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3-36.決断

 遥が沙穂と楓の二人と共に表街でテスト明けの開放感を存分に満喫したその日、大学での資料作成を何とかやり遂げた賢治が自宅の玄関をくぐったのは、午後十時を三分の二程回ってからの事だった。

 一つ断っておくと、賢治は宣告された夕方までという刻限に間に合わなかった訳では無い。驚異的な集中力と追い上げによって、賢治は何とか夕方までには一度資料を仕上げているのだ。しかし、その後二度に渡る手直しを教授から言い渡され、最終的に完成と認められたのが、つい一時間ほど前の事だったのである。

「ただいま…っと」

 玄関で乱暴に靴を脱ぎ捨てた賢治はリビングに向って声だけ掛けると、中には顔を出さずそのまま即座に自室へと向かおうとした。今はもう一時でも早く自室に行って疲れ切った身体と頭を休ませたかったのだ。しかし、そんな賢治の思惑を他所に、飼い犬のマルを抱いた母の朱美がリビングからひょっこりと顔を出し、今日に限って呼び止めて来た。

「ケンちゃん、遅かったのねぇ」

 朱美は別段心配していた風でも無いのほほんとした様子であるが、賢治は足を止めてそんな母の様子を少しばかり訝しむ。労いの態度がなっていない、という訳では無く、普段なら朱美はリビングの内側から返事を返すだけで、顔を見せる事まではしないからだ。

「何か用か…? 疲れてるんだが…」

 疲労感の余り些かぶっきらぼうに賢治が問い掛けると、朱美は何がそんなに楽しいんだと問い詰めたくなるような実に良い笑顔になった。

「ハルちゃん、来てるわよー」

 その言葉を耳にするや否や、賢治は一時疲れもどこかへと吹き飛び、扉の前に立つ母を躊躇なく押し退けてリビングの中に割って入る。

「ハル!」

 ほぼ条件反射的に身体が動き、名を呼び掛けた賢治であったがしかし、リビングからは何の返事もなく、そこには遥の姿も見られなかった。

「いねぇじゃねぇか…」

 よもや母親にたばかられたのだろうかと一瞬疑心に駆られた賢治は、その真偽を確かめるべく再び母を押し退けて玄関の方へと立ち戻る。先程は疲れていたせいで特に気に留めてはいなかったが、見れば確かに玄関の隅には高校指定のローファーが一足、綺麗に揃えて置かれていた。賢治がまだ高校生だった頃、ほぼ毎日の様に履いていた物と全く同型の物だ。ただ、賢治の使っていたローファーは高校卒業時、かなり傷んでいた事もあって既に処分してしまっている。何より、今玄関に置かれている物は到底賢治の足など収まらない程小さなもので、そのサイズ感からして間違いなく遥の物だった。

「ケンちゃんのお部屋でずっと待ってるのよぉ?」

 その言い様にやはりたばかられた様な気分になった賢治は、堪らず母に非難の視線を向けそうになったがしかし、よく考えればリビングに居ると思ったのは単なる自分の早とちりである。朱美は遥が来ているとしか言っていなかったので、言葉足らずではあったものの、別段嘘をついていたという訳でも無い。

「ずっと待ってるって、どれくらいだ…?」

 疑心を引っ込めた代わりに賢治が嘆息交じりに問い掛けると、朱美は頬に人差し指をあてがいながらその記憶を辿る様に首を傾げさせた。

「そうねぇ、お夕飯食べた後の事だから、三時間くらいになるかしらぁ?」

 朱美は大雑把な所があるので、その情報が正確であるかは僅かに疑問が残るところではあるが、ともかく遥が長い間一人で待っているという事だけは確かな様だ。

「つうか…なんで俺の部屋何だよ…」

 遥が勝手に部屋へ上がり込んでいる事は割と日常茶飯事なので、それに関しては別段問題ない。それよりも遥が長時間独りでいるという事の方が賢治としては問題だった。朱美だって雑談の相手位は務まるだろうし、飼い犬のマルも遥には懐いているので遊び相手にはなる。なにも独り寂しく部屋で待っている必要など無い筈なのだ。

「お母さんもリビングで一緒に待ってましょって言ったんだけどねー、ハルちゃん本読んでるからへーきって言ってたわぁ」

 朱美はそう言ってから少しばかり寂しそうな顔をして小さく溜息を付いた。

「せっかくハルちゃんに新しいお洋服用意したのになぁ…」

 その言い様に、遥が部屋で待つことを選んだ理由を何となく察して、今度は賢治が小さく溜息を付く番だ。

「そう言う事か…」

 朱美は女の子になった遥が可愛くて仕方がないのか、自分好みの洋服を与えては、それを着て見せて欲しいとせがむことが今では度々である。それを良く知っている遥は朱美の着せ替え人形になるくらいならば、多少退屈であろうとも独り待つ事を選んだという訳らしい。

「そういう事だからケンちゃん、早くハルちゃんのとこに行ってあげなさい?」

 朱美は諭すような口調で言うが、そもそも賢治は呼び止められなければ真っ直ぐ自室に向かおうとしていた所である。朱美の用向きも遥の件だけだった様なので、賢治としてもこの場に留まっている理由はもう一つとして無かった。

「あぁ…」

 賢治は気の無い返事を母へ送ると、早々にリビングの前から立ち去り遥が待っているという自室へ向かってゆく。朱美はそんな息子の背中を満足そうな顔で見送り、やがてその姿が廊下の角へと消えると元居たリビングへと引っ込んでいった。


 紬家は一階建ての平屋で、賢治の自室はリビングを囲う様に走っている廊下を折れて一番奥の突き当りにある。普段なら賢治の歩幅で玄関からそこに辿り着くのは物の数秒だが、今回ばかりはその足取りが少しばかり重たかった。

 理由は言うまでもなく、遥が送って来たあの写メの件が有るからだ。結局、賢治は資料作成に追われていた事もあって、遥の送って来た写メに何の反応も返せていないまま今に至ってしまっている。それどころか、依然としてあれにどんな反応を返したらいいのかすらも定まってはいなかった。先程は名を聞いて半ば反射的に動いてしまった賢治だが、今思えばリビングに遥が居なかった事は幸いだったと言えよう。

「…どうすりゃいいんだ」

 賢治は自室に向かいながら改めて写メの件に何と応えれば良いかと考えを巡らせる。ずっと帰りを待っていたという遥の目的も、その事についてだと見てほぼ間違いは無い。

 遥を褒めてやるべきか、それとも嗜めるべきか、例の究極とも言える二択が賢治の頭の中ではひたすらぐるぐると回りその足取りは一層重くなる。しかし、特別長い訳でも無い紬家の廊下は無情にも終点へと突き当り、賢治は考えが纏まらぬままいよいよ遥との対面を余儀なくされた。

「はぁ…」

 賢治は一つ大きく息を吐き出すと、遥と自分を隔てている自室の扉にと手を掛ける。後は手に握ったドアノブを少しばかり捻れば扉は造作もなく開いて、そうなればいよいよ遥との対面だ。

「…はぁ」

 今一度大きく息を吐き出した賢治は、今し方握ったばかりだったドアノブから一旦手を放す。この期に及んで大変往生際が悪い事ではあるが、やはりどうにもこうにも気が進まなかった。

 賢治が遥に会うのをこれ程までに躊躇した例は、二人の歴史を紐解いてみても未だかつて無かっただろう。とりわけ、賢治はつい半年程前まで遥に会いたいばかりだった事を考えると、これは中々に異例の事態だ。

「ハル…」

 賢治は半ば無意識の内にその名を呟き、遥に対する複雑な思いをその頭の中で掛け巡らせる。飯田奈津希は冗談めかして「紬君のお姫様」とそんな風に言っていたが、それは言い得て妙で、今や賢治にとっての遥は確かにそう呼んでも差し支えのない程には尊い存在だった。

 目の前の問題はかなり厄介だが、だからと言って遥に会いたくない訳では無い。いや、会いたくない訳がないのだ。つい半年ほど前まで募らせていた会いたかった気持ちは、遥が戻って来た今では片時も離れず傍に居たいという想いへと変わり、それはいつからか「愛」と呼べる程にまで極まっている。

「よしっ…」

 とにかく遥に会おう、会って顔を見て、話を聞こう、写メについての答えはそれからでも遅くはないはずだ。遥に対する自身の揺るぎない想いを確かめた賢治は、そう自分に言い聞かせると、改めてドアノブを握り直す。しかしその瞬間、ドアノブは力を掛けるまでもなく、その手の中でひとりでにクルリと回転した。

 その突然の事に賢治が呆気に取られる間もなく、カチャリという軽めの金属音に続いて、それ以上に軽やかな声が響き渡る。

「賢治!」

 澄みやかながらも、ほんのりと甘く、そしてちょっと舌っ足らずに名を呼ぶその声は、まぎれもなく幼女の身体から発せられる遥の声に他ならなかった。

「お帰りなさい!」

 どこかはしゃいだ様子にも見える遥は、今にも抱き着かんばかりの至近距離に立って極めて明るい笑顔を見せる。賢治はその様子を目にして、メッセージに返信していなかった事については、特に怒ってはいない様だと感じて一先ずはほっとした。

「ボクずっと待ってたんだよ?」

 遥はそう言いながら手を引っ張り、扉の前で立ち尽くすばかりだった賢治を室内へと引き入れる。

「あっ…すまん…大学でちょっと面倒な仕事を任されて…」

 手を引かれるまま室内へと足を踏み入れた賢治が遅くなった理由について述べると、遥は少しばかり小首を傾げさせてから直ぐにパッと華やいだ笑顔を見せた。

「そっか! おつかれさま!」

 笑顔と共に優しいねぎらいの言葉を贈られた賢治は、先程まで遥に会う事をあれほど躊躇っていた事が嘘の様に気持ちが楽になってゆく。

「あ、あぁ…」

 遥の笑顔はどうしようもないくらいに愛くるしく、その前ではどんな疲れも立ちどころに癒されるというものだった。こんな事ならば一分一秒でも早く遥に会ってこの癒しのひと時を得ればよかったと、そう思いかけた賢治だったがしかし、現実はそこまで甘くはない。

「ねぇ賢治、見て!」

 賢治を室内へと引き入れ終えた遥は、一度正面に向き直って少しはにかんだ様に笑うと、小動物じみた愛らしい仕草で少し後ろの方へピョコッと後退る。

「…何を―」

 賢治は今の今まで、遥を至近距離から見下ろしていたせいでそれに気付かずにいた。しかし、遥が飛び退き距離が開いた事によって、今やそれは賢治の視点からでもハッキリと見て取れる。

「な…なっ!?」

 その視界に、遥の全身を頭の天辺から爪先まで完全に捉えた賢治は、唯々愕然とせずには居られなかった。目の前に立つ遥の出で立ちは、賢治が昼間写真で見たのと違わない、あの艶姿そのままだったのだ。

「どう…かな…?」

 頬を薄いピンクに染めた遥は、これまた写真と同様のちょっとぎこちないギャルピースを構え、尚且つの上目遣いで気恥ずかしそうにしながら問い掛けて来る。賢治はこれに頭がくらくらとするのを感じながらも、改めてその全体像を余すところなく目に焼き込んだ。

 腿の半ばまでしかない短くなった制服のスカート、それによっていつも履いているらしいニーハイソックスとの間に形成された眩いばかりの絶対領域。実際に目の当たりにするその艶姿は、写真などとは比べようもない、正に完全無欠の可愛さだった。

「似合って…ない?」

 賢治が何も言えずただただ呆けてしまっていると、相変わらずピンク色に頬を染めている遥は、これまた相変わらずの上目遣いで改めて感想を求めて来る。

「あっ、その…なんつうか…すごく…い―」

 遥の留まるところを知らない可愛さに完全ノックアウト状態だった賢治は、思わず感じたままに絶賛してしまいそうになったがしかし、それは寸前の所で思い留まった。

 今ここで正直に褒めてしまえば、おそらく遥は嬉々としてその恰好を定着させて、高校にもそれで通う事になるだろう事は想像に難くない。それは、やはり賢治にとって、到底心中穏やかでは居られない事柄だった。

「うぅむ…」

 賢治は今ここで改めて、褒めるべきか、嗜めるべきかという例の究極とも言える二択と対峙する。ただ、先程までひたすらに堂々巡りするだけだったそれは、実際の遥を目の当たりにした今、一方へと大きく傾き始めていた。

 青羽に聞いた話によれば、遥が男子生徒に人気がある事はまず間違いが無い。それに対しては、彼氏持ちの噂や協力を約束してくれた青羽という予防線があるにはあるが、だから安心とは言い難かった。遥がここまで可愛くなってしまった今、色々とお盛んな男子高校生ならば、中には彼氏持ちであろうが構わないとちょっかいを掛けて来る者も現れるかもしれないのだ。

 そもそも、予防線の一つである青羽だって、こうなって来ると全幅の信頼を寄せられるかどうかは少々疑問が残る。いくらあの爽やか青年が「良い奴」でも、今の遥を前にしては、その秘めたる想いをそのまま秘め続けてくれる保証などどこにもありはしないのだ。寧ろこうなった今、一番危惧すべき相手は訳知りの青羽なのかもしれない。

「賢治? どうしたの?」

 賢治が途中で言葉を止めて考え込んでしまった為に、遥は口元に人差し指の背を当て、少し不安そうな顔をして小首を傾げさせる。その表情と仕草は何とも保護欲を掻き立てる可憐さで、この時正に賢治の中で例の選択が一方へと定まった。

 それは、もしかしたらこのどうしようもなく可愛い遥を独り占めしたいという、只の独占欲だったのかもしれない。しかし、それでも、いやだからこそ賢治は、どうしたってこのまま見過ごす事などできはしなかった。遥がこの姿で高校へ通う事を容認するのは、賢治にとって青羽を筆頭にした危険な狼の群れの中に一匹のか弱い羊、いや小兎を放つのも同義なのだ。

「あー…ハル、その…だな…」

 意を決した賢治がゆっくりと口を開くと、先程まで不安そうだった遥の愛らしい大きな瞳がそれと分かる程に期待感を持ってキラキラと輝きを見せる。そんな遥を前に、ともすれば賢治の決意は揺らぎかけたがしかし、それでも選び抜いた選択そのものは変わる事は無かった。

 遥の身を案じればこそだ。自身の気持ちをそう奮い立たせた賢治は、一つ大きく息を吸い込み、遂にその選択を断腸の思いと共に遥へと向って突き付けた。 

「そんな短いスカートは…ダメだ!」

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