97話
おれたちはバルムント家に戻り、夕食を取り、それぞれの部屋で休むことにした。
いつも通りの生活をしながら指名クエストを待てばいい、とジギーは言っていた。
本物の勇者が倒せずどうにか封印した魔神を、おれみたいな一般人が倒せるんだろうか。
ベッドに座ってそんなことを考えていると扉がノックされた。
「どうぞー」
「…………」
入ってきたのはリーファだった。
さっきからずっと、塞ぎ込んでいるような表情をしている。
帰り道も一言も話さず、幽霊みたいに顔色を白くしていた。
ここまで何かを思いつめるリーファをおれははじめた見た。
「どうかしたか?」
おれが座っているベッドの隣をぽんぽんと叩くと、そこにリーファはすとんと腰かけた。
「……ジンタ、わたしに『下降線』のスキルを使って欲しいの」
「何で? 今まで頑張ってレベルあげてきたんだろう? 無駄になっちまうぞ?」
「それでいいの」
「待て、待て。理由を教えてくれ。覚えたスキルも能力も、この世界に来たときと同じものになるんだぞ? 治癒魔法も浄化魔法も、女神ぱんちも全部使えなくなるんだぞ?」
言ったところでおれは気がついた。
肩を震わせながら、リーファが泣いていた。
膝の上に置いた手の甲に、ぽたぽたと涙がこぼれていく。
わけもわからず、おれはリーファの頭を優しく撫でた。
「どうしたんだよ?」
「ジンタ…………わたしが、いなくなったら、悲しい……?」
「え?」
言っている意味がわからなかった。
なにそれ、新しい死亡フラグ? って茶化すことも出来たけど、おれは正直な気持ちを答えることにした。
「悲しいに決まってる。天界で出会ってからここまでやってきた仲だし、リーファに助けられることも多かった。いなくなりゃ、そりゃ寂しいし、悲しい」
何かを言おうとして、言葉を詰まらせるリーファ。
おれは励ますように手を握った。
「難しいなら、無理に言わなくてもいい」
「ううん。言う。ジンタにだけは知っておいて欲しい。……わたし、女神の力が戻ったみたいなの」
「……あのときか?」
何かきっかけがあるとしたら、エルピスと触れたときのアレだろう。
そのあとリーファはどこか上の空で、少しぼうっとしていた。
帰り道、どうして元気がなかったのか教えてくれた。
リーファは女神の力が戻ったことで、天界と交信出来るようになったらしい。
「ずっとわたしに話しかけてるけど、今は無視してる」
「それで、どうなるんだ?」
「力が戻ったから、今どこにいるのか天界ですでに把握されている。普通、力があれば上に戻れるから。それで、交信に応じないと迎えがやってくる」
「……リーファは、迎えがきたら、どうするつもりなんだ?」
おれを見つめる青い瞳の中にはまた涙が盛りあがった。
ああ……愚問だった。
こんなこと、訊かなくてもわかることだ。
悩んでないんなら、泣いたりしない。
そっとリーファはおれに体を預けてくる。
おれの胸の中で細い肩を震わせ、シャツをくしゃっと掴んだ。
リーファの涙でぽつぽつと膝が濡れた。
はじめて会ったときは、懐かない子猫みたいに暴れたのに。
「やだ…………いやだよ……わたし、帰りたく、ない…………っ」
リーファのステータスを見ると、悲しいくらいに強かった。
とんでもないスキルが列挙されている。
特にこれ。
【創造力:思いのままにゼロからイチを生み出す。または、存在を作り変えることが出来る】
さすがは神様って感じ。チョコになっちゃえ、って言えば、チョコになるんだろう。
泣き虫で意地っ張りで、明るくて家事が抜群に上手な彼女は、紛れもなく女神なんだと、おれは改めて思った。
落ち着かせようとそっと抱きしめて、ゆっくり背をさする。
おれの耳元では、ぐすぐす、と鼻の音が聞こえた。
「どうするのが、一番なんだろうって思った。女神の力が戻ったことを、おれはもしかすると喜んであげるべきなのかもしれない。この手を離して……別れを言うべきなのかもしれない」
「…………わたしは、まだ、みんなと――ジンタと一緒にいたい。ここで、お別れなんて……」
おれの肩の上でまた泣きじゃくるリーファ。
おれは小さく笑った。
「どうして、笑うの……?」
「おれもだよ、リーファ。言っただろ、さっき。おまえがいないと、悲しいし寂しい」
「どうして?」
涙声で訊いてきた。
どうしてなんだろう。
おれが考えていると、鼻をすんすん鳴らしながらリーファは言う。
「わたしがいなくてもジンタには、クイナやひーちゃん、シャハル、あとはジェラールがいる」
「おい、最後のやつ! みんなと同列にすんな」
ヒロイン扱いはなんか納得いかない。
「……確かにみんないるけど、そうじゃない。リーファはリーファで、誰かが代わりになるなんておれは思ってない。天界に戻らなくちゃいけないって聞いて、率直なところ、嫌だったよ、おれは」
思っていることは伝えておこう。
もし万一、何かがあっても後悔しないように。
「だから、おれも…………リーファとは、まだ、一緒にいたい。と、思う……」
照れくさい。
頭をがしがしかいて、頬をぽりぽりかく。
……気づけば、すぐ目の前にリーファの顔があって、おれの首に腕が回った。
とくん――、と別の生き物みたいに心臓が跳ねた。
二人の間にある数センチの隙間をおれたちはお互いに埋めていく。
瞳を閉じたリーファの濡れたまつ毛。目じりには涙の痕がある。
頬は赤くなっていた。
たぶんおれもそうだ。顔が熱い。
肌に触れるリーファの吐息がくすぐったい。
おれは静かに彼女にキスをした。
ちゅ、てマンガみたいな音がして、本当にそんな音するんだなって、頭の隅で思った。
鼻先でリーファの香りがふわりと弾ける。
なぜか妙に安堵してしまう。
折れてしまいそうなほどか細い体を抱きしめる。
リーファのかすかな息遣いと熱いくらいの体温が感じられた。
とくん、とくん、とやたらと大きな心臓の音の合間に、また、ちゅ、と音がした。
柔らかな唇の感触に、頭の奥がジィンと痺れた。
リーファの手が、おれの肩から二の腕、二の腕から腕へと伝っていく。
おれが手のひらを上にむけると、目当てのものを見つけたように、リーファの指がおれの指と絡む。
きゅ、と組むように握った手は、溶けそうなほど熱かった。
せーの、でタイミングを合わせたように唇を離した。
見つめ合ってほんの少し余韻を味わうと、照れくさくなっておれたちは笑みをこぼす。
名残惜しくなってか、鼻の頭と鼻の頭をくっつけた。
くす、とリーファが笑う。
「結構、長かったわよね……?」
「たぶん」
「ジンタとキス、これで、二回目」
「一回目のあれは、事故みたいなもんだろ……あれはキスって言うのか?」
「一回は、一回なの」
この世界にやってきた初日の夜だった。
数か月前のことなのに、もう何年も前のような気がする。
「あのとき、わたし、びっくりしちゃって。だって、はじめてだったから……」
「おれもだよ」
「……わたしね? もう、びっくりしないから……。だから、もう一回だけ、キス、して……?」
顎を少しだけ持ちあげて上をむかす。
リーファが目をつむると、真珠のような涙が流星のように白い頬を滑り落ちた。
首を傾け、そっと唇を押し当て、おれたちはもう一度長いキスをした。




