128話 信行の報告
【尾張国/人地城 織田家】
予定外の長尾輝虎の来訪が終った直後。
信長は本来の用事を済ますべく、弟信行を伴って主要武将が集まる広間へ向かった。
「皆、遅くなった。もう聞いておろうが長尾輝虎が訪問して来おってな」
「それで、長尾への対応は如何するのでしょうか?」
家臣の一人が代表して尋ねた。
「うむ。何もしない」
「何も?」
「何もしないは語弊があるが、もちろん無警戒でいる訳ではない。しかし長尾と直接争うには飛騨、加賀、越中、信濃と不安定な土地が多すぎる。今、西は中央の勢力争い、東は飛騨まで延びた一向一揆。これ以上面倒な相手を増やす訳にはいかん。幸い、長尾は武田を裏切って敵対している間柄。しかも南信濃と北陸一向一揆を警戒して迂闊に動く事もできぬ。従って当分は静観する。いや、利用すると言った方が正しいな。遠交近攻とも言うしな」
遠交近攻とは中国戦国時代に生まれた言葉であるが、外交の極意とも基本とも言える言葉で、要約すれば『遠方とは親しく、近くとは争う』事である。
常に挟み撃ちの状況を作り出し、有利に物事を進められる様に外交を進める。
現代においても外交の基本戦略として浸透し、近隣国が争いの相手となるのは世の常である。
「親父殿や道三の仇に関与する奴だが、その落とし前は然るべき時に付ける。その時までは辛抱せよ。今は一向一揆を牽制する為にも長尾に滅んでもらっては困る」
戦国時代であるからには、誰かが誰かの仇であるのは自明の理。
しかし恨みで行動してはキリがない。
何せ今は親兄弟で争う戦国時代。
敵討ちとして怒り狂うのはパフォーマンスで、むしろチャンスとして行動するのが優秀な戦国大名。
絶好の大義名分を得たのだから。
史実にて信長は、本願寺との争いで血縁者や家臣を多数討ち取られたが、争いの終結後には罪を問う事は無かった。
三好長慶も大切な親兄弟を討ち取られたが、基本的には理性で行動している。
天下を治める人間であればこその、行動理念なのであろう。
ただしそれは、より上の意識を持つ天下人の考えであって、討ち取られた者を慕っていた人間には耐え難い。
信長もまだ、家臣が成長していない事を理解しており、『その時までは辛抱』と恨みの先送りを申し付けた。
信長の決定に家臣達は戸惑った。
今すぐ敵討ちは成し遂げたいが、地理的問題、政治的問題が山積みなのは明白で、頭で納得しても心が許せなかった。
家臣達は暫く苦悶の表情を見せたが、頃合いを計ったかの様に一人の武将が口を開いた。
「東側の勢力を、我等だけで引き受けるのも苦しいですしな。無難な落とし所なのでしょうな」
北畠具教である。
かつて織田家と争い、少なくない被害を出した北畠家である。
恨み100%で行動するなら、北畠家はこの場に居ない。
その具教にここまで言わせてしまっては、他の家臣も異を唱える事はできなかった。
《ほう? これは嬉しい誤算じゃ。なんぞ思う所があるのか?》
《他の家臣と違って、大名の座にいた実力者ですからねー。やはり利害を計算できるんですよ》
信長が一番欲しい言葉を、かつて敵対した重臣が発したのである。
ファラージャの言うとおり、北畠具教は間違いなく計算で行動できる人物である。
そう―――
具教は計算でこの言葉を発したのであるが、それが解るのは少し後の話である。
それに、輝虎にしても、先の戦で敵対した家のボスが単騎で乗り込んできたクソ度胸には、織田家の面々も認める所である。
深志では痛い目を見た相手で、織田信秀や斎藤道三討死の遠因に関わる相手であるが、武将としての腕前は感嘆の言葉しか出てこない。
心の整理に時間は掛かるであろうが、必ず時が解決してくれる。
それに信長が『あそこまでやった』のだから、その思いを無碍にする訳にもいかない。
何をやったかは後に判る事である。
「よし。この件はこれで終いじゃ。一向一揆の対応は長島と変わらぬ。今日はそんな事を話したいのではなく、勘十郎が持ち帰った情報を知ってもらう為。とは言え船の事故で物品は何一つ無い。証言を元に再現した物もあるが、まずは明の内情を本人の口から語ってもらおう」
織田信行に関しては、ここに居る全員が、織田家に対し2度も謀反を起こし、日ノ本追放に等しい処分を受け、紆余曲折あって長尾に拾われ、値千金の情報を持って帰還したと認識している。
そこに恨みは無い。
むしろ、良く生きて帰ってきたものだと感心している位である。
かつての教育係であった柴田勝家などは『よくぞご無事で』と感極まっていた。
信行は挨拶もそこそこに、紆余曲折の部分を語り始めた。(外伝29話も参照)
「皆様も伝聞で明の巨大さは聞き及んでいるかも知れませぬ。某も漠然と巨大な国と認識してましたが、実際は想像の10倍をしても足りぬ地でした。明は全ての規模が日ノ本とは比較になりません。良くも悪くも全てです。良い面でが国の広さ、城の大きさ、農地の規模、動員できる兵の数、未知の兵器、悪い面では政治腐敗の深さ、全てが桁違いです」
中国と日本。
陸地の面積が桁違いなのは、今更語るまでもないだろう。
広さとは力である。
「例えば美濃と尾張に広がる我らが濃尾平野。明では倍以上の平地が無数にあります。例えば城の大きさ。巨木を遥かに超える高さまで石を積み上げた城塞都市。そう都市なのです。我らの城は防衛施設の意味合いが強いですが、明の城は民草まで城内で暮らす生活施設。例えるならこの人地城に周辺農村民の家を含んで堀と塀を拵えていると思ってください。そこに巨大な投石器等を備え鉄壁の防備を誇ります」
日本の戦国時代の城は、現存する姫路城の様な天守閣など存在せず、精々が館程度の施設である。
まだまだ群雄割拠のこの時代、大規模な城など建てる余裕もなく、むしろ簡素な城や拠点を時世に準じて随時作るだけである。
その際、最低限の堀や壁は供えられているが、土壁が大部分を占める。
石垣などは一応あるにはあるが、石野使い道の基本は建築物の基礎で、あっても防塁と呼称される防御壁程度の物しか存在していなかった。
石垣を備えた城は、鉄砲の貫通力に対抗する為にこれから生まれてくる技術である。
また投石器に関しては、以前にも述べたが、大型兵器は日本では余り発展しなかった。(33話参照)
日本は山岳地帯が多く、必然的に殆どが山城である。
雨による地盤の緩みもあって大型兵器の運用には適さないが故に、進化も発展もしなかった。
「農地の広さ。平地の規模が段違いでとにかく広大です。当然兵糧も莫大です。故に兵士の規模は我らの50倍は軽く超えてきます。こんな規模の地域が明の各地に点在します」
中国の軍記では、始皇帝の時代も三国志の時代も、兵力が簡単に10万人を超えてくる。
国が違えば規模も違ってくるのか、これが4大文明発祥の地の底力なのだろうか。
誇張なのか真実なのかは議論の余地があるだろうが、敵も味方も10万以上はザラで50万、100万といった途方もない数を支える兵糧が存在する。
しかもこの数字は信長の時代の1000年以上前の話である。
現在の日ノ本で1万を超える軍勢を用意できるのは限られた勢力のみで、その全てを敵に向けられる勢力となると、片手で足りる数かもしれない。
「その一方で、民草は虐げられ怒りと憎悪に満ち満ちていますが、一部の民は海禁を破ってでも日ノ本に来る活気は侮れません。むしろこの腐敗の時代を好機と捉えているのでしょう。ただし近い将来、この腐敗が元で破綻するは確実。何なら今なお何故体制が維持できてるのか不思議な程。支配者の腐敗は本当に酷く、かの応仁の乱の様な反乱がいずれ必ず、もしかしたら今この時にでも起こるとみています。その時、明は滅ぶのではないでしょうか」
現在の明の皇帝である嘉靖帝は道教という宗教にハマり、政治を顧みず側近も意に沿うばかりのイエスマンが占める。
上が腐っているので民は生きる為に活発に成らざるを得ない。
民の活発化は国の倒壊の前震なのは今も昔も変わらい。
明は史実にて1644年に滅びる。
現在は1558年であるが、86年の差など長い歴史で見たら誤差の範囲。
信長のバタフライエフェクトが明にまで及べば、明日滅んでもおかしくないし、逆に持ち直す可能性もある。
「渡海して一番驚いたのは医と食でしょうか。医や食の発展は凄まじいモノがあります。さすが漢方薬の本場です。食については凄いと言うより、これは日ノ本が異常だと思い至りました。現地人に言われた言葉が忘れられません。『食糧難の癖に、何で食べる物を制限してるんだ?』と」
日本に仏教が伝来して以来、殺生を伴う食事は忌避されてきた。
庶民より上流階級ほどその傾向は顕著で、675年に天武天皇が日本史上初の肉食禁止令を出した。
その範囲は牛、馬、犬、猿、鶏に及ぶ。
ただし、農作物を荒らす猪や鹿ら害獣は対象外であったが、狩猟方法には規制がかけられた。
最初から完全禁止と言う訳ではなく、農繁期に限る処置であった様だが、ここが分岐点だったのだろう。
飢饉による例外的事情はあれど、基本的に血の穢れを嫌う日本人気質にマッチしたのか徐々に広まっていった。
そのうちに牛乳も絶え、ウサギの耳は羽だから鳥など、過剰になったり屁理屈で法の解釈を曲げながら戦国時代に至る。
結果、生活、生命の維持より、肉食禁止が上位に来てしまった為、日本では肉食の為の家畜は、欧米の文化が入ってくるまで空白の期間が生まれた。
宗教が法律になってしまった端的な問題であろう。
そんな空白期間の真っ只中の戦国時代。
信行は明で多種多様な肉食を経験した。
食べる物を選ばなければ腹は満たされる。
しかも抜群に美味い。
「この世にあるのは美味いか不味いか、あとは毒の有無です。そこに思想も何も無いし必要もありません。この価値観で食糧問題を一気に解決できるのは間違いないですが、ただ、慣れるのには個々によって差があり忌避感は簡単に拭えぬでしょう」
現代でも動物の筋肉は全く問題ないのに、内臓は苦手という人は一定数存在する。
味や触感が受け付けないのは別だが、筋肉は普通に食べるけど内臓を食べるだなんてとんでもない、という思想の人もいる。
内臓から血や生命を連想してしまうのだ。
食に対するスタンスを否定する訳ではないが、筋肉と内臓を同じ生物の食糧と見る事が出来ないのは、忌避感故の仕方のない感覚なのだろう。
何が言いたいかというと、食肉反対とかではなく、物心ついた時から慣れ親しんだ光景故の麻痺である。
誤解を恐れず表現をするならば『スーパーマーケットには筋肉を切り落として刻んで死んだ動物』が並んでいる。
そこに命があった状態を想像するのは理解していても難しい。
しかし見慣れない故に内臓には生命を感じてしまう。
慣れとは恐ろしいのである。
ましてや、数百年単位の長い間で肉食禁止だった末に辿り着いた、戦国時代である。
織田軍は訓練の一環で鹿を狩り、その肉を食しているが、当然食べられない人もいれば、調理済みはともかく、生肉は見るのも無理な人もいる。
うつけと名高く、常識の破壊者である信長でさえも、最初の一口は戸惑った。
むしろ、食べるものが不安定な農民の方が、食に関して逞しいのかもしれない。
結局、選ぶ余裕のある支配者階級が、教養がある分、血と内臓、筋肉を忌避してしまう。
しかし中国にはソレが無い。
あるのは美味いか不味いかである。
中国の食文化ジョークに『4本足は机以外、2本足は両親以外、飛ぶ物は飛行機以外、水中の物は潜水艦以外何でも食べる』と言われるが、あながち間違っていない。
そんな食肉の現実を、信行は詳細に語ったのである。
普段勇ましい武将も、若干血の気が引いているのは気のせいではない。
「ただし、水は強烈に不味いです。皆様は水は透明で当たり前と思っていらっしゃるでしょうが、とんでもない! 水は濁って当たり前なのです! もしも渡航するのであれば胃腸の優れる者を選抜すべきです!」
身をもって体験した濁って臭い飲料水。
以前にも述べたが、日本は世界屈指の水大国である。
山林の自然濾過のお陰で、この時代ならすべての河川が名水百選レベルであろう。
しかし中国に限らず、殆どの外国ではそうはいかない。
もちろん、場所によっては濾過が機能している河川もあるが、基本的には泥水同然である。
川の魚介類も、泥臭さは尋常ではない。
だからこそ料理が発展し、水の不味さと泥臭さを克服した中国料理が発展し、現代にも君臨しているのである。
余談であるが、中国料理と中華料理は厳密には違う。
中国料理は読んで字のごとく中国の料理。
中華料理は、日本人の舌に合うようにアレンジした中国風料理である。
「最後に武具です。刀剣類は皆様もご覧になった事はあるかもしれません。幅の広い柳葉刀は有名です。どの武具も製造は鋳造で簡単な作りで量産可能な武具です」
鋳造とは型に溶けた鉄を流し込み形を整えた物である。
一方、鍛造とは日本刀に代表される様に叩いて鍛えた物である。
量産に向く前者と、品質重視の後者。
どちらが良い悪いではなく、思想と歴史や、兵力の規模が製造方法を選んでいるのだと思う。
大兵力を動員する明では、全員に武具が行き渡るように簡素で最低限の威力を持たした量産型で済まし、動員人数の少ない日ノ本では継戦能力と破壊力を重視した武具が発展した。
「その中で、特筆すべき例外性のある武器を紹介します」
信行は、一見するとガラクタの様な物体を前に出した。
「こちらは『弩』と呼ばれる弓の親戚でございます。これは残念ながら船での事故のおり大半を失い、残った品も長尾家に徴収されてしまい現物がございません。一応再現を試みた物がココにありますが、正確な再現が難しいのですが、完全な品は距離によっては雑兵でも一定の狙撃力を保証します」
その弩が、越後から甲斐、相模まで流出している事は知る由もない。
織田家では弩の研究が一歩遅れた状態である。
「あとは、一体どう使うのか分かりかねる『圏』、槍の柄だけを分割し鎖で繋いだ『節根』、呂奉先の武器として名高い『方天戟』、柄の先端に鉄球を付けた『錘』、逆に分銅を紐や鎖で繋いだ『流星錘』、揺れ動く船上やで威力を発揮する『袖搦』など、馴染みのない武器が多数あります。これらについては皆様の得物として手に馴染むのであれば使ってみるのも良いのかと思います。敵の虚を突く事は間違いありますまい」
弩の現品は長尾渡ってしまったが、記憶に留まる武具については尾張帰還後に可能な限り再現を試みた。
複雑な弩は構造が再現できず未完成に終わったが、その他の武器に関してはとりあえず形だけは整えた。
圏と方天戟は試行錯誤が必要であったが、他の武器は比較的簡素な構造なので再現は容易であった。
なお、圏とは刃のついた円状の武器で、敵の攻撃を受け止める為の枝も備わり投擲も可能である。
節根は、ヌンチャク、三節根、多節根などが該当し、節が多くなる程に扱いが難しい。
方天戟は槍に逆反りの刃を側面に取り付けた武器で、突く、払う、引っ掛けるなど万能である。
錘は端的に言えば棍棒で、重量故に甲冑ごと敵を粉砕する武器である。
流星錘は振り回して使う為、場所と状況を選ぶが変幻自在な動きは見切れるものではない。
袖搦とは『刺股』の先祖の様な武器で、過剰に付いた棘や鉤爪で衣服ごと絡め取る。
有用ではあるが、使いこなせるかは別問題である。
「最後に、かつて皆様にかけたご迷惑は、今後も明からの情報や交易で雪ぐ所存にございます」
信行の報告は、残り一つを除いて終わった。
噂でしか知らぬ明の情勢。
転生した信長でさえ知らぬ情報満載であった。
「まだ直接に明とどうこうする話は無い。しかし心躍る内容も中にはあろう。世界は広い。目新しい南蛮技術も素晴らしいが、隣国にも未知の物は山ほどある。必要なら試し改良し、それでも不要なら捨て、積極的に検証していく。勘十郎には引き続き明との交易を担ってもらう。天候による事故は防ぎ様が無いが、次は物品を期待する!」
「はッ!」
「おぬし等は、気に入った武器は複製する故に申し出よ」
信長のその言葉に、待ってましたとばかりに、武将たちは興味の惹かれる武具を試すのであった。
そんな武将達を尻目に、信長は信行だけに聞える声で話した。
「勘十郎」
「はっ……」
「儒教についてはワシだけへの報告とする。他者への説明は禁ずる」
「は、はい」
信長は信行の報告項目を予め聞いていた。
もし信行の口からソレが語られるなら防ぐために。
その項目こそ、先程報告しなかった『儒教』である。
儒教とは中国における宗教とも学問とも言える文化である。
メチャクチャに簡略して説明すると、五常と呼ばれる『仁、義、礼、智、信』の5つの徳で構成され、五倫と呼ばれる『父子、君臣、夫婦、長幼、朋友』の情や自愛、序列や役割を説いている。
実は儒教の教えは西暦500年代に既に日本に伝来している。
信長は岐阜の命名においても中国由来の言葉を用いる程に中国通であるが、思想的な事に関しては一歩退いて考えていた。
危険な思想だと判断したからである。
そんな儒教であるが、現代にまでアジア圏に超絶な影響を及ぼす考えで、一見、字面は素晴らしく見えるが、これを書き始めると本一冊は軽く出来てしまうので説明は控える。
一言だけ余談を挟むとすれば、歴史的には秦の始皇帝や三国志の曹操が毛嫌いした考えである。
こうして信行は、残り一つの報告も終えた。
戦も終り一見静かな日が続いているが、動きが無いなら無いで動き方がある。
より頑強な防備、多用な食生活、異形の武具、未知の文化を頭の隅に置きつつ、次に備えて動くのであった。




