118-2話 寿命を超えた者 太原雪斎、織田信秀
118話は2部構成です。
118-1話からご覧下さい。
【駿河国/長慶寺 今川家】
「全く。政務から引退したのに、こんな事になろうとはのう……」
木槍を壁に立てかけつつ、老僧が腰を叩きつつ呟いた。
「……あっ、ありがとう……ございまし……た……」
一方で少女が膝を付き、木槍を杖にし、肩で息をしながらも礼を述べた。
ここは今川家領内の太原雪斎が普段の生活の場として利用する長慶寺。
その道場で稽古を付けられていたのは、今川氏真の妻である涼春(早川殿)。
「これで……織田が攻めて来ても……お役に……立てましょうか……?」
涼春は、以前から夫の氏真や今川本家の動向から、言い様の無い不安を感じ、武芸や戦略を学ぶ為に長慶寺に連日通っていた。
不安の原因は今川家の織田家吸収を知らない点に尽きる。
涼春視点では織田と今川は和睦はしたが、まさか今川家が吸収されているとは思いもよらないので、来るべき日に備えるのであった。
「武芸もまずまず。軍略も叩き込んだから役立たず、などと言う事はありますまい。いや、実際、感心させられる発想も持っております。ただ……」
「ただ……?」
「指揮はともかく、どれだけ武芸の腕に自信があろうとも、直接戦うのは極力避けなされ。武芸の訓練は体力精神力向上が目的であり、涼春殿にとって最悪の事態の時の為です」
雪斎は涼春の腕は認めつつ、近接戦闘を禁じた。
「何故です!? 折角磨いた武芸なのに!」
「身に付けた技を実戦で試したいのは老若男女同じでしょう。苦労して身に付けたなら尚更。拙僧でさえその煩悩に勝つのは難しい」
かつて帰蝶に挑んだ雪斎である。(100-5話参照)
涼春の気持ちは良く解る。
「しかも残念ながら女は男より強くなれないのです。どんな理想や幻想を抱こうとも勝手ですが現実は非情なのです」
「でも噂に聞く織田の姫鬼神は男にも勝ると……」
涼春は例を挙げて、この世の真理に近い位置にいる僧侶雪斎を論破した。
実際に雪斎は女の帰蝶に負けている。
「あ、アレは例外中の例外です! アレの存在は、解明できれば一つの悟りに至る程の例外です!」
長年修行を積んだ雪斎といえど、まさか転生を果たした超強化人間だとは見抜けるものではない。
もし見抜けるならば、本当に悟りを開けるだろう。
「それに織田の姫鬼神以外の女は決して接近戦は致しませぬ。それは男女の違いを良く理解しているからでしょう」
雪斎の言うとおり、茜、葵は一通り水準以上に扱えるが戦場では弓専門である。
吉乃は戦場に出る事は稀なので別として、直子も武芸よりは指揮に重点を置いている。
自然界ではメスが狩りを行う事例も多いが、人間界では闘争は男の仕事である。
そこに女の身で挑むのは自殺行為である。
「では私の努力は無駄だったのでしょうか?」
「無駄ではありません。先程言ったとおり緊急事態に至っては戦いなさい」
「え? でも勝てないのでしょう?」
僧侶特有とでも言うべきか、矛盾を孕んだ問答に涼春は混乱してしまった。
「勝てないとは申しておりません。強くはなれないと申したのです。強さと勝負の結果は簡単に結びつく物ではありません。それに男に勝つ方法が無いとは申しませぬ」
「それは一体……」
「簡単な事。相手の都合で戦わぬ事です」
「相手の都合?」
「相手が素手なら最低でも脇差を、相手が刀を持つなら薙刀や槍を、相手が長物を持つなら弓や鉄砲で戦いなさい。あるいは有利な地形を選ぶのです」
「でもそれは卑怯なのでは?」
「戦場に卑怯などと言う言葉はありませぬ。仮に卑怯だと感じる手段があるなら躊躇無く使いなさい」
「……戦いとは難しいのですね」
「時はあります。己の心を整理すると良いでしょう」
理想と現実のギャップに悩む涼春は、ヨロヨロと立ち上がると槍を振るのであった。
そんな長慶寺に今川家当主の義元が顔を出した。
「どうじゃ和尚? 涼春殿の腕前は」
息子の嫁の行動に今川義元は、今川にも帰蝶の様な化け物が誕生するのかと期待半分、恐怖半分の思いで尋ねた。
「……悪くはありませぬ。察するに、余程織田の姫鬼神に強い影響を受けたのでしょうな」
涼春は帰蝶の戦いを見たことが無い。
いや、正確には見ているが、それは帰蝶が今川の特殊部隊として男装し『不破』を名乗った時の事で、帰蝶と認識していた訳ではない。(外伝16、17話参照)
ただ、聞えてくる噂は信じがたいモノばかりで、夫の氏真も文書でも恍惚の表情で絶賛していると察する事ができるのが気に入らず、己も強くなり氏真を振り向かせるべく、雪斎に訓練を付けてもらっていた。
「そうか。よし。2人に頼みたい事があるのじゃが?」
「何でしょう? 政治はしばらく見ておりませんでしたから現状把握には時間がかかりますぞ?」
「構わん。和尚は政務からは引退しているしな。ちょっと甲斐に旅をしてみんか? 我が娘の里嶺の様子も気になるしな」
義元の言う『我が娘の里嶺』とは三国同盟の折に武田晴信の長男である義信に嫁いだ嶺松院の事である。
「……旅ですね。拙僧も歳ですからな。動ける内に思い出を作って置きますか」
太原雪斎は史実では一昨年に病死しているが、この歴史では身体共にまだまだ充実していた。
「涼春殿」
「は!? こ、これは大殿! 気付かず申し訳ありません!」
「よいよい。気にするな。それよりも、そなたも彦五郎(氏真)と離れ離れになって長い」
氏真は、織田への援軍(と称した帰蝶との訓練)で度々今川家を離れていた。
「和尚。涼春殿は一通り仕込んだのじゃろう? 大丈夫じゃな?」
「そうですな。彦五郎様に下にいるなら問題は起きぬでしょう」
「そう言う訳じゃ。そなたも寂しかろうから彦五郎の下に行くが良い。よく見てくるがいい」
「……!? は、はい! では支度してまいります!」
涼春はイソイソと駆け足で道場を後にした。
「武田の偵察と織田の偵察、それに、涼春殿に織田を見せて北条にも情報を流す。今年が山場になりそうなのですな?」
「……そうじゃ。結果如何では動く。そう考えておる。全てに対応できなければな」
義元は同盟の関係上、武田と織田の戦には関われない。
いや、関わる事はできる。
同盟を破棄してしまえば良い。
ただ、その見極めの為の材料を、切欠を、チャンスを逃さぬ為に動くのであった。
【尾張国/人地城 織田家】
「うーむ。芳しくないな」
織田家における諜報担当として活動している滝川一益が、難しい顔をしていた。
「彦右衛門殿(滝川一益)、どうされましたか?」
飯尾尚清が尋ねた。
最近の尚清は一益とコンビを組んで動く事が多かった。
別に一益の家臣になった訳ではなく、与力としての意味合いが強い。
信長も一益に対し謎の信頼を置いており、尚清もスカウトしてきた責任を果たしているのか、はたまた補佐が性分に合うのか中々の補佐振りを発揮し、一益が諜報で行えない分の政治をカバーしていた。
「これは茂助殿(飯尾尚清)。いや、武田家への調略がイマイチな手応えでしてな」
「左京大夫殿(武田信虎)が昨年申した武田家臣の切り崩しのですか?」
「そうです。あの時の左京殿の言い様なら、もっとこちらに靡く手応えがあっても良さそうなモノですが」
昨年織田家にやってきた武田信虎は、織田家に入れてもらう見返りに、武田の内情を暴露すると共に、切り崩しとして家臣の篭絡を提案した。
武田家は信虎が力で強引に纏め上げた勢力であり、武田に従う事を良しとしない感情を持つ者は絶対に居るはずである。
更にこの時代、家臣には主を自由に選ぶ権利がある。
主は主の権限で、勝手気ままな行動ができる訳ではない。
最低限は、家臣を繋ぎ止める努力はしなければならない。
これに加えて、武田家は家臣主導のクーデターで主が代わった以上、晴信は絶対領主ではなく、ホンの少しだけ強い権力を持つ合議制の勢力なのである。
「そのハズなのだが、芳しくない、と……」
「うーん……」
一益と尚清は腕を組んで唸った。
「しかし……どんな勢力であっても完全な忠誠を得るなど不可能でしょう? 宗教勢力でさえ教義の解釈を巡って分裂対立してきたのだから、武家など必ず腹に一物を持つ者がいるハズです」
「それを見つけられぬ我等の調査不足か……」
「調略できるに越した事は無いが、芳しくなくとも密書は送り接触し続けろ。いてッ!」
2人で悩んで居る所に、不意に第三者の声が響いた。
「大殿!」
悩む2人に、たまたま通りかかった信秀が声をかける。
肩には於勝丸(信正)を担いでいる。
織田家の跡目も円満に譲り懸念が無くなった信秀は、史実では病死している時期だが、この歴史では元気ハツラツで孫の世話をしていた。
2人は慌てて姿勢を正すが、信秀が手で制した。
「そのままで良い。堅苦しいのは公的の場だけで十分じゃ。髪が抜ける!」
於勝丸が無邪気に信秀の髷を引っ張った。
「は、はぁ」
「武田への調略は内応の確約が無くとも、応じる事が無くとも、一方的に密書を送り続けよ。月代を叩くでない」
於勝丸が信秀の月代をピシャリと叩く。
「結果が出ない事が分かるだけでも成果じゃ」
髷と引っ張られ頭を叩かれながらも、信秀は威厳たっぷりに答える。
かつて全盛期の斎藤道三と、今川義元&太原雪斎ら数々の怪物と謀略でやりあった信秀である。
裏切りを考慮した戦略を組み立てる必要が無いと分かるだけでも、負担は減る。
それに武田相手に限った話ではないが、裏切りを信頼し戦の決め手とするには危険である。
史実の関が原の戦いにて、徳川家康は裏切りを決め手に勝負を決したが、本人にとっては博打も博打、何か一つでも狂えば破滅しかない大博打であった。
「ただ、手応えが無いのは晴信が何かしたかも知れん。左京殿から武田を奪って年月も経過しておるしな。ならば晴信の影響がまだ薄い南信濃の連中を篭絡した方が可能性はあるかもしれん。これ頬を引っ張るでない」
於勝丸が、信秀の頬をつねって引っ張る。
「それは……その分、戦力としての見返りも期待できませんが……」
晴信に大幅に領地を削られ臣従している信濃武士は、忠誠も低いだろうが戦力もタカが知れている。
「それでもいい。少数を無視して大軍が敗れる事など古今東西珍しくも無かろうて。実際に内応せずとも臭わすだけでも武田には牽制になろうて。三郎に提案してみよ。奴もその辺りは理解していようて。目は止めて!!」
於勝丸が信秀の眼球を触った。
「わ、わかりました」
それだけを助言して信秀は去っていった。
流石は『器用の仁』と称えられた臨機応変の対応である。
於勝丸に散々弄ばれて威厳は皆無だが、織田の前当主としての確かな戦略がそこにはあった。
その信秀の提案を元に、南信濃への計略計画を立てた二人は、信長に提案をした。
「父上がそう言ったか。最もな話であるな」
信長は一益と尚清の提案を認めた。
と言うよりは、信長も自身の歴史的経験と晴信の実力と武田アレルギーから、信虎の提案は話し半分以下にしか信用していない。
ただ、信虎個人への信用が無い訳では無いし、織田家には歓迎するが、情報がやや古いと見ていた。
だが全てを見破って、最初から南信濃に狙いを定めたとしても、武田の重臣に接触しない理由にはならない。
重臣が本当に内応するならラッキー程度で、信長も武田は一枚岩である事を家臣に認識させる方が、織田軍としても動きやすいと考えていたのだ。
そんな報告を受けた信長と帰蝶は、かつての長篠の戦いに思いを馳せる。
《武田は間違いなく今年来るな》
《後は待ち構えるだけですね。私は資料程度でしか知らないですが、長篠の再現は出来ますかねー?》
史実に無い決戦が近いのか、ファラージャも興味が尽きない様である。
《完全再現は無理じゃ。ただ、冷静に考えれば長篠よりは有利ではある》
《歴史的にですか?》
《それは何とも言えぬ。ワシが言うのは地形の話よ。長篠は急拵えの陣地で武田を迎え撃ったが、今回は多少なりとも防備を調えた砦や城で迎え撃つ。防衛の面では鉄砲不足を補って余りあろう》
史実の長篠の戦いは諸説あるが、勝負の肝は武田軍を鉄砲隊の前に引きずり出す事が出来るかどうかであったとされる。
武田勝頼も馬鹿ではない。
本来なら馬防柵と鉄砲を並べた死地に、兵を飛び込ませる様な愚かな戦いはしない。
ただ、それでも飛び込ませなければならない事情に追い込まれたのが、敗因であろう。
《今回は武田が飛騨守の権威を振りかざして来襲するのだから、城に攻め込ませるのは容易じゃろう。武田の視点で見れば、不当に占拠する我等を討たずしては面目が保てぬからな》
《攻め込まれた後が勝負ですねー》
《そうじゃ。物資も兵も前々世に比べたら不足しておるが、現時点では武田対策は順調と言えよう》
《勝てそう……少なくとも戦えそうですかね?》
《……楽観視はせぬ。ただ、武田信玄に挑戦できる準備は出来ているハズじゃ》
前々世では、信長の後半生における宿敵でありながら、一度も直接対決をしなかった織田信長と武田信玄。
前々世とは兵力も国力も人員も何もかも違う陣容であるが、それでも懸命に変化させた歴史である。
だんだんと決戦の時期が近づくにつれ、武田に対して弱腰だった信長も僅かな希望を見出し覚悟を決めるのであった。




