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3-50.ラストチャンスとラストショット

 ボウリングを開始してからおよそ一時間半、早くもゲームは最終フレームを迎え、後は遥が投げる最後の一投を残すのみというところに場面は差し掛かっていた。

「はぁ…」

 ボールを両手で抱えたまま中々最後の一投を投げられずにいる遥は、天井からぶら下がるモニターに表示されたスコア表をチラリと見やって大きく溜息を付く。

 そこに記されている遥のスコアは、数字よりもガーターを示す「G」の一文字の方が多いくらいで、言うまでも無く個人成績ならば現状ブッチギリの最下位だ。それは例えこれから投げる残された最後の一球をストライクで飾ろうとも覆る事の無い確定事項なのだが、その一方でまだ決していない事もある。

「はるかちゃーん! 無理しないで―! 今まで通りでいいんだよー!」

 黒組のベンチから美乃梨が送ってきたそれは、声援というよりもどちらかと言えばヤジに近く、間違っても遥が最後の一投を有終の美で飾る事を願う物では無い。それもその筈、美乃梨のペアは現在暫定一位の成績をマークしているのだが、これから最後の一投を行う遥のペアとは何と僅か一点差なのだ。つまり、もしここで遥が二本以上のピンを倒せば、最終成績で美乃梨のペアを逆転して優勝を掻っ攫ってしまうのである。

 個人成績ブッチギリ最下位の遥が優勝争いに加わる事になろうとは、本人を含めて誰も予想し得なかった事だが、どうしてそんな事になっているかと言うと、その要因は言うまでもなく一つだった。

「はぁ…」

 遥はモニターに映し出されている自分のスコア表からそのすぐ上に目を向け、そこに記載されている驚くべきハイスコアを確認して再び大きく溜息を付く。殆どの枠を三角形が向き合うマークで占められたそのスコア表はパートナーである伊澤仁の物であり、これこそ遥が美乃梨の優勝を脅かすに至っている要因だ。

「はぁ…」

 三度溜息を洩らした遥は、実に複雑な心境でベンチの方へチラリと振り返る。

 遥は賞品になっているケーキバイキングには興味がないので、本来ならば勝敗の事など気にせず、さっさと投げてこのゲームを終わらせている筈だったがしかし、今はそうも言って居られない。

 伊澤仁が折角頑張ってくれたのだからそれに応えたい、という気持ちも勿論ない訳では無いが、それよりも遥にはここで勝負を投げられないもっと別な理由が有った。

「カナちゃーん、優勝したらフランドール一緒に連れてってね―!」

「カナぁ、ケーキバイキング楽しみにしてるんだから―! 最後くらい良いとこ見せなさいよー!」

 真後ろにある紅組の待機ベンチと、黒組の待機ベンチからそれぞれ送られて来たこの声援こそが、遥がここで勝負を投げ出せない理由に他ならない。遥は既に優勝争いから脱落してしまっている沙穂と楓の二人から、憧れのケーキバイキングへ一緒に行くという夢を託されてしまっていたのだ。

「むぅ…」

 自身はいくら興味が無いとは言え、それが沙穂と楓の二人によるたっての願いともなれば、当然の事ながら遥は性格上これを無視できない。幸い、と言っていいかどうかは微妙な所だが、淳也の用意しているケーキバイキング無料招待券は、まるで謀ったかのように三名まで利用可能である事が現時点で明らかにされている。

 そんな訳で、遥は一応の優勝を目指してこの最終フレームに臨んではいるものの、一投目は安定のガーターを既にスコア表へ記録済みで、泣いても笑っても次の一球が沙穂と楓の夢を叶えてあげられるラストチャンスだった。

「遥ぁ、悩んでたって別に上手くはなんねぇぞー、もうサクッと投げちゃえよー」

 淳也が待ちくたびれた様子でそんな尤もなヤジを飛ばして来るが、遥だってそんな事は言われなくたって勿論分かっている。

「たった二本だよー、普通に投げたらいけるよー」

 これは鈴村祐樹の送って来た声援だが、絶望的な運動神経と壊滅的な身体能力を有する遥にとって、そのたった二本を倒す事は全く容易ではない。

「気合でなんとかなるってー!」

 この全然根拠のない精神論未満の声援は、遥を応援する事は立場的にも局面的にも憚られるはずの葛西智一による物である。恐らく葛西智一は余り深く考えず周囲のノリに乗じているだけだろうが、もしこれが遥にプレッシャーを与える為の作戦なのだとすれば、その効果は覿面だ。

「あぅぅ…」

 一同の声援によって無用にプレッシャーを与えられてしまった遥は、くるりとレーンに背を向けて堪らずベンチの方へと一旦逃げ戻ってゆく。遥がそれから向かった先は、小学校からの友人である淳也の元でも、高校復学以来いつも一緒に行動している楓の元でも無く、パートナーである伊澤仁の元だった。

「伊澤さん…ボク、どうしたらいいでしょう…?」

 両手でボールを抱えたまま伊澤仁の元へと駆け寄った遥は、アドバイスを求めて若干の涙目で懇願する。

「ぼ、僕?」

 伊澤仁は一瞬これにギョッとした顔になって表情を引きつらせたが、それを悟られまいとするかの様に素早くベンチから立ち上がって、遥をレーンの方へと向き直らせた。

「そ、そうだなぁ…、ボールの重さに振り回されて上手くコントールが定まってない感じだから、投げるっていうより置いてくる感覚で、レーンの真ん中、あの辺りでボールを放すと良い…かも」

 遥は背中越しに手振りと指先だけを使って要点を説明してくる伊澤仁のアドバイスに耳を傾けながら、確かにそれならば自分でも何とかできそうだという希望を見出して表情をパッと明るくする。

「伊澤さん!」

 その大きく愛らしい瞳をキラキラと輝かせながら伊澤仁の方へ向き直った遥は、感謝の気持ちからお辞儀をしようとするがしかし、その上体には重量物を抱えたままだ。

「ありがとうございま―っ!?」

 案の定、体幹の弱い遥は、お辞儀した拍子に抱えていたボールの重みでバランスを崩してそのまま前へとつんのめってしまう。

「か、カナちゃん!」

 それまで伊澤仁と遥のやり取りをニヤニヤしながら見守っていた楓もこれには慌ててベンチから立ち上がり、淳也もまた同様だ。

「遥!」

 楓と淳也はそのまま遥の元へと駆け寄ろうとしたが、二人がそこへ辿り着くよりも早く、正面に居た伊澤仁が両手でその小さな身体をしっかりと受け止めていた。

「っと…、気を付けてね…?」

 伊澤仁は遥の身体をゆっくり安定する態勢にまで押し戻してから、困った様な顔で苦笑する。

「いざわさん、ありが―」

 遥が再びお礼の言葉と共についお辞儀しかけると、今度は態勢を崩してしまう前に肩を掴んでいた伊澤仁の手にグッと力がこもった。

「うん…だから気を付けてね?」

 同じ失敗を言われた側から繰り返しそうになった遥は、流石の気恥ずかしさからこれには堪らず赤面だ。

「あぅ…」

 遥は出来る事ならば今直ぐ顔を覆いたい気分だが、両手でボールを抱えているのでそれもままならない。

「遥…お前はどんだけ属性増やすんだよ」

 淳也が溜息交じりに口にしたその言葉が意味するところは、遥の理解が及ばない物だったが、楓の方は大いに納得という様子で真顔になってこれに頷いていた。

「ドジっ子属性ですね…分かります」

 ここでようやく何の事か理解した遥は、これに反論したい気分満載ではあるものの、迂闊も過ぎる失態を演じたばかりなので赤い顔で頬を膨らませるのが精一杯である。

「まぁ、ドジは今に始まった事じゃないけどねぇ…」

 そんな事をボソッと呟いたのは、いつの間にか直ぐ傍までやって来ていた沙穂だった。楓と淳也が慌てた様子で遥の名前を呼んだので、何事かと様子を見に来たのかもしれない。そして、沙穂が来ているくらいなので、遥の事を誰よりも気にかけていると言っても過言ではない美乃梨も当然の事ながら直ぐ側、それも真後ろにまでやって来ていた。

「いつまで遥ちゃんに触ってるんですか! 早く離れてください!」

 美乃梨はそう言い放つなり遥を後ろから抱き込んで、伊澤仁の元よりその小さな身体を引きはがす。

「み、美乃梨!? ちょっ! やめて!」

 抵抗しようにもやはり両手でボールを抱えたままの遥には、抗議の声を上げるのが関の山だ。

「ははっ…仲が良いんだねぇ…」

 伊澤仁は美乃梨のキツイ言い様を別段怒りもせず、それどころか遥が引き取られた事にほっとした面持ちすら見せていた。

「女の子同士のスキンシップって華があっていいよねー」

 そんな呑気だか不穏だか微妙な感想を黒組のベンチから述べて来たのは鈴村祐樹だ。

「いいぞ! もっとやれ!」

 続けて葛西智一が嬉々とした顔で煽って来ると、それならと言わんばかりに美乃梨は腕にグッと力をこめて密着度を高めて来る。

「うにゃー! 美乃梨はなして―!」

 遥は無駄と知りつつ身じろぎして脱出を試みるも、動いた分だけ後頭部に当たる美乃梨の控えめな胸の感触が強調されるばかりだ。

「こういうのは美乃梨が優勝したらって約束でしょー! だから今は放してー!」

 それは抜け出したい一心から出た言葉だったが、それを耳にした美乃梨は器用に腕の中で遥を反転させて自分の正面へと向き直らせた。

「あたしが優勝なら、遥ちゃんをギューッしても…いいのぉ?」

 後半だらしなく頬を緩ませながら念を押して来る美乃梨に、遥は早く解放されたい一心でコクコクと頷きを返す。

「う、うん…ゆ、優勝したら…ね?」

 淳也のみならず本人からも直接約束を取り付けた美乃梨は満面の良い笑顔になって、ここでようやく腕を解いて遥の身体を解放した。

「はぁ…」

 自由の身になった遥はほっとして安堵の溜息を付くも、それもつかの間、美乃梨が俊敏な動きで再び背後に回り込んでくる。

「よぉし、それじゃあ直ぐ投げよう! 早く投げよう! そしたら後で思う存分ギューってしちゃうんだからねー!」

 既に勝った気でいる美乃梨は一刻でも早くその時を迎えるべく、アプローチに向って遥の背中を押す。

「ちょっ、言われなくても投げるから押さないでー!」

 遥は堪らず抗議するも元々大した距離ではないので、そうこうしてる間にもその立ち位置は既にアプローチの真ん中だった。

「遥ちゃん! 頑張らないでね!」

 遥を誘導し終えた美乃梨はそんな妙なエールを残して、スキップする様な軽快な足取りで黒組のレーンにまで下がっていく。

「おっ、ようやくやっと最後の一投かぁ」

 遥が位置についた事を認め、淳也が誰に言うでも無くそんな呟きをぽつりと漏らしたのが聞こえてきた。

 淳也には別段他意は無かったが、それでも遥が再びプレッシャーを覚えるには十分で、ともすればまた伊澤仁の元へ逃げ戻りそうになる。

「うぅ…」

 ただ、ここで逃げ出しても根本的な解決にならない事は遥も百も承知で、結局のところ最後の一球を投げてゲームを終わらせる以外に、そのプレッシャーから解き放たれる方法は存在していなかった。

「よ、よしっ…」

 いよいよ覚悟を決めた遥は、伊澤仁のアドバイスを頭の中で反芻しながら、レーンの奥に並ぶピンと真っすぐに対峙する。

「カナ…!」

「カナちゃん…!」

 沙穂と楓が祈る様に、そして他の面々が固唾を呑んで見守る中、遥は遂に最後の一投へと向かって駆け出した。

「とーりゃぁー!」

 遥は自分を鼓舞するために気合の雄叫びを上げながら、伊澤仁がアドバイスしてくれたレーンの中心地点へと狙いを付ける。そして、遥はその非力な腕には余る重みに抗う事無く、重力に任せてそのままボールを狙い通りの位置にリリースした。

「「おー!?」」

 満を持して投じられた遥のラストショットに、思わず一同の口から上がった歓声が重なり合う。

 遥が投げた最後の一球は、絵的な部分で言えば全く躍動感の無いペタペタとしたベタ足から何の勢いも無く本当にレーンの真ん中にポロっと落としただけの物で、決して見栄えが良かった訳では無い。たがその一投は、投げた瞬間から暴投である事が瞭然だった今までとは違って、ゆっくりとだが着実にピンへ向かって進んでいた。

「お願いっ…!」

 遥はノロノロと進んでゆくボールに向ってありったけの念を送り、それに応えるかの様にボールもそのままコースを逸れずにピンへと一直線に進んでゆく。このままいけば確実にボールは先頭のピンを真ん中からとらえる筈で、そして間もなく事実そうなった。

「「おぉー!」」

 ボールがピンに触れるか否かという瞬間、それを見守っていた一同の口からは再び歓声が上がって重なり合う。絶好のコース、絶好の角度、最後の最後にして、まさかのストライクで遥がこの勝負を決するかもしれないと、この時一同の脳裏にはそんなビジョンが垣間見えていた。がしかし、現実はそこまでドラマチックでは無い。

 ピンに当たってから間もなく、ボールがコトンッという音を立ててピットに飲み込まれてゆくのを見送った遥は、その後に残った光景に思わず困惑した。

「…あ、あれ? 当たった…よね?」

 遥が狐につままれたような気分で後ろに振り返って誰ともなく問い掛けると、一同は皆一様に何とも言えない微妙な表情でそれに頷きを返す。

「当たったのは当たったと思う…けど…」

 楓は困った顔でそれだけは間違いが無い事を告げて、次には沙穂が呆れ返った様子でその後を継いだ。

「当たっただけね…」

 そう、遥の投げたボールは、確かに真ん中のピンに当たりはしたがそれだけで、只の一本もピンを倒す事無く脇へと弾かれ、そのまま溝へと落ちて行ったのである。

「お、お前…ある意味すげぇな! こんな事あるんだなぁ!」

 その世にも奇怪な現象が今になってジワジワ来たのか、淳也が遂に声を立てて笑い出した。

「こ、こりゃぁ中々お目に掛かれるもんじゃないぜ! マジかよぉ!」

 葛西智一は淳也に釣られて笑い出し、その横では鈴村祐樹がレーンに残った十本のピンとその結果を生み出した遥を交互に見やって妙に感心した様子だ。

「逆にストライクより難しいんじゃない?」 

 確かにそうなのかもしれないが、そんな事を言われても遥としては全くこれっぽっちも喜べはしない。

「い、いざわさぁん…ボクちゃんと出来たと思ったのに…どうしてー…」

 遥が完全な涙目になってすがりつく様に問い掛けると、伊澤仁は実に気まずそうな表情でサッと視線を泳がせる。

「えっと…うん…、ちゃんとできてたけど…、何だろう…球威の問題…かな?」

 ボウリングで多くのピンを倒すためには、玉が軽ければ軽い程スピードが必要で、伊澤仁も勿論それは承知の上だった。伊澤仁はそれを踏まえた上で、数本だけ倒せれば御の字という見通しのもと、速く正確に投げられない遥に正確さだけを重視したアドバイスを送っていたのだがしかし、そこには少しばかりの計算違いがあったのだ。

「あー…うん…この軽さの玉であのスピードだと、こんな事もある…みたいだね…」

 リターンに戻って来た遥のボールを手に取って、それを片手で二三度持ち上げてみた伊澤仁は、それこそが計算外であった事を打ち明けて遥に謝罪する。

「ごめんね…、キミがここまで軽い玉使ってると思ってなくて…」

 遥が両手で重たそうに抱えていた所為もあって、伊澤仁はそのボールをもう少し重量のある物だとそう思い込んでいたのだ。しかし、遥が使っていたボールは貸し出し用のハウスボールの中で最も軽い子供用の4ポンド玉で、その重量はボウリングのピンと殆ど変わりがない。それでも多少のスピードが乗っていればピンは倒れたはずなのだが、遥は本当に言われた通りボールを置いて転がしただけで、レーンの奥に辿り着いた頃には既にそこに加わっていた運動エネルギーは費えてしまい、ピンに当たり負けしてしまったのだ。

「あぅぅ…」

 全ては自身の非力さ故である事が理解できた遥は、伊澤仁を責める訳にも行かず、もう唯々脱力してその場にへたり込んでしまう。

 結局、遥が最終フレームを0点で終えてしまった為に、暫定一位の美乃梨&葛西智一ペアがそのまま優勝という至極順当な結果でゲームは敢え無く幕引きだ。

「は・る・か・ちゃーん」

 美乃梨が早速勝ち取った権利を行使すべく、怪しい手つきと欲望に満ちた笑顔を浮かべてにじり寄ってくるも、遥にはもうそれに抗うだけの気力は残されてはいなかった。

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