閑話 エマと勇者の本
黒銀の友の瞳はわずかに潤んでいた。
彼は一雫の涙をポトリと落とす。
涙の落ちたその場所はーー小国トランザニヤ。
隔離された島国ーートランザニヤには、ポツリポツリと小雨が降り出した。
***【トランザニヤ王爵オブリオの屋敷】***
ーー翌朝。
オブリオは赤ん坊の泣き声で目を覚ました。
まだ、窓の外には朝靄の残る寝室で、
泣き声のする方に優しい眼差しを向ける。
妻のマルソーは泣いている赤ん坊を優しく胸に抱き寄せ、
授乳を始めたところだった。
ーーオブリオの双子の息子。
片方の赤ん坊はスヤスヤと穏やかな寝息を立てていた。
その寝顔をオブリオは目尻を下げ見つめる。
スヤスヤと眠っている幼子は、青髪のエドモントーー双子の兄。
どんなに泣き声が響いても微動だにしないその姿に、オブリオは思わず微笑んだ。
一方、授乳中の赤ん坊は銀髪の弟ーーエドワード。
彼は泣き止むと母の胸に頬を寄せ、安心したように目を閉じた。
その仕草を慈しむように、マルソーは我が子をそっと抱きしめた。
双子は二卵性。
兄、エドモントは母親似。 弟は父親似だった。
幼子たちはどのように成長していくのだろうか。
マルソーは日々の暮らしの中で、彼らの成長を楽しみにしていた。
だが、「双子は不吉の予兆ーーいずれ、どちらかを……」と、オブリオは小さくつぶやき、涙を認めていた。
しばらくして、寝室の隅で動きがあった。
"むくぅ”と身を起こしたのは銀髪の少女で八歳の娘ーーエマ。
髪は寝癖なのか、爆発したように広がり、眠たげな銀色の瞳で両親をぼんやりと見つめていた。
長い銀髪の間から欠伸を漏らし、両手を大きく伸ばしてーー
「はぁーーあ─」と、目を擦りながらもう一度欠伸。
「おはようございます、とうちゃま……かあちゃま」
ぽそっと言葉を落とすと、眠気がまだ覚めないエマは、"ちょこん”とベッドの縁に座り込んだ。
その言葉に幼子を抱きながら、マルソーは優しい口調で、
「おはよう、エマ。あなたはもう、お姉さんになったのよ」
そう言って柔らかく微笑む。
そしてマルソーは続けて優しくたしなめた。
「可愛い弟たちがいるのだから、一人で身支度は整えられるわね?」
「うん……」
軽く頷いたエマは、大きな水玉柄のパジャマの長い袖から手を出す。
「んしょ」
彼女は声を漏らしながらベッドから降りた。
一緒に寝ていた白熊の縫いぐるみを脇に抱え、寝室を出ていく。
静寂の中「はぁーーあー」と、再びエマが欠伸したーーその瞬間。
ゴ……ォォ……
低く、深く、空気が軋む。
目に見えぬ波が押し寄せ、皿棚のグラスが震え始めた。
カタ、カタタ…
音もなく弾け、ガラス細工の蝶が羽根を散らすように砕けた。
「ごめんなしゃい!」
エマは自分が”何をしたのか”気づいていなかったーー。
廊下から突然響いた大きな音に、オブリオとマルソーは顔を見合わせる。
続いて聴こえたのは、エマの小さな謝罪の声だった。
幼い子どもであっても、魔力の暴走は時に思わぬ影響を及ぼすーー。
それはかつて、『大魔導オヘソ・べロン』も幼少の折に見せた力であり、トランザニヤでは”天印の芽吹き”(始祖源流の血脈)とも呼ばれていたーー。
メイドには抱えていた縫い包みが廊下の花瓶に当たり、倒してしまったように映ったが、実は違った。
花瓶は棚の上から滑るように落ちたのだ。
割れたのはエマが欠伸をした際に放った、異様な程の魔力に触れたからだった。
「高価な花瓶なのに……」
亜人のメイドが小声で呟くのが聴こえる。
だが、エマはすでに顔を洗って、その言葉にはお構いなし。
そんな中、その音で目を覚ましたのは、寝ていた双子の兄エドモント。
黒銀の瞳を「パチッ」と開ける。
彼は泣くどころか、笑みを浮かべていたーー。
***【悲しみの味と香りの紅茶】***
朝食後。
ダイニングルームでは、エマが弟のエドモントに言葉を教え込んでいた。
「ねーた……かぁか……とーうと……」
「ねーたじゃなくて、ねぇね!」
エドモントが覚えたばかりの言葉を繰り返すたび、エマは笑いながら訂正する。
彼の右拳が言葉を発するたび、微かな光を放っていた。
一方でマルソーは双子の弟、エドワードに授乳中。
それを終えるとエドワードは鎖骨辺りに、勢い良く吸い付く。
彼の小さな身体がほんの少しだが、赤い光を纏った。
その後ろでは、亜人のメイドが寝癖のエマの銀髪を手際良く梳き、綺麗なツインテールに仕上げている。
ダイニングルームの窓には、ポツポツとした音とともに雨の雫が垂れる。
平和な朝ーー温かい朝食ーー家族の絆。
この生活に、幼いながらもエマは幸福を感じていた。
だが、その幸福は無惨にも打ち破られる。
まるで外に降る雨のように。
穏やかな空気が流れる中、オブリオが静かに口を開く。
「……エマ」
その言葉のすぐ後ーー眉間に皺を寄せ、執事のイワンがダイニングテーブルに紅茶を運ぶ。
「……少し聞いてくれ」
エマが父、オブリオの声に目を向ける。
オブリオの顔は青ざめ、瞳には涙が浮かんでいた。
言い淀むオブリオは意を決し、口を開いた。
「……弟……マグが………討ち死にしたんだ」
その言葉にエマの手から紅茶のカップが滑り落ちる。
受け皿が割れる音が響き、テーブルには紅茶があふれたーーその瞬間。
エマは叔父の笑顔がはっきりと浮かび、それが走馬灯のように駆け巡った。
ーー夜の寝室。
「エマが一番好きな物語だぞ!がっはははは!」
「叔父ちゃま、『トランザニヤ物語』、読んで読んで!」
「エマ、お前が好きなところを読んでやろう」
マグナスは微笑みながら分厚い本を捲る。
「そして、八咫鴉の勇者は、黒き魔獣を退けた……!」
「すごい!!叔父ちゃまが、勇者みたい!!」
「がっはははは……エマもいずれ、立派な勇者になるさ」
ーーあの夜の言葉が今も耳に残っている。
ーー叔父ちゃまーー。
人気『作家』、ジュリ・ミシロによる物語で、エマは主人公『八咫鴉』の活躍に夢中になった。
時折、冗談を交えて笑い合ったあの時間は、エマにとって大切な宝物。
いつも厳格だったマグナスがエマにだけ見せた優しい笑顔。
そのすべてがエマにとっては、かけがえのない幸せの記憶だった。
エマの頬を涙が伝う。
それを止めることは、誰にもできなかったーー。
「もう、一緒にお話できないの……?」
エマは悲痛な声を漏らす。
大好きだった叔父の突然の死に、涙が堰を切ったように溢れる。
声にならない嗚咽が喉を締め付け、
彼女は堪えきれず、大声で泣き出した。
「えーーーーんっ! 叔父ちゃまっ! えーーーーんっ!」
ゴゴゴゴゴ……
その瞬間、部屋の空気が震えた。
”パリィンッ!”
紅茶のカップが床に落ちるーーだが、それだけではない。
バキバキ……!
テーブルの上に置かれた銀製の食器が軋みを上げた。
壁に掛けられた絵画も"ビリビリ”と揺れ動く。
膨大な魔力と爆発寸前の【覇気】を感じ、イワンが目を見開く。
「エマ様……?」
エマの銀色の瞳がわずかに紅く輝くーー
それでもどこかで笑顔の叔父の声を探していた。
執事のイワンは、ハンカチを差し出しながらそっとつぶやく。
「姫様、鼻水をお拭きくださいませ……鼻水を……」
悲しみに包まれる朝は、静かに過ぎていったーー。




