間章 婚約者・三
一夜明けて……陽一さんがやってきた。
朝の七時。
これから異界研に出かけようという時に、丁度インターホンが鳴らされた。
どうしたものかと迷って、俺は仕方なく陽一さんを招き入れることにした。
陽一さんは無言のままリビングで座っている。
困ったことにコーヒーなんてものはないので、缶のコーラを冷蔵庫から二つ出して片方を陽一さんの前に置く。
「……仕事、いいんですか」
「休んだ。やってられるか、この馬鹿野郎」
低い声で陽一さんが呟く。
馬鹿野郎とは、またいきなりだな。
まあいいけど。
婚約者を理由も言わずに拒絶されたら、そりゃ不機嫌にもなるか。
「お前さ、シアと知り合いなの?」
「……知ってはいます。親しくはありませんけど」
「ふうん……」
俺と陽一さんが、図らずも同時にプルを開ける。
プシュ、という小気味いい音。
「お前と知り合いってことは、もしかしてシアってSWとか、そういうネタ?」
「ネタって……まあ違いますけど」
「違うのか」
陽一さんがほっとしたように胸をなでおろす。
「SWだったら嫌だったんですか?」
「んー、まあな。別に人格とか疑うわけじゃなくて、どこぞの馬鹿みたいに大怪我したりしたら怖いだろ。なあ?」
耳の痛い話だった。
どうやら藪蛇をつついてしまったらしいので、すぐに話の方向を正す。
「それで、シスターの話でしたっけ」
「シスター?」
「ああ。俺はそう呼んでるんですよ。シェルトア=スェン=ターレミス。それぞれの名前の頭をとってシスター」
まあ、容姿が容姿というのも第一にあるけれどな。
異界研の医療棟で見かけるシシターはいつも、修道服に身を包んでいる。
……過去に殺した人間に対する意思表示なのだろう。
それはいいのだが……修道服を着る他になにかしら別の意思表示の方法はなかったのだろうか。あれって一種のコスプレだろ。
「シスター、ねえ……それが姉としての意味なら俺としては嬉しいんだが……」
「普通に修道女の方のシスターですよ」
「なんで修道女なんだ……」
陽一さんもあの格好を見れば一瞬で理解すると思う。
「なあ、臣護。お前さ……シアのこと、どんぐらい知ってるの?」
「少なくとも陽一さんに都合のいい事や嘘を押しつけている、ということくらいは」
「都合のいい事に、嘘、か……マジで?」
「マジですよ」
「マジかよ……」
陽一さんが肩を落とす。
「いや、俺はいいのよ? 男なら女のそういうところを受け止める度量を見せてなんぼだろ?」
心意気は立派だが、だったらその落ちた肩をどうにかしてから言って欲しい。
「でもなあ……俺、シアに信頼されてないのかなあ。本当のこと言ってくれないなんて」
「一応、擁護みたいなことを言いますけど、陽一さんだからにではなく、誰に対してもシスターは本当のことを言えないと思いますよ。そういう類のものですから」
「でも臣護は知ってるんだろ?」
「俺は特殊ですから」
マギに関わってれば、虐殺の魔女のことなんて簡単に耳に入る。
稀代の殺人鬼。
歴代最強の征伐者。
「どんな風に?」
「さあ?」
マギや魔術に関する話は陽一さんにはしていない。
その辺りを話しても陽一さんには何もできないし、余計な心配をかけてしまうだけだから。
「……で、シアって俺にどんなこと隠してんの?」
「それ、俺から聞いていいんですか?」
聞かれるなら話してもいい。
俺は別にシスターにそれほどの恩義があるわけでもない。むしろそれなら陽一さんの方がよっぽどある。
だから、陽一さんが俺の口からそれを話して欲しいと言うなら話そう。
陽一さんが俺の問いかけに小さく唸る。
「……シアに聞く」
「それがいいでしょうね」
ま、陽一さんならそう答えるだろうと思った。
この人は馬鹿みたいに真っ直ぐな人だから。
「それじゃ、もう出てってください。俺はこれから異界研行くんで」
「まあ待て」
「……何ですか。話は終わったでしょう?」
「まずはコーラを飲んでからだ」
……そういえばコーラを開けてまだ一口も飲んでなかった。
目の前に缶があるのに何で忘れてるんだろ。
俺は馬鹿か。
俺と陽一さんがそれぞれ自分の缶を手に持って、一気にそれを飲み乾す。
咽喉に痛いくらいの刺激。
「くはぁー、この炭酸が堪らんっ!」
ちなみに俺のコーラ好きは陽一さんの影響である。
小さい頃によく遊んでもらって、その度にコーラを飲まされて若干中毒のような感じになってしまった。
「さて、臣護!」
空き缶を勢いよくテーブルに叩きつけて、陽一さんが立ち上がる。
そして……唐突に俺の顔面を殴りやがった。
「っ……!?」
とんでもない衝撃に、激痛が顔面の神経を潰し、身体が床に倒れた。背中が壁にぶつかる。
「っ、く……何すんですか!?」
「そりゃこっちの台詞だ!」
陽一さんが叫ぶ。
――床に転がった格好で。
殴られた瞬間、俺が咄嗟にその顔面に拳を叩き返したのだ。
我ながら、どんな暴力的な反射神経なのだと思う。
「鼻骨砕けたかと思ったぞ!」
「それこそこっちの台詞ですよ!」
ああ、くそ。
上唇が切れた上に、鼻血まで出てるし……。
服の袖で血を拭う。
「今のは、昨日いきなり拒絶されて傷ついたシアの分だ」
陽一さんが俺に指を突き付けて言う。
「前々から思ってたんだがな、お前はもっとデリカシーを持て! いきなり結婚は認めんと言われた彼女がどんな気持ちだったか分かるか!?」
「……自業自得でしょう」
シスターが陽一さんに全てを離して、その上でお互いが納得してるなら俺はなにも言わなかったさ。
だが隠し事をしたまま結婚だなんて、ふざけてる。
そんなことをしようとしていたんだ。俺に拒絶されるのなんて当然のことだし、そもそも向こうだって馬鹿じゃないんだから予見していたろう。
「だとしても、だ! 女に男は優しくしなきゃいけないと世界の真理で定められてんだよ!」
「どんな真理ですか」
――ああ、もう。
なんだか馬鹿馬鹿しい。
思わず笑みがこぼれた。
「もういいです。さっさと行ってください。それでしっかり話がまとまったら、その時はシスターに頭下げますから」
「……言ったな?」
ニヤリ、と陽一さんが笑む。
「ええ」
「忘れんなよ、その言葉!」
言うや否や、陽一さんが立ち上がり、そのままあっという間に玄関から出て行ってしまう。
……陽一さん。
「鼻血出したまんまですよ……」
道端で警察官に職務質問されても、俺の事は恨まないでくださいね……。
†
医療棟に入る前に携帯を確認すると、メールが届いていた。
発信者は、陽一さん。
……その文章を読むのが、少しだけ怖かった。
恐る恐る、ボタンを操作してメールを開く。
『会いたい』
ただそれだけ。
短いメール。
……なんだか、緊張して馬鹿みたいですね、これは。
苦笑が零れた。
会いたい……か。
携帯の画面を見つめたまま、私はどうしたものかと迷う。
どんな話をされるかは、大体予想できる。
それが、怖い。
私のことを、彼に話さなくてはならない、そのことがとても恐ろしい。
ずっと、思ってはいた。これは隠し切れることじゃないし、隠していていいものではない。
その点で言えば、昨夜嶋搗臣護に拒絶されたのは、いい機会だったかもしれない。
……私にとって、陽一さんとはその名前の通りの、太陽のような存在だ。
ただひたすらに輝き続ける。そんな、眩しい存在。
最初の出会いは、R・M社から招待されたパーティーだった。
パーティーと言っても、会社と会社がお互いのコネクションを持つ為に設けられたもので、そんな大層なものではなかったが。
私が呼ばれたのは、実際に現場の人間としてR・M社の医療機器などがどれほど役立つものかを広告する為だった。本当はそんなことしたくなかったが、ここで招待を受ければR・M社のご機嫌うかがいも出来るだろうという思惑もあって、それを受けた。
その会場で、陽一さんとは出会った。
陽一さんは流通関係の中小企業の社員で、そこの社長に気にいられてその会場に来ていた。
切っ掛けは、特にない。
ただ何気なくお互いに視線があって、会話をしただけのこと。
不思議なものだ。
たったそれだけの、ほんの些細な縁だというのに……気付けばそのパーティーの後も何度が陽一さんと私的に会うようになった。
それが重なって、自然と付き合って……つい先日、婚約指輪を真っ赤な顔をした陽一さんに渡された。
その時の自分は、よほど間抜けな顔をしていたのではないかと思う。
気付けば、まっすぐに私を見つめる陽一さんに、頷いていた。
何故、頷いてしまったのだろう。
陽一さんは、明るく、気さくで、仕事もそれなりに出来て……。
一方の私は、醜くて、愚かしく、ただ贖い続けるしか出来ない。
釣り合うわけもないのに。
私なんかと陽一さんが結ばれていいわけがないのに。
それなのに……頷いていた。
自覚してしまった。
自分は……本当に彼を愛しているのだと。
傲慢だ。人殺しの私が、人を愛するなんて。
醜悪だ。自分の汚点をひた隠しにする私は。
それでも、愛してしまった。
その感情を、初めてしる感情を、抑えることなんて出来ない。
……そう。
指にはめた、銀の指輪を撫でる。
私は……シェルトア=スェン=ターレミス、小暮陽一を、愛している。
だから――。
きちんと、話したい。
彼がこんな私の本当の姿を知ってしまったら、どんな顔をするのか。
恐ろしくて、不安で堪らないけれど。
それでも……話そう。
私は、メールの返信を陽一さんに出した。
ああ。仕事……サボらなくちゃいけませんね。
アースに来てから仕事をサボるなんて、初めてのことだ。
案の定だよ……!
思った以上にシスターに愛着がわいた。
……何気にシスターって主人公属性もってね?




