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外伝34話 斎藤『独眼姫』帰蝶

 この話は弘治3年(1557年)の戦が終わった後の話である。



【尾張国/織田家 人地城】


 信行が明の報告を粗方終えた後での、皆が見慣れぬ明の武器を見定めている最中。(128話参照)


「儒教についてはワシだけへの報告とする。他者への説明は禁ずる」


「は、はい」


 信長は信行に対して儒教の報告について制限をかけた。

 この続きの話である。


「所で兄上、義姉上のお加減は……」


「命に別状は無いが、かといって無事とは言い難い」


 右目を負傷したが、確かに命に別状はない。

 重体ではなく重傷だが、ただし命に別状はなくても生活には極めて別状がある。

 今は命の価値が極めて軽い時代であり、片目と言えど、視力の喪失は限りなく命に直結する事態である。


「そうですか……。実は義姉上が喜ぶかと思って仕立てた着物が有るのですが……」


「着物?」


 信行の報告にはまだ続きがあった。

 それが着物である。


「はい。明風の着物ですが、普段着とも戦装束とも違う、あえて言うなら拳法着という物です。現物は帰国途中の事故で失われたので、こちらで再現してみました。義姉上専用に動きやすく華やかに仕立てたつもりです」


「けんぽーぎ? 於濃専用?」


 (すず)色の地味な上着と萌黄(もえぎ)色の派手な下履き、黄蘗(きはだ)色の帯が信長の前に置かれた。


「生地の素材は特に日ノ本と違いがないが、形状はだいぶ違うな? 下履きは袴の様でやや細く足首で窄める形か。上着は地味……おぉ!? これはまた中々良いな!」


 畳まれた地味な色の上着を広げて信長は驚いた。

 そこには見事な刺繍が施されていたのである。


「はい。義姉上の甲冑を参考に胸部に蛇、背中に蝶をあしらいました。某の記憶を元に再現したので多少本家とは違いますが、その代わり見栄えよく仕上げたつもりです」


 信行は帰蝶の好みを察して、心を込めた会心のデザインで仕立てた。

 なお、帰蝶以外の全員が勘違いしているが、別に帰蝶は蛇や蝶が好きではないし、決して没個性が良いと思っている訳ではないが、なんならもっと普遍的なデザインにしたいと思っているのは内緒だ。(外伝15話参照)


「明では寺で武術を教えるのが盛んでして、そこの修行僧が修練の時に身に着けている衣服を参考にしています」


 普段の帰蝶は『お姫様』らしい恰好は一切していない。

 完全な男装で、小袖、肩衣、袴を着用している。

 城外に出る時などは、陣羽織に土木人足の恰好である。

 陣羽織が無ければ誰とも分からないが、これが動きやすく、かつ、咄嗟の戦闘にも対応し、かつ、権力者として分かり易い服装であった。

 しかし今、信行が見せた拳法着は動きやすさ特化であるが、その代わり刺繍で権力者である事を現した物であった。


「ふむ……? 意匠に目を奪われがちだが実に機能的じゃ。アリじゃな」


 いくら普段が男装や土木人足の恰好であったとしても、布面積も多くヒラヒラと空気抵抗が多い和装と違い、上着は一見膝下まである小袖の様でありながら、腰上まで切れ込みがあり足の動きを妨げない作りとなっており、襟を重ね紐と胴への帯で締めるだけの上着と、袴程太くも無く、かつ、足も動きやすいズボン状の下履き。

 これ以上の動きやすい服は褌一丁ぐらいしか無い機能性と生活性を重視した着物であった。


「これは責任もって於濃に渡しておく。……次はワシの分も頼むぞ?」


 かつて南蛮の衣装を自己流に着こなしてきた信長である。

 魂は老人であっても目新しい物には常に興味が尽きない精神が、自分を差し置いて帰蝶専用着物が出来上がった事に嫉妬した。


 信行の報告終了後―――


《―――という訳で、信行からの見舞い品だ》


《こ、これは! 素晴らしい様な、なんでコウナッタノカと言うべきか……》


 サラシで巻かれた頭部から覗く片目に移るド派手な着物は、好奇心を擽られると共に、またしても蛇と蝶のアピールの激しいデザインに眩暈がした。


《で、負傷の状態はどうなのだ?》


 帰蝶はサラシを外して顔を露わにした。

 頬や眉を切り裂いた傷は、そこまで深くもなく、完治すれば然程目立つ傷にはならないであろうが、眼球だけは明らかに後遺症が残るであろう有様で、黒目は青白く濁り、白目は赤く内出血が広がっていた。


《痛みは消えました。眼球の違和感は未だ残りますが、いずれは消え去るか慣れるでしょう。ただ視界は……》


 人間の視界は、片目でおおよそ鼻側に60度、耳側に100度を視認できるらしい。

 これを両目合わせて鼻側で重複するエリアもあるが広範囲を視認でき、正面は当然、正面を見ながら側面もある程度把握できる。

 しかし帰蝶は、右眼を負傷し視界のおおよそ3分の1を失った。


《一応、こんな事も出来ますが?》


 ファラージャが探る様に提案した。


《あッ!? 視界が戻った!?》


 突如失われた視界に、鮮明な部屋の様子が映し出された。


《私はお2人の見た物を視認してますが、それは眼球からの情報ではなく、このテレパシー技術と一緒で魂からの情報を元にしています。私が帰蝶さんに同期して視界をフィードバックすれば元通りにできますが……》


《そ、それは凄いしありがたいけど、そんな神懸かった事したら未来に影響するんじゃない!?》


《否定は出来ませんが、死んでは元も子もないですし、折角ここまで良い感じに進んでいるのに停滞するのは勿体無いです。それにこれは万能ではありません。私が意識的にサポートしなければ途切れます。例えば私が信長さんと会話している時は無理です》


 ファラージャが言うや否や、帰蝶の右側視界は消え失せた。


《……この時代、どこかが不自由な人は沢山居るわ。私だけが恩恵を受ける訳には……》


 タダでさえ、医療のレベルは神頼みの稚拙な時代である。

 死ぬまで無傷で戦場を生き残るなど稀も稀、大小の切り傷刺し傷は当然、肉体の一部を失う事も珍しくない。


《既に最初期に病を治しておるからな。正直今更な気もするが……。於濃、お主傷が癒えたら戦場に復帰するか?》


《それはもちろん!》


 こんな手負いの状態なのに、帰蝶は即座に断言した。


《そうか。ならば隻眼に慣れねばならぬな。政治に専念するならファラの援助も影響は無いと思うが、戦場に出るなら援助が途切れた瞬間窮地に陥っても困る。幸いお主は殺気が読める。普通の者よりは影響も軽微じゃろう。決して楽とは言わぬが》


《覚悟の上です》


 二度と治らぬ障害を得てなお衰えぬ闘争心に、信長は呆れるやら頼もしいやら複雑な気持ちになった。


《ならば今更止めはせぬ。ここに勘十郎が持ち込んだ武具がある。失った視界以上の恩恵があるやも知れぬ。視界の訓練がてら色々試してみよ》


《はい! それで一つお願いが御座います》


《何じゃ?》


《暫く暇を頂きたいと思います。開発のお役目があるのは承知していますが、己を鍛え直したいのです》


 帰蝶は尾張、伊勢、志摩の開発監督者である。

 多少の怪我なら治療をしつつ携われば良いが、視力の半分を失った感覚に慣れるには何かの片手間では出来ないと帰蝶は感じていた。


《まぁ、良いじゃろう。何か不都合があった時の為に、ワシが開発総責任者として控えておるのじゃからな。で、鍛えなおすのは良いとして何をするのじゃ?》


《ファラちゃんと相談したんですが、山籠もりをしようと考えてます》


《山籠もりか。温泉でもあれば湯治も期待できるな。確か信玄が活用していたらしいな》


 この時代、お湯に浸かるという習慣はない。

 平地でお湯に浸かれるのは、薪を大量に使い湯を潤沢に沸かせるのは権力者だけで超贅沢行為である。

 しかし、天然の湯でもあれば、タダで疲れや怪我を癒すのに利用できる。


《場所を選ぶ必要がありますねー。あ、そうそう! 昔の達人は、山篭りする時に片眉を剃り落として挑んだそうですよー》


 ファラージャが、また要らない知識を無意識に漏らした。


《片眉を剃り落とす? 何の為に?》


 僧侶が剃髪するのは知っているし理解できるが、眉を片方だけなんて行為は傾奇者にも程がある。


《何かを成し遂げるまで決して下山しない決意の表れだそうです。羞恥心を利用して退路を断つワケです―――》


《成るほどね。じゃあ落とすわ》


 言うや否や、帰蝶は脇差を抜いて眉を落とした。


《―――そんな顔で下山できるメンタルがあるなら意味無いですけど……って、ちょ、ちょっと……!?》


《お、おい!?》


 2人が止める暇もない早業であった。


《山に行ってから落とせば良いじゃないですか! その顔で城を出て城下を通って山に行くつもりですか!?》


《あっ?! じゃ、じゃあ、もう片方も落として均衡を……!?》


《そう言う事では……あぁ!?》


《お、おぉいッ!?》


 またしても2人が止める暇もない早業であった。


 こうして帰蝶は眉毛が生え揃うまで、面会謝絶(自主隔離)となった。

 青白く濁った右目に、一直線に走る傷、更に両眉の全剃りと言う、極めて悪目立ちする顔になってしまったのが原因である。

 一応、化粧を施せば誤魔化せるが、転生後はノーメイクで過ごしてきたので、そんな概念はとうに忘れていた。

 この後、信長は帰蝶の容態を聞かれる度に、言葉を濁しつつ説明に苦慮するハメになった。


 一か月後。

 傷も塞がり、目の違和感も消え、眉も生え揃った頃、帰蝶は出発を告げた。


「美濃の養老だったな? 何かあれば迎えを寄越すが、基本的にはお主の気の済むまで、織田家からの離脱を許す。義兄上にも話は通してある」


「はッ!」


 人地城の広間では、主要な家臣達が両脇に並ぶ中、中央の帰蝶が顔を上げた。

 右目には眼帯が斜めから掛けられていた。

 刀の鍔を利用した超威圧的な眼帯で、更には信行から贈られた派手な拳法着を着込んでおり、もう歴戦の勇士とでも表現するしか無い様な、圧倒的な雰囲気を醸し出していた。


(眼帯カッコいい!!)


(もう本物の鬼じゃな……)


(あな恐ろしや……! このお方は一体何を目指しているのか……!?)


 家臣達が、様々な感想を好き勝手に思うが、誰一人として嘲笑する者はいなかった。


 粋がった傾奇者が洒落を勘違いして眼帯をする事は良くある光景だが、大抵実績も伴わないので滑稽極まりない姿を晒す事になる。

 現代で例えるなら似合わないスーツに着られた人や、未成年が格好つけて喫煙する程に勘違いした格好悪さであるが、帰蝶の眼帯と服装は実に迫力満点であった。


(姫鬼神改め、独眼鬼、いや独眼姫(どくがんき)とでも言うべきか……?)


「それでは皆様方、しばらく御迷惑をお掛けします事をお許し下さい。しかし必ずや片目の不利を克服してまいります」


(多少弱点があった方が可愛げがあるだろうが、この方には無縁の概念なのだろうなぁ……)


 信長も含めた大多数の家臣が常日頃思っている事であったが、彼らの願い空しく、帰蝶は旅立つのであった。



【美濃国/養老山】


「うん。幸先いいわね! 風雨を凌げる洞穴も近場にあったし、とりあえずはココを拠点にしましょう」


 幸運にも適度な水場を確保した帰蝶。

 ここは元号の元ネタにもなった養老の滝。

 現代でも『養老の瀧』と言えば名水百選の一つとして有名だが、その名称は愛飲家の方が有名かもしれない。


 どこで生活するにしても、水がなければ話にならない。

 人は水がなければ5日と生きられないが、それは、ただ死んでないだけで、その前に行動不能に陥っているであろう。

 そんな水場を早速確保したのは、帰蝶の言う通り幸先がいい。


 ここでの目的は、とにかく失った視界になれる事。

 その為の手段は、生活と鍛錬。


 食事は自給自足。

 片目で野生動物を捕えなければならない。

 夜は安全を確保しつつ寝て、しかし不測の事態に備えて即座に動ける準備をしなければならない。

 今までは仲間の兵との協力で乗り切ってきたが、一人で全てこなすには常に気を張る必要がある。

 またこの時代、暑くて死ぬ事は稀だが、寒くて死ぬ可能性は非常に高い。

 防寒着は持参したが、まだ春には届かない気候なので火を絶やす事は死を意味する。


 それら全てを一人でこなした上で、帰蝶は武芸百般を目指した。

 もちろん百種類の武芸を収めるのではなく、あらゆる物を使いこなすのが目標である。

 特に利き目の右目を失った影響は大きく、距離感の喪失と左目の疲労は半端ではない。

 失った距離感の修正を剣術、槍術、弓術、体術は言うに及ばず、紐や帯を用いた縛法、石礫や短刀の投擲術、明から持ち込まれた武具の数々、新兵器の火薬―――は流石に常備していないが、環境を利用した罠術や、水、土、枝葉、灰などを用いた晦ましなど、目に映るものは全て戦いに利用し勝つ。


 五体満足で生きるだけでも訓練になるこの環境。

 全ての感覚を片目に修正するには少々過酷だが、それでも帰蝶は覚悟と目的を持って挑んだ。


「武士は勝つ事が全て。そうですね? 宗滴公?」


 先の戦い後、寿命で死した朝倉宗滴の言葉を胸に刻み弓を背負い刀を佩いた。


「……それにしても全く。うん、これが一番便利そうね」


 帰蝶は明の武具である流星錘を腰に引っ掛け、森に分け入り狩りに出かけた。

 水の次である食料の確保である。


「……先の武田信繁との戦いは時間を掛けすぎた。そう……。勝つにしても負けるにしても手早く決着をつけなければ次の行動に移れなくなる」


 信繁との戦いは実力が拮抗しており、決着に時間がかかった。

 一騎打ちでの決闘ならまだ良いが、周囲の状況が刻一刻と変化する戦場で、のんびりと戦うのは危険すぎる。


 勝っても負けてもそこで戦闘が終わるわけではない。

 負けても生き残れば指揮が残っている。

 体力は残しておかなければ軍全体に影響がでてしまう。


「……父上の槍捌き。一撃で戦闘不能に追い込む必殺の槍。先読みと片目でそれを身につけなければ」


 帰蝶は反芻する様にブツブツ呟きながら、獲物の追跡を始めるのであった。



【養老山/夜】


「フッ!」


 流星錘を手ごろな木に巻き付けようとして投げる。

 しかし、錘の先端は木に掠らず空を薙いだ。


「うーん。やっぱり距離感が狂ってるわね。鹿を仕留めるのも苦労したし、これは厄介ね……」


 地に落ちた流星錘を巻き取りながら、改めて現状の確認と不具合を感じ取った。

 やはり距離感の矯正が難しく、しっかり意識してる時はまだ何とかなるが、とっさの判断や無意識の行動になると手や武器が空を切る。

 無意識の時ほど、脳に刻み込まれた感覚で動くので、どうしても距離がズレ、そんな隙こそが得てして命取りになるモノである。


 さらに、失明が影響して気配を消すのにも苦労した。

 自生する枝や葉が顔や体に引っ掛かり、不要な音を立ててしまい、獲物に気配を察知されてしまった。

 右目の死角に入り込んだ障害物を、最初左目に映った時にしっかり記憶し行動しなければならない。

 全てが騒がしく、姿をさらしている戦場ならば物音を立てても問題ないが、出来ていた事が出来なくなるのは困る。

 何かの拍子に一人で逃げる時に、ウッカリ物音を立てても困る。


 これを克服しない限り、山を降りる訳にはいかない。


「そろそろ食べごろかしらね?」


 苦労に苦労を重ねて捉えた鹿肉が良い匂いを発していた。

 一日山を歩き回って、腹が減って仕方がない今、齧り付くために手を伸ばすが、その手は鹿肉を掴む事が出来なかった。

 手前で空気を掴んだのである。


「……なかなか辛い現実ね」


 帰蝶は、若干焼き過ぎた感のある鹿肉を食べた。


「……あとは眼帯を作らないとね。刀の鍔は重い、痛い、鬱陶しいで駄目だわ」


 帰蝶は仕留めた鹿肉を焼きながら、眼帯について考えていた。


 人地城の公式の場では、一番威厳のありそうな刀の鍔を使った眼帯を装着したが、帰蝶の感想の通り、有り得ないほどの使い難さであった。

 そこで代用品として革、布など負担の少ない物を試し、刺繍を施して日用品にしたいと思っていた。

 武具の扱いもそうだが、細かい作業も視界を矯正する訓練になると思い裁縫道具も持ち込んだ。


「よし! じゃあ風呂に行きますか!」


 狩りの最中に偶然見つけた温泉。

 帰蝶は、信行から送られた拳法着とは別の拳法着をを脱ぎ始めた。

 自然と同化するにはあの着物は派手すぎるので、泥で故意に汚した訓練の為の着物である。

 帯を外し襟元の紐を解き、胸の晒しを巻き取り、下履きと褌を脱ぐ。

 誰も見ていないので、スッポンポンになっても全く問題ない。


 少々熱い湯に浸かると一息ついた。

 疲れ切った体に湯が染み渡る。


「あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛~~~~」


 誰に遠慮する事もない。

 ある種、男よりも男らしい帰蝶であるが、女らしさを捨てた訳ではない。

 しかし今、隻眼とはいえ美女の口から出て良い音ではないモノが発せられた。


「ソレにしても病気だった頃に比べて、立派な肉体になったわねぇ」


 前世では肉体の維持に必要な最低限の運動すら出来ていなかった。

 骨と皮とは言わないが、かといって決して健康体と見る事は出来ない貧相な体であった。

 それが今や、引き締まった肉体に溢れる生命力。

 怪我をする事すら出来なかった前世に比べれば、右目の負傷も、訓練で負った大小様々な傷も愛おしい。

 決して嗜虐(しぎゃく)を好む訳ではないが、特殊な人生経験により、痛む事が出来る幸運と人生に、密かな喜びと充足を感じる帰蝶であった。


「おっと忘れてた。眉も落とさないとね」


 帰蝶はその温泉で、失明した方の眉を落とした。

 人地城ではフライングして眉を落としてしまい暫く引きこもったが、この場でなら誰に憚る事もない。

 美しい顔と肉体に不釣り合いな、片眉の人相。

 これで立派な世捨て修行人である。

 明日城に戻ると決心しても、最低1ヵ月は待たないと眉は生えそろわない。

 もうやるしかないのである。


 そんな覚悟の元、帰蝶は結局夏の終わりまで養老山で過ごした。


 後の世に『養老山伝説』として様々な美水伝説に混ざって、『独眼鬼』だの『修羅女』だの『変な眼帯をした女の妖怪』だの伝説を作る事になる。


 その一方で、信長が各地を巡り協力を取り付け帰還した後の数か月後。(131話参照)



【尾張国/人地城 織田家】


「ただいま戻りました」


「……お、おう。よくぞ無事……無事? で戻った。片目の不利は克服したのか?」


 信長は困惑しながら帰蝶を労った。

 半年以上の山籠もりで、すっかり野生の貫録を纏った帰蝶に信長は目を疑った。

 ボッサボサで一部チリチリの髪に、傷だらけの皮膚。

 着物は修繕も追いつかない程にあちこち破れ、眼帯も刀の鍔から刺繍の施された革製に代わっていた。

 その眼帯の刺繍も蝶なのか花なのか、それとも別の何かなのか、デザインの崩れた良く分からない謎の眼帯で仁王立ちする帰蝶は、とても美濃の姫にして尾張の支配者たる信長の妻に見えぬ容貌であった。


「山で出来る事は全てやりました。不利を克服したかどうかは、山にいてはこれ以上確信が持てませんでしたので後は平地の生活で確かめます」


「そうか……。とりあえず体を癒すがよい。流石にその恰好で城内を徘徊されては、不審者として捕縛されかねんわ」


 落武者よりも酷い恰好である帰蝶であるが、山籠もりで完全に美的感覚も失っていた。

 事実、人地城に入るまでに城下町や街道で何度も見回りに呼び止められては、自分が帰蝶である事を説明し、城門では危うく争いになる所であった。


「不審者……。そんなに酷い格好ですかね……?」


「……俗世から隔絶されると、人はそうも変われるのだな。最初、妖怪とでも戦ったのか思ったわ」


「え?」


「何をどう身に着けたかは追々見せてもらおうか。当面は大規模な戦は無い。日常生活と政務をこなす事になろう。だが、その前に連れていけ。整えさせよ」


 信長は侍女に命じると、帰蝶を強制連行させた。


「えぇ!? ちょっと! 人を汚物みたいに……!!」


「汚物そのものじゃ」


 遠くに引っ張られる帰蝶を眺めながら、信長は安堵の息を漏らした。


「これで全員揃ったな。ここから内政でどれだけ躍進できるかが勝負じゃな」


 今後、飛騨、加賀一向一揆対策に内政の強化は不可欠である。

 ここでの準備が整えば整うほど、被害を軽減し、劇的な効果を発揮し、盤石な支配を築けるハズである。

 武将たちの頑張りも当然重要だが、帰蝶の何をしでかすか分らない、ある種の危うさと頼もしさは強い影響を与えると信長も不承不承認めている。


 強制連行される帰蝶を尻目に、織田と周囲の更なる発展を期待し、燃え盛る本能寺を思い出した。


「……。ん? 何じゃ? 今、なんで本能寺を思い出した?」


 不意に、本当に不意に本能寺が頭に過った。

 自分を2回も死に追いやった大事件であるからして、思い出すときは否応なく思い出してしまうトラウマであるが、今、本当に何の予兆も無く不自然に思い出した。


 予兆、予感とは超常的な力ではない。

 経験の蓄積により脳が危険信号を発しているだけである。

 だけであるが、2回も殺された信長は、他人には有り得ない絶対不可能な経験を有しているが故に、敏感すぎるくらいに何かを察知した。


「それにしては何のキナ臭さも感じんが……」


 周囲を見渡すが兵のざわめきも軍勢の歩みも、渦巻く殺意も感じられない。

 歴戦の武将にして、数多の裏切りを経験し、死すら我が物とした信長が感じ取れないはずがない。


「……なんだ?」


 虫の知らせと言うべきなのか、何か大事件が起きる前兆なのか―――

 決意を固めた信長を裏切るが如く、まったくの予想外である凶報が飛び込んでくる。


「殿!! 大変でございます! 謀反! 謀反です!!」


「なんじゃと!?」


 佐々成政が凶報と共に飛び込んできた。

 一つ問題が整うと、何かが崩れる現実に信長は眩暈がしそうになるが辛うじて持ちこたえた。


 信長は頬を両手で叩くと成政の報告を聞くのであった。

次話は遅くとも6月上旬に投稿します。







 完全な余談ですが、筆者は若かりし頃『伊達政宗のマネ』をするべく、実家にあった本物の刀の鍔を使った眼帯を作ってみました。

 もう、邪魔な上に痛い重い以外の何者でもない感想しか持てませんでした。


 伊達政宗役の役者の根性には本当に頭が下がります!

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