3-13.甘い罠
帰宅して夕食を済ませた遥はその後、賢治の部屋を訪れ、今はベッドの上にちょこんと座って、目の前の椅子に腰かける賢治をただじっと見つめていた。
賢治の部屋という男の子時代の思い出が多い場所もあってか今はもう割と冷静で、むやみやたらとドキドキしたりはしていないが、それよりも少々困った事がある。つい勢いで賢治に甘えると宣言してしまったものの、いざとなると中々それを切り出せないでいるのだ。
「うーん…」
遥としては冷静でいられるかどうかという問題はさておき、男の賢治にベタベタと甘える事自体には抵抗感がない。元男同士だったという過去や未だ残る男の子としての自意識を鑑みれば楓が言った様に倒錯的ではあるのだが、それ以上に賢治に引っ付いていられると遥は相変わらずものすごく安心できるのだ。それ故に今は胸の内にある恋心とも相まって、積極的にくっついて行きたいという欲求すらもある。
因みに遥がしてみたい甘え方ランキングの一位は、昼間美乃梨がしてくれたように膝の上でぎゅっとしてもらうという実に可愛らしくも微笑ましい代物だ。尤も帰宅の際みせていた余りの初々しさから考えればそれでも随分と大胆になったものだろう。
「うぬぅー…」
遥の願望はそんな感じの傍から見れば大変ささやかな物ではあるのだが、賢治が男同士の親友という立ち位置を固持している以上それすら中々言い出せないでいるのが現状だ。
遥は以前賢治が苦し紛れに、男同士でベタベタするのは抵抗が有ると言った事を未だ真に受けており、それは遥にとっては一種の呪いの言葉だった。それは当然遥を愛しく思っている賢治にとってもある種の楔のような物で、それが無ければ二人の関係は今頃もう少し進展を見せていたかもしれない。ただ賢治の場合は自身で口にした事なのでそれについては完全に身から出た錆だ。
そんな自分の大失策に全く気付いていない賢治は、遥が部屋を訪れて以来じっと見つめて来るばかりで、一向に何も言わない為に少し困った顔で苦笑する。
「ハル、別に甘えたい事がなきゃ、無理しなくてもいいんだぞ?」
遥の助けになる事が目的である賢治にしてみれば、その事で遥が無用に悩んでしまうとなれば本末転倒も良い所だ。賢治がこの話は無かった事にしようという素振りを見せた為に遥はちょっと焦ってしまった。
「ちがっ…! あるの! あるんだけどぉ…」
賢治の思い違いを否定しつつも、遥は自分が甘えたい内容を頭の中で思い浮かべて、思わず顔が熱くなって言い淀んでしまう。いくら今はそれなりに冷静で、傍から見れば微笑ましい程度のお願いとはいえ初心な恋心にかかれば、それだって少なからず勇気を振り絞らねばならない一大事だ。
「何か言いにくい事…か?」
遥が赤くなってもじもじし出した為に、賢治はそれが何か切り出しにくい恥ずかしい事柄なのかもしれないと想像した様だった。賢治が男同士の過度なスキンシップを嫌がるかもしれないという例の呪いもあって、確かに親友にひっついて甘えたい等と言う遥の願望は中々に要求しにくい物には違いない。
「うー…」
言いにくい事と題されて殊更言い出しにくくなってしまった遥が、何もそんな言い方しなくても、と半ば八つ当たり気味に賢治を睨んでいると、当の賢治の方が何か思い付いた顔をしてからやけに神妙な面持ちになった。
「もしかして…その…アレ…か?」
賢治は何やら勿体ぶる様にしてそんな漠然とした事を言ってきたが、遥は意味がよく分からず小首を傾げてしまう。
「えっ…? アレって…?」
遥が不思議そうな顔をして疑問を投げ返すと、賢治は自分の考えが見当違いであると悟って、かなり慌てた様子でかぶりを振った。
「い、いや、違うならいいんだ! 気にしないでくれ!」
賢治はそう言うものの、全く話の見えない遥としては承服できず、しきりに首を傾げて一体何の事だろうかと考え込んでしまう。ただ、キーワードは「アレ」という単語だけなので、そんな広義な言葉から察せられるものは早々にありはしない。しばらく考えて遥は答えを諦めかけたがしかし、不意に正解と思われる事柄に行きついて思わず耳まで真っ赤になった。
「ちょっ! ち、違うよ賢治! 何言ってんの!?」
今度は遥が大慌てする番だ。
「だ、大体ボクまだ始まって―」
そこまで言いかけた遥は何やら要らぬ墓穴を掘ってしまった事に気付いて、堪らずベッドに倒れ込み賢治の布団に顔を埋もれさせる。詰まるところ遥が思い至ったアレとは俗に言う女の子の日と呼ばれるアレなのだ。純朴な遥にしてみれば女体の神秘とでも言うべきその事柄は、今後それが自身の身に起こる事なのだと理解しつつも、むしろだからこそ相当に恥ずかしい話題と言える。
「その…すまん…。ハルもそろそろそうなのかと…」
賢治が考え付いた事もやはり遥と同様だった様でバツが悪そうに謝罪をするが、それと共に無用な追い打ちを掛けてしまっていた。
「やめてーっ…!」
遥は少々無神経な親友の発言に顔を伏せたまま足をバタバタとさせ悶絶する。
「もしそうでも賢治にそんな事相談しないよぉ…」
ひとしきり悶絶した遥が恨めしそうに弱々しく抗議すると、賢治も確かにそれはそうだと納得して頷く事頻りだった。
「すまん…ハルの言う通りだ。俺がどうかしてたよ…」
親友という立場から、遥の悩み事なら何でも相談に乗れるという一種の自負心の様な物があった賢治だが、件の事柄に関して言えば、相談されたところで男の身の上にはどうしようもな事である。
相手が遥だという安心感や、以前の男同士だった頃の感覚から、ついデリカシーなくデリケートな話題に突っ込んでしまった賢治は今になってかなりの気まずさを覚えながらも、ふとある事に思い至っていた。
「ハルは…もう女の子…何だよな…」
賢治が突然そんな呟きをぽつりと洩らす。
「だから―」
その言葉を更なる追い打ちのように受け取った遥はガバッと起き上がり、捨て身の反論をしようとしたがしかし、賢治の真面目で寂し気な面持ちを目にして、直ぐにそれが別の事柄であると気が付いた。
「急に…どうしたの…?」
突然気落ちしたその様子に不安になった遥は、伏し目がちに賢治を上目で見やって一層不安になってしまう。覗き込んだその瞳はどこか遠い所を見ている様だったのだ。
「あ、あのね…ボクだって賢治が思ってる事…知りたいよ…?」
それが自分に起因しているのならば尚更の事だ。遥が身を乗り出して袖を引っ張ると、賢治は小さく息を吐いて遥へと焦点を合わせた。
「あぁ…そうだな…」
賢治は呟く様にそう言うと普段の落ち着いた笑みを繕って、遥の頭に触れその少し癖のあるふわふわとした髪を軽くかき乱す。そしてまた小さく息を吐いて、賢治は自身の心境を遥へと打ち明けた。
「これから先、男の俺じゃ力になれない事が、どんどん増えていくのかもしれないと、そう思うとちょっとな…」
遥は賢治の言葉にはっとなる。それは図らずも遥の立っているその足元のおぼつかなさを浮き彫りにする物だったのだ。女の子として生きて行くと覚悟を決め、普通の女の子でありたかったと、そう願いすらした今でも、元男の子である遥にとってその道筋が余りに不鮮明である事は今更改めて言うまでもない。
件の事柄はその最たる物だとして、これから先遥が今の身体で生活して行く上では、それ以外にも大小様々な女の子特有とされる問題が何かにつけて付いて回る事になるだろう。賢治はその事に気付き、そしてそれは男である自分の手には余る事柄なのではないかと、そんな事を考えていたのだ。
「これからハルを助けていくのは…、俺なんかじゃなくて、美乃梨や、今日会った二人みたいな同じ女の子の友達なのかもな…」
そう言って寂しさを増した賢治の表情は、遥に今や自分は間違いなく賢治とは「違う」生き物なのだという現実を改めて突き付けていた。その事柄はともすれば遥の決して強くはない心を揺さぶりかねない物だったがしかし、遥の覚悟と決意はもうかつての様に容易に揺らいだりはしない。遥には今、賢治と同じ生き物で無いのだとしても、むしろだからこそ女の子でありたいとそう強く願えるだけの想いがあった。
遥は真っ直ぐ賢治の瞳を見据え、心が暖かく花やいでいくのを感じながらその情景を体現するかのように鮮やかな笑顔を咲き誇らせる。
「それでもボクは、賢治の傍に居たいよ」
遥が大輪の笑顔と共に告げたそれはともすれば愛の告白その物だった。しかし、それは賢治にとっては違える事の無い遥と交わした絶対の誓いに他ならない。
「約束…したもんな」
真っ直ぐ見つめ返して来た賢治のそんな返答に、遥は自身が無意識に告白してしまっていた事や、それが伝わっていない事にも気付かず、ただただ気持ちが暖かく満たされていった。
しばらくそのまま賢治と視線を交わしていた遥はふと、もしかしてこの流れなら上手く甘えられるかもしれないと、そんな事を思い付く。
「ねぇ、賢治…」
思い付いたからには即実行とばかりに遥は頭をフル回転させ、まずは手始めに賢治からスッと目線を外して少しばかり頬を膨らませて見せた。
「賢治は約束だから一緒に居てくれるの?」
それまで心を通わせるように穏やかに見つめ合っていた筈の遥が見せたこの突然の不機嫌顔に、当然賢治はかなり困惑だ。
「それは…」
賢治が戸惑った様子で言葉を探していると、遥は駄目押しする様にフッと目を伏せて少しばかり寂し気な表情を作って見せる。
「約束が無かったら…一緒に居てくれないの…?」
そんな遥の態度と言い様に、賢治は少々慌てて思わず前のめりになった。
「お、俺は約束が無くったって勿論そうしたい!」
真に迫る賢治の勢いに、遥はドキッとしながらも「ふーん」と釣れない態度をとって、これならいけると確信を持ち、パッと明るい表情で愛らしく笑う。
「じゃあ賢治、こっち来て?」
遥は最後の仕上げとばかりに少々甘えた声を出して、自分の座るベッドの横をポンポンと手で叩き賢治を自分の傍へと招き寄せた。
「お、おう…」
賢治は何やら急に小悪魔じみてきたその様子に戸惑いながらも、遥の望みとあっては致し方なく大人しくそれに従い遥の横へと腰を下ろす。
「フフッ」
自分の横に座った賢治を見て満足げに笑った遥は、ピョコッとベッドから飛び降りたかと思うと、次には正面に回って賢治の膝の上へとよじ登った。
「なっ…!?」
その突然な行動に賢治はぎょっとしてかなりの困惑模様であるが、遥は構わずそのまま膝の上にアヒル座りで腰を下ろし、更には腕を回してぎゅっとしがみつく。本当ならば賢治の方からぎゅっとして欲しい所ではあるが、流石にそれは無理そうだった為に遥は自分から抱き着く事にしたのだ。
「は、ハル…ど、どうしたんだ…?」
賢治が若干上ずった声で問い掛けると、遥はちょっと赤くなった顔で賢治を見上げて悪戯っぽく笑った。
「だって、甘えさせてくれるんでしょ?」
遥は思惑通り賢治に甘えられた事と、当初想定していた賢治を慌てさせるという、そもそもの目的を両方とも達成して、これは大成功だと一人したり顔だ。
「た、確かに甘えてくれとは言ったが…」
あくまで相談事に乗るという意味合いで「甘えて欲しい」と言っていた賢治としては完全に想定外の形である。
「約束したし…、ねっ、いいでしょ?」
遥が若干潤んだ瞳で哀願の眼差しを向けると、賢治は「あ、ああ…」となし崩し的に膝に乗る遥の抱き着きを容認せざるを得なくなった。遥からそんな風にしてお願いされてしまっては、賢治に抗う術等ありはしないのだ。
「…まあ…たまには…良いか…?」
遥を愛しく思っている以上、賢治としても少々冷静に考えて見ればこの状況は中々どうして満更でも無い。何か良くは分からないが役得なのかもしれないと、そのままその状況を甘受しようとした賢治だったがしかし、次の瞬間到底看過できない重大な問題がその身に起こってしまった。
「なっ…!?」
賢治は我が身に起こった異変を察知して思わず顔を青ざめさせる。その異変は今正に遥がお尻を預けているその真下、賢治の身体に備わる現在の遥には無い、男の象徴たる部位に起ころうとしていた。いくら賢治が幼女に劣情を抱かない真人間とは言え、遥は愛しく思っている相手なのだ。そんな遥が妙に女の子じみた態度を見せて、その柔らかな身体の感触がつぶさに感じられるほどにぴったりと身体を密着させてきたとなれば、健全な男子としては反応してしまうのも無理のない話である。しかしそうは言っても、膝の上に遥が乗っているこの状態でそれが本格化すれば気まずいどころの騒ぎではない。
「やっぱり賢治の匂い安心する…」
大変な事になっているとはつゆ知らず、遥が胸板に頬ずりするようにしてとんでもなく破壊力のある言葉を口にした為に、賢治の理性は危うく何処かへと吹き飛びそうになった。しかしその刹那、賢治の脳裏に辰巳の顔と『性的な事は育つまで待て』と以前温泉で言われた言葉が鮮明になって蘇る。
「くっ…!」
賢治は偉大な兄貴分の訓示によってなんとかこの場は寸前の所で一線を踏みとどまったが、それでも未だその身体は予断を許さぬ状態だ。
「んぅ…」
問題点の真上で遥が僅かに身じろぎをしてどこか夢心地でそんな声を漏らすと、これは一種の拷問なのではないかとすら賢治には思えて来る。しかし一度認めてしまった手前もう今更遥を無理に引きはがす事もできはしなかった。
傍から見れば密かに好意を寄せる娘を膝に乗せ抱き着かれるという甘いシチュエーションで、賢治自身も一瞬はそう思い掛けたのだが、今となってみればそんな考えこそが正に甘く、状況は過酷その物である。
「ぬぐぅ…!」
結局遥が満足するまでその状態を強いられた賢治は、辰巳の教えと遥を身も心も傷つけはしないと誓った在りし日の決意を拠り所に、遥はまだ子供も産めない純然たる幼女だと必死になって自身に言い聞かせ、生殺しという名の拷問を何とかかんとか耐え凌いだのだった。その後満足した遥が自宅へと帰ってから、賢治が一人悶々とした夜を過ごした事は言うまでもない。




