作戦会議
差し込む光できらきらと光る天井のステンドグラス。
幻想的で美しい光の柱の下には、地面に倒れ、少しずつ体が薄れてゆく一人の女性。
誰もが理解していた、もう無理だと………。
彼女は力を使い過ぎたのだ。
命を繋ぐのに必要な僅かな力もたった一人の男の為に使い切ってしまった。
行かなければと彼は思った。
彼女の側に。
そう頭では命じていても、体は鉛を背負ったように動かない。
側には彼女の死を悟り呆然と涙する一角獣の姿。
どれだけの時が経っただろうか………。
一分……十分……一時間………?
静まり返ったその静寂を壊す声が響いた。
駆け込んできた一人の男は、今にも消えそうな女性に近付き何かを叫んでいる。
泣き叫び、必死で彼女を捕まえようと手を伸ばしているが、彼女をつかむ事は出来ず手は空虚をつかむようにすり抜ける。
そうしている間も、彼女の体はどんどん消えていく。
さらに涙する男を、彼の中に誰のせいだと罵りたい気持ちが溢れるが、体も口も動かない。
最後の力で男と何か言葉を交わす彼女を、現実味を帯びないどこか別の世界の事のように見つめる。
その時、ふいに女性の視線が彼に向けられた。
視線が合わさった一瞬、何か言葉を紡ごうと彼女が口を開いたが、それは音にはならず、彼女の体は跡形もなく消えていった。
一体彼女が何を残そうとしたのか、もう知る事はない。
もう彼女はいない………。
優しい笑顔を向けられる事も、名を呼んでもらう事も………。
唐突に理解してしまった彼は、声なき声を上げる。
血を吹き出しそうな叫びを上げた所で、情景は暗転する。
夢から覚めた彼の目の前に馬に似た一角獣の顔面が映った。
教会の奥深くには、一部の者しか立ち入る事が出来ない場所があった。
外界と隔絶されたその場所は、ほとんど彼と一角獣以外の者は立ち入ってこない。
季節を問わず草木や花々が咲き誇る庭園のようなこの一角は、どこか人を寄せ付けない神聖さを感じる。
夢見の悪さに気分は最悪だ。
その上、いつからそうしていたのか、一角獣が甘えるようにすりすりと鼻先を擦り付けてくる。
手の平で押し退けようとするが、懲りずに擦り寄る。
長い付き合いの中、鼻で笑う事はあっても甘える事は皆無だった一角獣の奇行に、早く退けと機嫌を下降させていると、一角獣がそうしていた意味を唐突に理解し、腰掛けていた椅子から勢い良く立ち上がり、何の変哲も無い空を見上げる。
「やっと……やっと………っ!」
人の生から見れば長い長い時が経ち、ようやくその時が来たのだと理解した。
体を震わせ、崩れ落ちるように膝をつき、両手で顔を覆う。
「ああ……あああぁぁぁぁ!」
泣いているような叫びは決して悲しみでは無い。
それは歓喜。
喜びを感じているのは彼だけでなく、一角獣もまた、彼のように涙を流して喜んでいる。
そして、目には見えない人成らざる者達も歓喜し、主張するように花々が咲く庭園にきらきらと光が輝いていた。
***
とある部屋の一室で、ユイ、フィリエル、カルロ、セシルが、真剣な面持ちで顔を付き合わせていた。
そしてセシルの第一声で話し合いが始まる。
「えー只今より、打倒魔王!……もとい、魔王からお姫様をさらっちゃうぞ作戦会議を始めたいと思います」
カルロが勢い良く手を上げる。
「何かなカルロ君」
「隊長、敵は凶悪かつ凶暴であります。
緻密かつ大胆な作戦が必要であると思われます!」
「その通り!流石カルロ君は良く分かっているじゃないか」
「恐縮であります!」
芝居がかった二人のやり取りに、フィリエルが噛みつく。
「お前ら絶対面白がってるだろ」
「フィリエル君、発言前は挙手をしたまえ」
協力というより楽しむ方が重要に見えるセシルとカルロに、フィリエルは嗜めるのを諦め溜め息を吐く。
「事は慎重を要する、絶対に魔王に知られないよう、他言無用である。
異議のある者は?」
「異議なーし!」
「異議なし」
「…………異議無し」
カルロに続くユイも何だかんだでのりが良く、仕方なくフィリエルも答える。
すると………。
「…………異議……大ありよぉぉ!!」
エリザの耳をつんざくような怒号が部屋中に響き渡った。
「あなた達、どうして私の家に居るのよ。話し合いなら余所でやってちょうだい!」
「だってよ、他に行く所が無いんだから仕方が無いだろ」
「パン屋に王族は連れて行けないし、学校は今春休み入って入学試験を行ってる最中で行けないからね」
「カーティスの邸宅があるじゃない!」
「今からその家の主を倒さんと作戦を練っているのに、敵の懐で作戦会議する馬鹿が何処にいるんだよ」
「それにあの家にフィリエルが入ったら、何処からか聞き付けて仕事ほっぽり出して帰ってきそうだしね」
物凄くあり得る。
「良いじゃん、良いじゃん」
「良くないわよ!」
怒髪天を衝く勢いのエリザ。口を挟むのは勇気がいったが、フィリエルにはどうしても一言言っておきたい事がある。
「エリザ、言い忘れてたが、ありがとう。
色々協力してくれてたんだろ」
突然のフィリエルの感謝の言葉に、急速に怒り狂っていた心が萎んでいく。
「エリザさん、ありがとうございます」
「別に、あなた達が焦れったいからイライラしただけよ」
続くユイの感謝に、ぶっきらぼうに返す。
だが、照れているだけだという事は、エリザの少し紅くなった顔を見れば誰もが気付いた。
そうこうしていると、カルロの通信用魔具に連絡が入ってきた。
「はーい、もしもし。あっテオ爺。
何々………へぇ、でも父さんは?……おう、了ー解、またな」
テオドールだという事分かったが、とても先王相手とは思えない友人相手のような軽い話し方に、エリザから呆れを含んだ一言が零れる。
「どうして、私達より気安いのよ」
「テオ爺が堅苦しいのは嫌だって言うからね。
公の場ではちゃんとしているから問題ないよ。
……それで、テオ爺は何だって?」
セシルがカルロに問う。
「フィリエルにユイを王宮に連れて来るように伝えてくれってさ」
「なら、俺に直接連絡すれば良いだろうに……。
しかし行くのは良いが、宰相がいるだろ」
「父さんは漸く仕事が落ち着いたから帰ったって。
つまり、行くなら今だって事だ」
そういう事でユイとフィリエルの二人でやって来た王宮。
王族一家が団欒を楽しむ時に使う私室へ通されると、既に王族一家が揃っていた。
ユイは直ぐさま礼を取る。
「連れて来ましたよ」
「おお、良く来たのう。
ベルナルト達が早くユイに会いたいと言うので呼んだのじゃ、楽にしてくれ」
結婚を決めた事はフィリエルから話が行っているはずだが、決めてから初めて顔を合わすとあって、緊張から自然とユイの背筋も伸びる。
腕を組み厳しい表情のベルナルトと和やかな笑みを浮かべるアリシアが座るソファーの向かいに座ったユイとフィリエル。
以前会った時は賛成している雰囲気だったベルナルトだが、今はユイが来てからずっと重い威圧感を感じる。
反対なのだろうかと急速に不安が襲ってくる。
「フィリエルから話は聞いた。
王族の妃となれば責任も大きく、制限される事も多い。
当然、言っていたパン屋を継ぐことは出来ない。
それでも良いのだな」
覚悟を問うベルナルトの鋭い視線がユイを射抜く。
ユイはすくみ上がらないよう力を入れ、しっかりとベルナルトの目を見ながら肯く。
「はい、それでも構いません」
ユイの答えを聞くと、ベルナルトは顔を伏せ、ふるふると体を震るわせたかと思ったら、勢い良くソファーから立ち上がり、叫んだ。
「やったぞー!!なあ、アリシア!」
「ええ、あなた」
「念願の娘だ-!」
「娘よー!」
アリシアと子供のように喜び合うベルナルトに、先程までの王の威厳は一切無い。
厳しく見えたのは、ただ喜びを押し殺していただけだった。
きちんと本人の口から了承を得られたので、その喜びを爆発させたのだ。
ポカンと呆気に取られるユイ。
「父上、母上、ユイが驚いていますよ」
「おっ、すまなかったな」
「あらあら、ごめんなさいね。ユイちゃん」
「いえ………」
やっと落ち着いた所で、再び席に着く。
「フィリエルとの結婚を決めてくれた事は喜ばしいが、本当に良いのだな。
主にオブライン伯爵についてだが……」
「えっ………」
途端にユイの表情が強張る。
「大体の事はフィリエルから聞いている。
王として知っておかねばならないのでな、すまぬな」
王族に名を連ねる事になる以上、妃の身辺を王が知っている必要がある。
当然の事なのだが、予想以上に動揺してしまった。
心配そうにフィリエルが覗き込むのを、大丈夫だと伝え、これでは駄目だと心の中で自分を叱咤する。
「いえ、身辺を知るのは当然の事です。
父親の事も覚悟の上です。動揺してしまいましたが、これからは気を付けます」
「………そうか、それならばいい。
何かあれば直ぐに言いなさい、力を尽くそう」
ユイはただ黙って頭を下げ感謝を示す。
「ちゃんと守るのよ、フィル」
「勿論です」
しんみりとした所で、空気を壊すのはやはりテオドールだった。
「それで、魔王対策は出来ているのかのう?」
ぴしりと空気が凍ったような気さえした。
出来ることなら忘れていたかったと、全員の顔が言っている。
「彼女が泣いて頼んだら許してくれるんじゃないのかな?」
それは名案だとベルナルトはアレクシスの提案に賛同を示すが、ユイは首を横に振る。
「確かに私に甘いですけど、頑固ですからね。
一度拗ねたら私でも対処できません。父を諫められるのは母だけです」
「カーティス夫人か………。
夫人には婚約の事は話しているのか?」
フィリエルに告白した後、恋人になった事は既に伝え、自分の事のように喜んでくれたシェリナ。
「婚約したい相手がいる事は話しましたが、相手がエルだという事まではまだ話していなくて……。
エルにはパパに話す前に会って欲しいんだけど」
「………緊張してきたな」
レイスに婚約を認められるかどうかが、シェリナに賛成して貰えるかに掛かっていると言っても過言ではない。
「喜んではくれてたから大丈夫よ」
「それなら良いが」
レイスに関しては、まずシェリナに協力を仰ぐという事で話はまとまったが、その話し合いの後、何故かユイはテオドールと馬車に乗って移動していた。
「テオ爺様、何処に向かってるの?」
「教会じゃよ。教皇にお会いしに行くのじゃ」
「それは良いけど、どうして私も一緒なの?」
「対魔王戦の武器を貰うのに必要でな」
ユイは首を傾げる。
精霊を信仰している教会は、元々ガーラントという国が興る前に、この辺りの地域で信仰されていた宗教ではあるが、今やガーラントのみならず多くの国々で信者を増やし、一国家以上の権力と影響力を有していると言われている。
元々の発祥はガーラントである為、本部はガーラントの首都に置かれているが、支部は他国にも多く存在。
そして教皇のいる王都の教会には、多くの国々から信者が一目見ようと訪れ、ガーラントの観光業にも一役かっていた。
そんな教会の頂点に立つ教皇は、一言で言えば謎な人物であった。
性別は男だと言われているが、名前、出身地、年齢は全て非公開。
教皇を見た者は女性と見間違うほど線が細く美しいと口を揃える。
「天から舞い降りた天女のようだ」や「教皇様の為なら死ねる!」はたまた「男でも構わない」等々………。
信仰とは関係なく教皇自身に心を奪われ教会の信者になった者も居るほどだ。
訳も分からないまま、教会へと到着し馬車を降りると、枢機卿が出迎えに来ていた。
これまでしつこい勧誘の被害にあっていたユイは、反射的にテオドールを盾にするよう後ろに隠れる。
「教皇様にお会いに来られたお客様に勧誘したりなどしませんよ」
くすくすと笑う枢機卿の言葉に、それもそうかとユイは安堵する。
ガーラントに住む者として、一応精霊信仰に属するが、これといって特に熱心な信者でもないユイは教会へ来たことはなく、物珍しげに教会の内部を観察しながら枢機卿とテオドールの後に続く。
「ところでテオ爺様、どうして私も教皇様にお会いするか聞いてないけど」
「そうじゃったな。
フィリエルとの婚約に関する事なのじゃが、それについて教皇がユイ本人に意思確認をしたいそうじゃ。
決して粗相の無いようにな。あの方を怒らせたら、わしでも助けてやれんかもしれん」
「え゛っ」
とんでもなく不安を呼び起こす言葉が告げられ、ユイは盛大に顔を引き攣らせた。
「聞かれたことに対して、フィリエルと婚姻の意思があると答えれば良い」
「大丈夫ですよ、基本的に教皇様は他人に興味が無い方なので、多少の事は気になさいません。
ただ………以前機嫌がお悪かった時に、粗相をしたとある国の王が王位を追われたとか………」
全然大丈夫じゃない。
「ちなみに今日の教皇様のご様子は?」
恐る恐るユイが聞いてみると、枢機卿は足を止め振り返り、それは素晴らしい笑みを浮かべた。
無言の笑顔が逆に怖い。
「…………テオ爺様、日を改めない?」
「馬鹿を言うでない。
…………と言いたいところじゃが、わしも猛烈に帰りたくなってきたのう」
一気に不安に襲われるユイとテオドールだが、無情にも教皇の部屋前までたどり着く。
ユイが覚悟を決める間もなく、さくさくと枢機卿は教皇の部屋へと入っていく。
「お連れしました、猊下」
恭しく頭を下げる枢機卿の先には、白に近い金の髪に薄い紫の瞳を持つ、女性と見まごう男性。
教会での位は、エルフィーの花の数で表され、それぞれ分かるよう法衣に刺繍したり装飾品を身に着けるが、彼は最高位を表す六つの花が刺繍された法衣と首飾りを身に着けている。
色素の薄い髪に瞳といったリーフェの特徴を持った教皇は、生身の人間である事を忘れそうな、人形のように精巧で整った顔は、神々しさすら感じてしまう。
見惚れるほどの美貌の教皇を前に挨拶もなく立ち尽くすユイ。
教皇と初対面の者には見惚れて心をどこかに飛ばす事はよくある事だったので、テオドールと枢機卿は内心で苦笑しながらユイに礼をするよう促そうとユイを見ると、揃ってぎょっと目を剥いた。
「ユイ、どうしたのじゃ!?」
驚きを顕わにしたテオドールの表情に、ユイは意味が分からないと首を傾げるが、何かが頬を伝うのを感じ、漸く自分の異変に気が付いた。
ユイは涙を流していた。
「あ…れ……、どうして……」
慌てて涙を拭うが、拭っても拭っても次から次へと涙が溢れてくる。
何故泣いているのか自分でも分からない。
けれど、胸が締め付けられるような悲しさと、それと反した懐かしさと嬉しさを感じる。
ユイ自身も説明出来ない感情に動揺すると同時に、似たような感覚を感じた事があったのを思い出す。
「(そうだ、確かシュリと会った時も……)」
バーハルの街の屋台で初めてシュリと会った時と同じ、苦しいほどの懐かしさ。
教皇の前である事と、滅多に人前では涙を流さないユイの様子に珍しく動揺しながらテオドールがユイに近付くと、テオドールを押し退け教皇がユイの前に立った。
涙を溢れさせたまま見上げるユイと静かにユイを見つめる教皇。
言葉を挟める雰囲気ではなく、テオドールと枢機卿は息を呑んで見守る。
「………ごめんなさい……シオン」
気が付いた時にはするりとそんな言葉がこぼれ落ちていた。
すると教皇は、くしゃりと今にも泣きそうに表情を歪め、膝をついてユイの手を取り、手の甲を自分の額へと押し当てる。
「いいえ……っ……いいえっ……。
こうしてあなたにお会い出来ただけで十分です……っ」
声を詰まらせながら言葉を紡ぐ教皇。
普段感情の起伏が少なく、他者への関心も皆無と言っていい教皇が、感情を顕わにしている姿に、長年教皇の側に仕えた枢機卿は声も出ないほど驚いた。
そして王にすら決して膝を付かぬ教皇が躊躇いも無く跪く。
なにより驚いたのは、秘されているはずの教皇の名をユイが口にした事だ。
少しすると、落ち着きを取り戻した教皇は緩やかに立ち上がり手拭いを取り出すと、涙に濡れるユイの頬を優しく拭った。
「お知り合いでしたか?」
枢機卿の問い掛けに、ユイは一度教皇を見て一瞬考え込んだ後、首を横に振った。
「………いいえ、初対面です」
「えっ!?いや、ですが………」
枢機卿が困惑するのも無理は無い。
教皇の名を知る者は教会でも片手で数えられる程で、テオドールも教皇の名は知らない。
その上、他人はその辺の石ころと同じ位の認識しかない教皇が感情を顕わにし、これほど柔らかな表情で人の涙を優しく拭き取るような姿を見せられ、知らないという方が信じられない。
だが、そうであってもユイが教皇に会った事は今まで一度もないのは事実であった。
それなのに、何故かユイは目の前の人物に懐かしさを感じる。
それをどう説明していいのか、ユイには分からない。
「………私と会った事ありますか?」
教皇は笑みを浮かべ、何か喋ろうと口を開こうとしたその時。
何か白い毛玉がべちょりと教皇の顔面にへばり付いた。
「シュリ!?いつの間に」
気付かぬ内にこっそりユイにくっ付いて来ていたシュリ。
何とも言えない沈黙が落ちた………。
誰もが声を出すことを躊躇う中、押し殺した低い教皇の声が聞こえてくる。
「ふっ、突然居なくなったと思ったらやはり一緒だったか……。
私が涙を流して会いに行くのを耐えていたというのに、一人だけ抜け駆けするなど、ここまで薄情な奴だったとは。
それに何だ、この姿は!?いつからお前はふわふわで手触りの良い毛玉になったんだ。
ちょうど良い、その毛皮を剥いで装飾品にしてやろう」
シュリを顔面から引き剥がし、びよーんびよーんとシュリを伸ばし怒りをぶつけていると、おもちゃのように弄られ気分を害したシュリが教皇の指に噛み付いた。
「いっ……!!」
痛みに驚いて振り払うと、シュリはプリュムの特性を生かしふわりと浮かびユイの肩に着地。
ざまあみろとでも言っているようなシュリの得意げな眼差し、教皇の堪忍袋の緒が切れる音がしたような気がした。
教皇は真っ白な毛玉を鷲づかみ、そのまま窓へ向かうと、勢い良く外へ放り投げた。
「シュリ……っ!」
悲鳴を上げるユイをよそに、何事も無かったようにすっきりとした爽やかな笑みを向ける教皇。
「さあ、立ち話もなんですからお座り下さい」
「でも シュリが!」
「ああ、あれなら大丈夫ですよ。
あの程度で死ぬような可愛げのある生き物ではありませんから」
よくシュリを知っているかのような口ぶりに、疑問を抱く間もなく、さあさあと言って強引に椅子に座らせる。
ユイもテオドールから粗相をしないようにと言われている手前、大人しく従うが、しきりに窓の外をちらちらと窺う。
もうシュリの存在を忘れたかのように、にこやかな笑みを浮かべながら教皇も席に着き、呆気に取られていたテオドールもユイの隣へと座る。
「あなたの為に、沢山取り揃えておきましたよ」
「あ……ありがとうございます……」
ユイの為と言うだけあり、どこから調べてきたのか、ユイの好きな菓子類が色とりどり揃っていた。
教皇はテオドールや枢機卿は一切視界に入れず、視線を向ける素振りすらない。
ユイの為だけにお茶を入れ、お菓子を取り分け、甲斐甲斐しく世話を焼く教皇に、テオドールと枢機卿は何度感じたか分からない驚きで目を見張る。
シュリが心配なユイは、テオドールに視線で助けを求める。
「あーあの、よろしいか……?」
口を挟んだ瞬間、凍えるような冷たい視線を向けられ、テオドールの背筋にぞくりと悪寒が走ったが、ユイがいる事を思い出したらしい教皇は、直ぐに春の陽だまりのような暖かな笑みを浮かべる。
「何か?」
「そろそろ本題に入らせてもらいたのじゃが」
「ああ、確か王子との婚約を求めているのでしたね。
確かあの二番目の王子と……」
言いながら教皇がユイに視線を戻すと、ユイは頷く。
「はい」
「本当に婚約なさるのですか?」
「はい」
ユイはしっかりと肯定したが、教皇は尚もしつこく食い下がる。
「本当によろしいのですか?
王族というのは面倒な政務や貴族の付き合いなど色々と気苦労される事も多いでしょう。
あなたは、あなたらしく自由に生きていける場所が他にあるのではありませんか?」
フィリエルは駄目だと遠回しに言う教皇は、心の底からユイを安じているようで、その真摯な態度は、傍目に聞いていたテオドールや枢機卿ですら、もう一度よく考えてみた方が良いのではないかと思わせてしまうものがあった。
この時テオドールは、とんでもなくまずい事に気がついてしまった。
敵はもう一人いる事に………。
これまでレイスに認めさせる事を最終目標に動いてきたが、どうやらラスボスはレイスではなかったようだ。
もし教皇が結婚に反対してしまえば、レイスに認めさせる事が遠ざかる上、教皇が反対する結婚を貴族や高官が許すはずがない。
普段は周囲からの攻撃も軽くいなすテオドールだが、相手が教皇となるとその立場が逆転する。
それは年の差であり、経験の差であるのだが、教皇を知る者から見ればレイスは可愛げがあると言えてしまえる程なのだ。
まさかの真のラスボス出現にテオドールは表情に出さないものの、背中の冷や汗が止まらない。
「それでも、たとえ不自由だと分かっていても、私は彼が良いです。
彼の側にいると私は私らしくいられるから」
「そうですか……。
分かりました。あなたがそう望むなら、私は力になりましょう」
ユイの変わらない意志に、落ち込んだように表情を曇らせながらも、ユイに協力すると言った教皇に、テオドールはほっと安堵する。
幸いな事に、魔王と違いこちらはユイに従順だった。
教皇は枢機卿に目配せをし、枢機卿から一枚の書類を受け取ると、そこに何かを書き込み、最後に手をかざし魔法をかけた。
一瞬光を放った紙は、何事も無かったかのように普通の紙にしか見えない。
その書類をテオドールに手渡すと、テオドールは書類の中身を確認した後、紙を筒状に丸め、懐にしまった。
「確かに、頂きました。ご協力に感謝します」
「別にあなたの為ではありません。
全ては彼女の為です」
「承知しておりますよ。
……ではユイ、わしはもう少し教皇と話があるので、さっきのプリュムを探してくると良い」
シュリを探しに行きたいユイとしては願っても無い事なのだが、教皇といつまた会えるのかと思うと離れがたく、ユイは素直に出て行く事が出来なかった。
教皇となれば、そう簡単に面会など出来ないのだ。
躊躇うユイの心を理解した教皇は、自身の小指から指輪を取りユイに差し出した。
不思議に思いながらもユイは指輪を受け取る。
「これは?」
「あなたに差し上げます。
それを教会の者に見せれば、直ぐ私に通すよう話をしておきますので、いつでもいらして下さい」
指輪には、教皇の位を示す六つの花が刻まれていた。
また会える繋がりが出来た事に、自然とユイの顔が綻ぶ。
「ありがとうございます、教皇様」
「私に敬語は不要です。
それに、あなたにはちゃんと私の名を呼んで頂きたい」
教皇相手に悩んだものの、期待に満ちた目をされては断れない。
それに、教皇と呼ぶより名を呼ぶ方がユイにはしっくりときた。
「ありがとう、シオン」
何故初対面の教皇の名を知っているのか、疑問は残っている。
けれど、シュリにも彼にも、それをわざわざ聞く必要はないように思えた。
ただ、こうして出会えた事が嬉しい。
ユイは部屋を退出すると、木の枝に絡まっていたシュリを無事回収した。
***
ユイが部屋を出て行くと、突然教皇の雰囲気が一変する。
冷めた眼差しに、人形のように感情を表さない表情。
だが、これがテオドールのよく知るいつもの教皇だ。
他者などその辺の小石や雑草と同じぐらいの認識しかなく、他人に無関心で、道端で誰かに助けを求められても素知らぬ振りどころか気付きもしない。
それが教皇という人物だ。
そんな教皇しか知らない者にとったら、先ほどまでのユイとのやり取りは天変地異の前触れかと、世界の終わりを予感してしまうほどの驚きだった。
だが、今はもうその片鱗は微塵も感じられない。
「それで、話とは」
「はい、初代国王の遺産の剣の事なのですが、フィリエルが何もする事無く何かしらの魔法が発動したようで、あのままフィリエルに使わせて良いものかと思いましてな。
あなたなら、遺産の事も何かご存じかと思いまして」
「そのまま使わせておけ。むしろ王子以外に使わせるな。
あの剣に込められた魔法は、願い祈りの心が形をなしたもの。
王子の身を護るものだ」
「そうですか」
テオドールには、その意味は分からなかったが、教皇が大丈夫というのなら大丈夫なのだろうと納得する。
「…………どこまでも忌々しい男だ」
小さく地の底を這うような声色で吐き捨てる教皇。
それは誰に向けてなのか分からなかったが、テオドールはあえて聞かなかった事にした。
「それはそうと、ユイとはお知り合いだったのですかな」
ユイは初対面だと言っていたが、二人のやり取りを見て、とてもそう思えない。
かと言ってユイが嘘を付いているようにも見えない。
だが、教会がユイを勧誘しているのは、教皇が以前、試合をしているユイを見たからだと聞いていたので、手紙のやり取りでもしていたのかと思ったのだ。
「あの方とは会ったのも話したのも今日が初めてだ。
きっと困惑しておられるだろう。
私も、まさか名を呼んで下さるとは思わなかったのだから」
嬉しそうに零した最後の言葉は、テオドールにというよりは自分自身に言っているようだった。
「だが、私はずっと以前から知っている。
あの方がお生まれになったその日から、ずっと成長を見守ってきた」
「生まれた日から……?」
その事にテオドールは驚き、じわじわと怒りが溢れ出す。
「では何故!何故何もなさらなかったのじゃ!
あなたなら、ユイを助けてやれたであろうに!」
理由は分からないが、生まれた時からユイを知っているという事は、オブラインの屋敷でユイがどんな暮らしをしていたか当然知っていたはずだ。
伯爵からどんな扱いを受けていたかも……。
一度や二度ではない、何度となく行われたそれを知りながら、教皇は動かなかったというのか。
激昂するテオドールだが、教皇は意に介さず氷のような冷たい視線を向ける。
「この私が理由なく、あの方を放置していたとでも思うのか」
静かな抑揚のない声色の中には怒気が含まれていた。
テオドールの言葉に酷く怒りを抱いたのだと気付き、まずいとテオドールが思った時には遅かった。
「では何故………」
「お前は、伯爵がユイ様を暴行する為に雇い入れた回復役の者を知っているな」
「ええ、勿論。
いくら雇い主の命令とは言え、見て見ぬ振りをしたそやつに、仕置きをしてやろうかと思ったが、消息が掴めなくなくて残念な思いをしたのを覚えておりますのう」
「あの男は、今回の戦争の原因ともなったローブの者達の一人だ」
「何ですと!?」
テオドールはこぼれ落ちそうなほど目を大きく見開いた。
まさかこれほど近い所にローブの者達の形跡があったなど思いもしなかった。
「彼女を救い出して差し上げたかったが、男が近くに居る以上、下手に動く事が出来なかった」
「ならば何故、こちらに言っては下らさなかったのじゃ。
そうすれば……」
今回の戦争は防げたかもしれない。
そう続けようとするテオドールの言葉を冷たい教皇の声が遮る。
「言ってどうするのだ。
その時点でその男は何一つ法を犯してはいないというのに、国が動けるというのか?」
確かにその通りだ。
男はただ伯爵に雇い入れられ、伯爵に暴行された娘の傷を治しただけ。
見て見ぬ振りをした事実はあるが、言い逃れる理由はいくらでもある。
だが、そこで気になるのは、何ら法を犯していない一人の男を、何故教皇は目を付けていたかだ。
「何故教皇は男を警戒しておられたのか」
「それを今話す必要はない」
今はという事はいつか話す事もあるという事だろうか。
「他にその男について知っている事はありますかな。
伯爵がどうやってローブの者と知り合い、雇い入れるに至ったのかとか」
少しでも情報が欲しいと思ったテオドールだが、言った瞬間教皇に眼光鋭く睨まれる。
「わざわざ泳がせ動向を探っていたというのに、どこぞの恋に狂った若造と孫馬鹿の老害が下手に動いたせいで、警戒した男は国外へ逃げ出した」
恋に狂った若造とはレイスの事で、孫馬鹿の老害とはテオドールの事だろう。
レイスはシェリナの為に、テオドールはフィリエルに触れる貴重な存在を守る為に、散々伯爵の周辺で動き回っていたので、それを自分達が標的ではないかと警戒し国外へ逃げたのだ。
「逃げた先はザーシャだ。
お前も知っての通り、そこで奴らは伯爵に代わる拠点を見つけ、戦争の発端となった。
情報を探ろうにも、ザーシャでは信者も少なく、支部も無いため思うように情報が集まらなかった。
知らなかった事と言えど、お前と宰相はまんまとローブの者を逃がす手助けをしたのだ」
その言葉は深々とテオドールの胸に突き刺さった。
「何も知らぬくせに、知った気になって喚くな。不愉快だ」
「………申し訳ありませぬ」
反論する事なく素直に謝罪する。
王族の矜持からと躊躇う事はない。
知らなかったとは言え、テオドールとレイスのせいで、避けられたかもしれない争いが現実に起こってしまった。
話は終わり、テオドールは項垂れながら部屋を退出しようとすると、教皇が声を掛ける。
「王子に伝えておけ。
彼女に何かあれば、私が黙っていないと」
「確かに」
そして部屋を退出したテオドールは、部屋を出た瞬間、深々溜め息を吐く。
「テオ爺様、話は終わり?」
そこには無事シュリを回収し肩に乗せ、テオドールを待っていたユイ。
「どうかしたの、テオ爺様。大丈夫?」
「いや、大丈夫じゃよ」
正直、十年は年を取った気がするほど気疲れしているが、ユイの優しさが身に染み入る。
どうも教皇を前にすると緊張してしまう上に、今回は不用意な発言で機嫌を損ねてしまった為に、いつも以上に疲れた。
テオドールはおもむろに手を伸ばし、ユイの頭を撫でる。
「すまんのう、ユイ」
教皇はローブの者がいたから、ユイを助けられなかったと言った。
つまり、テオドールはユイの犠牲の元作られたチャンスをそうと知らず握り潰してしまったという事でもある。
そう思うと、どうしても謝らずにはいられなかった。
しかし、そんな事など知らないユイは、何の事か分からず首を傾げる。
「テオ爺様に謝られる事なんてされてないけど?」
「これはわしの自己満足じゃから気にしないでくれ。
………それより、次は魔王じゃのう」
「大丈夫かな?」
「大丈夫じゃよ」
教皇を相手にする事に比べれば、レイスなど軽いものだ。
次から教皇の元へ訪れる時は、ご機嫌伺いの為にも必ずユイを同行させようと、テオドールは心の中で決意した。




