100-3話 各陣営の去就 中央、西国の勢力
100話は5部構成す。
100-1話からお願いします。
将軍の密書は東国を敵味方中立と3分割にしたが、当然、京周辺や西国の勢力も合力する勢力を表明し動き始めた。
【近江国西/比叡山 延暦寺】
近江国にある比叡山延暦寺は中立を選んだ。
将軍派閥にいる細川晴元は、かつて延暦寺と敵対した細川一族の出身であり、それに六代将軍の足利義教には比叡山を焼き討ちされ手痛い目を見た。
「我等に手を貸せだと!? ふざけた事をぬかしおって!!」
天台座主である覚恕は密書を握りつぶし、食事の膳を蹴り飛ばし怒鳴った。
将軍の厚顔無恥極まりない要請に腸が煮えくり返る思いであった。
「それに将軍が三好に勝つなど万一にもありえん! ありえんが……六角が将軍に肩入れしておるしな」
延暦寺と六角は特に敵対するような関係ではない。
隣接する地域で武家同士や寺社同士ならともかく、武家と寺社の関係であり延暦寺的には悪い関係性ではない。
「様子を見るしかあるまい。簡単に肩入れしては軽く見られるしな。我等は仏の代弁者。武士共には我等の有りがたさを理解させねばならぬ」
覚恕は仏敵の一族である足利将軍家と手を結ぶには、リスクが高すぎると判断した。
では三好派に付くかと言えば簡単に立場を決める訳にはいかない。
将軍の三好包囲網がどれ程の規模になるか不明だし、何より武家は信用できない。
すぐ足元には将軍派の六角家が控えているので、とりあえず中立として様子を見る事にしたのであった。
【摂津国/石山 本願寺】
摂津国の本願寺も中立を選んだ。
しかし心情的には三好寄りである。
本願寺はかつて三好長慶の父である三好元長を自害に追い込んだ。
また細川晴元の策略により大打撃を受けた経緯もある。
ただし、三好長慶の奔走により両陣営とも和睦は成っており、心情的にはともかく力添えをするのに障害は無かったが、それでも中立を選んだ。
本願寺は三好勢力圏内のド真ん中に存在し、力を貸すにしても敵対するにしても、両陣営にとっては絶大な価値を持つ。
「三好長慶は一廉の人物。完全に包囲されたとしても、そう簡単に滅亡する事はなかろう。我等は暫く様子を見る。良いな?」
証如はそう言って苦しそうに咳をした。
「私も……もう長くは有るまい。本願寺はお前が導き、仏敵を滅し我等の浄土を築くのだ……」
「はい。お任せ下さい」
証如の子であり、弟子でもある顕如は野望を秘めた目で頷いた。
「血で血を洗う野蛮な武士には、暫くは勘違いさせておきましょう。我等が日ノ本を正しく導くその時まで」
本願寺は、自分を高く売れる時まで静観するのが得策と考えるのであった。
【大和国/興福寺】
大和国の興福寺は将軍派に付いた。
理由は単純である。
一乗院の門跡である覚慶が足利義輝の弟だからである。
覚慶とは史実における足利義昭であるが、この時はまだ仏門に入って覚慶と名乗っていた。
覚慶、すなわち義昭は本来は足利の家督相続の予定は無く、義輝が暗殺され男子も居なかった為に、また、三好勢力に対抗する為に三淵藤英、細川藤孝に担ぎ出されて世に出た経緯がある。
本来なら歴史の表舞台に立つ予定の人物では無いが、数奇な運命によって表舞台に出る事になった人物なのである。
その覚慶は、現在では苦境に立つ足利将軍家の為に、兄の為に興福寺の戦力を使う事を決定したのであった。
「兄上には足利将軍家を再興してもらわなければならぬ。それが興福寺にとってもより良い結果をもたらそう」
兄である義輝が権威を取り戻せば取り戻すほど、血縁者でもある興福寺と覚慶にもたらされる恩恵は計り知れない。
「立ち上がる準備をせよ! 尊氏公と兄上に報いるは今ぞ!」
覚慶は兄と先祖に誓うのであった。
【紀伊国/畠山家】
畠山高政は心情的には三好に付きたいと思っていた。
しかし、今は動くに動けなかった。
畠山氏はかつては中央で勢力を誇った一族で、かつては管領にも任じられる力を有していた。
しかし、それも今は昔で政変に敗れてからは中央から遠ざけられた、河内と紀伊に影響力を残す一族である。
だが、それすらも家臣の遊佐長教に実権を握られている状態であったが、転機が訪れていた。
遊佐長教が暗殺されたのである。
しかし、遊佐長教が死んだは良いが、家督も継いだばかりで家中の統制もままならない。
また紀伊国守護ではあるものの問答無用でねじ伏せるだけの力が畠山氏にあるわけでも無い。
とにかく将軍の行動はタイミングが悪すぎたのである。
「今は動くに動けん。しばらくは様子を見るしかあるまい……」
高政は来るべき時に備えるのであった。
【播磨国/赤松家】
播磨国の赤松晴政は12代将軍から『晴』の字を賜り、息子は元服時に将軍より一字を賜り義祐を名乗り、将軍家とは繋がりのある大名である。
しかし―――
「赤松は三好殿に付く! 将軍など知った事か!」
そんな恩義など知らぬとばかりに三好に付いた。
それは恨みが原因である。
赤松家としての失策や敗戦が原因とは言え、将軍家の命(三好の暗躍)により備前・美作守護の役職が尼子晴久に移ってしまった。
実力に見合わなかったとは言え、勝手に奪われるのには我慢がならないし正当性が失われるのは領国を支配する権利を失うに等しい。
例え権威に反逆する事になろうとも、赤松には進むべき道は1つしかなかった。
浦上の台頭を退け赤松の本来有るべき姿を取り戻す為に。
それが三好による西への備えである事は知らぬまま―――
【備前国/浦上家】
浦上政宗は赤松家との泥沼の暗闘真っ只中で密書を受け取った。
浦上家は政宗の父である村宗が、赤松晴政の父である義村を下剋上で討ち果たし勢力を拡大した一族である。
しかし、その後の勢力維持に失敗し赤松家を傀儡として利用しなければ立場を保てず、赤松氏の筆頭家老として主君の晴政と水面下で争い、弟の宗景との意見を対立し、尼子の介入もあって混迷を極めていた。
「恐らく尼子は将軍に付こう。しかし赤松は三好に付こう。……どうすれば生き残り勢力を保てる!?」
東西の巨頭に挟まれた立地を拠点とする浦上は、自分を高く売る余裕も作れず去就を決めかねるのであった。
【出雲国/尼子家】
中国地方8か国を支配する大大名である尼子晴久。
単純な支配国の数や面積で比較する訳には行かないが、それでも対三好包囲網における最有力キーマンである尼子家。
将軍家も三好家も絶対に味方に付けたい勢力であった。
「我が尼子家は現在西の大内家と大内を実効支配している陶晴賢と同盟を結んだばかり。西に領土を広げる事は当面は適わぬ。さて……ならば如何するか? 決まっておる。備前の浦上も播磨の赤松も内紛やらで弱体化しておる。守護としての責任を果たすしか有るまいなぁ」
自分で自分を納得させるように頷いた。
もちろんこれは、ピンチな状態を忘れる為に自分を騙す様な意味合いではない。
8カ国に影響を及ぼす大大名としての責任感と余裕の為せる思考である。
「尼子は将軍家に付く」
三好には及ばないものの、中国地方8か国を支配する大大名である尼子晴久は将軍派についた。
直前までは、さらに西に進出し、大内残党や毛利を蹴散らし、九州の商業地である博多を目指す事も考えたが、義輝の密書には三好に代わり共に将軍家を盛り立てて欲しいとの要請があった。
それは将軍家NO.2、つまり権力の中枢に食い込める事を意味する。
「ふむ……三好の後釜に座るのも悪くないな」
『戦国時代にあっては全ての大名、武士が天下統一を夢見て闘いに明け暮れた』
この様な一説をどこかで聞いた事が有るかもしれないが、それは大嘘であり勘違いである。
戦国時代において天下統一を公言したのは織田信長ただ一人であり、その他の大名はあくまで将軍家の威信低下のどさくさに紛れて支配領土を広げただけである。
その上で、京へ進出する機会と理由が出来れば、その時初めて天下を手中にする行動を起こすのが普通であった。
「将軍家には山陰山陽8ヶ国(出雲、隠岐、伯耆、因幡、美作、備前、備中、備後)の守護に任じられたしな。それに三好に対抗できる勢力は我等しかあるまい」
仮に将軍家が衰退したとしても、将軍の反乱が失敗したとしても領土拡大の絶好の機会が転がり込んできたのである。
それをむざむざと見逃す尼子晴久では無い。
故に将軍派に付くのであった。
【土佐国/長宗我部家】
土佐国の長宗我部は中国地方の尼子氏に比べれば、遥かに弱小の勢力であった。
その長宗我部国親は必死に耐えていた。
長宗我部は土佐七雄の一つとして、本山氏、吉良氏、安芸氏、津野氏、香宗我部氏、太平氏と並び称されていた一族である。
吉良、津野、太平は乱世の中で脱落し、香宗我部との対立は優勢に事を運んでおり陥落は目前である。
更に、土佐七雄の盟主たる一条家は1549年に当主が自殺する事件があり、家中が浮ついた状態である。
しかし本山、安芸とは一進一退の攻防を繰り広げており苦しい状態が続いている。
「ここで踏ん張れずして、この乱世に生き残る事が出来ようか! 織田を見よ! たった数年で主家を討ち果たし勢力を拡大させた! 三好に近い我らがこの千載一遇の好機を利用せずしてどうするのか!」
国親の言う通り土佐は三好の本拠地に隣接する国である。
三好の本拠地は京ではない。
四国の阿波、讃岐が本拠地なのだが、土佐はその2カ国に陸地で隣接する国である。
三好の本拠地に直接影響を及ぼせる勢力なのだから、将軍、三好両勢力にとっては是が非でも味方に付けなければならない勢力である。
「中央の騒乱を機に一気に勢力を拡大せん! 三好何するものぞ!」
長宗我部国親はそう宣言し将軍派になると決めた。
味方をする理由。
国親は土佐守護を兼ねた室町将軍家管領の細川高国より『国』の字を拝領した間柄であるが、それが将軍に肩入れする理由ではない。
「土佐を我らが制すれば自ずと四国制覇も見えてくる!」
未だ土佐一国の制圧すら出来ていない勢力の規模を考えれば、国親の大言と理想は一笑に付されるモノであろう。
しかし、大言を吐く者が実際に尾張で成功している現実がある。
ちっぽけな野望や理想を掲げては、小さくまとまった者にしかなれない。
例え不可能であろうとも野望は大きくしてこそ成せる物がある。
無論、本当に身の丈に合わない宣言をした所で、達成できる土台がなければ単なるホラ吹きであるが、長宗我部には土台ができつつあった。
それが信長の『専門兵士』とは全く逆の政策である『一領具足』である。
長宗我部の『一領具足』とは、戦の意思決定から軍備を整え侵攻までが恐ろしく素早く出来るシステムであり、兵士は日常でこそ農作業を行うが、その時、常に武具一式を傍らに用意しているので、いざ事が起こった時素早く行動を起こせるのである。
このスピードこそ長宗我部の真骨頂であった。
「それに阿波、讃岐を制圧できれば堺にも京にも影響が及ぶ。四国を制圧しつつ長宗我部の更なる発展も望めよう!」
現在は苦しくとも、必ず逆転できると信じ、逆転したならば一気に勢力拡大ができると信じ、国親はその時に備えるのであった。
【その他】
本願寺と繋がりがある雑賀衆はその意向を受け中立となった。
六角と繋がりのある甲賀衆は六角に力を貸す事になった。
織田家と繋がりのある伊賀衆は織田家に協力はしつつ、積極的な介入は避け静観の方針となった。
伊賀が隣接する紀伊半島は、趨勢に強い影響力を与えかねない勢力が乱立しており、止むを得ない判断であった。
根来衆も中立となったが、勢いのある方に合力すべく積極的中立とでも言うべき立場をとった。
武田、今川、北条、長尾ら東国の顔とも言える大名たちが、それぞれ去就を明らかにし、中央、西国の勢力も旗色を明らかにした。
【尾張国/人地城(旧:那古野城) 織田家】
一方で、信長も家臣を集め方針を明らかにした。
「―――織田家の方針を言い渡す」




