3-44.負い目
遥の短くなった制服のスカートを巡る一件からおよそ二週間、季節は雨期へと移行し、曇天の空模様と断続的に降る雨は人々の気分を少なからず憂鬱にさせていたが、そんな中、遥はと言えばいたって平穏な日々を過ごしていた。
「カナちゃん、また明日学校でねー」
駅の改札へと続く階段の前で、沙穂を見送った楓が自身も別れを告げて手を振って来ると、遥もそれに笑顔で手を振り返す。
「うん、また明日」
遥の挨拶を受けた楓が少しばかり名残惜しそうにしながら自宅の方へと向かって歩き出すその光景は、高校生活を再開させてからもう何十回と繰り返し見た平穏その物だ。梅雨入りしても遥達の行動ルーチンは変わる事が無く、今日も放課後に三人で駅前のアーケードをぶらぶらとして過ごし、夕刻を迎えた今は丁度解散になった所だった。
「さてっ…」
楓の後姿が同様に帰路へと着く人々の中へ紛れて見えなくなると、遥は手にしていた傘を広げてバスの停留所へ向かって歩き出す。アーケードから駅の改札へ続く階段は天井が続いて雨からは守られているが、バスの停留所はその限りではない。遥がその不親切な作りに、ちょっとした不満を覚えながらも歩を進めていると、その途中で不意に後ろから声を掛けられた。
「そこの可愛らしいおじょーさん、暇なら俺とお茶でもしない?」
それは今どき珍しいテンプレート通りといった感じの誘い文句で、口調もそれに違わず実に馴れ馴れしい。これに対する最善策は警戒しつつも無視を決め込みそのまま立ち去る事だがしかし、遥はその陳腐な誘い文句を掛けて来た声には聞き覚えがあった為に足を止めて振り返った。
「…淳也」
振り返った先に思った通りの人物が立っているのを認めた遥は、名を呼びながら若干の呆れた顔で小さく溜息を付く。そこに居たのは遥の小学校からの友人で、美容師を目指して専門学生をやっている竹達淳也で相違なかった。
「よぉ、遥、久しぶり! こんなところで会うなんて珍しいな!」
偶然の邂逅に片手を上げて気安い笑顔を見せる淳也に、遥は実際珍しいこの遭遇を不思議に思って小首を傾げさせる。
「ほんと珍しいね、今日はバイトじゃないの?」
表街に在る美容専門学校に通う淳也が通学に電車を利用している事は遥も知っていたが、こうして駅で遭遇するのは初めての事であった。そもそも淳也は学校が終わった後には、夜遅くまで美容室での実地を兼ねたアルバイトに勤しんでいる筈なので、遥と帰りの時間が合致する事はそうそう無い事だ。
「あー、今日は定休日だよ。だから火曜は大体この時間だぜ?」
淳也は今ここに居るその訳を簡単に説明して来たが、遥はそこにまた新たなる疑問を覚えて再び小首を傾げさせた。
「そうなの? それにしては今まで会わなかったね?」
多少の前後は有るにせよ、遥が駅を利用するのも、平日ならば曜日に関係なく大体この時間帯だ。それにも拘らず、遥がこうして専門学校帰りの淳也と駅で遭遇したのは今日が初めてだった。
「俺、普段はここまで原付なんだけどさ、駐輪場って裏側じゃん? だからじゃね?」
淳也の回答に、遥は今まで遭遇しなかった理由については成程と納得がいく。話を要約すると、淳也は悪天候を理由に今日は原付及び駐輪場を利用しなかった為、駅の表側に出てそこで遥と偶然の遭遇を果たしたという事の様だ。
「そっか…、それにしてもよく後姿だけでボクだって分かったね」
遥が最後にもう一つだけ残った疑問を投げかけると、淳也は得意げな笑顔で白い歯を覗かせる。
「そりゃぁ、こんなちっこい女子高生そうそう居ないからなぁ!」
ちっこいと言われた遥は少しばかりムッとしてこれに反論しようとしたが、淳也はそれを愉快そうに笑って肩口辺りを指差した。
「半分冗談だよ! リュックに見覚えあるブツがぶら下がってたからさ!」
半分は本気であるかのようなその言い様に遥は頬を膨らませながらも、淳也が何故後姿だけで自分を特定できたのかには得心がいく。
「あぁ…そゆこと…」
遥の背負っていた通学用のリュックには、賢治が誕生日に贈ってくれた防犯ブザーが付けられており、淳也はそれを見て判別した様だ。比較的大雑把な性格で細かい事をいちいち記憶している質ではない淳也だが、遥の防犯ブザーに付いてはそれを巡ってちょっとした騒動があった為、強く印象に残っていたのだろう。
「まー、今どき防犯ブザー持ち歩いてる女子高生とかお前くらいだしなぁ」
遥はこれに反論したい気分満載だが、自身でも当初類似する感想を抱いて拒否反応を示していたので、これには強く言い返す事もままならない。
「むぅ…」
遥が憮然とした面持ちでいると、淳也はその立ち姿を観察する様に視線を下から上へと巡らせ、何やら感心した面持ちを覗かせた。
「いやぁ、しっかし、スカートまで短くしちゃって、遥ももう立派なJKだなぁ」
淳也が制服姿の遥を目にするのは誕生日会の時以来であるが、それが以前とは違うミニスカート仕様に変化している事は流石に瞭然だった様だ。
「放課後だけだけどね」
それについて賢治とひと悶着あった遥が若干苦笑交じりに限定的な物である事を告げると、淳也はこれを意外そうにした。
「なんだそりゃ、ウチの学校そこんところは別に厳しくなくね?」
それは同高の卒業生であり、女生徒の大半が堂々とスカートを短くしていた実情を知る淳也にしてみれば尤もな疑問である。
「そうなんだけど、賢治が心配するから…」
詳細を省いてかなり大雑把に事情を説明した遥だったが、淳也はそれにすんなりと納得した様子で「成程な」と感嘆の声を上げた。
「賢治のやつは相変わらず過保護だなぁ」
賢治の心配性ぶりに少々呆れた様子でそんな事を呟いた淳也は、それから感慨深げに目を細めさせて、何やら苦笑いをする。
「まぁ、賢治が過保護になるのも無理ないか…。あいつ、お前が居なかった間は随分と荒れてたしなぁ…」
自分の居ない三年間、賢治が辛い想いをしていた事は、遥も本人から聞いて既に知っていた事だがしかし、淳也の口にした「荒れてた」という言葉は少しばかり引っかかる物があった。
「荒れてたって…、賢治が?」
遥は賢治の「荒れている」様子がどういったものか想像できずに、しきりに首を傾げさせる。遥の知る賢治は、兄の辰巳が言う様に極めて真面目な「真人間」タイプなので、「荒れていた」と言われてもその様子はまるでピンと来ない。
「荒れてたっつっても、別に暴力的だったとかじゃぁねーぞ」
その言葉に遥が少しばかりほっとしたのも束の間、淳也は次に、全く想像だにしなかったかなり予想外な事を口にした。
「あいつ、一時期は来るもの拒まずって感じで、女の子をとっかえひっかえだったんだぜ?」
淳也は信じられるかと言わんばかりの口ぶりだが、遥としてもそれは寝耳に水どころの話しでは無い。
「えっ…えっ? えぇ!?」
確かに賢治は世に言うイケメンなので、異性から言い寄られる事自体は度々の事ではあるが、遥の知る限りでは、それに色よい返事をした事等、一度として無かった筈なのだ。それどころか賢治は女の子全般に苦手意識を持っていると言ってはばからず、男友達と一緒にいる方が気楽だとすら述べている。そんな賢治が女の子と付き合っていた時期があるだけでもかなりの衝撃で、それがとっかえひっかえともなると、天地がひっくり返ったにも等しく、これぞ正しく驚天動地という奴だった。
「賢治もお前が居なくて寂しかったんだろうなぁ」
淳也はしみじみとした口調でそんな事を言うが、遥の心中は中々に穏やかでは無い。
「で、でも…、賢治は前に恋愛どころじゃなかったって…」
以前、美乃梨や真梨香を交えて、それぞれの恋愛事情に話題が及んだ際、賢治は確かに遥の不在だった期間をそう振り返っている。
「ボク、賢治に直接聞いたんだよ?」
遥がその事を言及すると、淳也は少し考えを巡らせてから肩をすくめて見せた。
「んー、賢治にとっては恋愛の範疇じゃなかったって事なんじゃね?」
考えた末に淳也は独自の見解を告げて来たが、遥は理解に苦しんでこれには困惑せずに居られない。遥の価値観では、異性と付き合う事は即ち恋愛とイコールなのだ。
「えぇ…? だって…女の子と付き合ってたんでしょ? それも…たくさん…」
遥は自身の中で色々な物が揺らいでゆくのを感じながらも、ふと大きな不安に駆られてはっとなった。
「もしかして、賢治はまだその時の誰かと付き合ってるんじゃ!?」
不安の余り遥がすがる様にして身を乗り出すと、淳也はその勢いに若干気圧された様子で激しく左右に首を振る。
「おいおい、おちつけよー、『一時期』って言ったじゃん。俺が知る限りじゃ三年に上がった頃にはもう誰とも付き合ってなかったって」
淳也は遥を押し戻しながら、どこかうんざりした様子で大きく溜息を付いた。
「あん時の賢治は確かに来るもの拒まずで、告って来る女子を全部受け入れてたけどさ、元々その気がないもんだから、結局どの娘も長続きしなかったんだよ」
そんな事を幾度となく繰り返した結果、三年生に上がった頃にはもう賢治が女の子の告白を安易に受け入れる事は無くなっていたのだと言う。
「賢治が恋愛どころじゃなかったってのは、多分本当なんだと思うぜ。つうか、逆に実感こもってる気ぃするわ」
淳也のそんな統括に、遥は当時の賢治がどのような心境であったのか、その想いに自身の気持ちを寄り添わせる。来る者を拒まずだったという、大凡らしくないその行動は、先程淳也が言った様に、半身にも等しい親友不在の寂しさや喪失感を何とか埋め合わせようとしたが故だったのかもしれない。だが、十五年来の親友に取って代われる者等そうは有ろうはずもなく、結局賢治の喪失感は他の存在によっては遂に埋め合わされる事が無かったのだろう。だからこそ賢治は三年生に上がった頃にはもうそれを止め、当時の事を恋愛どころでは無かったと振り返り、淳也もそれには実感がこもっていると評したのだ。
「そっか…ボクが居なかったせいだよね…」
賢治の知られざる過去を思いがけず知って、その心境にまで想いを馳せた遥は、堪らずしゅんとして項垂れてしまった。
「そんな顔するなよー、こうして遥も可愛いJKになって戻って来た訳だし、賢治も今は万事オッケー! ソーハッピーだって!」
可愛いJK云々は多方面に色々と複雑でともすれば不謹慎ですらあるものの、淳也が言うとそれは随分と楽天的な話に聞こえてしまう。淳也のそんな調子の良さは時として短所にもなり得るが、今はその楽天的な様子が遥の気持ちを幾分か和らげてくれていた。
「うん、ありがとう…」
遥が気を取り直して感謝の言葉を述べると、淳也はどこかほっとした様子になって安堵の息を付く。
「いやぁ、しかしお前らってホント昔から一心同体って言うか、お互いベッタリだよな」
感心半分、呆れ半分といった様子でそんな事を口にした淳也は、そのままの調子で次には中々に強烈な事を口にした。
「なんだったら、もういっそ付き合っちゃえば?」
その突然の飛躍した発言に遥はギョッとなりながら、思わず顔が熱くなってあたふたとしてしまう。
「な、なっ!? い、いきなり何言い出すの!? 賢治とは、その…、えっと…親友だよ!」
いずれは賢治と両想いになりたいという気持ちはその小さな胸の内に一杯の遥だが、今はまだ到底そこへ踏み出せる段階ではない。なにせぎゅっと抱き着いて「だいすき」と告白したにも拘らず、賢治にその真意が伝わらなかったのは、今も記憶に新しい、ほんの二ヶ月程前の出来事である。その時から多少の進展はあるものの、それでもまだ賢治が自分を恋愛対象と見なしてくれるかどうかには全く確信を持てないで居るのだ。
「そっか、そっかぁ、親友ねぇ…」
淳也は慌てふためく遥の様子を愉快そうにしていたが、ふと何か思い付いた様な些か悪い顔を覗かせた。
「それじゃぁさ、ちょっと合コンとかしてみない?」
それは飛躍どころか、脈絡すらも皆無で、遥は余りの突飛さに淳也が何を言っているのか分からずポカンとしてしまう。
「…へっ? ごう…こん…?」
半ば唖然としながら遥が間の抜けた調子で問い返すと、淳也は引き続きの悪い顔で大きく頷きながらニヤリと笑った。
「そうそう、男子と女子が仲良くなる集まりさ!」
淳也はご親切に合コンがどんな物であるかを説明してくれたが、流石に遥もそれがどういったシチュエーションであるかくらいは知っている。
「じゃなくて、なんで合コン…?」
遥が改めて何故急にそんな事を言い出したのかを問い掛けると、淳也は不思議そうな顔で肩をすくめさせた。
「遥も今じゃ立派なJKじゃん? だったら合コンくらいするじゃん?」
淳也はそれがさも当たり前といった口ぶりだが、その論法はかなりの偏見に満ちているし、それ以前に賢治という意中の相手が居る遥には合コンをするメリットが全くない。
「ボク合コンなんて興味ないよ…、だって賢治が…えっと…許してくれないし…」
遥は賢治が好きだからとついうっかり本音を言いそうになりつつも、寸前でそれを思い留まり、適当な理由へと代えてこれを言い繕った。実際問題、短いスカートで高校生活を送る事にすら猛反対した賢治なので、合コン等許可するはずがない事は火を見るよりも明らかだ。
「ふむぅ…」
淳也も先程賢治が「過保護」である事を自身で発言しているので、遥の言い訳は中々に効果があった様で、これにはしばし言葉を止めて考え込む。これで大人しく引き下がってくれれば御の字であったがしかし、淳也はそこで諦めはしなかった。
「よし、じゃあ賢治も誘おう」
そう言うなり淳也はズボンのポケットからスマホを取り出して、それをそのまま親指だけで器用に操作し始める。
「ちょ、ちょっと! そんなのダメだよ!」
かなりの意表を付いた淳也の提案に、遥はかなりの大慌てだ。合コンが男女の出会いを目的とした場である以上、当然遥はそこに賢治が参加する事等見過ごせる訳が無い。
「だいたい賢治だってそんなの参加する訳ないって!」
遥はこれを阻止しようと必死になったが、淳也は意に介さない様子でスマホを操作しながらまた悪い顔をした。
「お前も親友ならさ、そろそろあいつに恋愛する機会くらい与えてやれよな? それとも賢治が合コンすると何か都合が悪い事でもあるのかにゃぁ?」
その口ぶりから淳也に内心を見透かされている事を察しながらも、遥は先程自身で賢治は親友であると発言してしまっている為、これに反論する事は至難である。何より、賢治に恋愛の機会を与えてやれと言う淳也の意見は、遥の恋心を考慮に入れなければそれなりに真っ当なのだ。形はどうあれ、自分不在だった期間に賢治が「荒れていた」という程に恋愛どころでは無かったという話を聞いたばかりともなれば、遥はそこに負い目を感じざるを得ない。
「うぅ…」
遥が複雑な想いに葛藤して逡巡していると、淳也はそこに駄目押しの一手を投下して来た。
「考えてもみろよ、賢治が合コンやるとしても、お前が参加するなら女の子のメンバーはお前で選べるんだぜ?」
遥は一瞬淳也が何を言っているのかよく分からなかったが、少し考えを巡らせてからハッとなる。
「あっ…」
女の子の参加者を自分で選択できるという事は即ち、沙穂や楓といった信頼のおける友達で周りを固めて、根回しが可能という事に他ならない。沙穂や楓は既に遥が賢治に片思い中である事を知っているし、それを応援してもくれている。遥は依然として合コン自体には何の興味も有りはしないが、それが賢治との恋を進展させられる場となり得るのであれば話は全く別だ。
「…分かった、合コンする!」
遥が文字通り意気込みを改にして合コンへの参加を承諾すると、淳也はこれに満足げな笑顔で頷いた。
「よっしゃ、じゃぁ詳しい事は決まり次第逐一連絡って事で」
そう告げた淳也は、スマホをポケットに仕舞いながら今日一番の悪い顔を覗かせる。
「そうそう、賢治はやっぱりお前が言った通り参加しないってよ。流石親友、良く分かってるね!」
その一言で完全にたばかられた事を悟った遥だったが、時すでに遅く最早完全に後の祭りだった。例え淳也にその恋心を勘付かれていようとも、親友云々の下りをやってしまった手前、賢治が参加しないなら自分も辞める等とは到底言える筈も無い。
「そんじゃ、可愛い子よろしくなー」
淳也は最後にそんな希望を伝えて駅前から雨の雑踏へと消えてゆき、残された遥に出来た事は唯々茫然となりながらその背中を見送る事だけであった。




