黒薔薇とミツバチ
天界。
神々が辺境の国、トランザニヤの状況を注視していた時のこと。
物語はついに動き始めた。
◇(主人公のゴクトーが語り部をつとめます)◇
女将さんにもう一泊と銀貨を渡した。
結局、全然眠れず。
……ったく、朝っぱらからなんだったんだ?……。
『時の魔導具』を目を擦りながらぼんやり眺めた。
ボリボリと頭を掻いて、欠伸をひとつつく。
昨日のことを思い返し、夢だったのかな?と、ふと記憶がよぎった。
腹減ったな。
本能がそれを告げる。
だが朝食までには、時間がだいぶある。
眠気どころか、食欲まで湧いてくる自分に驚いた。
部屋を出て突き当たりの洗面所に向かう。
ペタペタとスリッパの音が、しんとした回廊に響く。
廊の窓から見える景色はまだ薄ぐらい。
僅かな隙間風は、ひんやりとした冷たさとともに、朝露の香りを運んでくる。
その風はまるで、俺の身体を弄んで笑っているかのようだ。
ぶるっ
「ヘックション!やべ、鼻水が出ちまった」
くしゃみが洗面所と回廊に響く。
まだ、朝方は冷える。
いや、あの冷たい風のせいだ。
徐々に墨色に変わっていく窓の外を眺めながら、
「村の散策でもしようか」と。
誰もいない廊下で独り言ち、部屋に戻った。
冒険者になって始めて自分で買った、大切なローブを身に纏う。
「これ、あったかいんだぜ。
それにな、大概の魔法ならこれ一枚でなんとかなるんだ。
へへ、いいだろ? なんてなッ!」
独り言が暴走。
お気に入りを羽織って宿屋を出た。
まだ朝靄が晴れてない。
辺りは薄暗く、東の空に橙が差し始めていた。
それはまるで大きな”まなこ”が瞼を開け、
こちらを見つめているようだった。
牧場の柵越しに見えるのは牛や馬、鶏たちの姿。
夜明け前ーー息も白い空気を感じる。
「ひやっとするな」
吸い込む度、懐かしいような、どこか落ち着く気分になる。
土と砂利でできた道ーー
軽妙な音を踏みしめながら、村の中心に向かって歩いた。
路地を進むと、木製の古びた看板がいくつか並んでいる。
結構な年齢の女性は、落ち葉集めなのか、住宅の前を箒でひと掻き。
気さくな感じの物腰で、その女性が俺に声をかけてきた。
「おはよう。早いね、これからダンジョンかい?」
「おはようです。 いや散歩。 ししし」
生活感が漂う中、その女性と軽く挨拶を交わした。
気を良くした俺はずんずん歩く。
「素朴な光景を見るのは、久しぶりだ」
景色を眺望し、意気揚々とつぶやく。
それだけで少し、心がやわらぐのが不思議だった。
気持ちの良い空気を吸って、さらに足を延ばす。
やがて、小さな教会が目に飛び込む。
その佇まいは簡素で飾り気は、ほとんどない。
それでも"教会”という場所が持つ、神聖かつ妙な安心感があった。
育った孤児院の『コリン教会』もそうだった。
「コリンじゃないけど……懐かしいな」
頬を緩め、ポツリと落とす。
あの頃はシスターの温かさが”唯一”のより所だった。
思い出すのは孤児院時代のこと。
教会の鐘が日暮を知らせる頃に、頼まれた採取から俺たちは帰ってきた。
孤児院の仲間と薬草の仕分けを済ませ、おやつが来るのを待つ。
いつもの恒例行事で、それが俺たちへの報酬だ。
仲間たちの表情にも笑みが溢れ、達成感とご褒美への期待が入り混じっていた。
ご褒美のおやつーー特にシスターの焼いてくれるクッキーが、俺は大好きだった。
『ゴクトー君、まだ、お祈り中よ。ふふ。そんなに頬ばると、喉に詰まるわよ。まだ、たくさんあるからゆっくり、お食べなさい。 神様に感謝するのよ……』
夢中で食べてるの見て、シスターはそう言って笑ってたっけ。
カリっとした食感とともに、卵と香草の香りが鼻に抜けるクッキー。
甘みが口の中にトロッと広がり、最高の贅沢だったんだ。
シスターの、あの時の笑顔が蘇る。
ーーベール(ヴェール)とウィンプル(頭巾)の組み合わせ、白い布で金髪を覆い、顔の輪郭は隠しているが、こちらを見る青い瞳と、艶やかに光らせる赤い唇が、いまだに頭から離れない。
「超絶ナイスボディだったしな」
思わず口から溢れた。
でも、結局、俺はシスターを泣かせてしまった。
師匠と出会って、教会を出ることにしたから。
教会でのこれまでのこと。
そりゃ頭をよぎったさ。
でも、それ以上に心は、もう師匠との冒険の旅に胸を弾ませていた。
その頃は考えられなかった。
「シスターの気持ちなんて……」
なぜか声が漏れる。
遡る記憶が脳を掠めた。
出発の日。
シスターの瞳にはうっすら涙が浮かんでいた。
『行ってしまうのね……冒険者が危険な職業なのは、わかってるつもり……
ゴクトー君が、いつまでも無事で生きていてくれることを、ここで祈ってるわ』
シスターの別れの言葉だった。
冒険者になるために、それを振り切って俺は旅立った。
「元気にしてるかな? シスター……孤児院を出て、もう十年は経つな…」
独り言ちる。
胸の奥がギュッと締め付けられ、立ち止まり群青色の空を見上げた。
静かに上がる朝日が教会の屋根に十字の黒い影を落とす。
威厳のある教会のシンボルを目にふと、感傷的になる自分を振り払った。
朝焼けが村のメンインストリートの石畳に反射し、俺の影を伸ばす。
歩く度、キュッ、キュッと、朝露で滑る靴が音を鳴らした。
しばらく歩くと視点の先に赤い点が見えた。
「ん?なんだ……?」
近づいてみる。
そこには、酒場の入り口で持たれかかっている女性が一人。
「スーピー…スーピー…」
熟睡して寝息を立てていた。
うっわ酒臭い。 酔い潰れたのか?
思いながらもじっとその女性を見た。
紅い帽子。紅いジャケット。紅いスカート。
全身を"紅”で包んだその姿は、明らかに村人ではない。
彼女の装備は『冒険者』のそれ。 一目瞭然。
ただ、問題ありだ……。
俺は周囲に気を配り、人が居ないか確認。
ヨシ、誰も居ないな。
ほっと息をつく。
こんな姿で眠りこけているとは、かなり油断し過ぎだろ。
片膝を立てる彼女のーー黒い薔薇柄の下着が、
まるでこちらに微笑むように笑った気がした。
緊張で額に汗が滲む。
いや、ちょっと待てっ!
内心思いながらもクラクラと眩暈がした。
動悸がして予感がしたよ。
あ、いつものやつだって。
「鼓動でるな!」
言いながら思わず胸を押さえた。
身体が浮いたような感覚。
ふわっと視界が歪む。
そしてーーカチッとした音が脳内に響く中、
俺は自分の”癖”の世界に入り込んだ。
【妄想スイッチ:オン】
──ここから妄想です──
『黒い薔薇』が覗いている。
見つめられた瞬間、「!!!」まさかーー
自分がミツバチになってしまうなんて、
いったい何が、そこまでに至るのかーー。
背中には小さな羽。額には二本の触覚。
尻には“チクリ”の針がある。
あれ? これって……
まさか……! 「バイオハザード」か?
「くそっ ならば……」
ブーン!
翅を素早く動かし飛び立った。
それはまるで花のバイキングのような、甘い香りに誘われる。
ピタッと黒薔薇に俺は留まり、
「これがミツバチの特権だ」と、偉そうにほざく。
ゴゴゴゴゴ……
大地が揺れたーーその瞬間。
ブシュッ!
黒薔薇の棘が俺の身体を貫いた。
まるで『ミツバチへの逆襲』でも、始まったかのように。
「っく、次はもっと……美味しい薔薇を…… 探す……ぞ…」
【妄想スイッチ:オフ】
──現実に戻りました──
「旦那! あっしにお任せを!」
『妄想図鑑」から顔をだす鼓動に、黒薔薇は掴まれ、シュッと吸い込まれるように、収まった。
その刹那、蜂の身体が、蜃気楼のように揺らぐ。
「っとおおおおーー!?」
俺は人の姿に戻り、我に返った。
「蜂になった?……なんだったんだ、あの黒薔薇?」
意識も徐々に戻ってくる。
やっぱり妄想は危険だ、と改めて痛感した。
だが、現実に戻った俺の目は、まだその『黒薔薇の下着』にピタリのまま。
顔が熱くなるのがわかる。
「……ったく、世話が焼けるな」
目をそらし、羽織っていたローブを彼女にそっとかけた。
その瞬間ーー 「んん……?」
彼女がうっすら片目を開き、微かに身じろぐ。
片膝も下げず、ただ顎を少し前に出した。
やべっ! 起きちまう!
そうっとだ、そうっと。
彼女はすぐにまた、深い眠りに戻っていく。
「ふぅ」
手が止まった俺は、ひとつ息をついた。
「これでよし、と」
気まずさを振り払うかのようにーーその場を離れる。
「うー、寒いっ! 早く宿へ帰ろう。
風邪、引いちまう……」
誰に言う訳でもない、だがそう呟き、宿へ向かって歩き出した。
冷たい風が全身を撫で、思わず肩をすくめる。
「遠い記憶の隅……。どこか懐かしい匂いがする女性だな。
風邪ひかないと……いいんだが……」
ちょっと口元が緩んだ。
***
腹を満たさなきゃな、と宿に戻り食堂へ。
ドアを開けた瞬間、賑やかな笑い声が複数。
すでに冒険者たちが、朝食をとりながら会話していた。
思わず、聞き耳を立てる。 当然だ、情報は少しでも欲しい。
「ついに20階層!運良く宝箱も見つかったしな!」
「んでも、15階層がら20階層まで10日も、かかったんだぞな、もし」
「各階層ボスには、かなり手こずったが……」
「……状態異常の魔法を使う……魔物も多かった……」
「麻痺・毒・眠り …… 動けなくって、死ぬかと思ったぜ」
マジか。 やべーな。
俺は眉を動かす。
「彼女のおかげだ。今日も待ち合わせしてるから、彼女も来てくれるだろう...」
「真っ赤な装備が目立つし……凄いスタイルだし。ガハガハガハ」
「ちょっ!ビスタス、その笑い方……気持ち悪いからやめなよ……」
「ほっとけ!」
「お前ら程々に……至宝『七星の武器』を見つけるんじゃないのかよ」
「ああ、そうだったな。今日から25階層を目指すんだぞ!飯を食ったら各自準備。待ち合わせの時間にギルドだぞ。遅れるなよ!」
「「「「 おおぅ 」」」」
新しく出来たダンジョン攻略の話。
いい情報が聞けた。
至宝ーー『七星の武器』って、そんなお宝がダンジョンにあるのか?
思考を巡らせる。
なるほど、この『冒険者』たち、着実に成果を上げているようだ。
やっぱり、ダンジョンは魅力的なんだ。
俺も朝食を黙々と口に運ぶ。
テーブルの向こうで、地図を広げて議論する彼らの姿がなんだか、眩しかった。
羨ましく思いながら、食堂を出て部屋に戻る。
俺たちって、大丈夫なのかっ?
ふと、不安に駆られた。
彼らのパーティーは五人だった。 いや、それ以上かもしれない。
それでも戦力を増やすためーーまだ誰かと待ち合わせているらしい。
アカリとジュリと俺だけ……てか、たった三人でダンジョンに臨むことになるのか?
期待と不安。 入り混じった感情が渦を巻く。
『*アイテムボックス』を開き、現在の手持ちを確認。
まず目に入ったのは『毒消し』と『麻痺回復ポーション』。
どちらも残りは一本だけ。
これでは長い探索には心許ない。
そして、もうひとつーー『眠り』と書かれたラベルが目にとまった。
眠り……?
やべぇ敵がいたら……どうするよっ!
未知の状態異常。
過去の冒険では、一度も経験したことがない。
師匠に追従してたし。
何がどうなるのか、具体的な効果さえ分からない。
ふと頭に浮かんだのは師匠の言葉。
『ダンジョン攻略には時間がかかる。長い旅路に備え、油断せず準備を整えることがーー大切なんだ』
その忠告が今になって重くのしかかる。
とにかく準備だ。
あとで魔導具屋、薬屋にも寄らないとな。
それに食料も補充しなきゃだ。
そう思いながらも身体は正直だった。
この眠気、まずどうにかしないと……。
抗えずそのままベッドへ、毛布の中に身を沈める。
柔らかな起毛が全身を包み込む。
意識はあっという間に途切れた。
今だけは夢の中で休息をーー。
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