3-1.スタートライン
桜の花がそろそろ満開を迎えようかという四月の初め、遥は制服姿で高校の正門前に立ち深いため息を付く。暖かな春の陽気に恵まれた晴天の今日は、そこに集った十五歳の少年少女達が期待や不安に胸を膨らませる入学式という一大行事が執り行われる日だ。
遥にとっても今日は女子高生としてのスタートラインに立つ記念すべき日で、本来であればちゃんとやって行けるかどうかと不安で胸いっぱいになっていた筈なのだが、正直今は唯々憂鬱だった。
「ハル、緊張してるのか?」
スーツ姿で横に立つ賢治は、高校復学を目前にして浮かない様子を覗わせる遥を気遣うがしかし、これこそ正に遥を憂鬱にさせている原因だ。
「賢治…何で付いて来たの…?」
遥が恨めしそうに言うと賢治はいつもの落ち着いた笑顔で遥の肩をポンッと叩く。
「小父さんと小母さんは仕事で、辰巳さんはまた海外だから仕方ないだろ?」
賢治は今日来られない家族の代わりに遥の父兄として入学式に参列する意向だ。ただこれは遥にしてみれば全くもって余計な気遣い以外の何物でも無い。保護者が同い歳の幼馴染なんて聞いたこともないし、余りにも格好がつかないのだ。
「そもそもボク、別に新入生じゃないんだけど…」
遥が口を尖らせ抗議すると、賢治は少し困った顔をしてから遥の両肩を掴んで、自分の正面へと真っすぐ向き直らせる。
「少しでもハルの傍に居たいんだ」
賢治からそんな風に言われてしまっては、初心な恋心を抱いている遥などひとたまりもない。
「賢治…ずるい…」
賢治の事を「好きな人」として意識するようになってからというもの、遥は賢治がモテる理由をその身を以て度々実感させられていた。イケメンである事は勿論の事として、賢治は基本生真面目でその言葉には裏表が少ない。故に思っている事を比較的ストレートに表現する為、少しでも好意的な態度を取られれば女の子はたちまち恋に落ちてしまうという寸法だ。
「賢治って…、大学でもモテるの…?」
昔と変わらず賢治がモテるのならば、それは遥にとっては看過できない問題である。
「あー…まぁ…そう…なるかな…」
賢治が若干しどろもどろで正直なところを口にすると、遥はやっぱりかと俄かに不安になってしまった。
「むぅ…」
賢治は自分の居なかった三年間は恋愛どころでは無かったと言っていたが、遥は恋心を自覚する以前、賢治に対してもう好きに恋愛をしたらいいと言ってしまっているのだ。
「そんな顔するな、今はハルが優先だよ」
賢治が今は恋人をつくるつもりがない事を明言すると、遥はほっと胸を撫で下ろす。
「…約束だよ?」
その言葉に賢治は眉を寄せて小さく溜息を付いた。
「俺はハルの方が心配だよ…」
遥の哀願する様な上目遣いに、今度は賢治の方が不安になってしまったのだ。以前の地味な男の子だった遥ならいざ知らず、今の遥は魅力的な女の子である。あどけない愛らしさを備えた可憐な女子高生等周りが放っておく訳がないと、賢治は危惧せずには居られなかった。
「えー? ボクは大丈夫だよー」
賢治の心配を他所に、遥は以前友人達から再三警告を受けているにもかかわらず、未だに自分の容姿については失念しがちで少々お気楽だ。
「ハル、アレちゃんと持ってるか?」
賢治が問い掛けると遥は少し苦笑しながら、後ろを振り返って背負っていた淡い水色の通学リュックを付き出して見せる。
「ちゃんと付けてるよ」
遥のリュックには賢治が誕生日プレゼントとして贈った、パールホワイトのティアドロップ型防犯ブザーがしっかりと取り付けられていた。
「何かあったら鳴らせよ?」
遥のスマホと連動している防犯ブザーは、作動すると賢治をはじめとした友人達と遥の家族に対して位置情報を送信するよう設定されており、緊急事態が起こればその居場所をすぐさま把握して駆けつけられるようになっている。
「もー、賢治は心配しすぎだよー」
遥はブザーを作動させる事態など万に一つにも無いと思ってはいるが、賢治にここまで心配されているのは何か大事にされている感があって悪い気はしない。胸に抱く恋心が少しだけ満たされた遥は、フフッと小さく笑い声を漏らすと校舎の方へと向き直った。
「とりあえず行こっか。クラス分け見とかなきゃ」
親友に父兄として付き添われるのは正直未だに微妙な気分だが、遥は気持ちを改め女子高生として高校生活を始める為に歩き出す。遥が制服のスカートをひるがえし正門を通り抜けていくと賢治は若干複雑な思いを抱きながらもゆっくりとその後を追った。
遥は正門から校舎へと続く石畳を歩き、昇降口に張り出されているクラス分けの掲示を目指す途中、無数にいる新入生や保護者の中から見知った顔を見つけ出した。
「光彦!」
遥が大きく手を振って呼びかけると、光彦はそれに気が付き、軽く手を挙げのんびりとした足取りで近寄って来る。恐らく弟である智輝の父兄として入学式に参列するのだろう。そんな光彦も今日はスーツを纏ってパリッとした装いだ。
「光彦…、なんか今日は迫力あるね…」
黒のスーツを着込んだ光彦は、その強面な面構えもあってか、一見すると何やらアウトレイジな世界の住人である。
「トモくんの付き添いか?」
賢治がその佇まいに若干苦笑しながら問いかけると、光彦は無言で頷きそれを肯定してやや後方を親指で指し示した。遥がそちらに目をやれば、複数人の少年達と談笑している智輝の姿が見られたが、今はお喋りに夢中らしく兄が別行動をとった事にも気付いていない様子だ。
「遥…」
名前を呼ばれて遥が目の前の友人へと視線を戻すと、光彦は少し首を傾げて見せる。
「その髪…」
その一言で光彦が何を言いたいか察した遥は、耳元に掛かる自分の髪に触れて少し照れくさそうにしながら頷きを返した。
「淳也に切ってもらったの」
以前肩に掛かるセミロングだったその髪は、今ではショートボブの長さにまで整えられている。遥は病院で目覚めて以来伸びるに任せていた髪を、この日に合わせて美容師の卵である淳也に頼んで手入れしてもらったのだ。
「似合ってるな」
そう言った光彦はうっすらと口元を緩ませめったに見せない笑顔を垣間見せる。
「わぁ! ありがとう!」
光彦に褒められて遥は「えへへ」と嬉しそうに笑うが、その横では賢治が実に複雑な心境になっていた。光彦の言う通りに遥の新しい髪型は大変良く似合っているのだがしかし、余りにも似合い過ぎているのだ。
元々少し癖のあった遥の髪は短くなった事でふわふわ度が増し、非常に可愛らしいゆるふわ系女子といった様相で、あまつさえ近頃はヘアピンなども使用しておりその愛らしさは今や留まるところを知らない。
「ハル…本当に気を付けてくれよ…」
賢治が再び心配性の顔を見せると、大事にされている感は悪くないにしろ遥は少々うんざりとした気分になる。
「もー…賢治は―」
遥が賢治に抗議をしようと口を開きかけたところで体育館の方から、入学式の進行を手伝わされている在校生が顔を出し、新入生はクラス分けを確認して体育館に集まる様にとの号令を出した。
「あっ、ボクもクラス分け見て来こなきゃ!」
遥は依然自分の所属クラスの確認を終えていなかった事を思い出し、友人達とのんびり談笑している場合では無いと、その場で足踏みをして賢治に目線を送る。
「行ってこいよ」
目配せを受けた賢治が苦笑交じりに促すと、遥は大きく頷いて少々慌てながら昇降口へと駆けて行った。
遥が昇降口に辿り着くと、クラス分けの掲示前は、遥同様未だそれを確認していなかった新入生たちが殺到してかなりの混雑模様を見せていた。
自分より幾分も背の高い高校生の群れに気圧された遥は、手早く自分の名前を見つけてそこから抜け出そうと考えたがしかし、群がる新入生達に遮られてそもそもクラス分けの張り出しそのものを見ることが出来ない。
「うー…」
何とかして掲示を見ようと爪先立ちになってみるも、一四〇センチに満たない遥から見えるのはひたすらに新入生達の背中ばかりである。どこかに隙間はない物かと遥が爪先立ちになったままふらふらしていると、掲示を見終えそこから離脱していく生徒に肩をぶつけられてしまった。
「うにゃっ…!?」
爪先立ちで不安定な姿勢だったせいもあって、身体は結構な勢いでバランス崩してこのままでは尻もちをつく事は免れない。遥はぎゅっと目を瞑り身体を縮こまらせて衝撃にそなえたがしかし、不意に両肩を掴まれ尻もちをつくこと無く身体はその場へと固定された。
「あっ…あれ…?」
余りに突然の事に遥は困惑頻りである。
「大丈夫?」
その声に我に返った遥が慌てて体勢を立て直し振り向けば、そこには真新しい制服の男子生徒が今し方遥の両肩を掴んだ態勢のまま立っていた。
「あ…、ありがとう…」
戸惑いながら遥が礼を述べると、男子生徒は眩しい程に爽やかな笑顔を見せる。
「危なかったね」
それから男子生徒は小さな遥と掲示前に群がる群衆を見比べパチッと指を鳴らした。
「俺が代わりに見ようか?」
男子生徒は遥のちんまりとした姿から置かれている状況を察したようである。
「あっ…えっと…」
不意の申し出に遥は少々戸惑ったものの、このまま人の群れが引くのを待つのもあまり得策とは思えない。
「じゃあ…おねがいします…」
遥が軽く頭を下げると男子生徒は笑顔で頷き、そのまま掲示に向かおうとしたが、ふと足を止めちょっと困った顔で振り返ってくる。
「名前、教えてくれる?」
言われて遥も必要な情報を伝えていなかった事に気が付ついた。掲示から名前を探し出そうと言うのに、肝心の名前を知らせないではどうしようもない。
「ごめんなさい。奏遥です」
名前を聞いた男子生徒が「かなず…かなず…」とその名字を数度呟き、顎に拳を当てて思案の仕草を見せると、遥はまだ必要な情報があったと気付きそれを補足する。
「音を『奏』でるの一文字で『かなず』で、名前は遥か彼方の遥です」
今度こそ必要な情報が全て揃った為、男子生徒は「オッケー」とまた爽やかに笑い、意気揚々と群がる生徒たちの中へと分け入って行く。
残され遥が、その親切心に感心しながら待っていると、ややあって男子生徒は、若干制服を乱しながらも群衆から抜け出し遥の元へと無事戻って来た。
「奏さんはB組だったよ」
それから男子生徒はまた爽やかに笑って親指で自分を指し示す。
「ちな、俺もB組」
奇しくも男子生徒とは同じクラスだった様だ。
「俺、早見青羽。よろしく」
自己紹介をされた遥は、クラスメイトになるのであればと、笑顔を返して友好の印とばかりに青羽に向って右手を差し出し握手を要求する。
「よろしくね?」
その所作に青羽は一瞬驚いた顔になったが、直ぐに爽やかな笑顔に戻り、遥の小さな手とってちゃんと握手を交わしてくれた。
「あおばって、いい名前だね。どんな字?」
自己紹介と握手を終えればもう友達気分な遥が気楽になって問い掛けると、青羽も肩肘の貼らない自然体でその問いに答える。
「青い羽って書くんだ。ちょいキラキラ?」
青羽本人は若干コンプレックスでもあるのか、少々気恥ずかしそうにするが、遥は爽やかなこの人物にはぴったりの名前だと妙に感心してしまった。
「凄く良いと思う」
遥の素直な感想に、青羽は「サンキュー」と応え鼻の頭を人差し指でこすって、若干照れくさそうな笑顔を見せる。そんな調子で二人が和やかな雰囲気になっていると、体育館の方から「新入生は体育館へ」という再度の集合を呼びかける在校生の号令が聞こえて来た。
「よっしゃ、体育館行こうか」
青羽の爽やかな笑顔に促されるまま遥は連れ立って体育館へと向かおうとしたが、光彦の元に残して来た賢治の事を思い出して足を止める。
「あっ、待って、ボク…えーと…? 保護者? に一応言ってこないと」
この場合賢治の事を何と言い表せばいいのかと、遥が妙な言い回しになってしまうと青羽は若干怪訝な表情をしたが、言わんとしている事は伝わったようだ。
「オッケー、じゃあ俺、先に行ってるよ」
そう言い残して青羽は遥を残し一人体育館へと向かって行った。
青羽の背中を見送った遥が一旦賢治の元に戻ろうと、踵を返したその時の事である。
「はっるっかっちゃーん!」
その弾む様な明るい声、そして背中を襲う突然の柔らかな衝撃、正体は確かめるまでもない。
「ちょっ…美乃梨…!」
後ろから圧し掛かられる形になった遥は前のめりに倒れそうになってしまうが、背後からにゅっと伸びた美乃梨の腕がその身体を抱き戻す。高校に入っても美乃梨のクロスレンジな距離感は相変わらずの様だ。
「遥ちゃんクラスどこ? あたしA組だよ!」
相変わらずの様子に遥が苦笑しながら「B組だよ」と答えると、美乃梨はがっくりと遥の頭に自分の額を付けて無念を露にする。
「遥ちゃんと同じクラスがよかったー!」
美乃梨はそれから一頻り悔しがると遥の背中から離れ、軽い足取りで正面に回ってやや神妙な面持ちを覗かせた。
「ねぇ、さっき早見青羽と話してた?」
美乃梨の口から青羽の名前が出たので遥は少々驚いたが、恐らく同じ中学出身なのだろう。地元中学から進学してくる生徒の多いこの高校ではよくある事だ。
「うん、仲良くなれそうかなぁ?」
遥がそうなればいいという希望と共に答えると、美乃梨は小さく溜息をついてあからさまにうんざりとした表情になった。
「遥ちゃん…、早見青羽は駄目だよ…」
その言い様にこれは何かいつもの過保護とは少々違うようだと感じて、遥は小首を傾げて問い返す。
「良い奴っぽかったよ?」
きっとあんな良い奴なら問題ないはずだという遥の主張を前に、美乃梨はまた小さく溜息を付いてちょっと困った顔になった。
「確かにあいつは凄く良い奴なんだけど…」
青羽が善良である事は認めつつも、それでも駄目だと美乃梨はかぶりを振る。
「あいつと仲良くすると、ファンの子達に目付けられるのよ…」
余りに予想の斜め上だった指摘に遥は思わず「へっ?」と少々間抜けな声を上げてしまった。
「ほら、あいつ良い奴な上にあの見た目だから…」
その言葉に遥は青羽の姿を思い返し、成程と納得がいく。遥は賢治という超級の存在が身近に居るため基準が高めなので、特に意識はしていなかったが、言われてみれば確かに青羽は分類するならイケメンの類だった。
「遥ちゃん…女の子って色々面倒なの…」
美乃梨の言い様に遥は「あー…」と力のない感嘆の声を上げ、以前賢治を取り巻いていた同じような事柄を目の当たりにした事があったのを思い出す。それは賢治が言う所の「違う生き物感」なる女子特有の事柄で間違いがない。
「だから早見青羽は駄目!」
地元中学からの進学が多いこの高校では、善良でイケメンな青羽のファンだという女子達も多数入学してきているらしく、穏便な高校生活を望むのであれば青羽には近づくべきではないと、美乃梨はそう警告してくれているのだ。
本来であればそのような事柄は遥には全く関わり合いの無い問題であった筈なのだが、今は女の子の身の上である以上そういう訳にもいかない。
「はぁ…」
スタートラインに立った早々、何やら出鼻をくじかれた気持ちになった遥は正門をくぐる前よりももっと深い溜め息を付く。女子高生生活は、遥が思うよりも色々と前途多難な様だった。




