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1-3.両親

「今後は経過を見ながらリハビリに入ってもらう事になる。今はまだ脳が体の動かし方を忘れている状態で初めは上手くいかないと思うけど肉体はいたって健全だよ」

 生まれたての赤ん坊の様な物だ、と諏訪医師は補足した。しかしそれ以前に告げられた自分は今十歳前後の幼女であるという衝撃的すぎる事実で今や遥は放心状態である。

「君の目が覚めたことをご家族に連絡しておいたから。お母様は夕方には来られるそうだよ」

 病室を立ち去る間際にそう告げた諏訪医師の母という単語に遥は我に返る。

 遥自身に実感はないが事故に遭い三年間生死の縁を彷徨っていた訳だ。そんな息子に対する母親の思いを想像できないほど愚鈍ではないし、それができるくらいには愛情持って育てられてきたという自覚がある。ましてようやく目覚めた息子は十歳前後の娘に変貌してしまっているなど、その心中を想像するに情けないやら申し訳ないやらで、一体どの様な顔をして会えばいいのか、会ったらまず何と言えばいいのかと考え込んでしまう。そもそも家族だけではない、友人達にだっていずれ再会するはずだ、その時いったいどうすればいいのか。友人達は今の自分をなんと思うのか。遥自身想像の範疇を超えた出来事にまるで頭が回らない。ただ友人というワードは自然と賢治の姿を想起させた。

 十五年間を共に歩んできた幼馴染、無二の親友。賢治と出会ったのは何時だったか、そんな問いに明確な答えを返せないほど、賢治とは気付けばいつも一緒だった。家が隣で親同士の交流もあり、それこそ多分赤ん坊の頃から同じ空間で過ごしてきたのだろう。遥の過ごした十五年間の思い出には賢治の姿が無い物を探す方が難しい。恐らくそれは賢治にしてもそうだったはずだ。

 だがここで思い至る。今賢治には遥の知らない、遥が居ない三年間が存在して自分にはそれがない。それどころか十五年間を共に過ごしてきた奏遥という存在すら、今ではもう「違う生き物」なのだ。全身からゆっくりと血の気が引いていくのを感じる。体感上では昨日までただの男子高校生だったはずなのに唐突に突き付けられた現実はあまりにも恐ろしく、やるせない。

 ふいに遥の頬を生ぬるい湿った感触が伝った。突き付けたれた現実に自分でも知らぬうち瞳から涙が零れていた。遥は無意識に涙する自分に驚き咄嗟にそれを拭おうとするも、身体は言う事を聞かず涙をぬぐう事も、止める事も叶わなかった。尚も止めどなく溢れ続ける涙に、いつだったかまだほんの小さかった頃、下らない事で駄々をこねて泣く遥に「男は簡単に泣くものじゃない」父が そう言ったのを思い出した。

 そうだ、男は簡単に泣いてはいけない。溢れ続ける涙を止めようと自分の感情に抗おうとする。賢治にだってこんな泣き顔見せた事がない。泣くな、と自分を鼓舞しようとしたその時、思い浮かべた賢治の顔と、そして「違う生き物」というあの言葉が遥の心に突き刺さる。そうだ、もう自分は男ではない、違う生き物になってしまったのだ。そう思うともう感情に歯止めは利かなかった。男でなくなってしまったのなら、誰に憚ることなく気のすむまで泣けばいいじゃないか。理性を吹き飛ばし溢れ出る感情が開き直ったように主張する。もう今の遥にはそれを否定するだけの材料がなかった。いつしか遥は子供の様に声を上げ泣きじゃくっていた。

 泣き声を聞きつけやってきた看護師の「どうしたの? だいじょうぶ?」という子供をあやす様な調子が遥をますます惨めにさせ、遥はその小さな身体に備わった体力すべて吐き出すまでただひたすらに泣き続けた。


 遥の母親、響子きょうこが病室を訪れたのは遥が散々泣き喚き体力を使い果たし眠ってしまった後だった。目元を赤く腫らし眠る遥の横に座り、その寝顔を愛おしそうに眺める。病院を訪れた際、看護師から遥が酷く泣いたと聞かされ響子は心配しながらも、それをどこか嬉しく思った。今までこの三年間物言わぬ存在だった遥が声を上げて泣いたというのだ、ただその事実が嬉しかった。

 遥が事故に遭った当時の無残な姿を今でもはっきりと覚えている。この世の終わりだと感じた。しかし奇跡的にも脳の損傷を免れていた我が子は、現代医学の力で再び五体満足に、全うに生きられると言われた時は神に出会った気分だった。当初から三年掛かると聞かされていたが、そんな事は問題にはならなかった。元気な我が子と再会できるのであれば、三年など短い物だとそう感じられたし、事実この三年間はあっという間だった様に思う。

 遥の新しい身体の問題について聞かされた時も、それは些細な事の様に思えた。たとえ姿が変わっても我が子は我が子だ、とにかく戻って来てほしい。それだけを願った。

 そして今、響子の目の前には小さな女の子の姿となった我が子が、静かに寝息を立てて眠っている。そのあまりに愛らしい寝顔と、この三年間の思いに今すぐ抱きしめたい衝動に駆られたが、眠っているこの子を起こしてはかわいそうだと思い留まり、その代わり眠る遥の横で静かにひっそりと嬉し涙を流すに留まった。

 遥の病室を訪れる前、主治医の諏訪先生と少し話をした。看護師から聞いた大泣きしたという話を尋ねると、諏訪先生は自分の置かれている状況について説明をした時の遥の様子を話してくれた。特に十歳前後の女の子の身体になってしまったという事実を告げたときの茫然とした様子を。

 そんな我が子の心中に思いを馳せる。思春期の男の子がある日突然小さな女の子になってしまった、そう聞かされたらどんな気分になるか、その後大泣きしたという話からも、その精神的ダメージは相当な物だったのだろうと推し量れる。

 自分は早まっただろうか。どんな姿になったとしてもただ自分の元へ戻ってきてほしい。そう願ったのは親としてのエゴだったのだろうか。だがそれでも今こうして目の前に我が子がいる事が幸福でたまらなかった。今後我が子はきっと変わってしまった自分の身体で多くの問題に行き当たる事になるだろう。時には辛い思いをする事になるかもしれない。だが自分はそんな我が子にいくらでも力を貸せる。寄り添っていける。そう強く思う。

 今までの事、そして我が子のこれからの事、響子がそんな様々に思いを巡らせていると病室の扉が静かに開いた。その先を見やるとそこには夫である正孝まさたかの姿があった。

「響子、先に来ていたんだね」

 そう投げかける正孝に響子は眠る我が子を気遣い、口元に人差し指を当てて静かにと示す。正孝はそれを認めると無言でゆっくりとした足取りで響子の横までやってきた。

 ベッドの上には静かに眠る愛らしい小さな女の子。これがかつて自分の息子だったのかと思うと正直複雑な心境だ。遥にはよく男としての気構えについて話をしたのを覚えている。我が子が戻ってきた喜びはもちろん大きなものだ。しかしそれと同時に息子を失ったという思いが同居していた。

「本当に女の子なんだな…」

 正孝がぽつりと漏らした。それは息子が娘になったというおおよそ普通では起こり得ない現実を何とか受け入れようとするが故にこぼれ出た呟きだった。

「ええ、とっても可愛い」

 響子は正孝の複雑な心境を他所に我が子全肯定の姿勢だった。そんな響子に正孝は気持ちを前向きに改める。おそらく一番辛いのは遥なのだ、それなのに父親である自分が狼狽えていては示しがつかない。今は帰ってきた我が子の存在を素直に喜ぼうではないか。そう自分に言い聞かせた。


 泣き疲れ眠っていた遥は微かな話し声に目を覚ます。散々泣いたせいで腫れぼったく重たい瞼をゆっくりと開けると、そこには最初に目を覚ました時と同じ青白い蛍光灯と白い天井、ベッドを囲むカーテンレールに、銀色の支柱にぶら下がった点滴。それから傍に人の気配があった。誰だろう。あの大柄な医師だろうか、それとも見回りの看護師だろうか、遥が気配の正体を予想しながらゆっくりとそちらに首を動かすとそこには父と母の姿があった。そうだ、家族には連絡済みで、母さんは夕方には来られると諏訪医師が言っていた。父さんがいつ来るかは聞いていなかったけれど、でも来てくれたんだ。遥は両親の登場が素直にうれしく思えた。

 知らない場所で目覚め、見知らぬ人物から受け入れがたい話を聞かされ、内心遥は心細かったのだ。自分の現状について聞かされた直後は、正直両親に会った時どんな反応をすればいいのかわからなかったが今はただよく知る顔を見た事による安心感が大きかった。しかし、次の瞬間そんな安心感と同じくらい大きな不安が浮かび上がる。自分はもう二人の知っている、二人の育ててくれた自分ではないのだ。そうだ、自分は違う生き物になってしまったのだ。そんな自分を両親はどう思うのか、もしかしたら拒絶されるかもしれない。そんな不安に心が凍える。しかしそれは杞憂であるとすぐに分かった。何故なら遥が目を覚ましたことに気づいた響子と正孝が同様に感激の表情を見せていたからだ。

「遥、よかった、本当に良かった…!」

 響子は目を覚ましこちらを見つめる遥に、改めて再び命を宿した我が子の存在を実感し、思わず感極まって涙を流し縋りついた。正孝もその眼差しにかつて幼かった頃の息子の面影を垣間見て、ああ、この子は間違いなく自分の子なのだと、安堵とそして何より喜びに笑みがこぼれていた。

「遥、お帰り」

 正孝のその言葉に、違う生き物になってしまった自分が、少なくともこの二人の子供としては存在が許されたのだとそう感じられた。それは今の遥にとって決して小さくはない喜びだった。一瞬の不安に凍えていた心は暖かな両親の愛情に俄かに溶きほぐされていった。

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