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【第五話】小さな聖女の初仕事





 イザルカは、数年前から呪いに海を侵された港町だ。

 神官の祈りと封印によってしのいできたが、根源が断ち切れず、呪いは広がり、封印してを繰り返してきた。

 そのため町の営みの中心である漁業の停止を余儀なくされ、男たちは海に背を向け出稼ぎに町を出た。

 しかし今もなお町は経済的に大きな損失を負い続けており、住民たちは聖女による浄化を心待ちにしてきた。


 聖都からイザルカへは十二日の道のり。

 リスティアと彼女の世話人は馬車に、同行する神官はまた別の馬車に。食料や道具類は荷馬車に、その他の護衛は馬に乗って、日中はひたすら移動する。

 基本的に町を経由し、夜は宿を取るようにはしているが、どうしても夜営をする他ない道のりはある。

 イザルカへあと二日という距離が、それに当たる。


 十日目の夕方。

 日が沈み始めた頃、聖女一行はここを越えればイザルカという森の中で予定通りに夜営することになった。

 森の中には切り開かれた道があるのでいくらかましな道だが、リスティアは初めての長旅に疲れを見せていた。

 馬車の中で座っているだけというのも、体的にも精神的にもくるものがあるのだ。

 けれどリスティアは一言も弱音は吐かず、笑顔さえ見せ、同行者達を気遣った。


「……周りの人間がいくら疲れようと、この中で一番の重責を負っているのはあなたなのに」


 ルキの呟きは、誰の耳にも届かない。

 世話人ヘレナがリスティアを一番に張られたテントに連れて行くのを見送る。

 ヘレナに任せておけば、リスティアの身の回りは間違いない。この環境で考え得る限り快適に過ごさせてくれるだろう。

 ルキはルキで、神官としての役割がある。きょろきょろと、ルキは荷馬車を探して辺りを見渡す。


「あった……」


 突如、森の静寂が破られる。

 狼の遠吠えのような声が響いたのだ。

 ルキは荷馬車に向かいかけた足を止めて、反射的に空を仰いだ。

 それはルキのみならず、夜営の準備を手分けして進めていた神官や衛兵たちもで、息を潜めて耳を澄ませた。


「狼だろうか」

「縄張りに入ってしまったか」


 神官は不安そうに囁き合い、衛兵は周囲の警戒に足を向ける。

 そんな中、すぐ近くで、護衛騎士二人がわずかに警戒を強めた。


「ザイル」

「ああ」


 ルキには二人の警戒の理由が分かった。

 あれは、狼ではなく、魔物の鳴き声だ。

 ルキは不安げな顔をするリスティアの元へ行き、ヘレナに「早く中へ」と促す。


「ルキ、一体……」

「大丈夫です。危険な目には遭わせませんよ」


 ルキはリスティアに微笑んでみせ、ヘレナに目配せした。

 そのときだった。


「魔物だ!!」


 誰かが大声をあげた。

 ルキは反射的にリスティアを背後に隠すようにして、声の方を見た。

 そこには、四本足の黒い獣がいた。森の中から現れた獣は衛兵に襲いかかり、衛兵が槍で牙を防いでいたが、すぐにまた一匹現れた獣が衛兵の肩に噛みついた。


「うわああ!」


 悲鳴に、ルキは背後を向いてリスティアの耳を塞いだ。

 リスティアは恐怖で小刻みに震え、表情も強張っていた。もっと早くに耳を塞いでいれば良かった。ルキは自分自身に舌打ちしたくなる。


 辺りは一瞬で混乱に陥った。

 狼のような姿をしたあの魔物は、魔物としてはありふれたレベルで、力は強くない。ただ力が弱いなりに群れで襲うタイプで、数が多い。


 魔物は一応生物なので、心臓と同等の働きをする核を砕いてやれば息絶える。

 聖教会の衛兵たちはどんどん現れる魔物に対応しているが、決して良いとは言えない手際だ。

 神官がいるので致命傷を負わない限り死人は出ないだろうが、普通の犬や狼とは比べ物にならないほど俊敏な獣相手に怪我人は増えるばかり……。


 そこで、騎士二人がもどかしそうにしているのが見えた。

 そういえば、第四騎士団といえば──。


「ザイル殿、ローウェン殿、魔物退治の腕に覚えはありますか?」


 二人の騎士はルキに一瞬だけ視線を寄越し、ほぼ同時に即答した。


「ある」

「あるよ」


 ローウェンとザイルはそう言い切った。

 即答にやはりとルキはふっと笑い、ヘレナにリスティアの耳を塞ぐ役割を変わってもらう。


「では今からリスティア様の安全を確保するので、その後加勢をお願いします」


 二人が動かないのは、彼らがリスティアの護衛だからだ。

 だから二人が動ける状態を作る。

 ルキは両手を組み合わせ、軽く頭を垂れる。神官が神聖力を行使するときの決まった仕草だ。


「『神よ。あなたに祈ります。御力をお貸しください。──人々に害為す獣を退ける領域をここに』」


 聖言と言われる祈りを唱え終えたと同時に、ルキの足元から光が広がり、それは衛兵たちが守ろうとしている最低限の防衛ラインまで満ちる。

 光は魔物たちをその外へ弾き、魔物たちはなおも人間を襲おうと突進してくるが入れない。


「これで魔物は入って来られません。今のうちに外で魔物の対処を」


 二人を促すと、ザイルが驚いた表情で辺りを見た。


「これは──聖域化かい? 一度だけ見たことがあるが、第一級神聖術っていうやつだろう? 神官でも上級のじいさん神官にしか使えないってうちの隊長が言ってたぞ」

「はは、上級神官のそれは内側では浄化や治癒を行う効力まで持つ別物です。これは──火事場の馬鹿力だと思っていただいた方が。治癒の力も持たないどころか、長くは持ちません」


 ルキの手がぷるぷる震え、汗を流す様子を見て、ザイルはさっと表情を引き締めた。


「ローウェン、一丁やるか」

「ああ。ルキ神官、すぐに終わらせる」

「お願いします」


 躊躇なく、聖域の外に出て、魔物に向かっていく二人の背を見送り、ルキは手から力を抜く。

 すると震えは止まり、汗も引く。聖域は消えるわけでもない。震えと汗は無理矢理に出してみせていたものだ。

 ザイルの言う通り、聖域化は上級神官の象徴と言える神聖術だ。

 だが簡易聖域と呼ばれる劣化術が存在し、それらは中級神官も扱えるし、過去に危機に陥った下級神官が聖域化を行った事例がある。

 それは神の手が差し伸べられた、と表現され、以降一度も聖域化できないどころか中級神官にもなれなかった者だった。

 だから一度や二度では、奇跡で済まされる。


「……こんなときに、魔術が惜しくなるな」


 聖女や神官は浄化と治癒しかできない。神聖術には戦う術がない。

 ローウェンとザイルが二手に分かれ、あっという間に魔物を葬っていく光景を見て、ルキは無意識に拳を握りしめた。


 第四騎士団は魔物討伐のために最も各地に派遣され、最も死人が出る騎士団だ。

 それはオーラを用いなければ傷さえつけられないような難度の高い任務にも、とりあえずと軽く放り出されるからだ。『最も扱いの酷い騎士団』の扱いはそういう面にも表れる。

 だが魔物討伐には最も多く出ているだけあって、小物の魔物であれば慣れたものなのだ。

 たった二人の騎士が加勢に入っただけで形勢は逆転し、ほどなくして魔物の襲撃は止んだ。


 ルキは他の神官たちと怪我人の治療に回った。

 聖教会の衛兵の手際が良くないのも無理はなかったりする。

 魔物の討伐は騎士団の役割。聖教会はその後の影響の浄化が仕事だから。

 怪我人は聖教会の衛兵がほとんど、神官が一二名。ザイルとローウェンには傷一つなかった。


「聖水を入れた容器が割れたのですか?」


 治療を終えたところで、ルキは本来やろうとしていたことをしに荷馬車の一つに行ったのだが、問題が発覚した。

 夜営のときに魔物避けとして撒くために持ってきた聖水を入れた瓶が割れてしまっていた。聖水はほぼ地に染み込み、カップ一つにも満たないわずかな量が残っているのみとなっていた。

 魔物が狙って割るとは考えにくい。魔物退治の最中に衝撃で割れたか……。ルキは割れた瓶を見つめていたが、近くに散らばった花にため息をついて視線を逸らす。

 周りには聖水を取りに来た神官たちが不安げに視線をさ迷わせていた。魔物の襲撃を受けたばかりで余計に不安を掻き立てられているのだろう。


「範囲を出来る限り狭めて、僕が予備で持ってきていた聖水を使いましょう。足りなくなれば、神聖力で凌ぎましょう」


 ルキは神官服の上から羽織ったローブの裏から、小さな細い瓶を十本ほど取り出した。

 それを見て、他の神官たちがほっと安堵の息を吐いた。


「さて、と。僕はリスティア様の方に簡易聖域を張ろう」


 夜営地の周りに聖水を撒く仕事は他の神官に任せ、ルキは散らばった花を拾い始めた。


 リスティアのテントに行くと、前には護衛二人が立っていた。

 テントはそれほどの広さがなく、リスティアが着替えたり寝たりする。

 いつもの部屋のように寝室は寝室、着替えは着替えと用途で部屋が分かれていないため、ルキは入るわけにはいかない。

 声をかけて、ヘレナに出てきてもらおうとしたところで別の世話人が出てきた。


「ココさん」

「ルキ神官、リスティア様を落ち着かせに来てくださったのですか?」

「リスティア様はまだ落ち着かれていませんか?」

「ええ、よければお顔を見せておあげになってくれませんか?」

「僕が入っても良いのですか?」

「大人の男の人なら周りの目があるかもしれませんが、ルキ神官は大丈夫です。今はお召し変えされていますから、後から声をかけますね」

「分かりました」


 じゃあそれまで花を綺麗にしておこう。ルキはテントの横に避けて、拾ってローブに包んでいた花をそのまま地面に置き、ハンカチで花びらと茎を拭き始めた。


「どうして花をわざわざ拭くんだ?」


 ザイルがルキの行動を不思議そうにした。


「……これは、僕の神聖力を注いで育てた花で、聖水を撒くのと同じ働きをしてくれます。汚れていても効力は変わりませんが、汚れた花を飾るのは見映えが良くないですから」


 ルキは聖水の瓶が割れてしまっていたことを護衛二人に伝えておく。

 本当は、ルキの神聖力を染み込ませた花を媒介に簡易聖域を張っているようなものだが言う必要はないだろう。

 そもそも神聖力には媒介という考え方が基本にないので、魔術で学んだ応用だ。

 本当は宿用の部屋の扉の両側に置くことで、毒物などが持ち込まれても浄化されるようにと持ってきたのだが背に腹は代えられない。



 *



 リスティアの様子を見たあと、ルキは夜営の隅で焚火を見てぼんやりとしていた。

 空は夜も更け、星空が広がり、森は月明かりにのみ照らされていた。周りの地面とルキは焚き火の橙色に淡く染まっていた。

 妙だ。

 魔物の襲撃、聖水の瓶が割れていたこと。

 気のせいだ、そういうこともあるだろうと言われればそうかもしれないと思えるほどの微かな違和感。

 だがそれが二つ同時に。

 一つの偶然は起こり得る。一つの思い過ごしはありふれたものだ。

 しかしそれが同時に二つ以上起こったとき、それらは一気にただの偶然ではない可能性が高まる。

 そう言っていたのは、前回の生での魔術師の師だ。

 そして、それがただの偶然ではないとしたら、周囲に違和感があるはずだ。一見関係ないように見えても疑え、と。


 妙なこと。他に妙なこと。

 そういえば、もう十日も前のことになるが、出発前にシシリアの世話人が荷造りをしていた。

 リスティアが公務を始めるタイミングで、同時期にシシリアが公務を始めたはずはないのだが……。


「ルキ」


 顔を上げると、ヘレナが立っていた。


「リスティア様はお眠りになられましたか」

「ええ」


 ルキが無事なハンカチを地面に敷いて、ヘレナにそこへ促した。


「あら紳士ね」

「ヘレナさんはレディですから。お湯ならありますけど飲みますか?」

「そうね、温かいものがほしいかも」


 ルキはただ沸かしていたお湯を、自分が使わなかった木のカップに淹れる。


「今日はお手柄だったわね」

「当然のことをしたまでですよ」

「……あれを当然のことと言えるなんて、あんたは思っていたより強いのね。あんなに多くの魔物を前にして、」


 ふいにヘレナの声が途切れた。

 ルキはお湯を注いだカップを彼女に差し出しかけて、止まる。

 ヘレナの手が小刻みに震えていた。はっとして見た顔は青ざめていた。


「大丈夫ですか」

「……ふふ、今になって遅れてやって来たみたい」


 笑う顔は、いつもよりぎこちない。

 ルキはカップを置き、ヘレナの手を包みこんだ。


「……レディの手は、許可無しに触るものじゃないわ」

「子どもなので大目に見てください」


 ヘレナはルキの手を振り払わなかった。

 ヘレナが受け入れやすいように子どもだからとは言ったが、ルキは前回の生の記憶がある分、本当は彼女より年上だ。

 いつもリスティアに接する姿や動じない姿で忘れそうになるが、彼女はまだ二十歳。

 そうでなくとも魔物を怖がるのに子どもも大人も老人もないのだ。


「……あんたは、怖くなかったの?」

「僕には魔物を近づけさせない力がありますからね」

「それでも冷静すぎでしょ。本当に子どもらしくない子どもね」


 呆れたように言われ、ルキは肩をすくめる。

 こればかりは前回の生の経験値としか言いようがない。さすがに前回の生で同じ年の頃にこんな目に遭っていたら腰を抜かしていたかもしれない。

 けれど前回の生でルキは魔物討伐を何度もしたことがあったし、今回後ろには絶対に守らなければいけない存在がいた。


「それでリスティア様のことも、リスティア様を大切に思い、思われているヘレナさんも守れるなら光栄なことですね」


 にこりと微笑むと、ヘレナは「ふんっ」と言ってルキの手を軽く振り払った。その頬がわずかに赤みが増して見えたのは焚き火によるものか。

 ルキは、いつの間にか震えは止まっていたようだ、と傍らに置いていたカップをヘレナに差し出した。


「ただ、この旅が終わるまで気は抜けませんね」


 ヘレナが温くなったお湯を飲みながら、首を傾げた。


「魔物の襲撃は森を抜けるまでまたある可能性があるものね」

「いえ、ヘレナさん、そもそも僕たちは最も魔物出現が少ないルートを通ってイザルカに向かっているはずなんです。確かに魔物に遭遇する確率をゼロにすることはできませんが……」


 少し、引っかかるのだ。

 魔物は夜営地に着いたタイミングで襲ってきた。

 鳴き声が聞こえてから少し経ってから襲われたのも気になる。最初は誰かが追われているのだろうかと思ったのだ。あのタイプの魔物があのように鳴くのは、獲物を追っているときに追い込むためだ。

 そして瓶。瓶は荷馬車に衝撃が加わっても、あのように砕けるだろうか。全ての瓶が。


 そんな懸念に引っ張られ、大丈夫なはずだと押し込めていた懸念が顔を出す。


 リスティアは大丈夫だろうか。魔物の襲撃が動揺を残さないだろうか。


 実は、前回の生で、リスティアはこの初の公務を失敗している。

 詳細はやはり知る由もなかったのだが、呪いの浄化に失敗したという内容だったはすだ。

 つまり単純な力不足。

 であれば今回の生で原因と思われることが多すぎた。

 教師から誤った情報を伝えられていたこともそうであるし、シシリアから一度の失態を責められ続けてリスティアは自分の力に自信を持っていなかったばかりか失敗を極度に恐れていた。

 本来の力を全く発揮できず、聖女の力で解けるはずの呪いが解けなかったのだとすれば、今のリスティアなら大丈夫のはずなのだ。

 そのために準備をしてきた。自信を取り戻させた。

 だから、リスティアが平常心を取り戻せば、公務に関しては大丈夫のはず。


「まあ、今回で騎士お二人の腕は確かなものだと分かりましたが」


 ルキは話題を変えた。憶測でヘレナを不安にさせなくてもいだろう。

 さっき震えていたヘレナの手が頭を過った。


「そうね。ザイルの方は意外かも」

「ああ、それは僕も同感でした。少し、見くびっていましたね」


 糞真面目なローウェンはまだしも、ザイルも的確に無駄なく仕事をこなした。

 彼は素行が悪いだけで、仕事は確実にこなすタイプなのかもしれない。


「それよりルキ、いつまでここにいるつもり? 寝ないの?」

「馬車で寝られるので不寝番でもしようかと」

「夜に寝ないと背が伸びないわよ」

「それは困りますね」


 わりと真面目に。



 *



 イザルカへは何とか予定通りに到着した。

 魔物の襲撃はあれ以来なかった。

 リスティアは魔物襲撃での衝撃を引きずらず、落ち着きを取り戻してくれた。

 イザルカの町に入るや、待ち構えていた住民たちでできた道を通っていくという歓迎っぷりだった。どれほど町の人々がこの日を待ち望んでいたかが分かる。

 聖女を歓迎するためか、呪いが解けたあとに祭りでもするつもりか、町は飾り付けられていた。

 ルキは故郷での収穫祭を思い出した。

 リスティアを乗せた馬車は、人々の間を歩くよりゆっくり進み、やがて止まった。


「リスティア様」


 ルキは先に馬車を降り、リスティアに手を差し伸べた。

 小さな手がルキに重なり、緊張気味に少しルキの手を握る。


「女神像はあちらです」


 ルキは建物で見えにくい像の方向を囁く。

 なるほど、町の入り口から馬車を止めるならここしかないが、この地の女神像は海の方を向いている。ないと言われていれば分からなかったかもしれなかった。

 だがこれほどの歓迎ぶりでは、女神像までも人だかりが割れてできた道が出来ていた。見逃しようがない。

 人々は、近くにいるルキなんていないかのように、真っ白な衣装と薄いベールという聖女の正装に身を包んだリスティアだけを見つめる。

 注目にさらされたリスティアは、すぐ近くにいるルキだけに緊張で少し強張った顔がベール越しに見えた。

 女神の像の前で、ルキはリスティアから手を離し、リスティアだけが女神像の前に進んでいく。

 

 女神像は、糸巻きの道具を持ち、糸を繰っている。

 それは、その神が人間の運命を繋ぐ糸だと言われている。

 運命を司る女神。

 それが遥か昔、人間が選んだ神だ。

 全ては運命に収束する。何が起きてもそれは運命による定め。死や病気、事故に襲われ、恐れる人間が心の拠り所を求めた結果だろうとルキは思う。


 そして、この世に蔓延る呪いは、神聖力によってしか解けないことから、神罰と言う者がいる。

 人々に信仰されなくなった他の神々の試練であり、怨嗟だと。


 儀式の準備はすでに出来ており、女神像に祈りを捧げたリスティアは呪いの浄化のために海の前の儀式の場に向かった。

 普通、今日到着したなら、明日にでもするものだと思うが、町の人々の意向を汲んだのだろうか。


 呪いに侵されているという問題の海は、黒かった。

 ちょうど神官の封印が解ける頃合いだったか。

 魚が死に絶え、人間が浸かってもやがて死に至ってしまう死の海は、影響範囲が広すぎることから神官の手に負えなかった。

 それが一目瞭然の光景だった。見える範囲全てが黒い。


 海を一目見て驚いた表情で固まったリスティアだったが、ふと後ろを振り向いて、人々の祈る様子を見て前に向き直ったときには──驚きも、緊張もなくなっていた。


「……あぁ、」


 ──聖女の顔になった


 聖教会でも時折覗いた、その息を飲むほどの真剣さ。

 自分がやらなくてはならないのだという覚悟。

 前回の生では知らなかった、妹の聖女としての顔。

 こうして彼女は何度人々を救ったのだろう。そしてそれほどの覚悟と責任感を持った彼女がなぜ死ななければならなかったのだろう?


「やっぱり、俺は納得がいかないよ、女神様」


 背後の女神像を思い、ルキは呟いた。

 その間にも海の方へ進んでいくリスティアは、とうとう儀式の台座を通りすぎ、海に降りた。

 彼女の足が海水に浸かり、人々から少しの悲鳴が聞こえた。

 あとはリスティアを信じるしかない。彼女なら大丈夫だ。俯かず、前を見た真っ直ぐなあの瞳なら、臆していない。

 リスティアは、水に踝まで浸かるくらいの場所で止まり、手を黒い水に浸した。


 そして、祈りを口にする。


「『運命の女神様、人々はこの海を愛しています。この地の人々にはこの海が必要です。どうか、この海の生命が再びの安息を得るためにお力をお貸しください』」


 目映いばかりの光が、リスティアの手から溢れ出す。

 小さく細い手から、光は海へ広がっていく。

 まるで、夜空に星が瞬くように。

 これが聖女が意図的に起こせる『奇跡』だ。

 水平線まで広がった光が引いていくと、海は澄んだ青をしていた。


「ああ、これで魚が戻ってくる」

「やっと海に出られる」

「お父さん帰ってくる?」

「ええ、帰ってくるわ!」


 身を乗り出して海を見た人々が、口々に歓喜の声をあげ、家族や顔見知りと喜びを分かち合う。

 その光景を振り返ったリスティアが微笑む姿は、聖女に相応しく慈愛に満ちていた。


 そうして、誰もがこの町の海の呪いが浄化されたと思っていた。

 神官など比べものにならない規模の力を目の当たりにしたのだ。実際海も美しさを取り戻し、疑うべくもなかった。



 そうだというのに、夜、ルキは昼間の儀式の場から海を見下ろし目を疑った。

 綺麗になったはずの海が、薄く黒くなってる。


「なんでだよ」


 ルキは呆然と呟いた。














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