106-3話 静観惑乱困惑 企む武田晴信と長尾景虎、頑張る信長
【甲斐国/躑躅ヶ崎館 武田家】
「……以上が、浅井某が持ち込んだ情報の全てです」
「なる程な。その浅井某が織田の間者でなければ、織田の躍進も納得の情報よな。専門兵士も半信半疑だったが間違いなさそうじゃ」
二人の男が悩んでいる。
武田晴信と弟の信繁である。
二人は昨年、織田から落ち延びてきた、浅井政貞が持ち込んだ情報について話し合っていた。
「それだけの兵の腹を満たせる程に尾張は肥沃なのですな」
「うむ。この甲斐など比較にならんわ。しかし少しでも追いつく為にコレは活用させてもらおう」
そう言って晴信は杭を手に持った。
「他の情報は真偽を確認せねばなるまいが、既に形になっているコレは信用できる。農作業に限らず建設中の堤防の工具にも転用できよう」
堤防とは、史実で言う所の『信玄堤』である。
およそ今より10年前に着工し、史実準拠ならあと10年の歳月を費やす晴信一世一代の大事業である。
甲斐は長年水害に悩まされており、この堤の完成によって農作物が安定供給される様になるが、今はまだ工事の途中であり、それ故に武田家としては外に侵略し食い扶持を確保しなければならないのである。
「そうですな。さっそく複製させましょう」
「うむ。領内の職人を総動員せよ。しかし……信長も思い切った事をしよるな」
「この杭ですか?」
「うむ。信長はこの杭を秘匿をしなかった。秘匿して生産性を落とすより、公開して生産性を取ったわけじゃが本当に思い切った判断じゃ」
「我等はどうしますか?」
「当然、秘匿なぞしない。どの道、我等は作物最貧国。出し惜しみしている場合では無いしな。それにこの技術が流出して豊かになった土地をいずれ奪えると思えば、他国も『どうぞ真似して下さい』じゃな」
「それが良いでしょう。その他の織田の政策……天下布武法度についてはどう致しますか?」
武田家としても信長の天下布武法度は認識しているが、浅井政貞が信長の正式な書状を持ち込んだお陰で現物を初めて確認できた。
「コレ……なぁ……。甲州法度と似た部分もあるが、改めて見ると……なぁ……?」
晴信は困惑するしか無かった。
「この宗教に関する法は改めて見ても常軌を逸しておりますなぁ。噂は本当でしたな」
「うむ。最初、願証寺を滅ぼした報告を聞いた時は狼狽えたが、じゃが……気持ちは分からんでもない法じゃ」
武田晴信が定めた分国法に『甲州法度次第』がある。
成立は天文16年(1547年)と言われ、史実では信長の元服と同年で、今川家の今川仮名目録や、この話での天下布武法度に似通った部分も多い。
強いて特徴を言うなら家臣の統制に苦心した痕跡が見られる、非常に武田家らしい法度である。
他にも喧嘩両成敗や年貢、訴訟など多岐にその法は及ぶが、驚くべき法もある。
それは『宗教問答の禁止』である。
史実でも晴信は出家し信玄と号したが、信長に燃やされた延暦寺の再興や天台座主の覚恕の保護、その他にも寺院の保護に積極的だった信玄が宗教問答の禁止しているのである。
信長は強大な武力で仏教を外部から制御した。
その行為に対し信玄は、覚恕によって仏教的地位を手に入れて、内部から仏教の制御を試みたが、そんな宗教保護派の晴信と言えども、一線を越える事は許さないと法で示したのである。
水と油の信長と信玄であるが、制御する手段が違うが目指す所は『宗論の禁止』であるのが歴史の面白い所であろうか。
「左馬助(信繁)。昨年織田が願証寺を滅ぼした時に話し合った事を覚えておるか? ワシの出家の話じゃ」
「覚えております。出家なさいますか?」
「今すぐと言う話ではないが、選択肢の一つとして有力と考えておる。どの道ワシ等は信長が捨てた宗教の力を拾うと定めたのだからな。その上で武力で力を得て出家の際にも仏法界で高い地位を得た上で宗教の力を支配する。これが一番確実で手っ取り早かろう」
「そうですな。専門兵士は無理ですし、別の力を借りるしかないでしょう」
「うむ。我等は作物最貧国。無駄に兵を徴兵しても維持できるだけの兵糧が無い。だが考えようによっては利点でもある。我等は奪わねば死ぬしかないのだからな。それが強さの原動力に直結しておるのを忘れる訳にはいかん。しかし、強さを発揮できるとは言えこのままで良いハズもない。貧乏を武器にするなど本来なら恥ずべき事じゃ。貧乏から脱する為に戦っているのじゃからな」
食えないから他国から奪うだけでは、野盗となんら変わりはない。
配下や民を食わせ安全幸福に導いてこその支配者である。
「はい。この杭は最大限活用させてもらいましょう。ところで、長尾や今川、北条にはこの杭を伝えますか?」
「そこまでしてやる義理は無いが……。まぁ、どうせ遅かれ早かれ漏洩する技術だからな。恩が売れる内に売っておくか」
武田家は三好包囲網を将軍側で参加しつつ、三好派閥最大の織田家に打撃を与えるべく飛騨を狙っているが、織田以上に邪魔な長尾家と和睦がなった事で全兵力を西に向ける事が可能になった。
その長尾家や三国同盟諸国との関係をより良好な物にする為の交渉道具として活用する事にしたのであった。
「わかりました」
「あとは……あぁ、種籾を水に放り込んだという話があったな」
「意味が分かりませんな」
浅井政貞は情報を持ち込んだは良いが、自分でも意味を理解していなかった事もあり、結論の無い曖昧な情報を語っていた。
「じゃが、信長は積極的に農業に関わり開墾とは別の方法で生産量を上げようとしておる。これもその一つと考えるべきであろう。効果が判らぬなら自分たちで解明するしかあるまい」
「もしこの情報が織田の策で、種籾を枯らす、あるいは生産量を落とす刈田戦術の一種だと考えられませんか?」
「可能性はある。じゃから小規模で様子を見る。いきなり領国全域で施行して凶作にでもなったら最悪じゃ」
未知で未確認の技術をいきなりフル活用して失敗しては、甲斐の国は瀕死の重体になるだろう。
だが、国家の長が、そんな愚行をするはずが無いと思ってはいけない。
とある国ではソレを実施し4000万人近い犠牲者を出している。
困窮しているからと言って、するべき確認をしないと国は死ぬのである。
「種籾を水に沈めるとどうなるのか? 本当に沈んだり浮いたりするのか? それが生産量に変化をもたらすのか? あるいは織田の罠なのか? それを見極める。じゃから浅井某は逃がすなよ。罠だった場合は可能な限り惨たらしく殺して尾張に送り付けてやる」
「はい。草の者(忍者)を配して監視しております」
「こんな所か。最後に今年の方針は領内の統治を強化すると共に、全力で開墾をする。この杭を使ってな。先も言った通り我等には専門兵士は無理じゃ。流人や罪人、穀潰しを際限無く受け入れる余裕はない。じゃから、米の増産が叶った場合に段階的にやる事にする。杭を使った開墾、種籾の水没が良い結果に繋がればおのずと強化に繋がろう」
「では飛騨侵攻は一旦お預けですな」
「うむ。今、織田に手を出しても返り討ちに合うのがオチじゃ。しかしその分織田への間者を増やして他の情報も収奪し内部強化を図る」
こうして織田家最大の関心事である武田は、信長の予測を裏切り攻め寄せる気配を匂わすだけで動かなかった。
この武田の停滞を後に知る信長は、助かったと思う反面、予測を外す展開に苦い顔をする事になる。
【越後国/春日山城 長尾家】
「……ではこの杭は領民に支給すると言う事で宜しいですか?」
「……うむ」
武田家からの援助として持ち込まれた杭を、信長に先んじて苦い顔で睨みつけながら景虎は頷いた。
(晴信!! 貴様、飛騨に侵攻しないのか!! 何の為に和睦同盟したと思っとるんじゃ!)
景虎には戦が必要であった。
長尾家の統率の為に。
そこへ降って湧いた三好包囲網。
強大な三好派相手なら、戦う相手にも困らないし大義名分も分かり易い。
武田も将軍派になると読み切り的中させ、イチ早く和睦して同盟したまでは良かった。
ここへ来て武田の停滞である。
(この飛騨侵攻の絶好の機会を逃すというのか!?)
単に飛騨を奪い取るだけなら、景虎の判断は正しい。
織田斎藤の態勢が整わず、小粒な飛騨軍勢に、武田長尾同盟である。
奪えぬハズがない。
戦に抜群の才能を誇る景虎の目論見に間違いはない。
しかし晴信は政治的視点でその先も見ている。
今、飛騨を奪っても後が続かないと判断し、内政に舵を切ったのである。
戦と政治にも抜群の才能を誇る晴信の目論見に間違いはない。
それを景虎は思い知る事になる。
長尾家の家臣達は、杭を持ち帰ると一斉に領内の開発に乗り出した。
我が強く統制のままならぬ長尾家家臣が、躍起になって領地の発展を目指した結果、自分が一番の成果を出そうと内政に勤しみ、散々景虎を苦しめてきたマイナス要因の我の強さがプラスに働いてくれたのである。
(あの己しか見えぬ奴等が、こんなに殊勝に黙々と励むとはなぁ……)
景虎も別に戦闘狂でもないし内政を否定する愚か者ではない。
領国が豊かになるなら歓迎すべき事である。
戦わずに家臣が大人しくなるなら大歓迎である。
余計な事を気にせず済むなら超歓迎である。
(ひょっとしたら……暫くは心穏やかに過ごせるかも? じゃが、今後の為の下準備はしておくべきであろう。飛騨がダメなら加賀、越中問題がある。野放しに出来ぬ勢力じゃしな)
加賀は一向一揆が支配者を排除して出来た農民の国である。
本願寺の意向を強く反映した地域であるが、今は制御不能に陥っており、今の時期は隣国の越前朝倉家とやりあっている。
また越中も同じ様な状態になりつつある。
越中守護の畠山高政が本国に在中せず、中央での権力闘争に明け暮れ将軍や三好と争っており、しかも劣勢に立たされている。
実権を握っていた遊佐長教が暗殺されたのを機に、挽回を図ろうとしているが、越中までは手が回っていない。
そんな状態なので隣国能登の、同族別系統の畠山家が管理する事になったが、その能登畠山も内紛が勃発し越中を適切に管理できているとは言い難い。
つまり越中は無法地帯なのである。
それなのに隣国加賀では一向一揆が盛んなので、当然、越中にも飛び火する事になり景虎の越後にも悪影響を与えていた。
(……本願寺か。織田が滅ぼした願証寺の元締め。どう対応するかな)
考える事が減った分、新たな考えるべき事に頭を悩ませる景虎であった。
「長尾殿、少しよろしいか?」
「これは上杉様、如何されましたかな?」
上杉様とは関東管領の上杉憲政であるが、2年程前に北条氏康に攻められ関東から叩き出され長尾家に身を寄せていた。
「(ッ! 如何じゃないだろう!)関東への出征の件じゃが……」
一刻も早く関東に返り咲きたい憲政は、景虎の態度に腹立たしさを感じるが、如何せん助けてもらっている身なので無茶は言えない。
「今は時期ではありませぬ。急いては事を仕損じるとも仰います。関東奪回は某に全てお任せを」
「そ、そうか。頼りにしておるぞ……」
景虎の迫力に憲政はたじろぐ。
景虎の言う時期とは家臣達の開墾が気の済むまで終わった後の、さらに武田との飛騨攻略が終わった後である。
越後からの関東出征は、小旅行のつもりで行ける距離ではない。
家臣が大人しい今、無理して戦う必要もない。
景虎にとっては憲政の都合などどうでも良く、長尾家として戦う必要がある時に戦うだけである。
こうして武田の静観に巻き込まれた長尾も静観する事になり、長尾家来襲が無くなった北条家は武田から流れてきた杭を使って開墾に敵対勢力討伐に精を出す事になる。
【飛騨国/桜洞城 織田家】
「よぉし! これは中々の砦が……いや、まだ安心はできん! 次に産まれる子の為にも負けられん!」
そう言って信長は、飛騨から尾張方面を見た。
吉乃が妊娠したのであるが、歴史どおりなら信忠が産まれるはずである。
もちろん誰が産まれたとしても産まれる子の為に、前々世で果たせなかった武田晴信撃破を達成し、己の武田アレルギー完治の為にせっせと防備を整えるのであった。
こうして―――
今年の織田の方針は固められ、武田に対する決戦の機運が高まったが―――
信長も困惑する天文最後の年が始まるのであった。




