3-40.愛情と希望
朱美に連れられリビングに通された遥は、ソファーにちょこんと座ってその小さな身体を一層小さく縮こまらせる。足元では紬家の飼い犬、マルが頻りにじゃれ付いて来ていたが、今の遥にはそれをかまってやれるような精神的余裕等はなかった。
幼少の頃から賢治と兄弟の様に育ってきた遥は、紬夫妻にとっては我が子同然で、叱り付ける時にもその扱いは同様だ。そこに遠慮や手心が加えられる様な事は一切無い。
何時だったか、ちょっとした冒険心から賢治と夜中にこっそりと遊びに出掛けた際等には、後で児玉にばれて随分と大目玉を食らったものだ。この大目玉というのは言うまでもなく、今頃賢治が受けているであろう地獄の特訓の事で相違ない。その余りの過酷さ故、遥はそれ以来、児玉にはなるべく逆らわない様にと極力努めている。
そんな実体験があるだけに、遥は児玉に連れていかれた賢治の身が大変心配ではあったのだがしかし、今は人の事ばかりを気にもしていられない。遥もこれから夜分にご近所を騒がしてしまった咎によって、朱美からお説教を受ける筈なのだ。朱美は「お茶」と言ってはいたものの、近隣住人から苦情があった事を告げられているので、遥はこれから始まるのがお説教タイムだとそう信じて疑わなかった。
朱美は児玉の様に肉体的苦痛を伴う具体的なお仕置きは用いないが、だからと言ってそれが優しい物であるかと言えばそうではない。遥が何より恐ろしいと思うのは、朱美がまるで世間話をするかの様な大変のほほんとした調子で、実に容赦のない責め句をズバズバと並べ立てて来る事である。これは児玉の課す過酷な特訓とはまた別のベクトルで、主に精神的なダメージとしてかなり来る物があった。
「うぅ…」
遥は縮こまらせた身体を小刻みに震えさせ、お説教される事は覚悟しながらも、謝罪の言葉を頭の中で必死にシミュレートする。賢治の理不尽があったとは言え、非常識な行動をしてしまったのは間違いないので、その事に関しては言い逃れ出来ない。こういう場合はとにかくしでかしてしまった事を素直に謝った方が賢明だろう。取りあえず、目一杯反省している事を伝える為にまずは「ごめんなさい」だ。
「よ…よしっ…」
遥は一先ずの方針と覚悟を決め、怖気づかないようにと気後れする気持ちに少しばかりの気合を注入する。じゃれ疲れたマルがリビングの隅にある自分の寝床へ戻っていったのと、キッチンから朱美がティーセット一式を乗せたトレイを運んできたのは丁度そんな頃合いだった。
「ハルちゃん、お待たせ」
朱美は普段通りののんびりとした様子で、リビングテーブルの上にティーセット一式を置いて遥の対面にと腰を下ろす。
「少し蒸らしてからね」
そう言って朱美はティーセットの砂時計をひっくり返して、どこか楽し気な表情でにっこりと微笑んだ。どうやら一応の宣言通り「お茶」にはするらしいが、だからと安心するのは早計である。この穏やかな様子でありながら、情け容赦のないお説教をしてくるのが朱美の怖い所なのだ。遥は依然としてこれから始まるのが夜のお茶会等と言う優雅な物ではなく、辛いお説教タイムなのだと疑わずに気を緩めない。
「あ、あの…」
遥は今一度先程のシミュレーションを頭の中で走らせ、それが抜かりない事を確かめると、朱美のお説教が始まってしまう前にと先手を打った。
「こんな時間にうるさくして、ごめんなさい!」
遥は予定通りの言葉に誠心誠意を込めて、態度でもそれを現すべくその場で勢いよく頭を下げる。まず言うべきことは言ったので、後は朱美の反応次第で出たとこ勝負だ。
「ハルちゃん」
朱美が静かに名を呼んできた事で、遥はその後に続く責め句を想像して頭を下げたままの態勢で身体を強張らせる。しかし、朱美は苦言を呈するどころか、遥が大凡思ってもいなかった事を口にした。
「おばさんね、嬉しかったのよ」
その言葉は、お説教の文句にしては余りにも変化球が過ぎて、遥はこれに思わず顔を上げて困惑頻りだ。
「えっ…?」
てっきり厳しいお叱りが来る物だとばかり思っていた遥にとって、朱美が告げた「嬉しかった」という言葉はいくらなんでも不可解がすぎる。これが油断を誘う作戦で、この後どん底に叩き落すというのならば、相当にお怒りなのだろうが、どうにも朱美はつかみどころが無さすぎて判断のしようも無い。
「さぁ、お茶にしましょう」
困惑する遥を他所に、朱美はセットしていた砂時計の砂が全て落ち切っているのを認めて、実にマイペースな様子で並べた二つのカップへとゆっくり紅茶を注いでゆく。
「どうぞ、召し上がれ」
相変わらずニコニコとしている朱美の表情からは、やはりどんな思惑があるのかは判別できなかったが、遥は差し出されたカップからほんのりと漂って来た甘酸っぱい香りにハッとなった。
「これ…アップルティー…」
思わず口を付いて出た遥の呟きに、朱美は満面の笑顔で頷きそれを肯定する。
「ハルちゃん好きでしょ?」
遥は幼女の身体になる前は、どちらかといえば賢治と同じくコーヒー党で紅茶を嗜む習慣は持っていなかった。今は子供舌になってコーヒーを飲めなくなったが、だからと言ってその代替え品として紅茶を好む様になったかと言えばそういう訳でも無い。時と場合によって紅茶を選ぶ事はあっても、好きか嫌いかで問われれば「好き」ではなく「嫌いではない」と答えるだろう。そんな風に遥は昔も今も紅茶に対して何の思い入れも有りはしないのだが、ただ、朱美の入れてくれたこのアップルティーだけは特別だった。
「ほら、冷めないうちにどうぞ」
朱美が自身でもティーカップに手を付けながら穏やかに微笑んでみせると、遥は促されるまま、目の前に置かれたティーカップを両手で保持して、それをゆっくりと口元へ運んでゆく。鼻孔を撫でていた甘酸っぱい香りはより高らかになって、それに誘われるままひとくち含めば、まるで花開いたかのようにその風味が口の中一杯に広がっていった。
「おいしい…」
遥は呑み込んでも未だ口の中に残る香りと味の余韻に浸りながら、初めてこのアップルティーを飲んだ時の事を思い起こす。それは丁度今日の様に、賢治と激しい言い争いの喧嘩をした日で、まだ二人が小学生だった頃の事だ。
今となっては喧嘩の原因が何だったのかはもう覚えてはいないし、思い出せないくらいなので恐らくそれ程大した事では無かったのだろう。ただ、それは思春期を目前にして自意識が発達しだしていた二人にとっては譲れない事だった様で、やはり今日と同じくお互い一歩も引かない熾烈な言い争いへと発展したのだった。
不毛な言い争いを続けた二人はどんどんと険悪になって、あわや絶交というところまで行きかけていたがしかし、そんな折、朱美が不意にやって来て、大変のほほんとした様子で「お茶にしましょう」とそう言ったのだ。遥と賢治は、まずそのある意味空気の読めない能天気ぶりに脱力してしまい、用意されたアップルティーを一口二口と味わっていく内に互いに随分と冷静になって、それを飲み終わった頃にはもう喧嘩の事などは殆どどうでもよくなっていた。そうして遥と賢治は、最終的に互いの主張を素直に受け入れ、更にはそれぞれに自身の非をも認めて、無事和解へと至っている。
朱美がそうなる事を意図していたのかどうかはわからないが、その時入れてもらったアップルティーがきっかけで、二人の気持ちが随分と解きほぐされていった事は確かだ。それ以来、遥と賢治にとって朱美の入れてくれるアップルティーは、少しばかり特別な意味を持つ様になり、喧嘩の時のみならず、何かにつけて二人の気持ちを救ってくれていた。
例えばそれは、遥が初めて失恋を経験して酷く落ち込んでいた時。例えばそれは、高校受験を目前にして勉強に行き詰った賢治が少しばかり荒んでいた時。例えばそれは、遥も良くしてもらっていた賢治の祖父が病に伏してそのまま帰らぬ人となった時。事の大小に拘わらず、遥や賢治の気持ちが沈んでいれば、そんな時朱美はそれを見透かしたように、決まってアップルティーを入れてくれたのだ。
「ハルちゃんとケンちゃんの喧嘩なんて、何年振りかしらねぇ…」
朱美の瞳は疑う余地がない程に穏やかで、そしてほんの少しだけ遠くを見ているかの様だった。振る舞われたアップルティーとそのしみじみとした様子に、遥はまた少しハッとなる。
「朱美おばさん…、怒って…無いの…?」
遥がおずおずと問い掛けると、朱美は僅かに驚いた顔をしてからまた元ののほほんとした笑顔を見せた。
「さっきも言ったでしょ、おばさん嬉しかったのよ? ハルちゃんが元気に大声出して、ケンちゃんも負けじとそれに言い返して、そんなの本当に久しぶりだったんですもの」
そう言った朱美は、子供達の健やかなる様子を慈しむ、愛情に満ちた母親以外の何者でもなかった。事故に遭って三年間身体を失っていた遥と、大切な物を失って悪夢に苛まれ続けていた賢治。そんな我が子達が今は昔の様に喧嘩が出来る程活力に溢れている。朱美はその事を、遥が夜分にご近所を騒がせて苦情を受けた事等よりも、よっぽど大切に思ってくれている様だった。お茶に誘ってくれたのも遥を叱る為等では無く、賢治と喧嘩をして波立っている筈の気持ちを落ち着かせようという気遣いからだろう。だからこそ朱美は、特別な意味のあるアップルティーをわざわざ入れてくれたのだ。
「朱美おばさん…」
てっきりお説教をされるとばかり思っていた所に、思いがけぬ優しさを見せられて、遥は思わず涙ぐみそうになってしまった。
「後でケンちゃんにも、入れて上げなきゃね…」
中庭の有る方角へ目を向けながらそんな事を呟いた朱美は、それから遥の方に向き直ってまた普段通りののんびりとした楽天的な様子へと戻る。
「それにしても、ケンちゃんは乙女心が分からなくてだめねぇ」
訳知りなその言い様に、遥は思わずギョッとなって、二口目を飲みかけていたアップルティーを吹き出しそうになった。賢治に対する恋心を朱美に勘付かれているのだとすれば、遥としては中々に気まずい。ただ、朱美が続けて口にした言葉で、それが若干の早とちりだったという事が直ぐに分かった。
「ハルちゃんだって短いスカート穿きたいわよねぇ」
朱美が話題にしていたのは、賢治に対する恋心の事等ではなく、短くなった制服のスカートについてだったのだ。後半二人が激しく言い争っていた為か、リビングに居た朱美にもその内容が筒抜けだった様である。
一先ず遥は恋心を勘づかれていた訳では無い事にホッとしながら、ここで改めて賢治が何故短いスカートを認めてくれなかったのかという、そもそもの問題へと立ち返った。
「賢治は、どうしてダメって言ったのかな…」
賢治は最後までダメの一点張りで、結局理由を明かさないまま児玉に連れていかれてしまったので、その真意は未だ闇の中だ。今思い出してもあの理不尽な頭ごなしの否定はムカムカとくるものがあったが、遥はそれ以上に賢治が短いスカートを気に入ってくれなかった事に些かしょんぼりとしてしまう。
「似合ってないなら、そう言ってくれれば良かったのにな…」
遥の口から思わずそんな愚痴がこぼれ出ると、それを聞いた朱美はクスリと笑って手の平をパタパタと泳がせた。
「ケンちゃんが短いスカートをダメって言ったのは、多分それと逆の理由よ」
流石母親と言うべきか朱美には賢治の考え等お見通しの様だったがしかし、遥にしてみればこれは少々難解な事柄だ。
「えっ…どういうこと…?」
良いと思ってくれていたのならば、それこそ素直にそう言ってくれれば良かっただけの事で、それが否定につながる理由が遥には全く分からない。
「それは直接ケンちゃんから聞いた方が良いかなぁ」
それが出来ていれば喧嘩にはなっていなかった筈で、遥はその事を反論しようとしたが、朱美の人差し指が唇に触れてそれを制止した。
「大丈夫、おばさんがちゃんと説明する様、ケンちゃんに言ってあげるから」
朱美は自信ありげにそう約束してみせてから、ふとリビングテーブルの端に置かれていた時計の方へと目を向ける。つられて遥もそちらを向ければ、時計の針はそろそろ午前零時を指し示そうかという所だった。
「あら、もうこんな時間、ハルちゃん大丈夫?」
幸いな事に明日は土曜日で学校も休みの為、多少の夜更かしをしてしまっても特に問題はない。がしかし、遥にはもっと根本的な所で、余り大丈夫ではない問題が一つ差し迫っていた。
「そういえば…ちょっと…ねむぃ…かも…」
遥は身体が幼女になったせいか、今ではすっかり夜が弱くなって普段ならもうベッドの中でスヤスヤと寝息を立てている頃だ。ここまでは気持ちが昂ったり緊張したりで気が紛れてはいたものの、ひとたび時間を認識してしまえば、そこには確かに睡魔がじわじわとにじり寄って来ていた。
「ハルちゃん今日はもうお家に帰る?」
その問い掛けに遥は自覚してしまった眠気によって若干働きが悪くなってきた頭で、どうするべきかと考えを巡らせる。そうしている間にも眠気はどんどんと押し寄せ、横になればすぐさま眠れてしまいそうだった。ただ、叱られるために呼ばれた訳では無いと分かった今なら、朱美に遠慮することなく賢治の誤解を解きに行けるだろうし、何よりスカートの件に未だ決着がついていない。それらの事を差し置いてこのまま帰ってしまうと実に夢見が悪そうで、遥としてはできればこれを片付けてしまいたかった。
「帰る前に、賢治ともう一回ちゃんと話したい…かも」
遥が遠慮がちに希望を伝えると、それを聞き届けた朱美はにっこりと微笑んで頷きを見せる。
「それじゃあ、そろそろ頭も冷えた頃でしょうし、ケンちゃん呼んでこなきゃね」
朱美はそう言ってソファーから立ち上がり、何やら楽しげに小さく笑い声を洩らした。
「ふふっ、お父さんの勘違いも教えて上げないと」
どうやら朱美は賢治が誤解されている事を知った上で、児玉による地獄の特訓を良しとしていた様だ。中々に酷い話だが、そこには朱美なりの思惑や配慮があっての事なのだろう。むしろそうであってくれなければ、賢治が余りも可哀想である。
「ボクも、いっしょに―」
遥も責任の一端があるので賢治の誤解を解きに付いて行こうとソファーから立ち上がろうとしたがしかし、肩に触れた朱美の手でやんわりと元の位置へと押し戻されてしまった。
「ケンちゃんを説得しなきゃいけないし、ハルちゃんはここで待っててね?」
そう言われては、遥としても無理に付いて行くわけにもいかず、素直に従うより他ない。賢治の有らぬ誤解を解くだけならともかく、短いスカートを否定した理由を明かさせる説得となれば、自分が一緒に居ない方が良い事は遥にも理解できた。なにせ、喧嘩になった原因はそこにあるので、遥ではこれをどうしようもないのだ。
「それじゃあ行ってくるから、ちょっと待っててねぇ」
そう言って朱美はのんびりとした足取りで中庭へと向かってゆき、遥は一人リビングにと残された。正確には部屋の隅で丸くなっている、犬のマルも居るが今はぐっすりと眠っている様で相手をしてくれそうにはない。
「ふぅ…」
遥はアップルティーの残りに口を付けながら、さきほど朱美が言っていた事を思い起こす。朱美は賢治が短いスカートを認めてくれなかったのは、遥が思っていた事と逆の意味だと言っていたが、それはまるで謎掛けの様でやはり難解だ。
「どういう意味なんだろう…」
睡魔との格闘にリソースを割いている今の遥では、いくら考えても答えを見つけられず、頭の中ではひたすら疑問符だけがぷかぷかと浮かんでゆく。
「似合ってるって事で…いいのかなぁ…?」
それが否定に繋がる理由についてはやはり想像もつかなかった遥だが、それでも何か少しだけ希望が見いだせた様な気がしていた。写メを送ったのも、その帰りをずっと待っていたのも、賢治に可愛いと思ってもらいたいという願いがあったからこそなのだ。
「そう…だったら…いい…なぁ…」
そんな事を呟きながら、何時しか頭の中で浮かんでいた疑問符がまるで羊の代わりを果たしたかのように、遥の意識はそこであっけなく睡魔にと飲み込まれていった。
賢治との喧嘩で膨大なエネルギーを使っていた上、普段ならとっくに寝ている時間だ。話し相手が居た内はまだよかったが、一人になった静かな部屋で暖かいアップルティーと、気持ちよさそうに眠るマルの寝息が加われば無理もない。
朱美が賢治と児玉を伴ってリビングへ戻って来た頃には、もう遥はすっかりと夢の中で、声を掛けようが身体をゆすろうが目を覚ます事は無く、結局全ては翌日へと持ち越される事となった。




