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5-50.分かれ道

 正確なところは定かでないとしても、賢治がコーヒーを買って病室に戻るまでに要した時間は、おおよそで十分ほどだっただろうか。

 自動販売機の有るラウンジスペースは遥の病室と同じ階にあった為、普通に行って戻るだけならば五分もあれば事足りたのだが、賢治の目的が場の仕切り直しであった事を考えれば、その所要時間は決して長すぎたという訳でも無い。

 ただ、それでも賢治は、出来ることなら、もっと早く遥の元へ戻るべきだったのだ。

 例え、その十分ほどが気持ちや考えの整理をつける上でも必要不可欠な最低限の時間であったのだとしても、それだけの猶予が有れば、遥にはそれこそ十分、否、十二分に過ぎたのだから。

「……ふぁ」

 それは、賢治がコーヒーを買いに出てから三分と経たない内のこと。

「ふぁああああ」

 遥自身の意識とは無関係に、その小さな口を目一杯に押し広げて、漏れ出した大きな大きなあくび。傍から見れば、その姿は実に可愛らしいくはあったかもしれない。だがそれは、当の遥からすれば、これから始まる壮絶な戦いのゴングに他ならなかった。

「……ヤバ…、これは…、だめなやつ…かも…」

 開戦早々遥が思わずの弱音を口にしてしまうのも無理からぬ話であろう。何しろ相対する敵は、生きとし生ける全ての者が等しく対峙しながらも、人類史上においては誰一人として勝利を収めた事が無い最強の悪魔、つまりはそう、睡魔だったのだから。

「でも……なんで…こんな…きゅうに…」

 予期せぬ不意の眠気に、遥は思わずそんな疑問を抱きもするが、その答えは至って簡単であった。

 それと言うのも、このとき既に時計の針は夜の十時を半分ほど回った頃合いで、それは丁度、遥が普段ベッドに入る時間帯だったのである。ともなれば、今正しくその身をベッドにゆだねていた遥が突如の急速な睡魔に襲われてしまったとしても、それはもう不自然な点を探す方が難しいくらいの至って当然の帰結だったのだ。

「うー…今日は…もう、けっこう寝てるはずなのにぃ…」

 確かに遥は、気を失ったり、泣き疲れたりで、今日は既に幾らかの睡眠を取っていたが、その程度では普段の生活習慣を覆すには足りなかったのか、それとも今日あった色々で思った以上に疲弊しているのか、いずれにしても睡魔は容赦なく襲い来る。

「…ふぁ―ッ」

 遥は再び漏れそうになった欠伸を寸前のところで噛み殺すが、もちろんそんな事をしたところで睡魔それ自体を退けられる訳ではない。

「…ね、ねむぃ…けど、けんじを…まって…ない……と……」

 等と言っている傍から、遥の長い睫毛はどんどんうつむき加減になってゆき、ともすればそのまま夢の世界に旅立ってしまいそうにもなる。

「……すぅ……す―はっ!」

 ひとまず今回のところは何とか意識を繋ぎ止められた遥であるが、早々にこんな調子であれば、いつ本当に意識を手放してしまってもおかしくはない。

「このままじゃ…ダメだっ!」

 そう悟った遥は、何とかして睡魔に打ち勝つべく、取りあえずベッドから身体を起きあがらせた上で、更には自分の両頬をムギュッとつねってみたりもする。

「むぃ…」

 元々大した握力も無い遥であるからして、頬をつねってみたその行為で得られた効果は単にちょっぴりへんてこな顔になった程度のもでではあったが、少なくとも身体を起き上がらせた分だけは幾らか眠気が遠のいてくれてはいた。

 尤も、それとてほんの一時凌ぎでしかなく、だからこそ賢治は一刻も早く遥の元へと戻るべきだったのだ。

「けんじ…ボク…、ちゃんと…、まってるから…ね…」

 賢治が戻ったら、遥には話したいことがいっぱいあった。

 青羽たちの前でたくさん泣いて、ちょっとだけ気持ちが楽になったこと。

 それが賢治の言っていた『約束』や『決着』だったのかもしれないこと。

 もしもそうだとしたら、遥は心からの『ありがとう』を賢治に伝えたい。

「…それに…さっきのことも」

 意図せず聞いてしまった賢治の一人決意表明。

 賢治はそれを改めて言葉にするのをどこか気恥ずかしそうにしていたけれども、それならもういちど、強く、強く、手を握ってくれるだけだって構わない。言葉なんて無くとも、賢治がどれほど自分の事を大切に想ってくれているかなんて、もう十分すぎるほどに伝わっていたのだから。

「…そう……だ…、ボクも…ちゃんと…賢治に…つたえ…なきゃ…」

 賢治がいつも傍に居てくれた事で、どれほど自分が救われてきたきたか。

 そんな賢治に『呪い』を植え付けてしまった事がどれほど悲しかったか。

 その所為で、一時は賢治の顔を見るのさえ辛くて仕方が無かったけれど、今はもう違う事もちゃんと伝えたい。今朝は上手く伝えられなかったその想いをいまならきっと、上手く伝えられるはずだから。

「…けん…じ……ボク……ね……」

 賢治が戻ったら、話したいことがいっぱいあった。

 伝えたい想いも、いっぱい、いっぱいあった。

 それは、時間にすれば、ほんの十分ほどのこと。

 賢治にとっては決して長すぎはしなかったその時間。

 それでも遥にとっては十二分に過ぎたその時間。

「……すぅ……すぅ……」

 いつしか、ベッドの上に横たわっていたその身体。長い睫毛はもうすっかりうつむいて、深く、ゆっくりと繰り返される呼吸に合わせてただやんわりと揺れるだけ。

 賢治が戻ったのはそれから程なくの事だったが、もっと、もっと早く戻るべきだった。

 ほんの十分間。今の身体になって以来すっかり夜に弱くなってしまっていた遥が睡魔に敗北してしまうには十二に分過ぎたその時間。それはそのまま、二人が運命の分かれ道を歩き切るのにも十二分な時間だったのだから。

 

「…はっ!」

 と、なって遥が目を覚ましたのは、翌朝になってからようやくの事だった。

「ボク、ねちゃってた!?」

 出来ればそれがほんのうたた寝程度の眠りであった事を願わずにはいられなかった遥だが、残念ながらその睡眠時間はバッチリ文句なしの六時間以上。窓から差し込むサンサンとした朝陽を見てしまえば、遥にも最早それを疑う余地は一切無い。

「あわわ…! 賢治ゴメン! ボク―」

 完全にやらかしてしまった事を悟った遥は、慌てての謝罪を口走りかけるも、その最中にハタと気付く。

「…あ、あれ? 賢治…どこ?」

 右を見ても、左を見ても、見当たらなかったその姿。

 ただ、もうすこしだけ注意深く室内を見渡してみれば、ベッドの下に展開されていた付添人用の簡易ベッドなら見付ける事ができた。

「あっ、これ…、賢治が使ったんだよ…ね?」

 そうで無いとするとそれはちょっとした事件かホラーであるが勿論そんな事は全く無く、それはごく普通に賢治がこの病室に泊まった証拠と見て間違いが無い。

「よかった…賢治はずっと居てくれたんだ…」

 賢治自身の姿は依然として見つけられていないとしても、その痕跡を発見できたことで、遥は一先ずホッと胸をなでおろしす。

「今は…えっと…トイレにでもいってる…のかな?」

 そうであれば賢治はほどなく戻って来るだろうと、遥はその時ホッとしたついでに、いっそ楽観的にもなっていたが、実際に病室の扉がノックされたのはその直後だった。

「あっ! はーい!」

 賢治が戻ってきたに違いないと、そう信じて疑わなかった遥は、勢いよくベッドから飛び降りてパタパタと扉の方へと駆けてゆく。

「賢治! 昨日はゴメ―」

 逸る気持ちから、扉を開け放つと同時に、まずは昨晩の謝罪から入ろうとした遥であったがしかし、それを最後まで口にしなかったのは果たして何故だったのか。

「あら遥、やっと起きたと思ったら…」

 開け放たれた扉の向こう側で、ちょっぴり呆れた顔で苦笑いを浮かべていたその人物はそう、賢治などでは無かったのである。では一体、その人物が一体誰だったのかと言えば、それについては遥の反応を見てもらうのが早い。

「なんだ……お母さんか…」

 と言った次第で、その人物は実の母、響子であった訳だが、賢治が戻って来たものと信じて疑っていなかった遥は、思わずのガッカリ顔を見せてしまったりもする。

「お母さんでゴメンなさいねぇ、賢治君なら今は一旦家に帰ってもらってるけど、また直ぐに戻って来てくれるから安心なさい」

 自分の顔を見てあからさまにガッカリしている我が子に対して、若干の皮肉を返しながらも、賢治の状況についてすかさずの説明をしてくれる当たりは流石母親、流石響子だ。

「賢治君は遥が起きるまで待つって言ってたんだけど、あんたいつ起きるかわからなかったし、それならお母さんが居られる内にせめてシャワーくらいはと思ってね」

 更に重ねられた響子の説明で、事の次第について取りあえずの納得がいった遥は、何やら一気に気が抜けてしまい、のそのそとベッドの方まで戻ってそのままポテっと倒れ込む。

「うにゅぅ…」

 賢治がいずれ戻って来る事には変わりがないとしても、シャワーを浴びに一旦の帰宅を果たしているとなると、それにかかる時間は三十分か、それとも四十分か。いずれにしてもその時間は、昨晩の埋め合わせをしなければと意気込んでいた遥からすれば、何ともはやもどかしいことこの上ない。

「こんなことなら、ボクももう家に帰りたいよぉ…」

 そう出来たなら、確かにただ賢治の戻りを待つよりも幾らか気持ち的に楽そうではあったが、残念ながらそれは無理な相談というものだった。

「そんな子供みたいなこと言って…、今日は検査あるんだからね」

 バッチリ睡眠をとったおかげか、今朝にはもうすこぶる快調だった遥としては、そんなものを受ける必要性は全くもって感じられないというのが偽らざる本音ではあったものの、だからと言って「はいそうですか」と帰してくれる医者はどこにも居ない。

「うー…検査なら毎月受けてるのにぃ…」

 無論、今回の検査はそれとは全く別であり、そんな事を訴えてみた処で無駄である。

「もー、しょうがない子ねぇ…、ほら遥、ぐずってないであなたも賢治君が戻ってくる前にパンツくらい履きかえときなさい」

 そうは言われても、救急搬送された遥には履き替えるべき下着の用意などありはしなかったが、もちろん響子はそのあたり抜かりなかった。

「なるべく可愛いの持ってきてあげたから」

 これこの通り、デザイン面にまで気を配ってくれていた辺り、その抜かりなさたるや、些か余計な気を回しすぎているきらいがあった程だ。

「そんなのべつになんだっていいよぉ…」

 そんな返答を返してしまっていたくらいなので、残念ながら当の遥は抜かりなさすぎる響子の気遣いには気付かなかった様ではあるが。

「はぁ…まったくもぉ…、なるべく早く戻って来るよう、賢治君に連絡入れて上げるから、あなたはさっさとパンツを履き替えること! いい?」

 それで賢治の戻りがどれほど早まるかは実際問題中々に微妙なところであったのだが、それでも遥はまんまとつられてしまって、ようやくベッドから起き上がった。

「メッセージとかじゃなくて、ちゃんと電話で伝えてね…?」

 そんな遥の要求に響子は思わずの苦笑をうかべつつも、スマホを手にしてわざわざ一旦病室を出て行ったところをみると、何だかんだでリクエストには応えてくれる様である。

「賢治…早く戻って来てくれたらいいな…」

 賢治が戻ったら、話したいことが、いっぱいあった。

 遥には、伝えたい想いが、いっぱい、いっぱいあった。

 けれども、どうしてだろうか。

「遥!」

 勢いよく開け放たれた病室の扉。真っ青な顔で戻って来た母の響子。

「賢治君が…交通事故に…!」

 遥には、響子が何を言っているのか、まるで分からなかった。

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