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3-29.仰ぐ月

「いやぁ、奏さん本当に教えるの上手で助かったなぁ」

 街灯が点々と灯る夜道を歩きながら、青羽がしみじみとした様子でそんな事を洩らすその横で、隣を歩く楓は俯きながら少しばかり緊張した面持ちを見せていた。

 時間は午後九時を少し回った辺り。青羽と楓は数度の休憩と遥の母親によって振る舞われた夕食を挟みながらの勉強会を終え、今は二人で帰路へと着いていた。遥の家からほど近いバス停までは沙穂も一緒であったが、今は別れて二人きりだ。

「水瀬さんの方は勉強、捗った?」

 自分に向けられた不意の問い掛けに、楓は少しばかりビクリとしながら、遠慮がちに顔を上げ青羽の方を窺い見る。

「えっ…と…ヒナちゃん厳しくって…あんまり…」

 まるで借りて来た猫の様におどおどしながら答える楓に、青羽は優し気な眼差しを向けながらも少し困った顔をして思わず苦笑だ。

「今更そんなに、緊張しなくても…」

 遥の部屋に居た時や、沙穂が一緒だったバス停までは楓もリラックスした様子であったが、二人っきりになった後はずっとこんな調子である。ただ楓にしてみれば、それも無理のない話だ。

 そもそも楓と青羽は同じ中学出身ではあるものの、中学時代は特別に親しかった訳でも無い。お互いに顔と名前は知ってはいたが、言ってしまえばそれだけで、話をする様になったのは高校に上がってからの事だ。それも遥という共通の接点があればこその事で、二人っきりともなれば全くもって勝手が違うというやつである。控えめで大人しい楓が、社交的で女子からの人気も高い青羽に対して気後れしない訳が無かった。

「今日は奏さんを取っちゃってごめんね」

 青羽が少しばかり申し訳なさそうに謝りの言葉を口にすると、楓はびっくりした顔になってあたふたとして左右に大きく首を振る。

「そ、そんなっ、もともと早見くんの為の勉強会だったんだし…」

 遥が青羽にお礼をするという勉強会の趣旨を持ち出した楓は、それからまた俯き加減になりながら僅かに震えた声で言葉を続けた。

「ワタシ…、邪魔…だったよね…ごめんなさい…」

 楓が思いがけず謝りの言葉を返して来たために、青羽は一瞬困惑したが、直ぐにいつも通りの爽やかな笑顔を見せ、かぶりを振ってそれを否定する。

「そんな、全然大丈夫だよ。俺はちゃんと勉強できたし」

 楓には沙穂が付いていた為、結果的に青羽は遥とマンツーマンでしっかり勉強する事が出来たのでこの言葉に嘘偽りはない。青羽の返答に楓は顔を上げて少しだけほっとした表情を見せたがしかし、直ぐに目を伏せまた俯いてしまう。

「で、でも…、早見くんは…カナちゃんと二人っきりが…よかった…よね…?」

 それは消え入りそうで遠慮がちな声ではあったが、青羽をぎょっとさせるには十分すぎる物だった。

「い、いや! そんなこと―」

 楓の発言を慌てて否定しようとした青羽は、今日、賢治に問われてハッキリと自覚するに至った自身の気持ちを顧みる。もし楓が言う様に、遥と二人っきりでの勉強会が成立していたのならば、と。勉強会への同席を最初に言い出したのは沙穂なので、楓が参加しなくとも二人っきりというシチュエーションは成立しなかっただろうが、もしもそれが実現していたのならば、確かにそれは至福の時間になっていただろう事を青羽は否定しきれない。

「俺って…そんなに分かりやすいかな?」

 途中で否定の言葉を止めて考えを巡らせた青羽は、自身の気持ちを確認し大きく溜息を付いて楓に苦笑を見せた。

「それは…その…」

 青羽からの問い掛けに楓は目を伏せたまま複雑な表情を覗かせる。言い淀んだ楓がそのまま黙ってしまうと、二人の間に少しの間気まずい沈黙が静かに横たわった。

 夜道をゆっくりと歩く二人の靴音、時々微かに聞こえて来る近隣の生活音、そして少し離れた場所から響いてくる車の走行音、そんな雑音が微かに流れて来る沈黙をどれほどか経ただろうか。ふと足を止めて顔を上げた楓は、つられて立ち止まった青羽の方へと真っすぐ向き返り、この帰り道で初めて正面からの視線を作った。

「ワタシ…いつも…早見くんの事見てた…から…」

 絞り出す様だったその言葉と、複雑な色合いに揺れる瞳の表情に、青羽は思わずハッとなる。すこし間の抜けている所のある青羽ではあるが、楓の態度と発言が自分に対する「好意」を示す物である事に気付かない程鈍感ではない。ただ、それだけに、青羽はこれに何と答えたら良いのかが分からなかった。

 コミュニケーション巧者であったのならば、これを上手く躱す事も出来たかもしれないがしかし、正直者で真っ直ぐな青羽にそんな器用さの持ち合わせが有る筈も無い。

「…俺…、なんて言ったらいいか…」

 結果として、青羽に出来たのはそんな風に正直に思った事を告げる事だけだった。

「…うん」

 青羽からの曖昧ながらも決して色よいとは言えない返答を得た楓は、複雑な表情で小さく頷きを返しながら、視線を逸らすようにして不意に夜空を仰ぎ見る。

「月が…きれい…」

 ぽつりと呟かれたその言葉に釣られて青羽も上空へと視線を向ければ、まばらな星の真ん中には確かに大きな丸い月がくっきりと浮かび上がっていた。

「本当だ…、今日は満月だね」

 二人はそのまま、それぞれに複雑な心境を抱きながら、しばし黙ってただ月を仰ぎ見る。それからややあって、先に視線を戻したのは楓の方だった。

「早見くん…、あの…ね…」

 楓は遠慮がちに口を開き、青羽もそれに反応して再び向き合い、黙ってその言葉の続きを待つ。

「入学式の時…、早見君がワタシに、友達が出来て良かったねって、そう言ってくれたこと…、ワタシすごく嬉しかったの…」

 たどたどしく話し始めた楓の瞳は、頼りなさげにゆらゆらと揺れながらも、薄暗い街灯の明かりを眼鏡越しに透かして、キラキラと明るく輝いていた。

「こんな…地味で目立たないワタシなのに…、それでも早見くんは、知っててくれたんだって、気に掛けてくれてたんだって…、その事が本当に…本当に、うれしくて…だから…だから…ワタシ…」

 自身の胸の内を確かめるようにして、ゆっくりと気持ちを紡いでいった楓は、そこで言葉に詰まって目を泳がせる。

「水瀬さん…」

 遠慮がちな言葉、僅かに強張った表情、そしてそこに込められた想い。楓が今自分に向けている気持ちを真っ向から受け取った青羽だったが、依然として何と言葉を返したらいいのかが分からなかった。

 女の子から思いを寄せられ、またそれを告げられる機会の多い青羽ではあるものの、だからと言ってその対応に慣れている訳ではないのだ。

「ごめん…俺は―」

 せめて誠実であろうと、自分の言葉で、自分の正直な気持ちを告げようとした青羽だったが、意外にも楓が笑顔でそれを遮った。

「カナちゃんとの事は、頑張ってって言えないけど…、ワタシ、その…応援してる!」

 少しぎこちなかった笑顔と、思いがけなかった言葉に、青羽は驚きを隠せず、つい「えっ?」と問い返してしまう。それに対して楓は自身の発言が矛盾している事に気付いたのかあたふたとした様子になった。

「あ、あの、カナちゃんには好きな人がいて、ワタシはカナちゃんの友達だから…、カナちゃんに幸せになって欲しくて…、で、でも早見くんの事も、その…あの…応援…したくて…」

 慌てて弁解しようと若干余計な事を口走ってしまった楓に、青羽は思わず苦笑しながらも、その単純には割り切れない気持ちを汲み取って頷きを返す。

「ありがとう、水瀬さん…」

 感謝の言葉を述べながら、先程見上げた月や、それに対して楓が洩らした感嘆を思い返した青羽の脳裏に、ふと勉強会の最中に遥が何気なく教えてくれたある逸話が蘇った。

 それは、青羽が英語科目の翻訳問題に取り掛かっていた時の事だ。遥は勉強には関係ない与太話と題して、昔どこかの誰かが「I Love You」を「月が綺麗ですね」と、そう訳したのだと、そんな事を語って聞かせてくれたのだった。

 その話を聞いた直後、昔の人は随分と奥ゆかしくもロマンチックなものだと、ただ感心しただけの青羽だったが、今その情感に満ちた表現は、どことなくしっくりと来るものがある。

 遥を陰ながら助けると決め、その幸せをひっそりと願う自分や、自分に好意を向けながらも遥への想いを応援すると言ってくれた楓。そんな自分達に「月が綺麗ですね」というその遠回しな気持ちの告げ方は、何かピッタリと当てはまっている様に感じられたのだ。

「水瀬さん…」

 青羽は胸に暖かい物を感じながら、未だあたふたとして視線を泳がせている楓へと真っ直ぐな眼差しを向ける。

「気持ち、凄く嬉しかったよ」

 勉強会の最中は自身の事で一杯一杯だった楓が、横でされていた遥の与太話を聞いて覚えていたかどうかは定かではない。さっき楓が洩らした感嘆は、単純に見上げた月が本当に綺麗で、ただ何となく口にしただけの言葉だったのかもしれない。それでも青羽は、あの言葉は楓が一生懸命に気持ちを伝えてくれた物なのだと、そう思えていた。

「早見くん…?」

 楓がびっくりした様子で不思議そうな顔をすると、青羽は極めて真剣な面持ちになってその場で深々と頭を下げる。

「でも、ごめん、俺、やっぱり奏さんが好きだから!」

 青羽の告げたそれは、楓の臆病で控えめな性格と、その少し複雑な立場と、そして自分に向けられた好意を認めた上での、今もてる誠意をありったけに込めた、今できる精一杯のものだった。

「早見くん…」

 少し震えたその声に青羽がゆっくりと顔を上げると、楓は少しだけ寂し気な表情をしながら、また空に浮かぶ満ち足りた月を仰ぎ見る。

「本当に、今日は月がきれいだね…」

 呟く様にそうこぼした楓に、青羽はもう先程の様に応えられはしなかった。青羽が何も答えられず、ただ沈黙していると、楓は視線を戻してどこかスッキリした様子で笑顔をのぞかせた。

「ワタシ、先に帰るね!」

 そう告げた楓は、青羽の返事も待たず、その場でくるりと背中を向け、半ば駆ける様にして足早に歩き出した。青羽には、そんな楓の後を追う事など今や到底能うはずもない。青羽に出来た事は、遠ざかってゆくその背中を、ただ黙って見送る事、それだけだった。

 楓の姿が見えなくなるまで、青羽がその場から動けず只立ち尽くしていると、そんな折に、ジャケットのポケットに入れていたスマホが短く鳴動した。若干放心気味だった青羽が我に返ってスマホを取り出し画面を確認すれば、そこには遥からこんな一文のメッセージが送られて来ていた。

『今日はおつかれさま。テストまで放課後は図書室でヒナとミナと一緒に勉強してるから、部活が休みになったら早見君も参加してね』

 そして立て続けに「おやすみなさい」と丸っこい書体で書かれた口元のバッテン印が可愛らしいファンシーなキャラクタースタンプが送られてくる。

「奏さん…」

 本人の知るところでは無いとしても、遥は間違いなく今日青羽が直面した彼是の中心にいた人物だ。賢治も、沙穂も、楓も、そして青羽自身も、その気持ちの真ん中には常に遥の存在が置かれていた。しかし遥自身はそうとは知らぬが故に、全くもって能天気な事この上ない様子である。

 そんな遥からのメッセージは、青羽に何やら妙な疲労感を覚えさせ、自宅へと向かうその足取りを、少しばかり重いものへと変えた事は、また本人の与り知らぬ所であった。

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