3-18.実行
放課後に晃人と会談した翌日、遥は一日間を置いたことと、昨日練り上げられた計画が実行されれば間もなく不安も解消されるだろうという安心感から、今日は普段通り教室で過ごしていた。
「もうすぐゴールデンウィークだねー!」
一限目を終えた休み時間、思い出した様にそんな事を言い出した楓は、間もなくやって来る五月の連休に今からウキウキとした様子で眼鏡の奥で瞳をキラキラと輝かせる。
「今年はすごい半端だけどねぇ…」
沙穂は楓と違って余り連休を楽しみにしている風はなく、むしろ若干うんざりとすらしていた様子だった。この年は五月の祝日が土日と隣接しておらず月曜と金曜には通常通り授業を受けに登校しなければならない。その上遥達の通う高校は学力向上を名目に隔週で土曜授業を実施しているので、四月末は金曜が祝日、土曜が授業という流れになっており、実質ゴールデンウィークの連休は憲法記念日から始まる五月頭の三日間だけなのだ。こんなスケジュールでは到底ゴールデンとは呼べる筈もなく沙穂がうんざりするのも仕方が無いだろう。
「三連休は二人とも何か予定有るの?」
遥が何気なく問いかけると、沙穂はまた少しうんざりとした表情で小さく溜息を付いた。
「あたしは泊まりで家族と温泉。毎年恒例なのよねぇ…」
それに対して余り前向きではない沙穂の言い様に遥は思わず小さく苦笑する。沙穂は別段家族仲が悪い訳ではない様だが、高校生にもなって家族旅行に参加しなければならないというその如何にも思春期らしい微妙な心境は、遥にも何となく理解できるところだ。
「ヒナは家族で温泉かぁ。ミナは? どこか行くの?」
沙穂の解答を得た遥が続いて再度の質問を投げ掛けると、楓は目を輝かせ身を乗り出して来た。
「ワタシも泊まりで出掛けるの! 好きなアニメのイベントに参加するんだー!」
そんな事を言って興奮気味ですらある楓の様子に、沙穂は苦笑しながら「ほんと好きねぇ…」と若干のあきれ顔だ。沙穂は多少の漫画程度なら読みはするものの、アニメともなると今一つ理解の範疇を外れているらしい。
「アニメのイベントってどんな事するの?」
遥もその手のコンテンツには余り明るく無い為、質問したのは軽い好奇心でしかなかったのだがしかし、それを受けた楓は今まで以上に瞳を輝かせ、火が付いたように猛烈な勢いで語り始めた。
「あのね! イベントは出演声優さんのトークショーがメインなんだけどね! あっ、ワタシは主演の細野政義さんっていう声優さんが大好きでー、細野さんは超イケボでもう声を聞いてるだけで耳が幸せっていうかー! もうとにかく最高なの! あっ、それからヒロイン役の上原かすみちゃんがまたすっごく可愛くてー! それでねそれでね―」
水を得た魚の如く一気にまくしたてる楓の様子に遥と沙穂はただただ圧倒されるばかりである。それから更に興奮度合いを増していく楓のアニメトークは小芝居を交えた名場面再現にまで及び、実際にそのアニメを見ていない遥と沙穂はひたすら曖昧な相槌を返すより他なかった。
「ほんと超名作でね! もう今からイベントが楽しみでしょうがないんだー!」
心行くまでアニメと出演声優の魅力について語り終えた楓がようやく話を締めくくると、沙穂が呆れ果てて逆に感心した顔で苦笑する。
「ミナは人生楽しそうねぇ」
その若干皮肉成分が含まれた言い様に、楓ははっと我に返った顔になったかと思うと見る見るうちに顔が真っ赤に染まって行った。
「ご、ご、ごめんね! ワタシ好きな事になるとつい…」
楓の慌てた様子に遥は苦笑しながらも、自分にこれ程夢中になれる物があるのだろうかと、ふとそんな事を考えてしまう。遥の趣味と言えばせいぜい読書くらいのもので、それだって今し方楓が見せた程の熱量で取り組んでる訳ではない。
「そ、そういえばカナちゃんは連休どうするの? どこか行くの?」
今度は楓の方から軌道修正を兼ねて大本の質問を投げ返してきたが、遥の連休中のスケジュールは何の予定も無く空白だ。遥はゴールデンウィークの話題が出た時点では、もし沙穂と楓に予定が無ければ連休中は三人でどこかへ遊びに出かけたいと、そんな事を考えたものの二人に予定があると判明した以上それも完全に白紙である。
「ボクは今のところ未定かなぁ…」
少々残念そうにする遥の解答を受けて、沙穂はニヤっと笑ったかと思うと、周囲にも聞こえる様に突然声のボリュームを一段上げた。
「幼馴染の彼と二人でどこか出掛けたらどう?」
沙穂の提案に楓も「おぉ」と感嘆の声を上げて、沙穂同様に聞こえよがしになる。
「それいいと思う! 折角の連休なんだもん、デートに最適だよ!」
デートという単語に一瞬ぎょっとした遥ではあったが、沙穂と楓の目配せを受け、慌てながらもハッキリとした声でそれを肯定した。
「う、うん、そうだね!」
このやり取りを耳にしていたクラスの男子生徒達に少なからず動揺が走ったのを、勘の良い沙穂は見逃さず、一層声高らかになる。
「折角だから、二人でお泊りとかしちゃいなよ!」
賢治と二人っきりでお泊りというシチュエーションを思い浮かべて、堪らず顔が熱くなる遥だったがしかし、ここで言い淀む訳には行かない。突然始まったこの如何にもわざとらしい一連のやり取りは、当然の事ながら昨日晃人と打ち合わせた計画の内で、成果を確実なものとするための布石に他ならないからだ。
「さ、誘ってみよう…かな!」
実際にそれを実行するかどうかはともかくとして、口裏を合わせつつも遥の内心はドキドキである。遥と賢治のこれまでの長い付き合いの中でも、二人っきりでどこかへ泊まりに行くという経験は無く、その上賢治は今や遥にとって特別な意味で好きな相手なのだ。
そんな遥の初心な恋心はともかくとして、これで一先ず計画の第一段階は完了である。クラスの男子達が遥達をチラチラと見やりながら、何か複雑な表情をしたり、ヒソヒソと何やら囁き合っている所を見れば成果は上々と言えるだろう。
遥達が大体の布石を打ち終わったところで、休み時間の終了と二限目の開始を告げるチャイムが鳴り響き、中邑教諭が教室内に姿を現した。
「よーし、始めるぞー」
中邑教諭の登場を認め、生徒達が慌ただしく自分の席へ戻っていくと、日直に依る起立礼の号令を経て授業が開始される。この二限目が終われば次の休み時間には、いよいよ計画の本筋が実行される予定だ。その事を考えると授業に全く身が入らず完全に上の空だった遥が、中邑教諭の逆鱗に触れかけたのは多少のご愛敬である。
二限目を終えいよいよ計画の大詰めが目前に差し迫った次の休み時間、三限目の授業は体育の為、見学の遥を除いてクラス全員が体操着に着替えグラウンドへと出ていた。
因みに体育は男女別でニクラス合同の為、この場には美乃梨のクラスであるA組の面々も居合わせているが、計画に際しては目撃者が多くて困る事は無いので何の問題もない。また、今日が男女ともに体育館を利用しないグラウンドでの授業である事も勿論織り込み済みだ。
「カナ、塩梅はどう?」
グラウンド脇の木陰に控えている遥がこの後の手筈を頭の中でシミュレーションしている最中、体操着姿の沙穂が楓を伴い問い掛けと共に傍までやって来た。
「えっと…、もうすぐだと思う」
手にしていたスマホをチラリと見やった遥の回答を得て、沙穂はほっとした表情を見せるが、その横では楓が何やらソワソワとして若干の挙動不審気味になる。
「き、緊張するね…」
楓のそんな言葉と様子に遥も緊張を煽られ、堪らず心拍数が幾分か早くなった。
「う、うん…」
今からの事を考えると少々気が重い遥だが、忙しい身分でありながら協力してくれた晃人の労に報いる為、そして何より今後の安心安全な高校生活の為にも何としても計画は成功させなければならない。
「頑張らなきゃ…」
間もなくやって来るであろうその瞬間を、遥がいまかいまかと待ちわびていると、その訪れは少々意外な人物によってもたらされた。
「おー、紬じゃないか!」
張り上げられたその大きな声に遥達は勿論、グラウンドに居た生徒ほぼ全員の視線が一斉に集まってゆく。見ればその声の主は、体育の指導に当たろうと今し方校舎から出て来た菅沼教諭だ。遥が以前復学に先立つ面談の際世話になったあの若い男性体育教師である。
菅沼教諭の介入は遥達の予定にはなく、声が大きかったのは単純に距離が離れている相手に対してだったからだろうが、これは図らずも遥達の計画をよりスムーズに進行する事に一役買ってくれた。
生徒の注目を知ってか知らずか、菅沼教諭がゆっくり校門の方まで進んで行くと、それに呼応する様に門の陰から賢治がひょっこり顔を出し丁寧なお辞儀を見せる。
「あれ!? 賢治さん…!?」
そんな声を上げたのはグラウンドから目聡く賢治の姿を見つけた美乃梨だった。ただしこれは遥達、というよりも晃人の仕込みだ。
「何あの人ヤバくない? 超イケメンなんだけど」
美乃梨の声に釣られて正門の方を見やった一人の女生徒の発言に、今度はグラウンドに居た生徒達の視線が連鎖的に賢治の方へと集まってゆく。賢治の登場とそれに集まる視線、もうこうなれば遥達の計画は成功目前だ。
「カナちゃん…!」
気の早い楓がもう目的は達成されたかのような満面の笑顔で身を乗り出してくると、沙穂がまだ早いとそれを嗜める。
「あとはカナ次第よ…」
沙穂の言葉度通り、この後は遥の行動如何によって計画の正否は大きく左右されるといっても過言ではない。
「う、うん…」
遥が必死で心を落ち着け準備を整える一方で、賢治の元まで歩み寄った菅沼教諭は二三言葉を交わしたかと思うと、グラウンドの方へと向き直り誰か探す様に視線を泳がせる。その誰かは遥の事で間違いが無い筈だ。
「よし…!」
遥は意を決して菅沼教諭の目に留まる様にと一歩進み出る。
「おー、いたいた! 奏、お迎えが来てるぞ!」
遥の思惑通り目的の人物を見つけた菅沼教諭の大きな呼びかけに、今度は生徒達の視線が遥へと一斉に集まった。自分に集まる視線に遥は思わずたじろいでしまうも、沙穂と楓がその気遅れた気持ちを後押しする。
「ほら、行っといで!」
「カナちゃん頑張って!」
二人に背中を押された遥は、沙穂と楓に目配せと頷きを見せてその気持ちに弾みをつけ、そして校門で待つ賢治の方へと向かって真っすぐに駆けだした。
「おっ…ハルー!」
笑顔で呼びかけて来る賢治との距離が近づくにつれ、遥はともすれば今直ぐ踵を返して沙穂と楓の元に逃げ戻りたい衝動に駆られるがしかし、これまでの経過を無駄にしてしまう訳には勿論行かない。眼前に迫った賢治の姿を前に覚悟を決めた遥は、先程付けた気持ちの弾みと、そして駆け寄る勢いそのままに、思いっ切り賢治の胸へと飛び込んでゆく。
「賢治!」
勢いに任せぶつかる様に全身を預けた遥はそのまま賢治の身体にぎゅっとしがみ付いた。
「お、おい…ハル…?」
その突然の行動に賢治は少なからず戸惑いを見せるが、遥は構わず引き続き身を寄せ賢治のお腹辺りに顔をうずめさせる。遥の胸の内ではドキドキが止まらず顔から火が出そうな勢いではあったが、これは計画を確実な物とするためには必要な事柄なのだ。
「あー! 賢治さんまた遥ちゃんとベタベタしてー!」
一連の様子を目にしていた美乃梨の張り上げた憤慨の声を切っ掛けに、グラウンドのあちこちから二人の関係が只ならぬ物なのではないかと彼是と推測する様々な声が幾つも上がる。何もない平時に二人を見れば、大抵の者は兄妹関係を想像しただろうが、クラスメイト達には先の休み時間で遥達が蒔いた種がしっかりと植え付けられているのだ。その上先程菅沼教諭が「紬」と賢治の名字を呼んだ事が功を奏してその可能性を完全に排除してくれる形となっていた。
本来ならば賢治の名字を呼ぶのは美乃梨の役割だった筈なのだが、普段の習慣かからついいつもの呼び方をしてしまっていたのは若干の計算外で失敗である。ともあれ菅沼教諭の意図しないファインプレーに助けられる形で目的は達せられているので結果オーライだ。
「それじゃあ紬、奏を頼んだぞ」
しがみ付く遥の様子にどこか微笑ましい視線を送っていた菅沼教諭が、元教え子に現教え子を託してグラウンドの方へと向かって行くと、遥はここでようやく抱き着きを解除して賢治から身体を離した。
「い、行こっ!」
公衆の面前で大好きな人に抱き着くという大胆行動に羞恥心の限界だった遥は、早くこの場を離れたい一心で、真っ赤な顔を俯かせながら賢治に先立ちそそくさと歩き出す。
「お…おう…」
後を追って来る賢治は状況に置いてきぼりで困惑頻りといった様子ではあるが、一先ずこれで計画はほぼ完了だ。後は仕上げに沙穂と楓が、二人はどうも恋人であるらしいとクラスメイト達にそれとなくほのめかす手筈になっている。この辺りは沙穂が主導して上手くやってくれる事だろう。
「ふぅ…」
正門の脇に駐車してあった賢治の車の助手席に乗り込んだ遥は、大仕事を無事終えられた事と、同級生達の注目から逃れられた事にほっとして大きく息を吐く。
「さっきはどうしたんだ? 突然その…抱き着いてきたりして…」
やや遅れて運転席に乗り込んできた賢治は、先程の事に疑問を持って戸惑った様子で首を傾げさせた。当初の予定通り、賢治には恋人役に任命されている事を知らせてはいないので尤もな疑問である。賢治はただ今日病院で受ける月一の定期検査に行くために、この時間に学校まで迎えに来て欲しいとしか伝え聞いていないのだ。
「えっと…ね…、高校には賢治がいないから…その…何か嬉しくなっちゃって…」
賢治にネタバラシをする訳には行かない遥が、何とか捻り出してみたその言い訳は若干恋心が漏れ気味であるが、今し方の事で一杯一杯だった為そこまで頭が回ってはいない。
「そういう事か…」
賢治は賢治でその持ち前の鈍さから遥の恋心には一切気付かず、説明にも納得がいった様で、少し遠い目をしながら笑顔を見せる。そして賢治はお決まりの様に遥のふわふわした髪を少し乱暴にかき乱した。
「あわっ」
賢治に触れられ思わず顔が熱くなってしまう遥だったが、先程の件はもうこれ以上追及される心配はなさそうなので、それに関しては一安心だろう。ここで深く追求されて賢治に事情を説明する羽目になっては、わざわざ面倒な条件を織り込んだ計画を練ってくれた晃人の労力が報われないという物だ。
「よし、それじゃ行くか」
遥の頭をひとしきり撫でた賢治は、本来の目的を果たすべく、エンジンを始動させ病院へ向かって車を発進させる。動き出した車内で遥は乱された髪を整えながら、チラリと横目で賢治を窺い小さく笑みをこぼした。本人は与り知らぬとは言え、これで周りからは公認カップルとして認識されたのだと思うと少し嬉しかったのだ。勿論ゆくゆくは賢治本人にも認めてもらい、本当の恋人同士になりたいところではあるが、それはまだ初心な遥には少々の高望みであった。
「賢治、ありがとね」
遥がちょっとはにかんだ笑顔で感謝の気持ちを告げると、運転中の賢治は前を向いたまま「ああ」と短く応え頷きを返す。遥の「ありがとう」には、計画の一端を担ってくれた事、大学があるにも拘わらず頼みを聞いて迎えに来てくれた事、それからこうして一緒に居てくれるただそれだけの事、そんな色々な意味が込められていたが、賢治はそれを知る由もない。
賢治の運転する車は徐々に学校から遠ざかり、校舎の影も完全に見えなくなると遥は少々ぐったりとして助手席のシートにもたれ掛かる。
「何か…疲れた…」
ごく小さな声で独り言を洩らした遥は、計画を滞りなく実行できた安心感と、幾分も上がっていた心拍数から心身ともに強い疲労感を感じ、そのまま病院に辿り着くまでの間はしばしの眠りに落ちたのだった。
こうして、青羽考案晃人協力による計画は、遥の希望通り賢治にその実情を知られる事無くここに無事完遂である。これで恐らく遥を我が物にしようという無謀な考えは、少なくともあの場にいたクラスの男子達からは一掃されたはずで、遥の安心安全な高校生活は当面の間確保される事となり、これによって男子生徒不信も解消されて一件落着だ。
因みに、教室に戻った遥が、好奇心旺盛な主に女子達から、あれやこれやと尋ねられた事は言うまでもないが、これに関しては沙穂と楓が上手く取り纏めてくれたために、遥は少々気まずい思いをした程度だった。




