外伝38話 北条『決断』綱成
この話は外伝37話直後の話です。
未読の方は先にそちらをご覧ください。
この話は5章 天文21年(1552年)外伝37話直後の出来事である。
涼春(早川殿)による浮気証拠集めという、そんなしょうもない、しかし危うく全てが破綻しかけた三河一向一揆から2年。
情勢は大きく変わった。
三好長慶と足利将軍家の争いが始まり、各地の支配者は決断を迫られたのである。
即ち、三好と将軍のどちらに与するか、または、それでもなお静観するか。(99話参照)
その決断は、中央に近い勢力ほど難しい立場に晒されたのだが、しかしその結果、信長と義元は一つの懸念が払拭され、北条氏康の懸念が現実になった事を意味した。
1554年の三好包囲網にて、織田家と今川家は三好陣営に参加したのである。(100-2話、100-5話参照)
【1554年 相模国/小田原城 北条家】
「チッ! 今川は織田と共に三好か! 桶狭間の懸念が月日を経て実現してしまったか!」
善徳寺での再会談では、武田晴信が思惑を外されてしまい苦しい立場となった。
だが、北条氏康も表面上は平静を取り繕うも、内心は苦虫を噛み潰すかの如くであった。
氏康の懸念とは、今川の三国同盟の破棄と、今川家による甲斐、相模への進出であるが、今回の件で織田と今川は三好の仲介で和睦し同じ陣営となり、公的に同盟関係となった。
信長、義元にしても、織田と今川の密約主従は両家の急所だっただけに、隠す必要が無くなったのはとてつもなく大きい。
もし、涼春の懸念から密約に辿り着かれていては、織田家と今川家は大惨事になっていただろう。
ただ、氏康も考え違いをしている事があった。
それは、信長以外は、戦の全てが食い扶持の確保の為に領土を拡大する私戦なので、その常識に当てはめて、三好派となった信長が義元と組んで東側に侵略すると勘違いしていた事である。
信長は史実でも現在でも、今は、そんなつもりはサラサラ無い。
目指すべきは、まずは中央。
中央を取ればそれは天下を取ったと同義。
天下の統一は、即ち関東への進出は、その後の仕事である。
「この戦国の世も随分長いが、近い将来終わりが来るかもしれぬ。それが三好か将軍か、はたまた織田か尼子か。それともまだ知れぬ未知の勢力か」
三国同盟破棄や今川の侵略は懸念は杞憂に終わるが、だからと言って『今川が来ないなら一安心』と油断する事などできないし、そんな楽観的な考えをする氏康ではない。
無駄に終わったとしても対策は取らねば、いざその時が来た時、何も手を打てなくなる。
自分の代に何とも無くとも、次の代には影響する可能性のある極めて近い未来の話なのだから、打てる手は打つのが気付いた者の務めである。
重要案件を先送りする様なノロマな武将は、淘汰されるのが戦国時代である。
「いずれ弱小勢力は淘汰され、大勢力同士のぶつかり合いになると? まさか……」
嫡男の氏政が疑問を口にした。
「なる。断言しても良かろう」
「ッ!?」
氏政は驚く。
そんな規模の戦いを発想ができなかった。
皆様は歴史を知っているので『そんなのは当たり前』と思うかもしれないが、この時代に生きる人々はそうではない。
日本全国の武士が各地で方向性も無く自由に戦う事は、日本史上初の未曽有の出来事であり、源平合戦も足利尊氏の戦いも、そこまで大規模な戦乱ではない。
だが、この時代は日本の端から端まで戦乱の、誰もが未経験の時代。
だから、この時代は『戦国時代』と呼ばれるのである。
故に氏康の断言は、例え大国の権力者であっても、想像の難しい衝撃の予言なのだ。
「その時の主役は、我ら北条では無いのですか?」
氏政の弟、氏照が率直な意見を言った。
少なくとも関東に轟く北条家だ。
主役になれない北条家も想像が難しい。
「難しいな。少なくとも今のままでは。何より天下を治める術を持っておらぬ。せいぜい鎌倉公の真似、あるいは将門公の如く新皇となる……ん? ……あッ!?」
氏康はそこまで話して声を挙げた。
どこかで考えて、答えが出なかった話を思い出したのである。
「三国同盟の締結時、義元が言っておったな。『案の無い者が力をつけ中央を支配すれば、いずれ必ず乱世に逆戻り』と。何たる事だ……。我らは奴の予言通りの道を進んで居る!」(43話参照)
「よ、予言?」
氏康は会談での出来事を話した。
三国同盟の利を持って天下を取ったとしても、具体的な方策が何も浮かばぬ事。
そのまま答えは出ないまま、結局、北条をしても、周辺地域を平らげるだけの勢力になっている事を。
「た、確かに現状はそうかも知れぬが、それは中央から遠い故に仕方の無い事ではないのか?」
北条の知恵者たる北条宗哲(幻庵)すら、理屈は理解できるが、それはある意味仕方ない事と思っていた。
「違うのです叔父上。我らは中央の争いとは無縁の独立独歩を貫けると思っておったが、全くの勘違いをしておったのです! 今の中央の争い、最終勝者が誰になるにせよ、生き残りたいなら動くなら今しかない、というより、今動かねば我らも身動きが取れなくなる可能性もある!」
氏康の捲し立てる言動に、同席する者達は想像するのも難しい状況を懸命に頭で思い描き、程度の差はあれど楽観は出来ぬ状況だというのを認識した。
それは信長の歴史改変が、確実に北条にも影響を与えている結果であった。
「……どうやらその様じゃな。この争いの展望を読みきるのは至難じゃが何もせぬ訳にはいかぬ」
「中立勢力が漁夫の利を得る展開にはならない様子。そうなると北条は一歩出遅れた立場、ですか」
宗哲、風魔小太郎ら家臣団も、遅まきながら氏康の懸念にたどり着き難しい顔をした。
「織田と今川が引き分けた結果、奴らにとっては一番都合が良い展開になっておる。自ら動く者を天は求むるという事か!」
今回の歴史では織田と今川は引き分けた(事になっている)。
だから今川も弱体化せず、織田も侵略を跳ね返すも余力が無く、結果、織田は今川に反撃する事も出来ずに、現状維持をしたと勘違いをしてしまった。
この判断ミスは氏康だけではない、
武田晴信も、長尾景虎も、朝倉宗滴も、斎藤道三、義龍親子も、当事者の今川義元も太原雪斎もすら勘違いした。
史実でも今でも、桶狭間の結果を知った者達は、信長が東侵しない理由を全武将が全員誤解した。
まさか信長は、今川領など端から興味が無いとは夢にも思わない。
しかも、今川義元が生き残って信長が有利になるなど想定外である。
しかしその想定外が、史実よりも危機感を高める結果となり、中央から離れた関東であっても、対応を誤れば孤立無援に陥ると氏康は警戒した。
「ただ、関東に拠点を構え中央に介入出来る事などタカが知れておる。西に侵略できる道もない。独立独歩を選んだつもりが、結局選べる道が無いとはな」
「……強くなるしかあるまい。いずれの勢力が中央を取るにせよ、その時に対等に渡り合える存在になっておれば、戦うにしても結ぶにしても選ぶ事が出来る。ならば天下を治める方策を考えねばなるまい。それを考える事こそが、中央の流れに付いて行く事になろう」
天下を治める独自の法―――
史実の伊達政宗の家臣、鈴木元信が『伊達政権』を想定した法を作っていた。
結局それは実る事無く破棄されたが、恐らくは政宗の命令で作ったその法案の数々は、政宗が徳川政権を生き抜く為に役立った可能性は十分ある。
現代でも未知の兵器、哲学、数学、天文学など、生活や一般人に殆ど関わり無い事を研究するのは、色んな側面があるにせよ、必ずその中の理由には『いざその時』の為であるのは間違いない。
必要になった時に動くのでは遅い。
必要になった時の為に備えるのが、権力者の仕事の一つだ。
北条氏康は、その卓越した頭脳で現在と将来の危機を感じ取り、時代に喰らい付く為に動くのであった。
ただ、現状やれる事は結局の所一つしかない。
強くなる事である。
しかし、ただ闇雲に強くなるだけでは、地方のならず者勢力と何ら変わりはない。
天下を考える事で、中央の流れを読み、時代に遅れない備えを取る事で、取り残される事を避けられるかもしれない。
史実の北条家が、強大な勢力を誇ったまま取り残され滅んだ様に。
「そうですな。風魔としても北条様に倒れられては困るので、力添えは惜しみませぬ」
「うむ。泣き言など言っている暇はない。新九郎!(北条氏政)、源三!(北条氏照)」
「はッ!」
「まだ若いお主らには、暫く我らの姿を見て学ばせるべきと考えておったが、そうも言ってられぬ状況じゃ。じゃから任を授ける。海路で堺へ渡れ。目的は堺との商いじゃ。扱う物は鋳物、梅干し、外郎薬が適当じゃろう。だが、これは失敗してもいい。真の目的は中央の様子を観察と三好長慶との接触じゃ。それから陸路で京、近江、美濃、尾張と渡って来るのだ。お主ら次代の者がその目で見てこそ意義があろう」
「承知しました!」
「左衛門(北条綱成)、お主はワシの名代じゃ。書状を持たせるから出来れば内密に三好長慶と関りを持ってくるのじゃ。また、桶狭間で戦った織田や今川の様子を見てきて欲しい。これは人材豊かな北条と言えどお主にしか出来ぬ」
地黄八幡の異名を持つ北条綱成は、武力軍事に政治に優れた手腕を持っている。
綱成が出来ない事は氏康にも出来ない。
氏康に出来る事は綱成にも出来る。
氏康が動けないなら、その役目は綱成をおいて他にない。
「はッ! お任せあれ!」
「左衛門の判断はワシ判断。新九郎、源三はそのつもりで従え」
「はい!」
氏康は、中央に関われない立場ならではの、渾身の行動をする事になった。
彼らは様々な値千金の情報を得て、また、様々な驚愕の光景を見るのであった。
【山城国/京 摂津国/堺】
煌めく都の堺と、荒廃した廃墟の中にポツンと一軒家の様な朝廷御所。
冗談としか思えない栄華と惨状に北条一行はどう報告したら信じて貰えるか迷う程であった。
ただ嬉しい誤算もあった。
三好と接触する為の建前で持ち込んだ鋳物、梅干し、外郎薬が小田原名産として高く評価され、販売契約を取り決める段階までトントン拍子に進んだ。
そんな詰めの話の中で唐突に商人は別の話をし始めた。
「そうそうお武家様。三好様の噂はご存知で?」
「まぁ……それなりに知ってはおるが、お主の語ろうとする噂を知っているかは解らぬがな」
露骨に探る様な口調の商人に、北条綱成らは関東の気性とは違いすぎる堺商人の根性と貪欲な姿勢に呆れるやら驚くやらで参ってしまった。
ただ、これが商いの本場の態度と戦略なのかと、無理矢理納得するしかなかった。
「おっとコレは失礼を! 尾張の織田様が伊勢の願証寺を滅ぼしたのはご存知で?」(102~104話参照)
「……聞いた。尾張のうつけに偽りなしだとな。三好様じゃなくて織田の噂話か?」
願証寺壊滅の一方は、通信手段が貧相な戦国時代にあって、驚異的なスピードで広まった。
各地の大名はその情報網を使って情報を仕入れるが、商人たちもその独自のネットワークで武家達と遜色ないスピードで情報を手に入れており、当然、堺ではその噂で持ち切りであった。
神仏に対する恐れから恐怖に顔を歪める者もいたが、商魂逞しい堺の商人は、仏の惨状に心を痛めつつも、それはそれとして商機を伺っており、情報収集に躍起になっていた。
「まぁまぁ。もちろん話の肝は三好様でございますよ。三好様は織田様の蛮行に激怒なされたのです」
「ほう。三好様と織田は味方陣営同士と聞いておるが、その味方に対して激怒か。となると三好陣営は内部崩壊もあると?」
綱成が調べた限り、三好陣営を将軍陣営が囲んでいる様に見えるが、決して将軍有利に進んでいる様には思えない状況であった。
だが、三好も足元が崩れかけているなら話は変わってくる。
「いや、それが違うのです」
商人は綱成の考えを読んだのか笑顔で否定し、綱成りは商人の面倒くさい言い回しに思わず『要点を言え!』と怒鳴りたくなったが、なんとか堪えた。
「違う? 何が? 織田は数少ない東の味方にして要じゃろう? 例え毒皿であろうとも食らって味方として扱わねば三好様は孤立無援じゃろう?」
「その通りです。三好様はそんな愚かな方ではありませぬ。しかし現実として激怒した。ならば答えは一つ。激怒は演技であろうと言うのが手前供の見立てです」
「……それが本当なら興味深い話じゃが、其方の妄想でない証拠はあるのか?」
事実なら、三好陣営は傾いていると見せかけて盤石である。
だが、証拠がなければ誤った情報で動く事になる。
多少の事なら良いが、これは天下を動かす事案である。
噂で動くにはリスクが高すぎる。
「もちろんで御座います。三好様が怒ったのはともかく、これを商いの好機として、尾張に物資を送りました。それも極めて良心的な価格で。何とも矛盾した話ですなぁ」(105話参照)
「……なるほど。つまり怒りは建前。本願寺も近いし表立って対立するのは避けたい。しかしその実、織田を後押しし、寺院に対する蛮行を認めておるというのだな?」
極めて妙な話であるのは間違いない。
本音と建前が違いすぎるのである。
「左様で御座います。このまま三好様が将軍様を押し切れば、世の流れが変わりましょう」
「値千金の情報じゃ。恩に着る。小田原名産の取り扱い、さらに小田原への販売、その方に任せようとワシは思う」
長く遠回りな話に付き合っただけの価値はあったと綱成は判断し、商人に小田原との商売を託した。
「へっへっへ。どうぞ御贔屓に」
商人は自慢の舌先で、商機を掴んだと喜んでいるのが良くわかる顔をしている。
それは綱成も良くわかっているし、このまま商人に主導権を握られっぱなしも困るので、一つ罠を仕掛けつつ無理を頼んだ。
「ただし一つ頼みがある。何、簡単な事だ。三好様に取り次いで貰えぬか? 内密にな。それが出来たら小田原との商いをワシだけでなく我が殿も認めて下さるだろうよ」
「ッ! これは手厳しい……! 敵いませんな。分かりました。手配いたしましょう」
綱成の罠が見事に炸裂した。
綱成の判断は氏康の判断だが、そこは交渉の場。
あくまで北条家臣の独断で許可はしたが、主が認めるかは別問題とし、商人を利用して内密に三好長慶に接触する機会を得るのであった。
商人屋敷を出た後―――
「左衛門殿……。今の話が本当なら織田は当然、三好は仏敵となってもおかしくありません。それでも三好に接触するのですか!?」
「相模を出る前とは状況が違います。父上の確認を取らずに行くのは危険では!?」
氏政、氏照兄弟は周囲に誰もいないのを確認すると心の動揺を吐き出した。
誰がどう考えてもマズい行為である、仏への敵対行動をする織田と、それを容認する三好。
関わるのは危険すぎると2人は判断した。
「……今の言葉、商人共の居る場で吐かなかった事は褒めてやる。良くぞこらえた。その気持ちは分かる。だが殿の言葉を忘れたのか? 『独立独歩を選んだつもりが一つしか道がなかった』とな。ならば、このまま行く。むしろその話が本当なら尚更会わねばならぬ。殿もそうするハズだ」
綱成は若い二人の意見を一蹴すると、堺の逗留拠点で会談準備が整うのを待つのであった。
【摂津国/堺 三好館】
「三好修理大夫である。関東から遠路はるばるご苦労。書状は読ませてもらった。成程。相模殿(北条氏康)は中央から遠い身でありながら、ワシに利する行動を取ってくれておる。関東に居ながら大儀である」
長慶は全く遠慮しない。
最初から覇気全開である。
内密な接触なので、面倒を嫌ったからである。
覇気を浴びせ、腹に一物のある面倒な要求を早々に諦めさせ、自分の前に立つのに相応しくない人間ならば、何も言わせない為である。
そんな天下人の覇気を遠慮なく浴びせられ、綱成は冷や汗が止まらない。
同席する氏政と氏照に至っては、可哀そうな位に顔色が悪い。
だが綱成は負けなかった。
「はッ。関東の情勢が収まらず、主本人がこの場に来られない事を深く謝罪いたします!」
並の人間なら、挨拶の言葉も出てこない程の覇気の嵐が渦巻く部屋で、綱成は豪雪暴風洪水を掻き分けるが如く言葉を絞り出した。
(ほう? 噂に聞く北条の地黄八幡に、こ奴を従える北条氏康。我が前に立つ資格はあるか?)
「ですが、主は三好様に仇なす行動は取らない事を現状できる精一杯の誠意とし、これからも遠方田舎の地からご助力いたします」
北条氏康は中立の立場を取っているのに、三好派に利益がある行動を取るとはどういう事なのか?
それは、北条家が関東で将軍家所縁の勢力を、次々と打ち破っているからである。
しかし将軍本家に敵対している訳では無く、また、別に三好の為に動いている訳でも無く、たまたま関東に居る邪魔者だったから倒しただけであるが、物は言い様とでも言うべき態度で三好派に繋がりを取ったのである。
綱成は、この事実が唯一の突破口と判断したのであるが、この太々しさも戦国武将たる資質であろう。
もちろん、三好の勢いに陰りが出たら、こんな建前は即座に破棄されるのも当然である。
「ふむ。相模殿とも一度会ってみたいモノよ。ワシの意に適うなら頼もしい。その時が来るのを楽しみにしておこう。其方らの誠意は理解した。ところで……」
長慶は話を変えるつもりで間を取った。
会談の場にいる3人は、あの話になる事を察した。
「お主等が相模を出た時には知らぬはずだな? 願証寺の事を。しかし、今はそれを知っておろう?」
「……仰る通りです」
「ならば何故ここに来た? 無間地獄に興味でもあるのか? ワシらに与するとはそう言う事じゃぞ?」
最初に浴びせられた覇気よりも、更に濃度の濃い殺気を伴う長慶の声が心臓を掴んで離さない。
若い氏政や氏照は、足元が瓦解していく感覚に陥り、胡坐が崩れ手を床に突いた。
唯一綱成だけが何とか対抗していたが、それでも顔色は悪い。
「……無間地獄とは八大地獄にあって最悪の責め苦を受ける地。今その言葉を発したからには、三好様は無間地獄に落ちる覚悟があるとお見受けいたします。しかしそれでも成さねば成らぬ事がある! その覚悟はこの世の何よりも重いはず!!」
何度も何度もしつこいが、戦国時代は現代の科学同様、神仏が絶対の価値観を持つ世界である。
ならば、彼らの中では無間地獄は確実に存在し、他の七大地獄が楽園に感じる程の最悪の責め苦を負うのを、承知の上での話である。
「……それ程の覚悟を持つと知った今、やはり某の判断、即ち三好様に会うと決めた判断は間違っていなかったと断言できます!」
「成程? お主は相模殿の名代。我が真意を察すると判断しても良かろう。しかし、まだ全てを明かす訳にはいかぬ。それは相模殿がこの場に来た時に明かすとしよう」
まだこの場に相応しいと判断できない氏政、氏照がいるのと、綱成は名代とはいえ、氏康より先に聞かせる話でもないので、長慶は詳細を話すのを控えた。
「しかし、それはそれとしてワシは北条に悪い感情を持っておらん。むしろ好ましいとも思う。そこで相談じゃ。新九郎殿、源三殿。どちらかここに残らぬか? 人質という事ではない。客将として預かり働いて貰いたい。領地も与えよう」
人質ではないが、当然人質である。
織田、斎藤、今川が即座に反応し馳せ参じたのに対し、北条は一歩遅れた状態である。
その分のペナルティである。
遠い関東で、気が付くのが遅れたので止むを得ない所もあるのだが、他勢力より遅れた分、どうしても信用は落ちる。
ただし、これでも北条の態度は相当に早い方である。
しかも、三好と将軍の趨勢は決定的ではないので、勝ち馬に乗る様な浅ましさは無い。
むしろ、織田が宗教勢力を滅ぼす蛮行を知った後で接触してくるなど、相当にイカれているか、大博打とも取れる立場表明である。
事実、織田と繋がりのある三好を敬遠する動きも出始めていた。
だからこその客将である。
確実に北条が三好に関わるとの証拠を残すと共に、長慶の思想を感じ取り、北条本家との取次役になって貰いたい思いもある。
もちろん、北条を逃がさない打算もある。
「聞いた話ではな、織田は配下を他家に配属させておる。つまり主を二人持つ訳じゃ。良くある話ではないがあり得ない話でもない。どうじゃ?」
「……そ、某の一存では―――!?」
氏康の全権委任を受けた綱成であるが、さすがに即答はできなかった。
答えながら背後に控える若武者二人を見る。
歴戦の自分でも極めて居心地が悪いこの空間で、なんとか正気だけは保っている様に見える若武者を。
「あ、あの―――」
「さ、左衛門殿。そそそ、そう言う事なら某が残りましょうッ!」
氏政が口を開こうとして、氏照が絶叫の様な勢いで兄の話を封じた。
「源三! お前!?」
「あ、兄上は嫡男として北条本家で役割が御座いますが、そ、某は元服したての青二才。ここ、ここで三好様に学び、いずれ北条に還元できればと思いますッ!!」
健気にも弟である氏照が名乗りを上げた。
三好の提案には一定の理もあり、力関係も絶望的で逆らえるハズもない。
しかし綱成に選ぶ事は出来ない。
ボヤボヤして嫡男の兄が指名されて、ココに残る事になれば最悪だ。
氏照がそう判断し、二人を気遣って犠牲を買って出たのである。
氏照のこの行動、当然、氏康の命令である。
何の犠牲も無く帰還できるとは思っていない。
できれば人質など取られたくないから、綱成の交渉カードにならない様に伏せていたが、氏照は人質なりを要求されたら、名乗り出る様に予め命令されていたのであった。
兄の氏政も立候補が口から出かかっていたが、北条嫡男の使命が一歩足を遅らせ、また氏照の剣幕に押されてしまった。
決して弟を見捨てたい訳ではないが、誰がどう考えても妥当な人選なのは確かである。
この場で一番命が軽いのは氏照だ。
ならば他に道は無い。
「左衛門殿。父上には拙者からも報告いたします。三好様、弟を何卒よろしくお願いします」
窒息寸前の空間で、兄弟は互いに役割を察し、若く未熟ながらも気概を見せた。
「ほう。その態度、素早い決断。好ましく思うぞ。この乱世にあって羨ましい兄弟の絆よ。ワシも弟がおるから気持ちは理解しているつもりだ」
そう言って、長慶は覇気と殺気を引っ込めた。
兄弟の覚悟をくみ取り、長慶なりの誠意を見せた。
「さて左衛門殿。本国に帰って相模殿と今後の相談するが良い。しかし三好に与する者に決して不利益は被らせぬ」
「はッ!」
「さて北条殿への要請だが―――」
長慶は北条に対する役割を告げて、この会談は終わりを迎え、綱成達は別室で今後の事を話し合った。
「厳しい決断であったが、これが最良だったのだろう。源三には悪い事をした―――とは思わん。これは好機なのだ。お主の働きが北条の未来をつかむ。風魔の護衛を付けるから困った事があれば頼れ。新九郎は弟の覚悟に報いる為にも、これからの世を生きる為にも成長せよ」
「はッ!」
「はい! 兄上、北条を頼みましたぞ!」
「任せておけ! お前が帰ってくる頃には、驚くほど北条は変わっているぞ!」
そう言って三人は笑いあった。
「して、これからはどうしますか?」
この場に残る氏照はもう一緒に動けないので、今後の動きを確認しておかねばならない。
「もう少し周辺の状況を確認しておきたい。ならば殿も仰っておったが尾張だな。願証寺を滅ぼしてどうなるのか? それをこの目で見ておかねばなるまい。ワシも桶狭間周辺しか知らぬからな。あれから年月も経過しておるし、現状を再認識せねばならぬ。幸い尾張に関所は無いらしい。入るのも出るのも自由。色々掴めるだろう」
この後、綱成と氏政は、尾張で想像を絶する光景を目にする事になる―――
北条の話はもうちょっとだけ続くんじゃ。




