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3-53.無類の完成度

 カラオケ勝負開始から程なく、先陣を切った淳也に続いて三人程が歌い終えた時点で、遥はいよいよ自分の順番を目前に迎えていた。

「ついに遥ちゃんの歌声が聞けるんだねー!」

 足のしびれから回復して遥の左隣にピッタリ寄り添って座っている美乃梨は、嬉しそうに瞳をキラキラと輝かせながら期待に胸いっぱいといった感じだ。

「カナ、ごめん…、頑張って…!」

 斜め向かいに席を移している沙穂が謝罪と共に声援を送って来たその意味はつまり、既に順番を終えている自分の結果が芳しくなかったからである。沙穂の歌はそつが無く、点数自体は淳也を上回る物だったのだが、一桁台の数字のみで勝負するという今回の変則ルールに置いては勝利する事が出来なかったのだ。

「が、がんばりゅ!」

 マイクをギュッと握って沙穂の声援に応えた遥は、若干の緊張で言葉を甘噛みしながらも、意外と勝負に対してはそれ程悲観的になってはいなかった。沙穂が負けてしまった事は確かに逆風と言って良いが、その結果は図らずも歌の上手い下手がこの勝負には関係ないのだという事実をもって遥を勇気付けてくれていたのだ。

「で、遥は何歌うんだ? ブラインドレッグシンシティあたりか?」

 淳也が心当たりとして上げたそのアーティストは、遥が昔から愛好しているオルタナティブ系のロックバンドで、確かに男の子だった頃はカラオケに行くと良く歌っていた。ただ、遥が今回の勝負に際して選んでいた楽曲はもっと別の物で、更に言えば過去には披露した事の無い物だ。

「今のボクがブラレグ歌えると思う…?」

 遥が若干遠回しにその選曲を否定すると、淳也はその意図を汲み取って「それもそうか」と肩をすくめて納得の頷きを見せる。ブラインドレッグシンシティは力強い男性ボーカルのバンドで、曲調も総じて激しい物が多い為、今の遥がそれを歌うのは確かに無理がありそうだと淳也は理解したのだ。勿論歌って歌えない事は無いものの、遥はただでさえ自身の歌声に対して多大なるコンプレックスがあるので、不釣り合いな曲を歌ってそれを際立たせる様な真似は避けて当然である。

「カナちゃんの声質だったら牧村有希まきむらゆきとか合いそう!」

 楓の上げたアーティストは所謂アニソンシンガーと呼ばれる部類の歌手だが、そちら方面に明るくない遥がそれにピンと来るはずもなく、勿論今回選曲しているのもそれでは無い。

「おっ、そうこう言っている内に始まるぜ!」

 葛西智一が上げたその声の通りに、カラオケのモニターがそれまで映し出していた最新曲のインフォメーション画面からゆっくりと暗転して、これから遥が歌う曲へと切り替わっていった。

「へー、KINAKOの『Thank You』かー、懐かしいなぁ」

 画面に表示された曲名とアーティスト名を読み上げた鈴村祐樹がそんな反応を見せたのは、その曲が三年程前に流行っていた物だからだろう。遥もその当時に気に入って良く聞いていた曲なのだが、KINAKOは高音域に定評のある女性シンガーなので過去にカラオケで歌った事は無く、これは女の子になった今だからこその選曲だった。因みに、三年間時間をスキップしている遥にとって、それは懐メロでもなんでもなく比較的最新のヒットソングである事は若干の余談だ。

「さて、どんな歌声を聞かせてくれるのか楽しみだなぁ」

 淳也が少しばかり意地悪くそんな煽りを入れて来たのと、画面に表示されていた曲のタイトルがフェードアウトしてイントロが流れ始めたのはほぼ同時だった。

「うぅ…」

 淳也の余計な一言で遥の中では明らかな動揺と緊張が俄かに高まってゆくが、勿論ここまで来て今更後に引く事等できはしない。今ここで歌わない事は即ち、淳也のスマホに例の恥ずかしい写真が今後も残り続ける事と完全に同義なのだ。勝負に勝てる保証はどこにもありはしないが、それでも可能性があるならば遥がそれに挑まない理由は無い。

「よ、よしっ…」

 使命感に推されて何とか気持ちを切り替えた遥は、片手で握っていたマイクにもう一方の手も添え、間もなくやってくる歌い出しに向けて呼吸とリズムを整えてゆく。そして、いよいよその時が訪れ、画面に表示された歌詞が色づいたその瞬間、遥はスッと吸い込んだ息を旋律と言葉に代えて歌声として解き放った。


 KINAKOの「Thank You」はタイトル通りに感謝の気持ちを綴りながらも、その裏に離別をほのめかせる少し切ない情感的なスローバラードだ。それを歌い上げる遥の甘く透き通った歌声が少しチープなカラオケの伴奏と共にスピーカーからゆったりと響き渡って、それが室内の空気を柔らかに満たしてゆく。

 遥が歌い出してからしばらく、一同はそれに聞き入る様に静まり返っていたが、丁度一番が終わって間奏に入った所で楓が感嘆の声を上げるのが聞こえて来た。

「す、すごい…」

 眼鏡の奥で瞳をまん丸にしている楓が思わずそんな言葉を口にしたのは、遥の歌が驚嘆に値するほどに素晴らしい物だったから、という訳では無い。

「これは…想像以上ね…」

 続いて沙穂が洩らしたその呟きも、意味合いとしては楓と同じ物で、間違っても遥の歌が想像以上に良かったという事では無かった。

 そもそも遥の歌は、全体を通して音程が非常に微妙で、感情表現などは皆無と言って良い程の酷い棒読みでもあり、技術的な面から行くと間違いなく下手な部類だ。しかし、だからと言って沙穂と楓がその下手さに驚いたのかと言えばそれもまた正確では無い。

「なんつうか…お子様感ぱねぇ…」

 淳也が半ば呆れた顔で述べたその感想こそ、遥の歌が一体どういった物であるかを端的に言い表していた。

 詰まるところ遥の歌は、本人がコンプレックスにしているその甘い声質と、絶妙に調子外れな歌唱力が相まって、正しく幼女が無邪気に唄っているかの如くだったのだ。そのある意味では無類の完成度を誇る歌の前では、最早上手いか下手か等という問題を語る事はナンセンスですらあり、事実この場にそれを論じようとする者は一人もいない。それどころか、それを聞き苦しいと思った者すらもこの場には只の一人もおらず、むしろ一同は大いに和やかな気持ちになっていた。

「か、かわいいぃぃ…」

 その余りの愛らしさに美乃梨などはだらしない顔で完全に頬を緩み切らせて、今にも口元から涎すらたらしそうな勢いである。遥は普段自分に向けられる「可愛い」という単語を幼さに対する評価であると勘違いしがちだが、今回に限って言えばその認識で何一つ間違ってはいない。

「姉貴んとこの娘が歌うと丁度こんな感じだわぁ」

 葛西智一は姪っ子を引き合いに出して妙な感心を見せるが、その子の年齢については余り深く追求しない方が遥の精神衛生上得策だろう。

「この曲結構暗い内容で僕あんまり好きじゃなかったけど、遥ちゃんが歌うと何か良いねー」

 鈴村祐樹がそれを好意的な意見として述べているのだとしても、何故そう感じたのかを考えると遥がそれを喜んでいいのかはかなり微妙な所だ。

 唯一伊澤仁だけは具体的な感想を控えてはいるものの、内心で思っている事は他の面々と概ね同じような物だったらしく、その証拠に何とも言えない生暖かい眼差しを見せていた。

 そんな一同の反応を前にした遥は、「だから歌いたく無かったのに」と、内心で後悔する事頻りだったが、そうこうしている内にも間奏を終えた曲は間もなく二番の歌い出しだ。

「二番も期待してるぜー!」

 あからさまな淳也の煽りに、遥は今直ぐマイクを放り出してこの場から逃げ去りたい衝動にかられながらも、勿論実際にはそんな事が出来る訳もない。今ここで歌う事を止めたところで今更その歌に対する評価が覆る事は無いし、何よりリタイア等しようもなら試合放棄となってそれこそ只無駄に恥をさらしただけで終わってしまうのだ。

「もぉ!」

 結局、遥は半ばヤケクソ気味になりながらも、淳也の言う「期待」通りに、引き続きその愛らしい幼女の歌声で一同を和ませ続けるしかなかった。


 周囲からの不名誉な評価を受け、その羞恥心が最高潮を迎えながらも、遥はこの勝負に勝つのだという強い意志を持って、挫けず、諦めない。そして、遥は遂に歌唱部分を全て歌いきると、まだアウトロが流れている最中にも構わず、取り落とす様にマイクを机の上に転がして、自身はぐったりとしてソファーにもたれ掛かった。

「はふぅ…」

 遥に歌の余韻に浸っている余裕や、無事歌い遂げた事に対する達成感などはなく、今は唯々著しい精神的な疲弊があるばかりだ。

「いやぁ、良い物聞かせてもらったわぁ」

 淳也は拍手と共に賞賛の言葉を贈ってくるが、その表情はまるで新しいおもちゃを見つけたとでも言わんばかりの邪悪な笑顔で、遥としては全くもって素直には喜べはしない。

「もう二度と人前で歌わないもん…」

 遥が頬を膨らませてプイっと左側を向くと、そちらでは美乃梨が緩み切っただらしない顔をより一層の物として、その表情は今まで見た事も無い程の崩壊具合だった。

「遥ちゃんの歌、凄く可愛かったぁ…、向こう半年分の遥ちゃん成分を補充で来た気がするよぉ」

 それは大変結構な事だが、そこまでの幼女ぶりだったのかと思うと遥としてはひたすらに落ち込むばかりである。

「か、カナちゃん、本当に可愛かったから全然大丈夫だよ…?」

 そんな事を言われても、遥的には何一つ大丈夫では無いので、楓の気遣いは傷口に塩を塗り込まれている様な物だった。

「あー…、カナ、点数出るよ」

 沙穂のその呼びかけで、遥は恥ずかしい思いをしてまで一曲歌いきったそもそもの目的を思い出してハッと我に返る。全ては歌う事よりも恥ずかしい例の写真を淳也のスマホから無き物にする為で、その肝心の結果がこれから明らかになるとなれば、ここでむざむざ落ち込んでばかりも居られない。

「そうだ、点数!」

 息を吹き返した遥が勢いよく身を乗り出してモニターの方へと目を向ければ、そこでは丁度曲のPVから採点画面へと表示が切り替わった所だった。

「さて、遥の運命や如何に?」

 淳也の大袈裟なそんな口上の直後に、タイミングよくスピーカーから軽快なドラムロールの音が流れだし、画面上では三桁の数字が勢いよくスピンを開始する。

「これだけ頑張ったんだから、せめて勝たせて…!」

 遥が両手を胸前で組んで、正しく祈る様にその結果を見守る中、画面上でスピンする数字は徐々にそのスピードを落としてゆき、そしてついにその点数が明らかになった。

 スピーカーから鳴り響いた賑やかなファンファーレ。モニター上に表示された三桁の数字。それこそは遥が恥を忍んで披露した幼女過ぎる歌唱に対する評価点であり、淳也の言葉を借りるのならば、運命を決定づけるフォーチュンナンバーだ。泣いても笑ってもその結果こそがすべてであるがしかし、そこに表示されていた数字は思わず目を疑う様な信じられない物だった。

「えっ…と…機械の故障…かな?」

 他の誰を置いてもその結果が信じられなかった遥自身が思わずそんな疑問を口にしたのも無理はない。遥の歌唱に対してカラオケ機器が付けたその評価点は、左から棒が一本に丸が二つという非常に潔い形の物で、つまりそれは最高評価である事を意味する100点満点に他ならなかった。何故そんな点数が出たのかはこの場にいた誰しもにとって大いなる疑問であったが、ともかくそれが遥の歌唱に対してカラオケ機器が下した裁定である事だけは疑いようのない事実だ。敢えてその点数の根拠を上げるとするならば、遥の歌はリズムに関しては比較的正確で、また身体が小さい割に声量がしっかりしていたからだろうか。

「すげぇー、俺人生で初めて見たかもしれねぇ」

 葛西智一がそうであるのと同様に、遥だってそんな点数は初めて見るし、それが自分の物であるなんて事は到底信じがたい、というよりも信じたくない。

「この採点機能、ロリコンなのかなー」

 鈴村祐樹は人畜無害そうな顔で中々に失礼な事をのたまっているが、遥は最早それに腹を立てたり機嫌を損ねたりしている場合では無かった。

「えっ…? だ、だって…えぇ…?」

 遥自身、自分の歌がお世辞にも上手い物で無い事はそれこそ百も承知で、満点評価などは望むべくもない物と思っていたし、またそれを望んでもいなかったのだ。

「お、お前…、ボウリングの時と言い、今日は持ってんなぁ!」

 その余りにもな結果にこらえきれなくなった淳也は、遂にお腹を抱えて笑い出したが、遥にとっては到底笑い事で済まされるような事態では無い。

「あ、あの…、これって…、やっぱりボクの負け…なの…?」

 それは最早聞くまでもない質問で、いくら最高評価の100点満点と言っても、一桁台の数字のみで対決する今回のルール上はただの0点でしかないのだ。それは誰も下回る事が出来ない正真正銘の最低点であり、既に沙穂との勝負に勝利している淳也は当然の事ながらこれを上回る点数を記録済みである。

「せ、せっかくの満点なんだから…特別にボクの勝ちって事には…」

 そんな計らいがあっても良いのではないかと遥は淡い期待を抱くも、やはりというべきかそれを認める様な淳也ではない。

「まぁ、結果は結果、ルールはルールだ! お前の負けって事で、写真の消去は諦めてくれ!」

 笑いすぎて涙目になっている淳也が殊更おかしそうに敗北を突きつけて来ると、遥はその無情なまでの現実を前にバッタリとテーブルに突っ伏してしまった。

「こんなのあんまりだー!」

 丁度遥が倒れ込んだ先には先程まで使っていたマイクが転がっており、スピーカーを通して部屋いっぱいに響き渡たったその叫びは、廊下や隣の部屋にまで届いて他のカラオケ客達を少しばかりギョッとさせたという。

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