5.お父様とお父さんとカピ子
憂鬱な夕飯を終えた私に待っていたのは、お父様からの呼び出しだった。
お父様はいつもとてもご多忙で、朝夕の食事の時間も別々。
一度も顔を合わせない日も多かった。
なのにもう帰宅し私を呼び出すということは、婚約破棄の件について聞きつけたに違いない。
過剰なる香辛料の洗礼で下がりに下がったテンションが更に低下していくのを感じつつ、私はお父様の執務室へと向かった。
「おまえは、とんでもないことをしてくれたようだな」
入室一番、地獄の底から響いてきたかのようなバリトンボイスが出迎えた。
実の娘に向けるものとは思えない、威圧感たっぷりの重低音だが、声の主はれっきとした私の父親である。
グラムウェル公爵家当主、ガルドシア・グラムウェル。
仰々しく力強い印象を受けるお名前のお父様だが、そのお顔も名前通り、かなりの強面の持ち主である。
客観的に身内の欲目を抜いても、口髭を蓄えたその顔立ち自体は、なかなかに整っていると思う。
…………ただし、人に畏怖とプレッシャーを与えるタイプの、ありていに言えば子供が泣き出すような、そんな種類の美形なのである。
お父様には申し訳ないが、私の外見が、今は亡きお母さまに似ていて良かったと思っていた。
私とお父様との共通点は紫色の瞳だけであり、私の金の髪や顔立ちは、お母さま譲りのものなのだ。
そしてお父様はその顔立ちだけではなく、瞳は常に鋭く、まとう雰囲気もとても仰々しいお方だ。
正直、実の娘である私でもちょっと怖いし、気安く話しかけられる人柄でもなかったのだった。
「レティーシア、聞いているのか? おまえは今日自分が何をしたか、理解できていないのか?」
「………失礼しました、お父様。婚約破棄と国外追放の件でしたら、まことに申し訳ないと思っております」
あの時あの場では最もマシな選択肢だったとはいえ、王太子の理不尽な要求を呑むという、公爵家の看板に泥を塗るような選択でもあったのだ。
お父様がお怒りになるのも当然だし、そもそも私と王太子との不仲が遠因である以上、私は謝るしかない身なのである。
無言で話の続きを促すお父様へ、本日の婚約破棄の詳細を報告していく。
話が進むごとに、お父様の眉間の皺が深まり、全身から黒いオーラが放たれるような幻覚が見えた。
「つまりおまえは、聖女を自称するぽっと出の小娘に、フリッツ殿下の婚約者の座を奪われたということか」
「…………その通りです。お父様が結んでくださった婚約を破談させてしまい、申し訳ない限りです」
頭を下げると、胸の奥がじくじくと痛んだ。
そもそも、私が王太子の婚約者として相応しくあらんと努力していたのは、元はお父様のためである。
未来の王太子妃として恥ずかしくない知識と教養を身に付け、フリッツとの仲を深められたら。
なんと立派な娘だと、そうお父様も褒めてくれるのではないかと淡い期待を胸にして、五年間がむしゃらにお妃修行を受けていたのである。
そんな私にとってお父様からの失望と叱責は、王太子から婚約破棄を突き付けられた時よりも、胸の深い部分が疼き痛むものだった。
「頭をあげろ、レティーシア。おまえは公爵家の令嬢だ。矜持を胸に、しっかりと背を伸ばし立っていろ」
「………はい、お父様」
「もはや国外追放が覆せない以上、おまえが赴くにふさわしい国を、私は探さねばならなくなったのだ。これから更に忙しくなるだろうし、しばらくはおまえと話す機会もなくなるはずだ」
「ご負担をおかけしてしまい、重ね重ね申し訳ありません………」
お父様へと向ける謝罪の声は、本心からのものだった。
…………理由は、お父様の目元だ。
眼光鋭く吊り上がった瞳は元からだが、今はうっすらと白目が充血し、目元の影が濃くなっている。
おかげで、お父様のお顔は更に凄みを増しているわけだけど…………間違いなく過労の現れだ。
土気色の顔をした同僚に囲まれていた社畜時代を思い出した今、確信をもって断言できるのである。
「………この程度、当然の行いだ。私の娘であり公爵令嬢たるおまえを、みすぼらしい目にあわせるわけにはいかないからな。………フリッツ殿下の勘気を被った以上、おまえは学院には顔を出すべきではないというのはわかるな? 行く先が決まるまで、この屋敷の中で大人しくしているといい」
「わかりました。そうさせていただきますね」
「…………王太子妃としての教育を、これ以上お前がこなす必要も無いのだ。今まで時間が無く目を通せなかった書物などがあったら取り寄せさせるが、屋敷での過ごし方に関して、何か希望はあるのか?」
「希望、ですか…………」
少し考え込む。
……………どうせなら、玉砕覚悟で頼み込んでみることにしよう。
「お父様、でしたら私に、厨房に立ち入ることをお許ししていただけませんか?」
「厨房に? 何をするつもりだ?」
「料理を作りたいのです。もちろん、これが非常識な申し出だとわかってはいるのですが………。駄目でしょうか?」
基本的にこの国の貴族階級の女性は、厨房に立ち入らないものである。
ちょっとした茶菓子や紅茶の準備ならともかく、料理をする貴婦人は滅多にいなかった。
だからこそ私もダメもとで、とりあえず希望を口にしてみただけだったのだが、
「わかった、許可しよう」
「え?」
あっさりと了承され、つい声が出てしまった。
「お父様? 本当によろしいのですか?」
「なんだ? ただの気まぐれか何かで、本気では無かったのか?」
「………いえ、違います。料理をしてみたいと思っていたところなので、とても嬉しいです」
「嬉しい、か………。浮かれるのは結構だが、くれぐれも外部の人間の目にはつかないよう気をつけろ。火や刃物で、体に傷をつけるのも論外だ。せいぜい注意し、無聊を慰めているといい」
重低音でそう告げるお父様に、私は心からの感謝をささげると、部屋を出た。
これからお父様は忙しくなるのだ。長居することは控えたかったのである。
扉の外に控えていたルシアンに付き添われ自室へと帰ると、私は心の内を吐き出した。
「まさか、許可が下りるなんてね…………」
今までのお父様との関係を考えると、嬉しいのと同じくらい信じられない気持ちだった。
どんな風の吹き回しだろうか?
「お父様、婚約破棄された私のことを、心配してくれてたのかしら……?」
終始しかめ面だったし、言葉遣いも堅苦しかったが、意訳すれば『体に傷をつけないよう気をつけろ』など、こちらを思いやってくれたような言葉がチラホラあったが……
「………それは無いか………」
なんせお父様、全く笑っていなかったのである。
………今だけではない。
おおよそ物心ついた時から、私はお父様の笑顔というものを見たことが無かった。
………元々お父様は、滅多に笑わない人だと聞いている。
それでも、三人いる兄たちが小さい頃は、時たま笑顔を見せていたはずなのである。
そんなお父様が、私へと笑いかけない理由は、今は亡きお母さまにあるはずだ。
我が家は4人兄弟であり、私は長女かつ末っ子だ。
お父様とお母さまは貴族の常として政略結婚だったが、仲睦まじい夫婦だったらしい。
………らしい、というのは、私がお母さまの姿を覚えておらず、肖像画でしか知らないからである。
私を産んだ後、産後の肥立ちが良くなかったせいで、お母さまは儚くなってしまっていたのだ。
愛していた妻の死と入れ替わりに、この世へ生まれ落ちたのが、お父様にとっての私なのだ。
………だからこそ、お父様も私を可愛がってくれないのだろうと、私は半ばあきらめていた。
理不尽に怒鳴られたり、虐待されたことは決してなかったが………同様にして、親子らしい交流もほとんど無く、いつもどこか距離感のある対応だったのだ。
もちろん、お父様は忙しい身の上で、私に関わっている時間が十分に無かったというのもあるが……。
それにしたって、一度もお父様の笑顔を見たことも無い以上、愛されているとはとても思えなかったのである。
公人として、貴族としてのお父様のことは尊敬しているが、親子としては壁がある。
私を労わる言葉はあれど、それは公爵家当主としての義務感からくるものだとしか思えないのが現状だ。
「……前世のお父さんとは、いろんなところがあべこべね………」
今世の父はお父様。
前世の父はお父さんと、私はそう呼び分けている。
お父さんはよく仕事の愚痴を吐いていて情けないところはあったけど、子供の頃はいろんな場所に連れて行って遊んでもらっていたし、成人してからも良好な関係を築けていたと思う。
……お父さん、最近お腹が出てきて気になっていたけど、ダイエットちゃんとできたのかなぁ。
事故現場に置き去りにしてしまった柴犬のジローのことも心配だが、両親の健康も気がかりだった。
転生してしまった以上、私にはもうどうしようもないとはいえ、やはり気になるものは気になった。
前世の私にはしっかり者の弟、智也がいたから、彼が両親を支えてくれることを祈るしかない。
「ん………?」
小さな引っ掛かりがある。
違和感の正体はなんだろう?
弟の智也?
弟がどうしてこんなに気になって――――――――
「違う………」
ふいに思い当たる。
名前だ。
弟の下の名前は覚えている。お母さんとお父さんの名前も覚えている。親友の名前や、小学校の時の担任の先生の名前だって思い出せるけど――――――――
「『わたし』の名前は、何…………?」
背筋に氷を押し当てられたように。
慣れ親しんだはずの前世の名前を思い出せないこと。
そして、今の今までその事実に気づけなかったことに、私は悪寒を抑えられなかった。
まるでそこだけ、虫にでも食われてしまったかのようで。
苗字も名前も、全く思い出すことが出来なかったのである。
「なにこれ………? 転生の影響………?」
トラックにひかれ、気づいたらこの世界に生まれ変わっていたのだ。
神様やそれっぽい存在に会った記憶は無いし、特別な使命やらなんやらを授けられた覚えも無い。
だが、この虫食いのような欠落は、転生の影響としか考えられなかった。
一度気づいてしまえば、不自然という他ない状態だ。
『私』は『わたし』の名前を追い求め、頭の中をひっくり返した。
思い出す。思い出す。思い出せ。
あだ名は何だった?
小中高と、わたしにはあだ名で呼ばれていた記憶があるはずだ。
だというのに、そのあだ名が何であるか、本名への手がかりとなるせいかどうしても思い出せないでいて。
思い出せ思い出せ思い出せ―――――――
―――――――カピバラ。
「はい?」
脳内に浮かんだ場違いな単語に、瞬間思考がフリーズした。
すると思い出す、小学生低学年の時の記憶がある。
『〇〇ってさ、のんびりまったりしてて、カピバラみたいだよね』
『こう、普段はぼーっとしてるけど、やる時はやる素早く動けるカピバラってやつ?』
わたしのことを『カピ子』と呼ぶ、級友の姿を思い出した。
カピバラに似ているからカピ子。やる時はやる素早く動けるカピバラ…………
「ぷっ、なによそれ…………」
あまりに間抜けな響きに、唇から苦笑が零れ落ちた。
前世の私、『カピ子』かぁ…………。
そう思い出した途端、なんか色々と楽になったというか、肩の力が抜けていくのがわかった。
………本名や、本名をもじったであろうあだ名を思い出せない以上、悩んでいても仕方ないのだと思う。
転生の事情とか、気になることはいくつもあるが、今私が考えてもどうにもならない気がするのだ。
なんせ私、前世はカピ子というあだ名をつけられる程の、マイペースで平凡なOLだったのだ。
公爵令嬢として国の行く末を考えてみたり、お父様との関係に悩んでみたりもしたけど………。
やっぱり私は本来、いつまでもマジメに悩むことには向いていない人間だと思うのだ。
日本のOLと、異世界の公爵令嬢。
全く違う性格のようで、どちらも私なのだろうと、そんな確信があった。
記憶が蘇ったのは今日だったが、大本の人格は同じなのだと感じたのだ。
だったら今の私は、もう少し肩の力を抜いてもいいのかもしれなかった。
未来の王太子妃として、そして公爵令嬢として、ずっと気を張っていた毎日だったのだ。
もう少しだけ自由に、自分の好きなように生きても許されるはずと思いたかった。
「…………とりあえず、寝ましょうか………」
今日は色々あったのだ。
しっかりと寝て体を休めて―――――――――
―――――――――――美味しい料理を作ってみようと思った。




