124話 一つの決着
【信濃国/深志盆地から飛騨へ向かう街道 織田信長、朝軍宗滴軍】
「……追撃が止んだ?」
信長は、来襲するであろう武田軍が来ない事に、困惑していた。
今は佐久間信盛が築いた第二の撤退陣地。
鉄砲と焙烙玉を使った爆裂音にて、撤退の時間を稼ぎ出した信長は、当然来るであろう第二次追撃に備えこの撤退陣地に鉄砲を並べた。
なお、焙烙玉は最初で使い切った。
単発で使って効果が無いと困るので、大盤振る舞いが如く全段投げ果たしていた。
武田の最大攻撃力を誇る騎馬隊を完封したのだから効果は証明されたが、それでも突撃されたら玉切れがバレるので今の状況はありがたい。
「来ないのは助かるが……何故? こんな絶好の機会に?」
信長は、前方に居るであろう敵軍と、後方に撤退した味方軍の方向を交互に見ながら考える。
「何故じゃろうな? まだまだ充分に追撃は出来ると思うのじゃがのう。まぁ来ないならソレに越した事はない。次の撤退陣地まで退くのが良いのではないか?」
朝倉宗滴は髭を撫でながら、しかし眉を顰め、後方を心配そうに見ながら提案した。
「そうですな。先程の焙烙玉が効いた上に、爆発一発で意気消沈したのでしょう。愚息は所詮愚息。混乱する兵を統率出来なかったのでしょう。武田を率いる器にあらず! ……とは言えその判断のお陰で好機が生まれました。宗滴殿の言うとおり退くべきでしょう。ならば飛騨へ向かうべきです」
武田信虎も息子晴信を罵倒しつつ、そのお陰で助かっている事を強調し、撤退と飛騨への進軍を勧めた。
2人とも酷く後方を気にしているようである。
「……そうじゃな。あの晴信が諦めたとは思えんが……よし! 充分警戒しつつ次の撤退陣地まで進軍する!」
信長は、前々世の記憶から晴信が諦めるはずが無いと決め付け、過剰に警戒しつつ撤退を開始している。
しかしその決め付けは徒労に終ったが、なぜ警戒と進軍が必要なのか?
それは飛騨で問題が起こっていたからである。
それ故に、一目散に撤退し飛騨へ行きたいのだが、背中を見せた瞬間襲い掛かられても困るので、慎重に成らざるを得なかった。
しかし、その警戒は無駄に終る。
結果的に言えば、晴信は追撃を諦めていたのである。
【数刻前 信濃国/織田信行到着後】
『お久しぶりです兄上! しかし今は明での成果の話は後回し! 飛騨で、飛騨で一向一揆が勃発し、現地は殆ど一向宗に占拠された状態です!』
『何じゃと!?』
信行は挨拶もそこそこに、一気に伝えるべき内容を吐き出した。
どうしてこの場に、なぜ知って、その証拠等、必要な事は全て飛ばして事実だけを伝えた。
たった数年で、すっかり風貌も変わり逞しくなった弟の姿に驚きたいのに、それ以上の驚愕の情報が被せられ、信長達も何をどう驚くべきか悩んだ。
『順を追って説明します! 帰還の途で難破事故にあった某は、長尾景虎に海で拾われ養生をしておりました! その後、長尾家に身分を隠し世話になっておりましたが、正体を見抜かれた上で越後殿はこう仰いました。『飛騨で一向一揆が勃発する寸前じゃ』と! 若狭への帰還を許された某は、この情報を携え、若狭から近江、美濃から飛騨へと参った次第です! その飛騨で見ました! 一向一揆衆が暴れる惨状を!』
『……ッ!!』
信長、宗滴、信虎達は、どうしてこの場に、なぜ知って、その証拠等、疑問に思った事は全て解決したが、新たな疑問が大量に湧き出てきた。
しかし、そんな土産話に等しい事は後回しで、最重要で聞かなければならない事は只一つ。
『勘十郎、お主、父上達の軍勢には会わなかったか!?』
『父上? 父上もこの戦場に!?』
残念ながら、信行は信秀達とはすれ違っていた。
信秀軍は飛騨を東から西に横断し、信行は美濃から飛騨へ北上縦断してこの場にやってきたので、信秀軍の存在を知らない。
『マズイッ!!』
『え?』
『いや、お主を責めているのではない。値千金のこの情報! この戦の武功第一位と言っても過言では無い! よくぞやった! その上で我々の経緯を説明しよう―――』
信長は今の状況と、信秀ら先に飛騨に帰還した軍がいる状況を話した。
『父上達が危ない……ッ!!』
戦の経験が足りない信行でも、今の状況が危険極まりない事は即座に理解した。
『直ぐに飛騨に駆けつけねばならん所だが、それこそ武田に背中を見せる事になる。……難しい撤退になるぞ。長尾の思惑も謎極まりない』
只でさえ危険な撤退戦が、極めて死に近い撤退戦になる事が予感された。
しかし―――
結果は肩透かしも肩透かし、暖簾に腕推しにも程がある、何も行動をおこさない武田軍に、信長達は余計に困惑するのであった。
【信濃国/深志 武田晴信軍合流後】
勿論、晴信としても追撃を諦めるつもりは無かった。
織田が退却する状況に、最初は順調だったのに、信濃深志に到着してからから、今の今まで自分の予想と違う展開に戸惑う晴信は、信繁に事情を聞くと即座に長尾景虎に詰め寄った。
全ての狂いは、景虎の抜け駆けが原因であり始まりである。
「今、何と申した……?」
「飛騨では今、一向一揆が起きている。そう申したのだ。良かったな。これで織田は退路を塞がれたぞ?」
「なッ!?」
「成る程?(これはマズイな……)」
武田晴信は絶句し、北条氏康は顔をしかめた。
確かに織田を潰すならそれでいい。
こんな絶好の機会は二度と無いかもしれない。
しかし、武田は飛騨守を正式に名乗る建前を掲げて、行動を起こしている。
織田を潰す主役を譲るのも、一向一揆を飛騨守として許すのも面目丸潰れである。
晴信は、宗教の力を利用する事を厭わないが、かと言って好きにさせるつもりも無い。
一向一揆に手柄を奪われては、飛騨での主導権も握れない。
その結果、飛騨は加賀の二の舞になるかも知れない。
いや、飛騨と加賀は隣接する国である以上、そうなる確率は極めて高い。
「何故……何故飛騨で一向一揆が発生したのか、知っておる口ぶりじゃなッ!?」
「知っておるとも」
その質問を待っていたと言わんばかりに、景虎は話し始めた。
「江間と三木が停戦したのは知っておろう? 全ては甲斐殿が飛騨に圧力を掛けたが為。そこに織田が付け込んだ。即時停戦し、かつ、武田に備え領内を整備せよとな。時間が無かったのじゃろう。武田、織田、それに斎藤、朝倉と四方八方から圧力を掛けられた江間と三木は今までの争いで疲弊した民に更なる労役を課した訳じゃ」
怒りの晴信に対して、比較的冷静な氏康が最初に気がついた。
「……そうか。織田連合軍は殆ど専門兵士しか居らんらしいな? 江間や三木は農兵かもしれぬが、此度は戦の殆どを連合軍に任せておったのじゃろう。従って一揆に加担する民は飛騨に溢れておったわけじゃな?」
氏康は今回のカラクリの一端を掴んだ様である。
「流石相模殿。その通り。甲斐殿も織田も飛騨の民に一揆の口実を与えてしまった訳じゃ。織田としてはこんなハズでは無かったのであろう。しかし強い国特有の力を持たぬ者の実情を図り損ねた事が最初の失敗じゃろう」
信長はもちろん、交渉をした宗滴も道三も『圧政をしてまで備えろ』とは言っていない。(95-2話参照)
交渉故にプレッシャーは掛けたが、こんな本末転倒な事を要請するハズが無い。
全ては周辺国の狙いが飛騨に向いているプレッシャーに負けた、江間と三木の恐怖による失政である。
信長と晴信のミスがあるとすれば、弱者への配慮であろうか。
ともかく事態は最悪の方向に進んだ。
「飛騨は百姓の持ちたる国、加賀と地続きぞ。顕如僧正が号令を掛ければ簡単に動こうて。話す機会が出来たから言うが、これは将軍派の策略でもある。東側の均衡を三好派の織田に傾けさせぬ為にな。これこの通り。将軍と顕如僧正の書状じゃ」
晴信は書状を、目線で穴を開ける勢いで睨みつけ読んだ。
「……ならば最初の抜け駆けも策の内なのか?」
ここまでの策を披露した景虎なのに、最初に抜け駆けをしたのがミスとは信じがたい。
これも策であると見るのが妥当だと氏康は感じたが、景虎は否定した。
「アレは策ではない。配下の将が武功に焦ってな。その謝罪も兼ねて将軍派の策の全貌を話している」
「……左様か」
配下の将が武功に焦ったのはウソである。
当の景虎が率先して抜け駆けしたのは、均衡を織田に傾けさせない策以上に、将軍派にも明かしていない己の策があるのだが、それはこの場では話さなかった。
話しても無駄であるし、理解されるとも思っていない。
「全ては足利将軍家を再興する為じゃ」
景虎自ら将軍と本願寺を訪問してまで作り上げた、今の状況である。(外伝30話参照)
晴信の策を利用し、己の理想を実現させるために。
「……武田軍の追撃部隊を呼び戻せ!」
晴信は震える声で命令を下した。
「ほう? この絶好の機会を逃すと? 織田連合軍の退路は塞がれているのじゃぞ?」
「ッ!? こっこっこっ……!!」
「突然鶏のマネをしてどうした?」
勿論そんな訳はない。
晴信は『この野郎!』と言おうとしたが、怒りで口が回らなかっただけである。
それにその言葉を口にしたら最後、この場で乱闘が発生してしまうのは、怒りの晴信でも容易に想像できるが故に、無理やり言葉を飲み込んだ。
それに、この機に乗じて織田連合軍を破れば、一向一揆と本願寺に借りを作る事もさる事ながら、長尾や将軍にも借りを作る事になる。
しかも苦労した所で飛騨の支配権は手に入らない。
さらに背後に控える長尾が全く信用できない。
そんな中で、織田連合軍の追撃など出来様ハズが無い。
こんなやり取りがあったので、信長達は肩透かしを食らって助かったのである。
景虎はそんな事は承知で挑発をしたのであるが、効果覿面であった。
すべては武田軍の追撃を諦めさせる為に。
そんな景虎は、ついに決定的な言葉を口にした。
「さて、ワシは軍に戻るが……。所で長尾と武田の同盟関係はあと半刻程で解消でよろしかろう? この様子ならな」
「何だと!?」
この言葉には氏康も驚いた。
同盟の破棄は、出来る事なら自分の口からは言いたくない。
体裁が悪いからである。
というより、単なる裏切りなら理解できるが、わざわざ宣言してまで、こんな場面で同盟の解消など聞いた事がない。
「上等じゃ! この落とし前、キッチリ付けさせてもらおう!」
「ま、待たれよ越後殿! 貴殿の狙いは一体なんなのじゃ!? 飛騨の一向一揆の件はまあ良かろう。しかし、今、我等との同盟を解消するのか!? この状況は将軍派が望み達成した絶好の機会なのであろう!? なぜ自らその有利を捨てるのだ!?」
「……!」
怒りの晴信も『それは確かに』と思い、幾分か冷静さを取り戻した。
「貴殿は将軍派なのであろう!?」
「将軍派? あぁ、そうじゃったな。ではそれも破棄し北条殿と同じく中立を取らせてもらおう」
ついさっき、将軍家の再興を宣った口で、中立に付く事を景虎は宣言した。
「何故!?」
「今の貴殿らでは分かるまいよ。ワシの理想と野望が。貴殿らにはワシは蝙蝠の如くフラフラと身を翻して居る様に見えよう。しかしそれは違う。ワシは最初から何もブレておらぬ。いつか真に理解し合える時が来れば分かるだろう。その時は手を携え共に歩もうぞ。ではな」
そう言い残して、長尾景虎は武田本陣を後にした。
この後、当然の如く長尾と武田北条のによる戦いが勃発した。
この戦は川中島からは少々離れているが、第三次川中島合戦に数えられ、またしても景虎が晴信に肉薄し、一撃を加えられる寸前まで追い込まれた。
この内部分裂に積極的ではない北条軍と、飛騨での戦いから最初の追撃まで打撃を受け続けた武田軍では、最初から戦場の流れを支配していた長尾軍には手も足も出なかった。
「晴信! 貴様にこの世を纏める意思があるのなら避けて見せよ!」
そう言って景虎は、木の棒と鉄板を組み合わせた奇妙な武器を晴信に向けた。
(棒―――鉄―――弓?―――危!)
晴信は、とっさに横っ飛びに飛んで避けた。
晴信の居た位置には短い棒が突き刺さっている。
景虎が使用したのは、信行が寧波から持ち帰り、海で難破ししがみ付いていた荷に入っていた『弩』である。
正確には、その弩を越後で複製した物である。
「ほう、今のを避けるか。天はまだお主を必要としておる様じゃな。そう言えば、いつぞやの鍬の礼をしていなかったな」
そう捨て台詞を残した景虎は、弩をその場に捨てた。
「ではな」
景虎はそう言って、自軍に紛れて消えていった。
残ったのは晴信と弩、慌てる武田軍だけであった。
「あいつはッ……必ず殺すッ!!」
もう何度決意したか忘れた決意を、もう一度誓う晴信であった。
【信濃国/深志 長尾景虎軍】
「さぁ越後に帰還するぞ」
「は、はい、しかし―――」
配下の『宜しいのですか』と言う言葉を景虎は遮った。
「今回の成果は完璧じゃった。北条にも弩は拾わせたな?」
「そ、それは間違いなく……」
「ならば何も文句は無い」
恐ろしいまでに完璧に決まった己の策に、景虎はいつに無く上機嫌である。
悠々と岐路につく景虎は、越後での信行とのやり取りを思い出した。
【越後国/春日山城 長尾家】
『一向一揆!? い、いや、それよりも敵軍の関係者と見ぬいて何故情報を与えるのです!?』
『今回の戦の結果が生じる展開をワシは望まぬからじゃ。もっと言えば邪魔者を消し去りたくてな』
飛騨を武田に奪わせない。
織田を滅ぼさない。
東の戦況を決定付けさせない。
将軍と面会したが将軍派と三好派の勢力争いを維持する。
本願寺と面会したが一向一揆という膿をなるべく早く顕在化させる。
飛騨に加賀の一向一揆を流入させ局地的な一向一揆を分散させ弱める。
全て景虎の計算である。
その為に武田と同盟し、将軍に会い、顕如と面会しお膳立てを整えた。
【信濃国/深志 長尾景虎軍】
(織田の状況は分からぬが、順当なら今頃信行が信長の下に辿り着いておるだろう)
このタイミングの読みも、今の景虎は神懸り的な予測で的中させた。
(三好か将軍か? 織田、斎藤、朝倉、武田、北条、今川か? あるいは西の勢力か? それとも―――)
景虎は今後の展開を予測し始めるた。
武田と織田の初対戦は痛み分けに終り、武田軍は長尾軍に痛めつけられて戦は終った。
一方織田連合軍は、武田との戦いは終ったが、まだ試練が残っている。
家に帰るまでが遠足とは、誰もが幼少の頃に聞いた事があるであろう。
意味は『油断するな』に近い言葉であるが、織田連合軍は正にその状況にあった。
【飛騨国/織田信秀軍、斎藤道三軍】
一向一揆の腹の中に飛び込んでしまった両軍は、必死に足掻いていた。
もうすぐ信長が来るはずである。
そうなればこの囲いを突破し安全圏に脱出できる。
「……お主ら……下がっておれ……」
白い顔をした老将がゆらりと進み出て、全く無駄の無い動きで槍を扱い、瞬く間に一揆軍を倒していく。
「……!」
斎藤道三は喋るのも苦しそうな身で奮戦する。
一軍の将なのに、重傷の道三が闘わなければならない撤退先行軍。
深志では一つの決着が付いたが、ここ飛騨でも決着が付こうとしていた。
次話は12月中に仕上げたいですが、駄目だった場合はこの投稿が本年最後の投稿になります。
なので少々早いですが、良いお年を!
……と挨拶しておきます!
次話が12月に投稿できたら挨拶は撤回です!




