3-4.優しさと誠実さ
遥が不完全な打ち明け話をしてから程なく、青羽は同じ中学出身と目される男子生徒に連れられ教室を出て行った為、残された遥達は今、女子三人だけで昇降口を目指して学校の廊下を歩いていた。
「あんた達、東中なら家はユニオンの方よね?」
道中沙穂が横に目を向け問い掛けると、楓がわずかに小首を傾げ「えーと」と考えを巡らせる。
「方角的にはそう…かな? ワタシの家はちょっと離れてるけど」
楓の家は同じ東中校区の中でも、外れに位置しているらしく、校区の中心地であるユニオンとは少し距離が在る様だった。
「遥、あんたは?」
楓の解答を受けた沙穂は遥にも答を求めて振り返ってきたがしかし、遥は後悔と罪悪感からくる苦悩で頭が一杯で、二人のやり取りが余り耳に入ってはいなかった。
「あっ…えっと…ごめん…何だった…かな?」
遥が若干慌てながら曖昧な笑みで問い返すと、沙穂は小さく溜息をついて、身体ごと遥の方へと向き直る。
「ねえ、もしかして自分の身の上をあたし達に喋った事を後悔してるの?」
その言葉に遥の胸がズキリと痛む。後悔の念は確かに有るが、ただそれは身の上の一部を話してしまった事についてではない。
「話した事は…後悔…してないよ…」
遥がその複雑な心境から目を伏せ少し困った顔をすると、沙穂はまた小さく溜息を付いた。
「友達になったんだから気兼ね何てして欲しくないよ」
そう言った沙穂の言葉に楓も同調して、遥の方へと向き直り頷きを見せる。
「本当に、あの、遠慮なんてしないでね? その…もう…と、友達…だから!」
沙穂と楓は、断片的だったとは言えそれでも十分複雑で特殊な遥の事情を聞き届けた上で、今後は友達としてより親密になりたいと、そんな意志を示してくれていた。
「…うん…。ありが…とう…」
好意を持って友達としての距離を縮めようとする二人を前に、遥は口にした言葉とは裏腹にその胸の内で苦悩を募らせる。二人と初めて言葉を交わした際、二人も自分と同様、普通に緊張する只の高校生なのだと知り気持ちを救われた遥ではあったが、今では自分が彼女達とは全く成り立ちを異にする「違う生き物」なのだと、そう実感させられていた。
「ねぇ遥…」
感謝の言葉を述べながら尚も落ち込んだ様子でいる遥を認め、沙穂はその気だるげな表情の中にうっすらと優しい笑顔を覗かせる。
「少しずつでいいからさ」
沙穂はそれだけ言うと、この時はもうそれ以上深く踏み込んできはしなかった。
「う、うん、そうだね。今日の今日でいきなりは難しいよね…」
楓も今直ぐこれ以上は難しいだろうと判断した様で、沙穂と同様の意志をもって頷きを見せる。遥の事についてはゆっくりやって行こうと決めた二人は、それぞれ一度頷き合うと、再び前を向いて歩みを再開させた。
二人のやや後方からそれに付き従った遥は、沙穂と楓の背中をぼんやり見つめながら、彼女達と心から友達になれたらどんなに素敵だっただろうかと、最早叶うべくもない事柄に想いを馳せる。その派手な見た目の印象に反して理知的な誠実さが垣間見える沙穂、弱気な中にも芯では人を思い遣れる優しさを覗かせる楓。今日初めて会って、言葉を交わした時間は僅かではあったものの、遥は既にそんな二人の事を好きになりつつあったのだ。それだけにその心境は複雑を極め自身の境遇を呪いさえした。
やがて三人が昇降口に辿り着くと、沙穂はブレザーのポケットからスマホを取り出し、それをチラリと見やる。
「あー、なんか親が写真撮りたいつってるから、あたし行ってやんないと」
少々うんざりとした様子で自身のこれからの行動を申告してきた沙穂は、ブレザーのポケットにスマホを戻すと、自分の下駄箱から学校指定のローファーを取り出し無造作にそれを地面へと投げ出した。
「どこも一緒だね」
沙穂の様子に苦笑する楓もその言葉から察するに沙穂同様、これから家族と合流して新しい門出の記録を取る為の記念撮影を行う様だ。それは入学式に挑んだ新入生には大体お決まりの事柄で、遥も一回目の入学式に際しては同様の経験をしているが、今回は厳密にいえば新入生ではないし、そもそも記念撮影をしたがる家族が来ていないのでその限りではない。
「そんじゃ、また明日」
沙穂が手を振って今日の所の別れを切り出すと、自分の上履きを下駄箱に収めていた楓が少しばかり名残惜しそうな笑顔で手を振り返す。
「また教室でね」
それから沙穂と楓は遥に向っても同様に手を振り、二人はそれぞれの家族の元へと向かって行った。
沙穂と楓の背中を見送った遥は二人の物より一回り小さい自分のローファーを下駄箱から取り出しそれにと履き替える。学校指定のローファーの中では一番下のサイズではあったが、それでもなお遥の小さな足には余裕が有り、そんな些細な事がまた自分の特異性を再確認させる要因となって遥の心に暗い影を落とした。
沙穂と楓の二人と別れ賢治と合流した遥は、すっかり気落ちした様子で帰宅の途をトボトボと進んでいく。意外にも賢治は記念写真を撮りたがったが、遥のあからさまに落ち込んだ様子を目にしてそれを強要してはこなかった。
遥はクラスメイト達に本当の事を言えない罪悪感を思い返し、復学に当たって友達を作れるだろうかと、そんな事柄にどこか浮かれてすらいた自分の浅はかさを省みる。今感じている罪の意識は、美乃梨と出会って直ぐの時にも経験している事ではあるが、あの時はなんの制約もなく包み隠さず真実を述べられた事で、多少の紆余曲折がありつつも結果的に美乃梨とはより良好な関係を得る事ができている。そんな前例があるだけに今の状況は尚更辛い物があった。
「ハル、クラスで何かあったのか?」
気落ちした様子を心配する賢治の問い掛けに、遥はたった数時間の内に色々な事があった復学初日の出来事を思い返し、益々落ち込まずには居られない。
「あっ…えっと…自己紹介でちょっと失敗しちゃって…」
その事件は今にしてみれば割合的にはほんの些細な物でしかなかったが、賢治を無用に心配させたくないという想いが遥に本来の苦悩を明かさせなかった。
「ハルは昔からそういうのは苦手だよなぁ」
そう言って僅かに苦笑する賢治に、遥も力なく笑って「うん」と頷き返す。
「なぁ、ハル…」
それまで遥に歩調を合わせて横を歩んでいた賢治が不意に立ち止まった。
「本当の事を教えてくれないか…?」
賢治がついて来ていない事に気付いた遥が、背中から掛けられたその言葉に「えっ?」と驚きと共に振り返ると、賢治はどこか寂し気な表情で立ち尽くしていた。
「ハルが何か誤魔化してる事くらい俺にだって分かるさ」
普段は決して勘が良いとは言えない賢治にそう指摘された遥は、自分が負っているダメージの大きさを改めて思い知らされ、結局賢治に心配を掛けてしまっているのだと気付いて情けなくなってしまう。
「賢治、ごめんね…」
情けなさと申し訳なさから遥が謝罪の言葉を口にすると、賢治の大きな手が頭に触れ、いつもの様にそのふわふわの髪を無造作にかき乱した。
「ハル、俺に遠慮や気兼ねなんかしないでくれ」
賢治の示したその思い遣りは、奇しくも沙穂や楓が掛けてくれたのと同様の言葉だった。真実を告げられなかった事に罪悪感を募らせていた遥の中で、それらが重なって気持ちが押しつぶされそうになる。
「ボク…どうしたら…」
新しく出来た友達を欺きたくなかったという想い。親友を心配させたくないという気持ち。それなのに優しく理解を示してくれる友人達。そんな積み重なった状況を前にして、遥の心は最早どうしようもない程立ちゆかなくなってしまう。
「うぅ…」
遥がただでさえ落ち込んでいたその気持ちを益々落ち込ませ俯いていると、賢治の大きな手が両肩を掴んで、抱き締めんばかりの勢いでその身体を引き寄せた。
「俺はハルの力になりたいんだ、何でも話して欲しい」
顔を近付け覗き込む様にして見つめてきた賢治を前に、遥の胸の内では場違いに恋心が騒ぎ出す。
「あっ…う…うん…」
賢治の真っ直ぐな眼差しと胸の内で華やぐ恋心に推され、遥は半ば無意識に思わず頷いてしまっていた。
「よしっ」
遥の頷きを自身の要望に対する肯定だと解釈した賢治は、そのまま遥の手を取って歩き出す。
「あっ…えっ…? あ、あれ…?」
賢治に手を引かれ困惑しながらも、頷いてしまった手前遥は最早それを拒む事ができなかった。
近場の公園に場所を移しベンチに座った二人は共にその表情を暗くし、遥はしょんぼりと俯き、賢治は眉間に皺をよせ宙を睨みつける。
遥は結局場の空気に流され、躊躇いながらも自身の抱えている本当の悩みを全て打ち明け、そして今は苦悶の表情を見せる賢治を前にやはり話さなければよかったと深く後悔していた。
「俺が一緒に高校へ付いて行ってやれれば…」
賢治が悔しさを滲ませそんな事をぽつりと漏らす。しかしそれはいくら望んだところで叶わない事だ。
「ごめんね…賢治…」
遥が今日二度目となる謝罪の言葉を口にすると、賢治はまた遥の両肩に手を掛けその小さな身体を数度揺さぶった。
「ハルは何にも悪くないだろ!」
賢治が見せる珍しく感情的な様子に遥の胸が苦しくなる。
「でも…ボクは…」
クラスメイト達を欺かねばならず、その上親友を困らせてしまっている自分はどうしようもなく愚かな存在の様な気がしてならない。そんな思いから遥は黒目がちな大きな瞳にうっすらと涙を滲ませ細い肩を小さく震わせた。
「ハル…」
自責の念に苛まれる遥の姿に賢治の中でやるせない想いが次々と駆け巡った。
何故遥がこんなにも苦しまねばならないのか、女の子になってしまった遥には何の罪もない筈だ。それどころか遥は美乃梨の命を救ったではないか。その行為は賞賛されこそすれ、罰せられるような事柄などでは決してないはずだ。にも拘らず、遥は大きな代償を負い、それ故に深い苦悩を抱え込んでしまっている。それはその英雄的な行いに対しては、余りも報われない、暴力的なまでの理不尽だ。
駆け巡った想いに賢治の胸の奥底からやり場のない怒りが沸々と湧き上がる。
「クソッ…!」
賢治が堪らずその怒りを顕にすると、遥はまた胸の奥がぎゅっと締め付けられ、このままではいけないと感じ、その小さな手で賢治の頬にそっと触れた。
「賢治、駄目だよ…」
そう言って遥は伏し目がちな少し困った顔で微笑んで見せる。賢治が自分のせいで負の感情を増大させるなど、遥には到底見過ごせない事だった。
「ハル…お前は…」
頬に触れる小さな手の感触と、自身の苦悩を圧してまで人の心を気遣おうとする遥の態度に、賢治は怒りの感情を吸い上げられ俄かに冷静になってはたと気づく。遥が苦しむのは、遥が誰よりも優しく誠実だからだと。
遥はその優しさゆえに周囲の人間が傷つく事を嫌い、また誰も傷つけない自分でありたいと思うが故に誰よりも誠実であろうともがいている。
「どうして…だ…」
遥は一番の被害者である筈なのに、既に大きな代償を負っている筈なのに、それならばもっと自分本位に我儘であってもいいではないか。その優しさと誠実さ故に大きな苦悩を抱えてしまっているにも関わらず、尚もそうあり続けようとしている。それは確かに美徳かもしれないがしかし、遥の事を何よりも大切で、他の誰をおいても幸せで居て欲しいと願う賢治にとっては、到底理解し得ない事だった。
「ハル、お前はどうしてそこまで…」
問い掛ける賢治に遥は少し考えを巡らせてからまた困ったような笑顔を見せる。
「多分…ボクは弱いから…、自分のせいで誰かに嫌な思いをさせちゃうのが、凄く怖いんだと思う…」
賢治の感じた優しさと誠実さを弱さだとそう自身自己評価した遥を前に、賢治は愕然とせずには居られない。
「そんな…、だってハルは…ハルが一番苦しんでるじゃないか!」
他人が傷付くことを恐れるその裏で、自身が傷付いてしまっているなど本末転倒だ。一層理解に苦しむ賢治を前に遥は目を伏せ弱々しい笑みを覗かせる。
「だってボク…、皆に一杯心配掛けちゃったから…」
遥のその想いは、三年間の空白で家族や友人を少なからず悲しませてしまったという負い目があるからだった。
遥の抱えていた想いを打ち明けられた賢治は一層愕然とする。ともすれば、遥に最も強くその想いを植え付けてしまったのは他でもない賢治自身なのだ。
「そういう事…か…」
遥の助けになりたい。遥を支えてやりたい。そう思っていた自分が遥を縛っていた。そう知らしめられた賢治は遥の両肩に手を掛けたままがっくりと項垂れる。
「俺の…せいで…」
そう洩らした賢治に遥は慌ててかぶりを振って、項垂れる賢治の下からその顔を覗き込んだ。
「違うよ! 賢治は悪くないよ! ボクが…臆病だから…」
顔を上げ必死になって訴えかける遥を前に賢治はもう気持ちを抑えきれはしない。
「ハル…!」
賢治は堪らず両肩を掴んでいた手で遥を引き寄せ抱き締めた。
「ハルが悪い事なんか何も無い! ハルは…ハルは…!」
遥を縛っていたのが自分だと気付いた今でも、傍で遥を支え続けると誓った想いはしぼむことなく、むしろ遥を愛しいと思う気持ちと相まってより一層強く大きな物になっていた。
「ハル…、俺に…俺にもっと甘えてくれ! 俺が全部受け止める! 俺が支えてみせる! だから…! 頼む…!」
遥の優しさと誠実さが弱さだと言うのならば、それが遥自身を傷つけると言うのならば、その痛みを全て引き受けてやりたい。賢治は自分が話した悪夢の記憶によって心を縛られている遥に対し、そんな形でしか報いる事のできない自身に歯がゆさを覚えながらも、一層強く遥を思い遣った。
「そんなふうに言われたら…ボク…」
賢治に抱き締められ、遥の胸の内に咲く恋の花達がゆらゆらと揺れる。その言葉のまま賢治に思いっ切り甘えたい、この身を全て賢治に委ねてしまいたい、それが出来たらどんなに幸せな事だろうか。遥はそんな思いに駆られたがしかし、親友としての強い思い遣りを見せる賢治に対して、恋心を持ってそれに甘える訳には行かなかった。それは遥にとって賢治に対する裏切りに他ならない。遥は自分の胸元をギュッと押さえ、賢治の抱擁をやんわりと振りほどきベンチから立ち上がった。
「ありがとう…ボク、賢治が居てくれて良かった…」
賢治の方へは振り返らず、遥は青天の空を仰ぐ。どこかから流れて来たのか儚げな色をした桜の花びらが風に舞っていた。
「ハル…?」
花びらが空の彼方に吸い込まれていくのを見届けた遥は賢治の方へと向き直り、努めて明るい笑顔を作る。
「ボクには賢治が居てくれるから…、だから大丈夫!」
クラスメイトとは距離を置こう。そうすれば、きっと誰の事も困らせずに済むはずだ。例えクラスに親しい友達が居なくとも、賢治がいつも心に寄り添ってくれているのならば、それはきっと大丈夫な筈だ。遥はそう自分の心に鞭を打って前を向く。
「ハル…」
賢治の眼には遥の見せた明るい笑顔は、その天使の様な愛らしさに反して、痛々しい程に脆く儚げな物に映っていた。しかし、大丈夫だと強がった遥を前にして尚も自分の気持ちを押し付けられる程の強引さを賢治は持ち合わせてはいない。
「本当に…大丈夫か?」
不安げな賢治の顔を見まいと、遥は再び青天の空を仰ぐ。
「…うん、きっと…大丈夫だよ…」
見上げる空は、遥の暗雲立ち込めるその心境をあざ笑うかのように、只ひたすらに青く晴れ渡っていた。




