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3-9.旧友

 生徒会室での一件があった翌日、遥は学校を休んでいた。

 昨日、あれから晃人は沙穂と楓に連絡を取るべく、遥のスマホを使って話がしたい旨をLIFEで伝えてくれていたが、二人からは下校時刻ギリギリまで待ってみても返信は無く、それどころか送ったメッセージはずっと既読すらもつかないままであった。

 結局二人にそれが読まれたのは、成す術の無くなった遥が家に帰った後になってからの事で、楓からは簡潔で意味深な「ごめんなさい」という一応の返信があったものの、沙穂の方からは依然として既読以上の反応は返って来ていない。そんな状況であるからして、遥は今日学校に行って二人と顔を合わせられるような心理状態では到底無かったのだ。

 パジャマ姿のままベッドの上で膝を抱えた遥は、直ぐ傍に置かれていたスマホのホームボタンに触れて画面をチラリと見やる。明るくなった画面には何の通知もなく、待ち受けの時計が冷静に時刻を伝えてきているのみだった。

 時刻は昼の一時を回ろうかという所で、今頃学校では四限目の授業が終わった頃だろう。今日の四限目は確か数学だっただろうかと、時間割を思い浮かべた遥は、楓に数学のレクチャーをしていた時の事を思い返す。

 結局昨日まで当てられなかった楓は今日こそ当てられるかもしれない。その時楓は慌てずにちゃんと答えられるだろうか。もしかしたら上手く答えられずに落ち込んだりしているかもしれない。そしたらきっと、この後の昼休みで沙穂に呆れられながらも慰められたりするのだろう。

「お昼…食べないと…」

 遥はベッドからふらりと立ち上がって、母の響子が出掛け際、部屋に置いていったお弁当の入った巾着袋をその手に取る。兄の辰巳が再び海外へと旅立った今、会社勤めと主婦業を兼任している響子は相変わらず余り凝った料理を作らないが、それでも遥のお弁当は毎日華やかな如何にも女の子っぽい物に仕上げてくれていた。

 遥は食欲不振を圧して、ちまちまとお弁当を食べ進めながら、沙穂と楓と共に三人で過ごしていたお昼休みの時間を思い起こす。

 いつも遠慮も気兼ねもなくお弁当のおかずを奪っていく沙穂は今日どうしているのだろうか。もしかしたら居ない自分の代わりに、楓のお弁当からおかずを奪っているのかもしれない。きっと人の良い楓はそれに抗議したりはせず、ついでに持参の水筒からお茶まで振る舞っていそうだ。

 二人の事をぼんやりと考えながら、お弁当を食べ進めていた遥は、おかずの卵焼きに箸をつけたところで思わず手を止めてしまった。少し甘めに味付けられたそのおかずは、沙穂が特に好きだった物なのだ。

「うっ…ぅぅ…」

 遥の瞳から大粒の涙がぽたぽたと零れ出る。友達として甘えてくれる楓、友達として気兼ねしない沙穂、そんな二人の事が今では恋しくて堪らなかった。三人で過ごしていた時間は確かに愛おしく、そして今ではどうしようもなく得難い物に感じられてならない。

 お弁当を三分の二程食べたあたりで、胸いっぱいになってしまった遥は箸を置き、独りさめざめと泣き続けた。


 しばらくして少しだけ気持ちが落ち着いた遥は、まだ食べ切れていないお弁当を脇へと追いやり、傍に有った枕を代わりに抱き寄せる。その時、すぐ横に置いてあったスマホの画面が不意に明るくなって着信音を響かせた。

 もしかしたら沙穂か楓かもしれない。そんな期待と不安に胸が高鳴った遥は枕を置いて恐る恐るとスマホに手を伸ばす。しかし、手に取ったスマホの画面に表示されていた名前は、少々期待外れの相手からであった。

「もしもし…」

 遥が落胆に肩を落としながら通話ボタンをタップしてスマホを耳元に寄せると、冷ややかな声が嘆息交じりに響いてくる。

『遥、お前今日学校を休んだだろう。ズル休みとは感心せんな』

 その不遜な物言いは遥に通話口の向こうで眼鏡を光らせシニカルに笑う友人の顔を容易に想像させた。

「亮介…。晃人君に聞いたの?」

 このタイミングで電話を掛けて来た理由を察して遥が問い掛けると、亮介は「ああ」と短い言葉でそれを肯定する。

『尤も休んだ事に関しては、昨夜晃人から報告を聞いた時点でそうなるだろうとは思っていたよ』

 遥の行動等お見通しだとそう言って笑う亮介に、事実完全に見透かされていた遥は悔しさを滲ませながらも、自分の事をよく理解してくれている旧友の存在にどこかほっとしていた。

『昨日の事に関しては済まなかったな。俺が晃人にもっと的確な指示を出しておくべきだった』

 自らの詰めの甘さを嘆息する亮介に対し、遥はかぶりを振ってそれを否定する。

「ううん、亮介のせいじゃないよ…。ありがとう…」

 謝罪する亮介に対し感謝の言葉を返す遥は、元より誰を責めるつもりも有りはしない。それどころか、全ての原因は自分に有るのだと感じて、未だに深い罪悪感を胸に自責の念を強めさえしている。

「ボク…どうすれば良かったのかな…」

 旧友を前に気持ちの緩んだ遥がぽつりともらすと、亮介は間をおかずにその疑問に応えてくれた。

『早々に自分の口から打ち明けるべきだったな』

 その明瞭で明確な答えに遥は復学してからの事を振り返る。確かに最初の時点で全てを打ち明けられて居れば、状況は随分と違ったかもしれない。ただそれは制約を課せられていた遥には到底成し得なかった事柄だ。

「でもボク、学校から喋っちゃいけないって言われてて…」

 遥が事情を打ち明けると亮介が深いため息を付くのが通話越しにも伝わって来きた。

『頭の固い公立高校なんてそんな物か』

 亮介は母校の対応に落胆した様子だったが、遥にしてみれば特殊も過ぎる自分の復学を許可してもらっている手前そこまで辛辣にはなれない。

『まあいいさ、こっちはこっちでやるだけだ』

 亮介のそんな口ぶりから、遥には企み事をする友人の悪い笑顔が目に浮かぶようであった。恐らく亮介は晃人を通じて何か仕掛けるつもりでいるようで、昨日晃人も遥の願いを叶えると約束したからには、その計画に協力するだろう。

「どうするの…?」

 遥は亮介の少々過激な一面を知っている為、それがおおよそ穏便な方法には思えず戦々恐々とせずには居られなかった。

『そうだな、色々と計画している事は有るが、ただ、お前がそれを知る必要はない』

 そうは言われても、中心にいるのは間違いなく自分であると考えている遥は到底納得できる筈もない。

「でも―」

 異論を唱えようと口を開きかけた遥だったがしかし、亮介がそれを遮る様に言葉をかぶせて来た。

『遥、お前がこれ以上何かを背負う必要はないんだ』

 それは、特殊な事情を抱える遥の身と心を案じる、亮介なりの思い遣りだった。亮介は遥が何かと気負いやすい性格なのをよく理解しているのだ。

『それにな、お前は企み事に向いていないんだから、余計な事はしなくていい』

 続けて亮介は冗談交じりにそんな事を言うが、正直それに関して遥には返す言葉がなかった。遥自身自分が企み事に向いていない性格なのは重々承知の事だ。そんな自分が計画を聞いて変に気を回せばむしろ邪魔になってしまうのだろう事は、十二分に理解できる事である。

『そもそもお前が骨を折ったら本末転倒だろう』

 その言葉にまた友人の思い遣りを感じた遥は、それ以上もう何も追求せず素直にその気持ちに甘える事にした。そうしないと亮介の場合後が怖いというのもあるが、いずれにしても、友人の気持ちが嬉しい事には変わりがない。

「ありがとう…」

 遥が素直に感謝の気持ちを告げると亮介はそれに対し、穏やかな声で「ああ」と短く応えてくれた。

『一先ず、目下の問題については幾つかのケースを想定して、晃人には既に相応の指示を出してある』

 その言葉に遥が「えっ?」と問い掛けると、亮介はやはりその内容については明かす様子が無く、「大丈夫だ」とだけ言って小さく笑い声を漏らす。

『さて俺はそろそろ講義に出ねばならん』

 亮介はそんな言葉で話を締めくくって、遥の返事を待たずに「ではな」と通話を打ち切ってしまった。

 遥は通話の切れたスマホをベッドの上に投げ出し、あの一方的な感じは如何にも亮介らしかったなと苦笑する。全貌の見えない亮介の企み事については些か不安を覚えはしたが、旧知の友人とのやり取りにはどこか人心地ついた気分でもあった。

 少し気持ちが楽になった遥は、亮介にも心配を掛けてしまっている事に申し訳なさ覚え、友人の思い遣りに応える為にも気をしっかり持たなければと、ふさぎ込んでいた自身の気持ちを奮い立たせる。

「よしっ…」

 意気込んでみた遥は、一先ず腹が減っては何とやらだと思い至り、残してしまっていたお弁当を完食すべく再び箸を握る。傍から見ればどこかズレた行動ではあったが、遥本人は気持ちに弾みをつけるのには必要な事だと自身に言い聞かせ、至極真面目に一生懸命お弁当を平らげて行った。


 お弁当を完食した遥が満腹感からうつらうつらとうたた寝をしていると、今日二回目になるスマホの着信音がその眠りを無遠慮に妨げる。遥は今度の着信には夢うつつだった事もあり、特にこれといった期待は抱かず、ただ条件反射的にスマホを手にして半ば無意識で緑の応答ボタンをタップした。

「はぁい…」

 ぼんやりとした頭とむにゃむにゃとした寝ぼけ声で遥が通話口に出ると、スピーカーが猛烈な音量で咆哮を上げる。

『遥ちゃん大丈夫!?』

 遥の身を案じながらも元気いっぱいに鳴り響いたその声に、遥の眠気は一気に吹き飛ばされて急激に意識が覚醒していった。

「み、美乃梨? どうしたの?」

 スマホを若干耳から遠ざけながら遥が問い掛けると、通話向こうの美乃梨は少々憤慨した声色になって一層声高らかになる。

『どうしたのじゃないよ! 今日学校休んでたからあたし超心配してるんだよ!?』

 美乃梨のそんな言葉に、遥は多大な申し訳なさを感じてしょんぼりせずには居られない。

「ごめんね…」

 遥が弱々しく謝罪の言葉を口にすると、美乃梨は若干声のトーンを落として少し落ち着いた様子になった。

『ハグ一回だからね!』

 そんな如何にも美乃梨らしい要求に、この時ばかりは遥も素直にそれを受け入れるしかない。むしろそれで許されるのであれば随分と安い物だろう。

「うん…わかった…」

 遥の返答に美乃梨は「やった!」と歓喜の声を上げ、それから上機嫌といった様子で声を弾ませた。

『じゃあ、直ぐにぎゅってしちゃうね! 今家の前に居るから入れて!』

 余りにも急だった話に遥が「えっ!」と驚きの声を上げ窓に駆け寄り外を見れば、確かに門の前には制服姿の美乃梨が立っている。学校は? と一瞬疑問に思った遥だったが、部屋の時計を見やれば時刻は午後四時三十分を過ぎたところで、今日の授業は全て終了している時刻だった。美乃梨は中学に引き続きバドミントン部に入部しており、今はまだその活動時間内ではあるが、それに関してはおそらく暇を貰って来たのだろう。

「あー…、ちょっと待ってて…」

 遥はそう言って一旦通話を切ると、トタトタと階段を一階まで駆け下りて、美乃梨を迎え入れるべく玄関のロックを解除して家の扉を開け放つ。

「遥ちゃーん!」

 遥が玄関口に姿を現したのを認めた美乃梨は、門前から大きな仕草で手を振って元気いっぱいである。これからあのエネルギー有り余る様子の美乃梨にハグをされるのかと思うと、遥は既にぐったりとした気分になってしまったがしかし、約束してしまった物はしょうがない。

「入って」

 玄関から遥が手招きすると、美乃梨は「はーい」と明るく返事をして門をくぐり弾む様な足取りで駆け寄ってくる。これはこのままハグに移行するのかと、遥は身構えたがしかし、美乃梨は遥の目の前でピタっと足を止め、実に朗らかな良い笑顔で待機の姿勢を見せた。

「あ、えっと…じゃあ上がって?」

 予想に反したその行動に遥は少々戸惑いながらも、それならそれでと扉を開けたまま一歩身を引いて美乃梨を屋内へと招き入れる。

「おじゃましまーす」

 快活な挨拶と共に玄関に入った美乃梨は、遥に促されるまま家に上がり、ここでもハグをする様子は見せず、引き続き良い笑顔で待機の構えだ。

「えーと…ボクの部屋…でいいかな?」

 遥がリビングと階段を交互に見やりながら一応自室を提案してみると、美乃梨は元気よく「うん!」と答えたので、二人は遥の自室へと向かい階段を昇って行った。

「遥ちゃんの家久しぶりかも!」

 そんな美乃梨の言葉に、遥も美乃梨が家に来るのはいつ以来だっただろうかと考えを巡らせる。高校が始まって以来、人に好かれやすい美乃梨はいつも多くの友人に囲まれている為、校内で軽く顔を合わせる事はあっても、こうして二人だけで改まって会う事自体久々だ。家を訪れた時となると、恐らくそれは遥の誕生日にまで遡るだろう。

「入って」

 階段を昇り切った遥が自室の扉を開けると、美乃梨はそれに従って室内へと足を踏み入れそのまま床にペタリと腰を下ろす。

「何か飲む? お茶かオレンジジュースくらいしかないけど…」

 入口に立ったまま尋ねた遥の問い掛けに美乃梨は何も答えず、そのかわりにかつてない程良い笑顔になって自分の膝をポンポンと叩き手招きする仕草を見せた。

「えっ…えぇー…」

 その意図を読み取った遥は堪らず難色を示したがしかし、美乃梨は再び自分の膝を叩いてただひたすらにニコニコと笑顔を見せ続ける。

「ぬぅ…」

 有無を言わせない美乃梨の態度に遥は困惑しつつも、自分を心配してくれていた事を思うともうその要求を拒む事など到底できはしなかった。

「じゃあ…あの…重かったらごめんね?」

 美乃梨の元に歩み寄った遥は一応の断りを入れながら、その意図通り美乃梨の膝へと腰を下ろそうとしたが、経験のない事柄を前にやはり躊躇せずには居られない。しかし、遥がまごまごしている間に美乃梨の方からパッと手を掴まれ、あっという間に後ろ向きの態勢で膝の上に引き寄せられてしまった。

「あわっ…」

 美乃梨の控えめながらも柔らかな身体の感触に遥はかなりの気まずさを覚え、ここから更に熱烈な抱擁が加わるのかと思うと堪らず身体を縮こまらせる。しかし意外にも美乃梨はやんわりとした手つきで遥をきゅっと抱き締め、後ろから顔を寄せる様にして耳元でぽつりと囁いた。

「遥ちゃん…辛かったね…」

 それは、思いもしない優しい言葉だった。その優しさがハグにばかり気を取られ無警戒になっていた遥の心に抵抗なく染み込んでゆく。

「どう…して…」

 絞り出すような掠れた声で呟いた遥は、胸の内でじんわりと広がってゆく暖かさに、感情が溢れ出しそうになるのを必死で堪えていた。

「遥ちゃん…もう無理しなくていいんだよ…」

 その言葉が胸の内で広がった暖かさと重なって、やり場の無かった遥の想いをどこまでも優しく包み込む。一層暖かく重ねられた美乃梨の思いがけない優しさを前に、遥はもうそれ以上感情を抑える事等できはしなかった。

「うっ…うぅ…あぁ!」

 遥の胸の奥底から今まで抑えていた感情が堰を切ったように溢れ出す。遥はそのまま自身の感情に押し流される様に、美乃梨の腕の中、唯ひたすらに声を上げ泣きじゃくった。

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