2-20.三年間の想い
めったに見せない笑顔で遥との再会を喜んでくれた光彦はややあって元の無表情に戻り、不意に大きな手で遥の頭に触れその少し癖のあるふわふわとした髪を思いのほか優しい手つきで撫でやった。
「み、光彦?」
賢治は昔からよくふざけて遥の頭を弄ぶが、光彦に頭を撫でられた経験は今まで無かったので突然の事に遥は戸惑いを感じてしまう。少し乱暴な賢治とはまた違う妙に慣れた手つきは意外にも心地良よかったのだが、そんな風に友人に頭を撫でられるのはそれはそれで微妙な気分だ。
「おっ…、つい昔の癖で」
戸惑いを見せた遥の様子に気付いた光彦は別段慌てる様子もなくちらりと智輝を見やって遥の頭から手を退けた。三人兄弟の長男である光彦は弟達が幼かった時分にはおそらくこんな風にして可愛がっていたのだろう。急に頭を撫でられた時はびっくりとしたが、そう思うと遥はすこし微笑ましくもあった。
「遥ちゃ…さんは、光彦兄さんの彼女なんすか…?」
遥と光彦の様子を横で見ていた智輝が突然そんな事を言ったので遥は一瞬ぎょっとして、何故そんな発想に至ったのかと首を捻り、自分の素性は既に明かしたはずなのだがと疑問を抱く。
「えっと、光彦とは普通に友達だよ?」
遥が有りのままを答えると智輝は一旦目を丸くして驚きの反応を見せたが、その後どこかほっとしたような少し照れている様なそんな表情を垣間見せた。
「光彦兄さんが笑う事なんてめったにないから、恋人なのかと思った」
どうやら光彦の笑顔は家族でも中々お目に掛かれないレア物らしく、そんな表情を見せる相手はきっと特別な関係に違いないと智輝は考えたようだ。それにしたって彼女だの恋人だのという発想は余りにも飛躍が過ぎるのではないかと遥は苦笑する。
「恋人とかあり得ないよね光彦?」
遥が同意を求めると光彦はしばし無言で相変わらずの無表情のまま遥をじっと見つめ、それから眉間に拳を当てて何やら考えるような仕草を見せてから一度小さく頷いた。
「…今なら有りだな」
光彦が真顔でそんな事を言った為に遥は唖然としてしまう。光彦が見せた頷きは遥の言葉に対しての肯定を示す物ではなく、自身が巡らせた思考を肯定する物だったようだがしかし、一体何を思ってそんな考えに至ったのか遥にはさっぱり理解できない。
「ちょっ、光彦何言ってるの?」
少々慌てて遥がその真意を問い質すと光彦は相変わらずの無表情で事も無げに応えて見せる。
「可愛いぞ?」
光彦の端的で分かりやすい言葉に遥は尚更唖然としてしまった。普段可愛いという単語は幼さに対する評価だと思っている遥だが、今回ばかりは話の流れからそれが異性としての視点である事は理解できた。しかしそれがかつて男だった友人に向って臆面もなく言う様な台詞とは到底思えない。
「いやいやいや! 光彦何言ってるの? ねえ、何言ってるの?」
全力否定と共につかみどころのない友人の真意を確かめようとするも、光彦は逆に不思議そうな瞳で見つめて来るばかりだ。
「俺もマジで可愛いと思います!」
弟の智輝までもが紅潮した顔でそんな事を言い出したので、この兄弟は大丈夫だろうかと遥は少々残念な気持ちになってしまった。
「ボク幼女だよ…?」
百歩譲って今の容姿が可愛い事は認めるとしても、そもそも幼女なので真っ当な恋愛対象には入らないのではないのかと凡庸な遥の頭では考えてしまうのだ。しかしそんな遥を前に光彦はまた眉間に拳を当てて考えを巡らせてから平然とした無表情で自身の思考を肯定する頷きを見せた。
「タメだろ?」
実年齢は一緒だと指摘した光彦は同年代なので問題ないと主張している様だ。
「遥さん俺より年上っすもんね!」
智輝も兄の主張に賛同してそんな事を言うので、外見よりも実年齢が重視されるというその考え方は光彦達兄弟の間では公然と認められている至って常識的な物の見方なのかもしれないが、形に拘りがちな遥としては大凡理解できない価値観である。
「まあ遥には賢治がいるけどな」
唐突に賢治の名前を挙げた光彦に遥は唖然を通り越してひたすらポカンとしてしまった。今までの話の流れで行くとまるで賢治とは恋人同士の様な言い草に聞こえたが遥にしてみればそれこそ理解できない事だ。
「えっ? 何で賢治が出てくるの? 何で?」
信じられないといった遥の表情に対し光彦は相変わらずの無表情でなにがそんなに疑問なのかと逆に首を捻って見せる。
「そっかぁ、賢治さんかぁ…」
智輝も賢治の事を知っている様で妙に納得した様子で若干悔しさを滲ませているので、この兄弟はどこかズレていると遥は小さく溜息をもらす。
「賢治だって友達だよ…」
光彦とてその事は重々承知しているはずなので、これはもしかして光彦に揶揄われているのではないだろうかと遥は思い始めたが、名前が挙がった事で先程賢治からの着信を一方的に切ってしまった事を思い出した。
「あ、ごめんちょっと賢治に電話しなきゃ」
遥がそう言うと光彦も先程遥のスマホから賢治の声がしていたのを思い出したのか、「ああ」と短く頷きそうすべきだという意思を見せる。光彦の同意を得られた遥が早速賢治に通話しようとスマホの画面を見やると、待ち受けに表示されていた時計はそろそろ正午を回ろうかと言う時だった。
「もうお昼かぁ」
遥が何気なくその事を呟くと光彦も自分のスマホを取り出し時刻を確認してから頷きを見せる。
「飯に戻らないと」
光彦達はどうやら自宅に戻って昼食にする様で、遥はもう少し話をしたくはあったが、今後いくらでもその機会はあるだろうと今日の所は引き留めなかった。
「光彦、また今度ね」
遥が笑顔で別れを告げると光彦は少しだけ優し気な眼差しを見せて無言でそれに頷き返す。
「智輝君もまた機会が有れば」
共に帰っていくであろう光彦の弟にも笑顔を向けると智輝は顔を赤くしてちょっと俯きながら「は、はい」と戸惑いがちに返事を返してくれた。智輝は終始そんな様子だったが兄の友人という目上の相手に緊張しているのだろうと遥はその事は大して深く考えなかった。
挨拶が済むと光彦は智輝を伴いのんびりとした足取りで公園から立ち去ってゆく。遥は二人の背中に手を振って見送るとその姿が住宅街へと消えて行ったのを確認して、改めて賢治と連絡を取るためにスマホを操作した。
アドレス帳から紬賢治と表示されたその名前を見つけ出すと先程「遥には賢治がいる」とそう言った光彦の言葉が頭を過り遥は顔の表面温度が僅かに上昇するのを感じ取る。
「あ、あれ…?」
それは遥にとって正体不明な現象ではあったものの、妙に心がそわそわとしてしまう事だけは確かだった。
光彦と別れ午後の時間を賢治と共に何事もなく過ごしたその日の夜、夕食と入浴を済ませた遥はもこもことした素材の白いパジャマを身に纏い、そのパジャマに備わったうさ耳付きのフードを頭に被ってベッドの上でゴロゴロとしていた。その姿は遥のちんまりとした見た目もあって子兎を連想させる美乃梨あたりが目にすれば涎でも垂らしそうな程の実に愛らしい様子ではあるが、遥本人には別段自分を可愛く見せようなどと言う意図はなく、フードを被っているのは寝転がる際、背中に当たってゴワゴワするというだけの理由からだ。
ベッドの上で天井をぼんやりと眺めたり枕に顔をうずめたりと無為な時間をしばらく過ごしていた遥は不意に起き上がると枕元に置いてあったスマホを手に取る。遥は何も無意味にゴロゴロとして時間を持て余していたわけではなく、これから行わなければならない重要な案件に対する気持ちの整理をしていたのだ。
遥が手に取ったスマホを少々ぎこちない指さばきで操作していくと、ホーム画面に新しいアイコンが一つ追加される。当初灰色だったそのアイコンは中心部から徐々に色付き、やがて本来のカラーである緑色へと完全に染まると使用可能になった事を告げる様に数度画面内でピコピコと跳ねるような動作を見せた。遥が新たに追加したのは、賢治が導入を勧め遥も事故以前には使用していたLIFEというコミュニケーション用のアプリだ。
遥は光彦と再会した事によって三人いる親しくしていた友人の残り二人、竹達淳也と寺嶌亮介に対して今日中に連絡を取る事を決意していた。未だ心境的には自分の現状を友人達に知らしめる事には若干の恐怖心はあったが、それ以上に光彦が示してくれた想い、平たく言えば友情を目の当たりにした今ではもう彼らを悪戯に待たせる事は止めにしたいという気持ちが強かった。
遥は少し躊躇いながらも緑色のアイコンをタップしてLIFEを起動する。これでもう先へ進むしかないと腹を括るが、表示された画面はログインか新規登録かを問う物でまだ友人達と連絡を取れる段階ではなかった。遥は若干の肩透かしを食らったが決意は変わらない。おぼつかない指使いで自分が使っていたIDとパスワードを入力し終えると今度こそと意を決して勢いよくログインボタンをタップする。
ユーザー情報をIDで管理しサーバー上に記憶しているLIFEはログインを認証すると遥が以前使っていたのと寸分と変わりのないメイン画面を映し出す。一番上のプロフィールと書かれた欄には口元のバッテンマークが特徴的なキャラクター画像と奏遥という自分の名前が表示され、その下の欄には「家族」「知り合い」「クラスメイト」等のいくつかのグループが存在し、そして更にその下にはフレンドリストに登録してあった友人達の名前が連なっている。事故に遭う以前は毎日の様に使用していたこのアプリケーションは遥にとってかつての生活その物だ。遥はしばらく食い入るようにその画面を見つめていたが、連なるフレンドリストの中に未読のメッセージを示すシンボルが幾つかある事に気が付いた。
遥は一瞬躊躇したが好奇心が勝りその内の一つ、今日会ったばかりの光彦の名前を恐る恐るタップする。画面は光彦との個別モードへと切り替わり、そしてそこに今まで遥の目に触れる事の無かった大量のメッセージが一挙として表示されていった。
遥は一瞬そのあまりの量に圧倒されてしまったが、やはり好奇心が勝り未読だった一番古いメッセージにまでさかのぼって、大量のメッセージを一つ一つ順を追って読み始める。時間軸に沿ってそのメッセージを追っていく内に遥の目線とスマホを操る指は止まらなくなり、やがて光彦のメッセージすべてを読み終わると、次に亮介、淳也と続けて開いてゆく。二人からのメッセージも光彦同様かなりの量があったが遥はその一つも漏らさず全てに目を通していった。
友人達からのメッセージは皆一様に初めは事故に遭った遥の安否を問う内容で始まっており、しばらくは遥の身を案じる物が続いていたが、次第にその内容は今日何があった、誰が何をしたという他愛のない日常の様子を告げる物へと変わっていた。そしてそんなメッセージが最近の日付まで、最低でも週に一件は絶え間なく送られてきていたのだ。遥が読める筈が無いと分かりながらも、友人達は遥の存在を忘れる事無く、遥がいつか必ずそれを読むと確信して、遥が時間の流れに取り残されないようにと、ずっとメッセージを送り続けてくれていたのだ。
「みんな…」
呟きと共にスマホの画面にぽつりと小さな雫が落ちる。メッセージを全て読み終えた遥の指先は溢れる感情に震えていた。また一つ、二つと画面に小さな雫が増えてゆく。それを掬い取ろうと遥が画面に触れると、表示がスクロールして淳也が書き記していた一軒のメッセージが目に留まった。
『遥、早く戻ってこい』
そのメッセージに込められた淳也の想い、そして三年間自分の事を想い続けてくれていた友人達の想い、それらを受け止め遥の心から暖かな感情が止めどなく溢れ出す。こんなにも気に掛けてくれていた友人達を待たせてしまっていた自分は本当に愚かだったと省みる。それと同時に何よりも三年間積み重なった友人達の膨大な想いが心の底から嬉しかった。
三年分に及ぶ友人達の想いを受け取った遥にもう迷いなど無い。LIFEをメイン画面に戻すとグループ欄にあった「友達」と名付けられた項目をタップする。そのグループは遥と賢治、淳也、亮介、そして光彦の五人だけによる交流の場だ。
遥は何と送るか一瞬考えたが最初の言葉は一つしかない。短い文面だが一文字たりと間違いのないようにとゆっくりと言葉を綴っていく。打ち終えたその言葉を何度も確認し送信ボタンをタップしようとしたその時、遥のスマホが軽快な音を立てて今開いているグループ画面に新規のメッセージが追加された。
『遥おかえりぃ! 待ってたぜぇ!』
カートゥン調のキャラクターアイコンから吹き出しが伸びる勢いあるそのメッセージは淳也からだった。余りのタイミングの良さに遥が呆然としていると再びスマホが軽快に音を立てる。
『遥やっと戻ったか』
今度は積み上げた本の画像をアイコンにした亮介からのメッセージが表示され、そして立て続けにもう一件新たにメッセージが送られてくる。
『おかえり』
アイコン未設定で簡潔なその文面は光彦で間違いが無い。今日直接会った光彦はともかく淳也と亮介が何故、と一瞬疑問に思った遥だったがその理由には考えるまでもなく直ぐに気が付いた。三年間未読だったメッセージを遥が読んだ事で、それが既読になった事が友人達に伝わったのだろう。
友人達に先回りされる形になった遥は少々恰好がつかないなと苦笑しながらも、自分の帰還を歓迎してくれている彼等に応えるべく既に作成済みだった文面をそのまま送信する。
自分は今ここに、皆と同じ時間にいる。その事を友人達に知らしめるために。
『皆、ただいま』




