白刃(ハクジン)契約譚
ダンジョンーー太陽と月が寄り添う不思議な空間。
遠方には聳え立つ、大きな遺跡。
アタック前、リリゴパノアパーティーが立ち寄った湖畔。
湖面には昼と夜が同時に映り込み、
金色の陽光と銀色の月明かりが、波紋の中でゆっくりと溶け合っていた。
時折、逆さに映る遺跡の影が揺れ、湖面に小さな光の粒が舞うように散っていく。
テントを張った簡素なキャンプに、波紋の音が静かに寄せては返す。
焚き火の橙色の揺らぎが、水面に淡く反射し、きらめく光が風に揺れる葉の影と溶け合っていた。
仲間たちはすでに眠りにつき、それぞれの寝息が重なり合って心地よいリズムを奏でている。
眠れずにいたアカリは焚き火から少し離れ、湖面を見下ろせる場所に立っていた。
その表情は凛として、落ち着きを見せている。
だが、胸の奥底では、何か鋭い棘のような感情が静かに疼いていた。
『リリゴパノア』ーー初めてのダンジョンアタック。
パーティ─は、きっとこれから幾多の戦いを乗り越えていくだろう。
だが、その未来を思うほど、過去の記憶が、ふと鮮やかに甦る。
***
風情をまとった『ヤマト』国の都城。
春の夜、淡い月明かりに照らされた石畳の道を、桜の花びらが静かに舞い降りていた。
提灯の灯がやさしく揺れ、遠くから三味線の音がかすかに響く。
その光と影の狭間に、刀と魔法が共存する国の息遣いがあった。
しかしその奥底には、妖魔の影が静かに忍び寄っていた。
筆頭家老の父、巫代長門公の屋敷は城下の中心に構えている。
母・美里は御殿医として知られ、薬草の香りを絶やすことのない女性だった。
異国生まれの義兄、長良は西方の海から漂着し、長門に引き取られた青年。
青い瞳と異界の知識は、この家に新しい風を吹き込んだ。
長女の朱里は九歳。
父譲りの凛とした眼差しと母譲りの優しさをあわせ持ち、書物を好む少女だった。
妹の樹里は四歳で、いつも朱里の後ろにちょこんとついて歩く、花のような笑顔の子だった。
そんな日常が、ある雨の夜、静かに崩れた。
玄関先に、泥にまみれた小さな影が倒れていた。
それは白い毛をした子犬だった。
雨水と血に濡れ、か細い呼吸を繰り返す。
朱里は息を呑み、叫ぶように母を呼んだ。
「お母様、この子が…!」
美里はすぐさま御殿医の技をふるい、薬草をすり潰し、回復魔法を込めて傷を癒した。
緑色の光が子犬の体を包む。
やがてーー子犬はゆっくりと瞼を開き、弱々しく尾を一度だけ振った。
朱里の胸の奥が熱くなった。
「…生きてる」
彼女はその瞬間、心のどこかで決めていた。
ーーこの子は私の友達だ、と。
朱里は「かる」と名づけた。
だが母は首を振り、冷静に言った。
「家老の屋敷に、不衛生な犬を置くわけにはいかぬ。御殿医である私の立場すら危うくなる。明日には里親を探しなさい」
父の長門公も同意した。
朱里は唇を噛み、かるを抱きしめた。
温もりが、小さな心をどうしようもなく締め付けた。
そこへ長良がそっと声をかけた。
「朱里ちゃん…山の古い神社、覚えてる? あそこなら誰も来ない。毎日通えば、かるは君の犬のままでいられる」
その言葉は夜明けの光のように、朱里に希望を与えた。
翌日、朱里と樹里はかるを抱き、霧に包まれた山道を登った。
森は深く、妖気がひっそりと漂っていた。
苔むした鳥居をくぐると、朽ちかけた神社が静かに立っていた。
そこにかるを寝かせ、小さな小屋を作り、食べ物と水を置いた。
それからの日々、朱里は毎朝夕、神社へ通った。
かるは元気を取り戻し、朱里が来るたびに飛びつく。
その毛は柔らかく、匂いは土と草の混じったやさしい香りだった。
朱里はかるに話しかけた。
「お父様は厳しいけど、本当は優しい人。お母様は忙しいけど…きっと、私たちのために頑張ってる。樹里は…もう、本当にかわいい妹。そして、長良兄様は…私に色んな話をしてくれるの」
かるは首を傾げ、じっと耳を傾けていた。
その瞳は、すべてを理解しているように。
ある日、小さな魔物が森に現れた。
牙をむくそれに、かるは低く唸り、朱里と樹里の前に立ちはだかって吠えた。
魔物は逃げたーー今思えば、それはあの日の予兆だったのかもしれない。
そしてーー運命の夜が訪れる。
朱里が神社を訪れると、灯りが揺れ、見知らぬ人影が動いていた。
盗賊だった。しかも魔法を使う一団。
その頭目、鬼面の仮面を被った男が朱里を捕らえた。
「家老の娘か…高く売れそうだな」
刀が喉元に突きつけられ、恐怖で体が固まる。
「…助けて!」
次の瞬間、白い影が闇を裂いた。
かるだった。
小さな体で男の足に食らいつき、離れない。
「離せ!」
男の手から魔法の矢が放たれ、かるの体を貫いた。
赤い血が地面に咲く花のように広がった。
「かる!」
朱里は縛られたまま叫んだ。
かるは、なおも必死に縄を噛み切ろうとした。
だが盗賊の蹴りが飛び、かるは地面に叩きつけられる。
朱里は必死で縄をほどこうともがいた。
やっと駆け寄れた時、かるの体は冷えかけていた。
その瞳だけが、まだ朱里をまっすぐ見つめる。
「どうして……どうしてあなたが……」
かるは最後の力で、朱里の手に鼻を押し付け、尾を一度だけ振った。
そしてーー静かに、動かなくなった。
「かるぅぅぅ!」
朱里の声が森に響き渡った。
その瞬間、長良が現れた。
抜刀と魔法で盗賊を薙ぎ倒し、朱里を抱き寄せた。
「朱里ちゃん…無事でよかった…」
長良はかるの亡骸をそっと抱き上げ、朱里の腕に戻した。
「かるは……君を守ったんだ」
葬儀は静かに行われた。
父は無言で目を伏せ、母は薬草を供えながら「飼っていれば…」と唇を震わせた。
樹里は朱里の手を握り、声をあげて泣いた。
長良は黙って祈りを捧げた。
朱里はかるの墓前に膝をつき、涙の中で囁いた。
「ありがとう……かる。また……いつか会おうね」
ーーその「いつか」は、思ったよりも早く訪れた。
神シロは朱里の前で、ゆっくりと両の掌を広げた。
その手のひらに、淡い光の球ーーかるの魂が静かに漂っている。
その光は鼓動のように脈打ち、朱里の胸の痛みに呼応するかのようだった。
「朱里、この魂は……お前を守るために生き、お前を守るために死んだ。
ならば、ワシはその想いを途切れさせはせぬ」
神シロの周囲に、古代文字の光輪が幾重にも広がった。
空間が震え、星の海に波紋が走る。
低く、しかし力強い声で詠唱が始まった。
「天の彼方、常世の門よーー
今ひとたび、絆の名において開け。
生を超え、死を越え、
この魂を契約の鎖に結び直す。
契れぬ誓いの炎よ、白刃となりて降り立て!」
その言葉に呼応するように、光球が裂け、白銀の炎が吹き上がった。
朱里は思わず目を覆ったが、熱さはなく、ただ胸の奥に温もりが満ちていった。
炎の中から一歩ずつ現れたのはーー白い毛並みに銀の光を帯びた獣。
「……かる……?」
朱里の声に、その瞳がやさしく細められる。
かるは静かに歩み寄り、額を朱里の胸に押し当てた。
その瞬間、朱里の胸の奥に言葉にならない確信が宿った。
ーーこれは、もう二度と失われない絆だ。
神シロは告げた。
「召喚獣としての名を授けよう。
お前の影であり、刃であり、永遠の友ーーその名は『白刃』」
白刃は尾を一度だけ振り、朱里の手を舐めた。
朱里は涙をこぼしながら微笑む。
「……おかえり、かる」
星の海がゆっくり閉じ、神シロは静かに消えていった。
夜明けとともに朱里は目を覚ました。
枕元には、小さな白銀の光が揺れていたーーそれは、彼女だけが呼び出せる召喚獣の姿だった。
かるは再び朱里のそばに帰ってきた。
命は尽きても、絆は終わらない。
春風が吹き、桜の花びらが、白い獣の背にそっと舞い落ちたーー。
***
焚き火の音が耳に戻る。
白刃は彼女の足元に静かに横たわり、湖面に映る星空をじっと見つめている。
その存在感だけで、アカリ(朱里)の心は揺るぎないものに変わる。
「明日から、きっと大変になる。でも……私はもう、迷わない」
その言葉に、白刃がわずかに耳を動かす。
まるで「任せろ」と言っているようだった。
アカリは湖面に映る月を見上げ、静かに息を吸い込む。
仲間たちとともに、この先どんな深淵が待ち受けていようともーー彼女はもう、影のリーダーとして歩む覚悟を決めていたのだったーー。
第0幕完
お読みいただき、ありがとうございます。
第0幕完結です。
引き続き第1幕をお楽しみください。
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