氏真は奇妙なまでに素直に納得しているが、しかし、真実を知らぬ涼春には当然ながら理解が及ぶ話ではない。
夫が出陣した後で涼春は風魔侍女に頼み込んだ。
「風狐。私ちょっと訓練がしたいんだけど」
「訓練? 一体何の訓練を?」
涼春の突拍子も無い言葉に、風魔侍女の風狐は心の中で顔を顰めた。
面倒事は嫌だが、任務として派遣された自分が無下にする事はできない。
「肉体の鍛錬だけど、欲を言えば、戦場で足手まといにならない程度には訓練したいわ」
「戦場!? それは相当欲深いと思いますが……。例えば私でも肉体訓練の方法を教えたり、体術や薙刀の指導は出来ます。出来ますが我らが目立つ事は危険です」
今川家の者も、涼春の周りに風魔忍者がいる事は察しているが、断定はできていないが故に、上手く侍女の擬態が出来ている証拠でもあった。
その優位と擬態を、自ら捨てかねない事は出来ればしたくない。
普通の侍女も、主を守る為にある程度武芸は嗜んでいるが、この侍女は風魔忍者なのだ。
ここで優れた武芸を見せては、折角の擬態が台無しである。
「……確かに」
「それに、姫様の狙いは彦五郎様に付いて行く事なのでしょう? 流石に軍事行動については教えられない、と言うよりソコは我らも素人です」
「そうよね……」
「でも」
風狐は一計を案じた。
自分達の手間を省きつつ、涼春の願いを叶える手法を。
「一つ妙案があります。太原雪斎様にお願いしてみては如何でしょう? 先ごろ政務からも御隠退なされたと聞いております。また、余生は後進の育成に捧げるとも。そこに混ぜてもらいましょう」
「それだわ!!」
政治は当然、軍事、謀略、武芸と全てにおいて超人的能力を持つ雪斎である。
あの今川義元を作り上げた怪物として、実力名声共に申し分無い。
涼春も、三河一向一揆の鎮圧指揮を目の当たりにしており、興味も尽きない。
涼春は雪斎の隠居寺に駆け込むと、一心不乱に修業した。
2年後の1557年―――
涼春は大きく変わった。(118-2話参照)
雪斎から鍛えられ、もう小規模の軍なら率いても問題ない知識と腕は持っている。
「涼春殿」
「は!? こ、これは大殿! 気付かず申し訳ありません!」
寺の道場で、疲れて倒れている涼春の顔を覗き込む今川義元に驚き、居住まいを慌てて正す。
「よいよい。気にするな。それよりも、そなたも彦五郎(氏真)と離れ離れになって長い」
氏真は織田への援軍(と称した帰蝶との訓練)で度々今川家を離れていた。
もう三河に居るより、尾張に居る方が長いだろう。
「和尚。涼春殿は一通り仕込んだのじゃろう? 大丈夫じゃな?」
「そうですな。彦五郎様に下にいるなら問題は起きぬでしょう」
「そう言う訳じゃ。そなたも寂しかろうから彦五郎の下に行くが良い。よく見てくるがいい」
何か思わせぶりな義元の言に、疲れて回転の鈍った頭では上手く考えが纏まらなかったが、氏真の下に行くと言う事は尾張に行く事と同義である。
ここ数年の疑問を払拭するチャンスの到来である。
「……!? は、はい! では支度してまいります!」
涼春はイソイソと駆け足で道場を後にした。
「武田の偵察と織田の偵察、それに、涼春殿に織田を見せて北条にも情報を流す。今年が山場になりそうなのですな?」
「……そうじゃ。結果如何では動く。そう考えておる。全てに対応できなければな」
義元は結果如何では織田も切り捨て、武田と共に織田を潰す可能性を頭に入れていた。
もちろん預けている人質は見捨てる。
それほど、織田と武田の戦いは予想がつかなかった。
その為に北条関係者にも情報を与え、後方の備えとし万全を期す。
ただ、信長の可能性を知った義元としては、こんな所で倒れられても困るのが本音である。
しかし義元の本音は信長に近くとも、今川家として世を渡る為には非情な決断もしなければならないのが辛い所であろう。
【伊勢国/長島願証寺跡 北条家一行】
「……ッ!!」
一方そのころ、北条から派遣されている北条綱成と北条氏政は、風魔忍者の先導の下、密かに願証寺廃墟に足を踏み入れていた。
願証寺が降伏し、腐乱遺体ごと焼却された地獄の地。
焦げた木材と焼けた白骨遺体が、そこかしこに転がる惨状に、北条衆は絶句するしかなかった。
【尾張国/津島 北条家一行】
一通り見終わって尾張津島の拠点に戻ると、止めた呼吸を再開させるが如くしゃべり始めた。
「あれ程とはな……!! 信長が10年立ち入り禁止にしたのも頷ける、と言うか、10年でどうにかなるのかあれは!? 20年経ってもこのままじゃろうて!」
「あるいは、洪水か何かで、洗い流されるのを待っているかもしれませぬな……!!」
「それにしても、ここまで宗教に対し大鉈を振るうか!」
綱成と氏政は思い出すのも憚られる光景に、北条が三好に力添えする事、即ち織田と接点を持つ事の危険を感じられずにはいられなかった。
ただ、氏政はそれでも肯定意見を述べる。
「ただ、始祖早雲公、二代目の氏綱公も一向宗(浄土真宗)を弾圧し、領内から一掃しましたからな。北条と一向宗は相容れぬ存在。今すぐ織田と何かする必要は薄いかも知れませぬが、これが例の織田の天下布武法度だとすれば、いずれ織田と強く接点を持った時、同じ主義主張として通じ合える余地は御座いましょう」
「確かにな。じゃが、あの光景を見るとな……」
氏政の言う通り、北条家始祖の北条早雲(伊勢宗瑞)と二代目氏綱は当時の年貢を四公六民にするなど破格の善政を敷いた為政者であるが、一向宗に対しては徹底的に排除した。
自分達の目指す統治と、余りに相反する存在だった為である。
何故か?
一向宗の考え方、と言うより一部の過激派信者は『造悪無碍』の考えの下で関東で暴れまわった。
仏教宗派は数あれど、また、その修行に難易の差はあれど、基本的には修行の末に極楽へ行くのが共通であったが、造悪無碍はまったく逆の発想である。
メチャクチャ噛み砕いて解説すると『仏の救済は悪人であっても例外無し! じゃあ、何しても大丈夫じゃん!』であり、宗教が絶対の世界においてこの考えは、ある種の無敵人間を作る事と同義である。
民衆がこんな考えでは当然、統治など夢のまた夢である。
極楽の世界ではなく、『今』を何とかしたい早雲、氏綱にとっては受け入れがたい。
しかも、その過激派が戦国時代には極めて多かった。
話し合いなど悠長な事をしている暇はない。
誤解の無い様に付け加えると、浄土真宗開祖の親鸞は造悪無碍を否定し、本願寺第8世宗主の蓮如も強く戒めている。
この真相は親鸞の信奉者達が、関東で教えを曲解し広めてしまった故に蔓延ったのが原因らしいが、これでは弾圧もやむを得ないであろう。
「今更北条は一向宗に関して立場変更など出来ぬか。……出発する前、殿も言っておったな。『天下を治める法を考えねばならぬ』と。これがそれに繋がると?」
「恐らく」
「ふむ……」
綱成は考え込んだ。
(殿が次世代の者を遣わした理由の一端がこれなのか? 新九郎は何か掴みかけておるのかも知れ……)
掴みかけておるかも知れぬ―――
そう思いを繋げたかったができなかった。
報告が舞い込んできたのである。
しかも予想外にも程がある報告が。
「お話し中失礼します。火急にてご容赦を! ……涼春様をお見掛けしました」
「スズハルさま?」
まさかこんな所でその名前を聞くと思わず、2人は一瞬『涼春』が誰の事なのか忘れた。
「涼春様ってあの涼春殿か!? まさか尾張で!?」
「そのまさかです……」
「間違いないのか!?」
「涼春様だけなら勘違いで済ませたかも知れませぬが、誠に残念ながら風魔の侍女の姿を確認しました……」
どうやら、風魔忍者も相当に有り得ない光景を見たのだろう。
忍者らしからぬ焦りが手に取る様に分かった。
「間違いないのか……。今川と織田は和睦したのだったな。しかも織田は飛騨に行ったきりで留守を今川と北畠に任せているらしい。じゃあ仕方ない」
綱成も混乱しているのか、仕方ないで済まそうとしているが、もちろん仕方ないで済まない話である。
「いやいや!! 織田の留守を守る為に今川軍を呼んだ。これは百歩譲って良い。文句があっても現実なのじゃから! ……ん? 今川軍も来ているのだったな? そこに涼春殿って、まさか従軍しておるのか?」
「はい。甲冑を纏った完全装備です。小規模ながら軍を率いておりました」
「ッ!?」
その肯定は、願証寺の顛末の衝撃と、同等の衝撃を受ける綱成と氏政であった。
一体何の因果なのか?
この後、遠く関東の地から派遣された涼春、綱成、氏政は出会う事になる。
【尾張国/今川氏真軍】
北条綱成と氏政が驚く前。
涼春は風魔侍女と共に氏真の軍に参上した。
何も知らされていなかった氏真は、当然ながら心底驚いた。
「涼春!? え、本人か!? 何故ここに!?」
「今川の大殿からの命令で、彦五郎様の下に参りました」
「父上!? お主が頼み込んだとかではなく命令とな!?」
「はい」
「ッ!?」
氏真は困った。
これは非常に都合が悪い。
浮気している訳では無いし、別に帰蝶に会っていたとしても、公式に和睦したのだから今川と織田の立場が揺らぐ事はない。
帰蝶との訓練を見られても多分大丈夫。
ただし、帰蝶の白甲冑姿が見られるのはマズイ。
あんな見目麗しい武将がこの世に2人と居るはずもない。
遡って関係性を疑われては今川の不忠が露呈する。
何とかして追い返したい氏真は、その理由を考える。
「あ、ありがたいが、しかし武芸や指揮は……」
「雪斎の和尚様から鍛えこまれております。お墨付きを頂きました。決して足手まといにはなりませぬ」
「何だとッ!?」
和尚のお墨付き―――
この言葉の意味する事は非常に大きい。
どんなに未熟であったとしても、凡将などと言う事はありえない。
「わ、分かった。ではワシの指揮下に居る様に。治安維持を徹底する故に、少数で動く事もある。場合によってはお主に一軍を預けて動いてもらう事になるが大丈夫か?」
もう帰蝶と物理的に遠ざけるしかないと、氏真は判断した。
「野盗程度ならばお任せあれ」
「……!! (強く逞しい妻がいるとこんな気持ちなのか! 妻に足元を救われるなど後世で何言われるか分かったモンじゃない! 織田の殿も大変な思いをしておられるのだな!! それにしても父上も和尚も北条にバレても良いと判断しているのか!?)」
氏真の懸念通り、義元も雪斎もこの件はバレても良いと思っている。
バレなければソレに越した事は無いが、すでに過去の事であり、うやむやに出来ると判断した。
何より、この程度の事を、後継者である氏真が捌けない様では先が知れている。
清濁飲み込んでこその武将であり為政者なのだ。
その氏真が懸命に考え下した命令は、尾張の南、できるだけ南の治安を任せる事であった。
とにかく人地城から引き離すべきだと判断したのである。
これが、北条一向にとって絶好の機会となった。
【尾張国南部/北条涼春陣】
「涼春様。行商人が参っております。不足の物資を買い付けるのも良いのではないでしょうか?」
側近に化けた風魔侍女である偑烏が商人の来訪を告げた。
戦場には商人の訪問販売が付き物である。
兵糧や遊女、武具の修理請負など、様々な人間がやってくるので何も変な所は無いのだが、偑烏は極めて顔色が悪い。
「へぇ。良いわね。何を持って来たのかしら?」
「梅干しと……外郎薬です……」
「えッ!?」
梅干しだけならともかく、外郎薬は小田原名産である。
そんな物が尾張にいる涼春の陣に、ピンポイントで来るのが偶然な訳がない。
「人払いを!」
さすがに何かを察した涼春は、即座に対応をとるが、その予想通り北条の関係者が現れた。
予想外だったのは綱成と兄の氏政という、重鎮中の重鎮が商人に化けて現れた事であった。
「左衛門様!? それに兄上!? お、お久しぶりです……? 何故ここへ?」
「本当に涼春殿だったか。まさかこんな所でお会いする事になろうとは!」
「婚姻以来のお久しぶりじゃが、それよりも、まさかお主が軍の大将なのか!?」
三者三様に驚く事しかない状況だが、とりあえずは何の目的でこの場にいるのか、すり合わせを行った。
「なるほど。彦五郎殿に付いて行く為に雪斎和尚に鍛えられ遣わされたのか。駿河殿と雪斎殿の判断と言う事は、今川は北条にこの争いの行く末を知ってほしい思惑がある様じゃな。奇しくも殿も同じ思惑で我らを派遣した」
「え!?」
涼春は自分に課された役割を知らずにいた。
ただただ氏真の下に来るのが目的だったので、意図を察する事ができなかったが、百戦錬磨の綱成には今川の思惑は筒抜けであった。
「涼春殿。我ら二人、この軍に紛れさせて貰えぬか?」
「え!?」
「単なる足軽としてで構わぬ。それにワシは今川に面が割れておるからな。目立つ事は出来ぬ。安心せい。総大将のお主の方針には従おう。野盗程度であれば我らが口出しする事などあるまいよ。彦五郎殿の指示に反する訳にもいかん」
「なるほど。軍に紛れてしまえば、より一層偵察ができますな。でも足軽ですか……」
氏政は少し嫌そうな顔をした。
権力者の後継者たる氏政は、足軽に化けるのは抵抗感があったし、涼春の指揮下と言うのもムズ痒い感情が沸き起こる。
「今まで商人に化けてきたのに、何を懸念する?」
「いや、まぁ、商人に化けるのは中々面白き経験でしたが、下級兵士に化けるのは嫌、と言うより経験も知識もまだ足りぬと言いますか……」
身分的に嫌と感じる部分も確かにあるが、足軽の役目を指揮する側で知ってはいても、働きを実戦で経験した事が無い氏政である。
どうやら不安の方が大きい様であった。
「まぁ、どうしても嫌なら涼春殿の側近扱いでも良いが何事も経験よ。こんな機会、北条本家に居ては一生できぬぞ?」
「それは確かにそうですが……」
「安心せい。野盗如き上役の涼春殿の指示に従っていればどうとでもなる。雪斎和尚のお墨付きじゃ」
「妹が、あの怪僧太原雪斎の直弟子というのも現実感が無いのですが……。わかりました。妹よ。よろしく頼むぞ」
氏政は直接雪斎と見えた事は数回ある。
それは雪斎が三国同盟成立の為に諸国を駆け回っていた時であるが、当時氏政は元服直後頃の未熟者で、老境の雪斎を侮っていた。
所詮は知識だけの外交僧侶だと。
しかし、その後に学ぶにつれ、外交以外にも全てにおいて超人である事を知る。
どう控えめに評価しても、化け物としか思えない太原雪斎。
それ故に、妹の今の立場が猶更信じられない。
氏政は妹の顔を見る。
「わ、わかりました」
涼春は2人を指揮下に入れる事を了承したが、兄と地黄八幡の異名を持つ程の武人の綱成を指揮する立場になるのに戸惑っていた。
その態度が、逆に氏政には涼春が謙遜している様に見える。
暗に『雪斎様の訓練なんて付いていくのが精いっぱいでした』と。
(自分だったら付いていけるだろうか? いや、出来るに決まっておる! ワシだって父上や幻庵の大叔父から鍛えられておるのじゃ!)
そんな妹が恐ろしくも頼もしい、しかし、妹に負ける兄である事など許されるハズもない反発心も湧き上がる。
史実にて北条氏政の評価は高くない。
汁かけ飯に代表されるエピソードなど、悲惨な創作が蔓延り、それが創作と判明している現在に至っても評価は低い。
その原因は豊臣秀吉と対立し、時代を読めず北条を滅ぼす原因を作ったが故の評価で、『滅ぼしたからには無能のハズだ』との逆説的理論である。
確かに滅ぼした当事者なのは間違い無いが、北条最大版図を築き、関東の覇者として君臨した手腕は一流の証。
不運だったのは秀吉が超一流だっただけだ。
この歴史の氏政がそんな評価を知る由もないが、信長が歴史を動かした結果、史実よりも成長する可能性を知らない内に手にする氏政であった。
また、この3人が集まる偶然が、一つの変化を生み出した。
信長にとって、非常に都合の悪い変化を。
この後、彼らは涼春の軍に紛れて尾張の治安を守ると共に、なるべく帰蝶から遠ざけ様とする氏真の思惑も重なり、偶然、信長の秘中の秘を目撃する。
それは偽装肥料、つまり硝石の生産現場兼、死罪相当の罪人収容場所である。
看守も罪人も含めて、ここで硝石が作られている事は知らない。
精々、南蛮式の肥料程度にしか把握しておらず、罪人の脱走対策で厳重管理態勢なのは分るが、まさかそれが硝石情報の漏洩を防いでいるとは思わなかった。
その牢の責任者は、今川軍の接近に対し、慌てて飛び出して対応した。
「これは今川家の方々。織田に代わる任務、誠にお疲れ様です……!!」
責任者は今川家が手違いで牢を襲撃しない様に、緊張感を持って対応する。
信長は他家に留守を任せたが、だからと言って末端の人間までが同じ思想と覚悟ではないし、何かあったらどうしようと不安で仕方がない。
仮に今川が裏切って牢を襲撃しても、手に入るのは肥料程度なのだが、罪人が解放されては治安的に大問題である。
故に責任者は気が気でなかった。
一方、そんな気はサラサラ無い涼春は、異様な緊張感をもって相対する責任者に、誤解を解いてもらうべく、なるべく柔らかに話しかけた。
「成程、尾張様(織田信長)は常々人手が足りないと仰っているとの事ですが、罪人まで総動員なのですね」
涼春が、10代の気品を感じられる少女である事も幸いした。
まさか義元もコレを狙って派遣したのかと涼春は思ったが、これも武骨な男には不可能な一種の女の武器なのであろう。
責任者も、過剰なまでの警戒感を解いて対応し始めた。
「その通りです。罪人の作り出す肥料で地域が潤うならば、罪に対する償いも幾何かは晴れましょう」
そんな監獄責任者と涼春の会話を他所に、護衛として施設に同行した綱成と氏政は驚愕の表情で目を見開いていた。
(新九郎! これは……これは硝石では無いのか!?)
(やはりそう思われますか!? まさか織田は硝石を自力生産を!? い、いや看守は肥料と……しかしこれは正に硝石!)
彼らは堺で硝石の現物を目撃していた。
正直な所、鋳物、梅干し、外郎薬の利益程度では手も足も出ぬ価格のなので、早々に諦めていたが、その硝石をこんな所で目撃するとは思いもよらなかった。
しかも備蓄ではなく、製造現場である。
(信長の偽装か!? 看守の能天気な対応を鑑みるに、知らずに関わっていると見るべきか!? 硝石は南蛮や明から仕入れるしか無いと聞いていたが、何たる事だ!!)
帰蝶も製造手法を知らない、信長転生の最大の目玉とも言える硝石の自力生産。
それをこの次元で、信長以外に初めて硝石生産現場と見抜く人間となった北条綱成と氏政。
そうなったらやる事は一つである。
「あ、あのう、看守様。できれば故郷三河のおっ母に楽させてやりたいので、肥料の生産方法を教えてもらえませぬでしょうか?」
綱成は可能な限り体を小さく、威圧的にならぬ様、弱々しく願いでた。
「お、おっ父! 看守様、オラからもお願しますだ!」
氏政も即座に綱成の意図を察し、涙ながらに訴えた。
(あ、兄上!?)
「お主ら親子なのか? 何と殊勝な! しかし、うーん、生産方法は我らも知らんのだ。蚕の糞やら何やらを使うが、肥料のくせに完成するのに年単位で時間がかかってな。しかも悪臭が酷い」
「そ、それでも構いませぬ!」
「そうか? なら知ってる事を教えよう―――」
信長は硝石を作っているとは誰にも言ってない。
戦略的に優位になるのは当然、こんな情報、第三者に話せば必ず漏れる。
だからこそ罪人を利用し、脱走を防ぐ名目で厳重管理する理由を作った。
また、完璧な作り方を知っている罪人が逃げるのも、ダメージが大きい。
悪臭と劣悪な労働環境に従事させられる、貴重な罪人である。
ただ、絶対に逃がさない事は厳命しているが、それに比べれば何をしているか漏らす事を許可はしてないが、かと言って口やかましく制限しなかった。
近隣住民にも『罪人への罰として面倒な肥料を作らせている』としか伝えていない。
それに肥料づくりを最重要厳重機密にするのも、知らない人間からすれば不自然過ぎて逆に注目を集めてしまう。
その結果、看守は知っている事を話した。
むしろ、自分の行いが両国の仲を取り持つと信じて疑わない。
タカが肥料で、国力が逆転されるとは看守責任者程度では想像が及ばない。
これは看守の失態と言うよりは、信長の方針が仇となり北条に硝石造りが漏れる事になった。
ただ、ここまで秘匿できたのは奇跡的であり、見る人が見なければバレなかっただろうが、この地に『見る人』が来たのは信長の歴史改変が順調(?)である証拠でもあった。
しかし北条も、看守から正しい製造方法を聞けた訳ではない。
正解の材料と、大体の手順だけが判明しただけである。
北条はここから試行錯誤して、製造方法の正解を見つけなくてはならない。
ただ、何も知らない無の状況から作るのとは訳が違う。
後は配分である。
硝石製造監獄を後にした北条綱成らは、手紙を認めると従う忍者に託した。
「風魔の忍びよ。これは最重要機密として可能な限り早く殿に知らせなければならぬ。ワシ等は涼春殿の兵として暫くここに残る事と共に必ず伝えてくれ」
「はっ!」
信長の歴史改変は、都合の良い事ばかりではない。
たかが小石でも湖に投げ込めば、波紋は遠くまで伝播する。
信長の挑戦が、遠く離れた関東の地の北条を動かし、今川の思惑が偶然重なり、三好と北条が密かに結びつき、ついでに硝石の情報まで広がってしまうのであった。
織田信長も、北条氏康も、今川義元と太原雪斎も、何かを期待して人を動かしたが、綱成と氏政は、誰もが予想だにしなかった成果を得たのであった。
北条の話はもうちびっとだけ続くぞ!
たぶんあと一回でまとまるハズ!




